L'art de croire             竹下節子ブログ

マックス・ジャコブの回心 その14  (オスカー・ワイルドの話)

(これは前回の続きです)

オスカー・ワイルドはMJより20年ほど上だが1900年にパリで死んでいるから学生時代のMJと同時期に少しパリにいたことになる。当時UKに属していたアイルランドのダブリン生まれだがプロテスタントの家庭だった。ダンディでリベルタン、享楽的、頽廃的、倒錯的なイメージがあるが、オスカー・ワイルドも常に神を希求していた。最後はカトリックとして死んだとされている。

アイルランドだから環境的にはカトリックが遍在していた。アングリカン(イギリス国教会)から聖公会)からカトリックに改宗したジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿と出会い、その深い知性あふれる著作を読むようになった。

父親はそれが気に入らず、アングリカン知識人の牙城ともいえるオクスフォードに息子を送り込んだ。学生寮のワイルドの寝室にはローマ教皇の写真と聖母マリア像が飾られていた。

カトリックの典礼にも魅力を感じていたが、ギリシャ・ローマの異教文化にも強く惹かれていた。ローマではピウス九世に個人的に面会でき、神の国に到達できるような生き方をしなさいとの教皇の言葉に神的な権威を感じた。

後にワイルドは「私はカトリックではなく熱烈な教皇崇敬者であるだけだ」と語っている。

「聖なるもの」を感知できるのは生身の人間との関係の中においてだけだった。

「カトリシズムを必要とするのは「聖人たち」と「罪びと」だけだ。普通の立派な人はアングリカにズムで充分だ」

とも言った。

そのワイルドが、若きアルフレッド・ダグラスに恋をして、父親のダグラス卿に訴えられた。

長男を自殺で亡くしていた侯爵にとっては、次男のアルフレッドは絶対に結婚して子孫を残してくれなくてはならない。

最初にワイルドがダグラス卿による名誉棄損を訴えたのに逆に被告となったのだ。アイルランド人であったことも差別の対象になった。

1895年5月25日、ワイルドは懲役2年の実刑を課せられて、全て(妻と二人の息子は名字も変えて去った)を失った。
こうして自分が「罪びと」となった時、彼の才能を認めるある議員の采配により、多くの宗教書を差し入れられた。聖アウグスティヌスの『告白』、パスカルの『パンセ』、ダンテの『神曲』、アッシジのフランチェスコの伝記などだった。

刑期が終わって出獄してすぐにカトリックの修道院に六か月黙想することを願い出たが断られた。

「アルフレッドと会うことは、解放されたと思った地獄に再び堕ちることだ」と書いていたのに、ナポリで落ち合い、「自分の人生を台無しにした男を愛さないではおられようか」と書き残した。

しかし一文無しの二人は別れ、いつも自分は精神的にフランス人だと言っていたワイルドは、パリにわたって貧困と病のうちに1900年の11月30日に46歳で死んだ。
最後にローマを訪れた時は群衆に交じってレオ一三世の「祝福」を受けた。
死の前日、最初の恋人で最後まで友人であったロスがカトリックの司祭を見つけて、死の前の洗礼と終油の秘跡を授けてもらった。

ワイルドの魂は「赦し」を受けて神の国に発てたことになる。

ペール・ラシェーズのワイルドの墓は今でもファンが訪れる。

2016年、パリのプチ・パレ美術館では回顧展が開かれ、たった一人の孫息子も企画に関わった。

フランスはワイルドの個人主義と似たメンタリティがあり、21世紀になってフランスのカトリック系出版社はワイルドの童話絵本を3-8歳の子供のために出版した。『わがままな大男』である。

日本でもよく知られる『幸福の王子』と同じ時に書かれたこの童話は、自分の庭を子供たちに荒らされるのを嫌がっていた巨人が、最後には子供たちが庭で楽しく遊ぶことに安らぎを見出す話だが、ラストで年老いた巨人が庭で手と足に釘跡の聖痕を持つ男の子に出会い、安らかに死んでいくというものだ。
アングロ・サクソンの国ではこの最後の部分をカットされたこともある。

同性愛者として風俗紊乱で実刑に服した妻帯者、アイルランドのプロテスタントでローマ教皇に入れあげる、など矛盾した多くの要素を一身に背負っていたこのアーティストがもしフランスに生まれていたのなら事情は大きく変わっていただろう。

カトリックに改宗したユダヤ人のMJに開かれた扉はワイルドには開かれなかった。
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by mariastella | 2016-10-10 04:51 | 宗教
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