(これは前回の続きです)
1936年、MJは二度目にサン=ブノワ= シュル=ロワールに居を定めた。まずホテル・ロベールに住み、次に未亡人マダム・ペルシヤールの家の一階に下宿した。バジリカ教会のすぐそばのマルトロワ広場のこの家には今もMJの名を刻む銘板がある。フルロー神父や、交流のあった地元の何人かの職人や農民たちとも再会した。
散歩することがほとんどないインドア生活だったが、修道院を訪れる人たちのための観光案内を執筆し、巡礼者を案内した。サン・ブノワの修道院には1935年から二人の修道士が住むようになっていた。
詩人や画家や収集家らとの膨大な文通も再開された。
パリからMJを訪ねてくる人々もいた。ミシェル・レリス、エドモン・ジャベス(『若き詩人への忠言』は彼のために書かれた)らの他、パリ時代の多くのファンがやってきた。MJ は彼らを愛したけれど、パリでさんざん経験した裏切りのトラウマは残っていた。1937年にはエリュアール、コクトー、ヴラマンク、レジェ、ピカソ、マックス・オルランら同年輩の友人たちも訪ねてきた。
ブルトンに先立つシュールレアリズムの先駆者であるMJは、夢や幻覚や無意識からあらゆるものをあらゆる方法で取り出して構成した。「モノをそれがあるところで見せるのではなく、それがあってほしい場所において見せるのだ」というキュービズムの詩が生まれた。
奇妙で予測のつかない、時にコミックで、不気味なまでに執拗な社会風刺が展開された。美学の方法論も書かれた。
一人でいるときの生活は修道院さながらに簡素だった。
寝室の壁は石灰で白く、鉄のベッド、十字架、本や紙でいっぱいの大きな机に2、3脚の椅子だけがあった。
毎朝5時半に起きて1時間熱心に祈り、教会へ行って祭壇を整え、ミサにあずかった。
典礼の間の彼の動作は大仰だったが、村人たちの目には誠実なものだと受け止められた。
それから帰宅して仕事をし、午後にはもう一度教会に行って「十字架の道」(イエスの受難の14場面を追想して祈る)をした。
彼のくぐもる声が「主よ、お赦しください、私はよき盗賊です」と言っているのが時々聞こえた。
「善き盗賊」とはイエスと共に十字架につけられたが、「あなたのみ国においでになるときは私のことを思い出してください」と言って「今日あなたは私と共に楽園にいる」と言ってもらった「最初の聖人」だ。
訪問客がいないときは一日一食だった。
聖母を崇敬し、「この上なく不思議な玉虫色に輝くおとめよ」などと自分で作った連祷を唱えていた。
施しをし、寝室で煙草を吸わないことを自分に課し、謙虚でいるように努めた。
誰かに対して怒りの言葉が口をついて出てしまうと、突然口をつぐみ、「その気になればいいところもきっと見つけることができるに違いない」などと言い直した。
では、パリで彼をあれほど苦しめた欲望はどうなっていたのだろうかというと・・・。(続く)