L'art de croire             竹下節子ブログ

大統領選の言説

政治は、いや、政治における選挙運動というのは「言葉」に左右される。

「何をどう表現するか」がほとんどすべてで、一度権力や地位を得てから「何をどうするか」というのとは別の次元だ。

だからこそ、選挙活動における「言葉」の素材である「言語」の性質が大きくかかわってくる。

日本でこれほど英語を中心にした「外来語」があふれていて、外国のニュースや政治家の言説が逐一翻訳される時代なのに、「言語」の根っこから出てくる差は大きいとつくづく感じる。

先日クリントンとトランプの第一回目の討論を視聴したが、英語が聞き取りやすかったので驚いた。考えてみればこの番組はアメリカの津々浦々に流されるのだから、難しいことは言わないし、わかりやすいのは当然だろう。

大勢が同時に話すようなシーンでは神経発作のような症状をコントロールするのが難しい様子のクリントンも、一対一の対決では持ち前の「プロ政治家」のスキルのすべてを駆使して完璧にふるまっていた。

対するトランプは、馬鹿なことを言うたびに、政治事情や信条を抜きにした全くの第三者の目から見ると、不思議なことに嫌悪感を催させなかった。この人は、週末にバーベキュー・パーティでも仕切っていたら楽しいおじさんだろうなあと思う瞬間さえある。
しかし、「アメリカの大統領」としては「政治」的でなさすぎる。こわい。

先日フランスの保守陣営(共和党)の大統領候補選び(選挙は来年5月)の公開討議の第一回目があった。

前大統領サルコジを含む7人で、こちらの方は、それぞれ筋の通ったことを言っている。

フランスというのはアンリ4世の昔からの文化と教養の上意下達の伝統があるのだが、このグローバリズムとポピュリズムの21世紀になってもそれがまだ残っているということがこういうシーンで見えてくる。

彼らの「演説」や「所信表明」の構造は、知的でもあり、情動的なものも含めてその表現の仕方がフランス・バロック的な「再構成」になっている。

「難しそうな方がひょっとしてありがたいかも」というフランス風のエリート尊重の残滓が視聴者側の建前に残っているのをうかがわせる。

それにひきかえ、現職のオランド大統領は、今日ニースのテロの三ヶ月後の追悼のディスクールをしなくてはならないというのに、『大統領が言うべきことでないこと』というジャーナリストとのインタビュー本が出たところで、本音をいろいろ語り、特に司法への不信を語ったことで大スキャンダルになっている。

現職の大統領というのは「機能」「職能」を体現しているのだから、本音だとか人柄を垂れ流してはその後の職務に支障が出るのは当然なのに。
同時期に紹介されたオバマ大統領のロング・インタビューがちゃんと「大統領の視座」から語られたものなので、フランス人として恥ずかしい、と言う人もたくさんいる。

まあ、今のアメリカの大統領選を見ていると、どっちもどっちという感じがするけれど。
[PR]
by mariastella | 2016-10-15 17:09 | 雑感
<< パリのロシア正教カテドラル お知らせ >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧