L'art de croire             竹下節子ブログ

Polina, danser sa vie『ポリーナ、命を踊る』ヴァレリー・ミュレール, アンジュラン・プレリオチャイ

原作はなんとバスチャン・ヴィヴェスのBD(2011年に各種の賞を受けた)で、ロシア人の少女が大人になる過程で、バレエの練習や振付を通して真に「生きる」ことの意味を獲得していくビルドゥングス・ロマン、イニシエーションの物語だ。

親元を離れる。
恩師を離れる。
国を離れる。
怪我をして練習を離れ、役を失い、恋人を失う。
金を失い、住む場所を失う。
バーでの仕事で世間を観察し、
「即興」と出会い(実は子供時代にも即興の動きをしていたことが映されていて伏線となっている)、
パートナーと出会う。

このBDは日本語に翻訳出版されているようだ。

映画は、まず、バレエが好きな人は必見。

カメラワークが斬新だ。

ほとんど真上からとらえたクラシック・バレエのシーンは、脚が見える範囲が限られているのにチュチュがまん丸でくるくる回るのが新鮮だ。
トウシューズの動きだけのクローズアップもある。

ロシアのバレエ学校のレッスン風景は、用語が全部フランス語なのをきいて、あらためてバレエはフランスから来たんだなあと思う。
半世紀以上前の日本でだって、意味の分からないフランス語ですべてのステップに名がついていたのだから、今はその「意味」が分かるのが不思議だ。

バロック・バレーを始めて20年にもなるのに、やはりクラシック・バレーのレッスンや振付がいまだに恋しいのだから、子供時代に習うということの重大さが分かる。
そういえば、ヴィオラももう始めてから四半世紀近く経つのに、まだ自分が擦弦楽器を弾けることの実感がない。日本から帰って久しぶりにカルテットの練習に行って、モーツアルトを2曲、ベートーヴェンを1曲弾きながら、こういうものを初見で弾けることが非現実的な気がする。くらくらするほど美しく、両者はあまりにも、違う。どちらも天からの贈り物のような感じがするのは同じで、こういう曲を一緒に弾いて味わう仲間がいることの幸せを思う。

で、このポリーナ。

監督のひとりアンジュラン・プレリオチャイは、フランスのコンテンポラリー振付師で、映画にあるエクス・アン・プロヴァンスのカンパニーは彼のものだろう。ジュリエット・ビノッシュが素晴らしい。

ポリーナのロシアの恩師は、「演技の難しさ、苦労を外に出して感心してもらえるのはサッカーのサポーターくらいだ。バレエはエレガンスと優美さのみを外に出さなくてはいけない」と言う。

これは楽器演奏でも同じで、難しいパッセージをいかにも難しい部分であるように弾くのは言語道断だ。
(けれども、フィギュア・スケートを見ていると、いつもこのアートとスポーツの境界が分からなくなる。優雅さ、演技力は芸術点になるけれど、各種4回転などはいかにも難易度が高い上に、オリンピックレベルの選手でさえ失敗して転倒することがあるのだから、エレガンスどころか見ている方までハラハラだ。水泳や陸上では実力を出せなくてもタイムや記録が伸びないだけで、「失敗する姿」を見せられるわけではない。でも、スケート・リンクで転倒したら、素人の転倒と同じでエレガンスはなく、克服できなかった困難さが見える。楽器演奏でも、バレエでも、普通は、ミスタッチの一瞬前、バランスを崩す一瞬前に分かるもので、「ごまかす」「失敗を回避する」というテクニックが身につく。弾いたふりをして一瞬音が消えても、流れさえあれば聴衆が脳で補完してくれる。スケートなら、4 回転を2回転とか1回転にするとかスルーするのと同じだ。でもスケートは先にいつ何を飛ぶかが分かっていてカウントされるからだろうか、それとも難易度が高すぎて、失敗の予測がつかないのだろうか、転倒シーンを必ずと言っていいほど見せつけられる。不可解だ。以上、余談)

次に、エクスの振付師(ジュリエット・ビノッシユ)は、うまく踊れるのは当然で分かっている、もっと自分自身を表現しろ、恐れや拒絶、人生の中で足りなかったこと、などの情念を踊らなければ何の意味もない、と言う。ダンサーでなくポリーナが踊るのだ、と。

別のオーディションでも、手足が動くのは分かった、それを見せる必要はない、自分にしかできないことを見せろ、と言われて、床に寝転がるが、追い返される。

ベルギーの即興のクラスで、「動物になれ、模倣でなくエネルギーを表現しろ」と言われて、はじめて、子供のころにやっていた「何かになりきる」自由さを少し取り戻す。

最後に、自分の振付でフランスのフェスティヴァル参加のオーディションを受ける。

アンジュラン・プレリオチャイ(フランス語ではこう発音されるが日本語ではプレルジョカージュという表記があった)は、難民としてフランスにやってきたアルバニア系ユーゴ人の両親から生まれて、パリ・オペラ座バレエ団に所属したクラシック・バレエ出身だ。共同監督のミュレールは彼の伴侶であり、エリック・ロメールの弟子でもある。

プレリオチャイの振付は、映画の中のビノッシュもそうだが、徹底したクラシックの要素が前提となっている。ラストの舞台でポリーナがアドリアンと踊るところ、アドリアン役の俳優はプロのダンサーでないのにすごい(ポリナ役は600人から選ばれたマリンスキー劇場の本物のバレリーナだ)。

私はコンテンポラリーが好きではないけれど、これを見ると、男と女の体の美しさ、体の使い方の美しさに、圧倒される。
バレエの歴史において、バロック・バレーにあった心身統合の官能の追求が、クラシック・バレーの技巧、難易度の高さ、商品となるヴィルチュオジテへと変わっていった。
コンテンポラリーは、バロック・バレエに戻る代わりに、時計の針をさらに進めて、螺旋的にバロック・バレエの臓腑的な官能をクラシックのテクニックの彼方に再発見したという感じかもしれない。

単に、動物的な即興のエネルギーとか、情念を垂れ流すというのではない。
考えつくされた情念の再構成、即興に限りなく近く見せるよう計算しつくされた緻密に統制された流れ、など、実はとてもバロックだ。

私がこれまで苦手だったのはプリミティヴ系のコンテンポラリーだったらしい。

思えば、「大地を踏みしめて、エネルギーを吸い上げて、声を上げて叫んで、自分の内なるマグマを噴出して」系の即興ダンスのクラスにも何年か通ったことがある。

楽しくはあったし、そこに通ってくる人の性格やリアクションを観察するのもおもしろかった。

でも、自分も含めて、踊っている人たちの体、姿が特に美しいと思ったことはない。

見て楽しめるのはやはりクラシックのバレリーナの体の使い方かなあと思っていた。

バロック・バレエでも、プロで踊っているほとんどすべての人はクラシックから転向した人だ。
(コンテンポラリーやロマンティックから来た人もいたが。)

ポリーナの映画は、若い女性の「自分探し」のような、ある意味で平凡なテーマなのに、その若い女性が苦行者のように肉体を鍛え上げる特殊な人物であり、心と魂の迷いや震えが肉体のパフォーマンスと一つになっていることから強烈なインパクトを受ける。

時代は携帯電話の形から見て古くない設定のようだが、社会主義が崩壊した後のロシアでも、アメリカの曲を積極的に使う振付師が「愛国心が足らない」と批判されるという話は結構リアルだった。

寒そうだし、いろんな意味で、ロシアに生まれなくてよかった。

パリでこの映画を観た同じ日の夜、TVで2003年のクリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』をはじめて観た。名作の評判高い映画なのに、後味も悪いし、あまり気に入らなかった。

『ポリーナ』の方がいい。

なぜだろう。

(ミスティック・リバーについては次に)
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by mariastella | 2016-11-20 01:56 | 映画
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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