L'art de croire             竹下節子ブログ

新年のごあいさつ。 パスカルとクリスマス

これを書いているのは大晦日の午後です。
でもアップする頃には日本ではもう2017年に暦が変わっているでしょう。

だから、まず、このブログを読んでくださっている読者の方々に、2017年が平和で穏やかな年になりますようにご挨拶します。

私にとって2016年は大きな変化のあった年でした。

ひとつは、眼鏡もコンタクトレンズもいらなくなって活動時間が長く有効になったこと。
その一つの結果が、もう半年以上もブログを毎日更新していることに表れています。

前は、気づいたこと、思いついたことは、とりあえずストックして寝かしておいたのですが、その8割くらいは、全体の思考回路に加えてもらえないまま忘れられたという状況がありました。

今はかなりのことをブログに載せることでフロー化しているので、回転率がよくなった気がします。

読者を想定していない覚書なのでコメントも閉鎖しているわけですが、思いがけないところで私のブログを紹介してくださる人がいることを教えていただいたりして、少しはお役に立っていることもあるのかとうれしいです。
想定読者もテーマもないのですが、誠実に書くことを心がけているので、「あの人に読まれたらやばい」というようなものはないと思います。

変化と言えば、今年は、ブーレーズ・パスカルを見る目とクリスマスを見る目が劇的に変わりました。
何か決定的なことが起こったわけではなく、長年の積み重ねがある一線を越えて質的に変化したという感じです。

年末はとても忙しかったのですが、たった一日自分の時間が持てた時に、国立図書館のパスカル展(パスカル、心と理性)に駆けつけました。

パスカルが完全に分かったので、それを確認するためでした。

何がどう分かったのかというと長くなるので書けませんが、言えることは、今パスカルが私の前にいてEntretien avec M. de Saci. 1655. のように彼と対話ができたら、彼を、アウグスティヌスの呪縛から解き放つことができるような気がしていることです。

大げさだと思われるかもしれませんが、パスカルと同じ土俵で、同じ言葉と同じ感性を使って彼を助けることができる気がします。もっともそうしたら、『パンセ』の半分は残らなかったかもしれませんが…。

キリスト教におけるノイズとの付き合い方が自分の中ではっきり分かった年でした。

ノイズだから重要でないとか意味がないとかいうことではありません。

時代や場所が規定する文化や伝統の形としての典礼や神学、人間性と社会心理学的考察などからきれいに距離を置くコツがわかったということです。

クリスマスもそういう形で現れました。

キリスト教の降誕祭としてのキリスト教は、昔は、「救世主の誕生」、星が羊飼いを導くとか、三博士の礼拝とか馬小屋とか、ハレルヤとか「聖夜」とか、要するにまあ「おめでたい」出来事だと把握していました。

ところがある時から、あまりおめでたく思えなくなってきていました。

飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃん、この子が33年後にああいう無残な殺され方をすると知っているのに、どうしてみんな喜べるのだろう、と思ったのです。
もちろんその後で「復活」して神の子だとか永遠の命だとかいうことになって全人類を救うのかもしれませんが、まあ、私が親だったら、そんな立派なモノになってくれなくてもいいから、親の目の前で仲間に裏切られ鞭打たれ釘打たれて磔にされて息絶えるのだけは見たくない、と思ったからです(まあ、だから私の子は救世主にはなれないでしょうが)。

しかも、わずか3、4ヶ月後の復活祭の前には嫌になるほど受難の姿を見せつけられ、その後に復活昇天したとはいえ、どの教会にも十字架上の最悪のシーンが飾られているのに、クリスマスの時だけ、「わーい、救世主が生まれた」などと喜ぶ気がしなかったのです。

で、いろいろありまして、信仰の社会的表現である宗教のレトリックと「福音」とを自然にきれいに分けて考えることができるようになり、その後でクリスマスが来てみると…

残ったのは、

赤ん坊が1人、

でした。

神は自分の言葉(ロゴス)を人の形で世に送ったのに、言葉も話せない人間の赤ちゃんにそれを託しました。
アダムとイヴなんて神の似姿で「大人」だったのだから、天使とか預言者とかスーパーヒーローの姿でもよかったのに。

それが新生児。

この子を生かすこと、この子が言葉を覚えて話せるようになれるまで育てること、は神ではなく、人間の大人にしかできません。

イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25-40)」といって、弱者を助ける、弱者に仕えることを、救いいを得る業としましたが、イエス自身が、旅先で生まれた新生児、そのすぐ後で亡命を余儀なくされた赤ん坊であったのだから、納得がいきます。

ルルドで病人のためのボランティアをする人たちが、病者の中にイエスを見る、と言っているのも当然だなあと思います。

クリスマスに、だれの助けも得られず両親にだけ見守られて生まれてしまった赤ん坊、放置されれば生きていけないこの子を守らなくてはいけない、みんなで、あるいは、自分の心の中で。

イエスを救世主とする「福音」を信じたいという人は、言葉もなく寝たきりで一人で生きていけない赤ん坊に寄り添うしかない。

天使が歌わなくても、星が導いてくれなくとも、三博士のプレゼントがなくとも、今ここで、裸の赤ん坊を温めて、抱いて、あやして、飲ませて、守ってやる以外に大切なことはない。

今年のクリスマスには、教会のプレセピオに一本の藁を置き、そこに寝かされた赤ちゃんの人形を見て、難民キャンプで暮らす赤ちゃんたちや、他の人の助けなしでは生存が不可能なすべての人々のことを本当の意味で考えることができました。
秋に釜ヶ崎に連れて行っていただいたこともシンクロします。「あいりん地区」ってそのものずばりでした。

日本では、クリスマスが終わったら、即「お正月」モードに切り替わり、それこそ、前の年を無事に過ごせた人ならそれを感謝し新しい年を祝うところですが、フランスは、クリスマスから、三博士の礼拝(エピファニー)やら生後40日でのエルサレムの「お宮参り」まで、「クリスマス・ストーリー」が続いているので、この話を新年のご挨拶に代えました。

みなさま、よいお年を。
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by mariastella | 2017-01-01 00:05 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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