L'art de croire             竹下節子ブログ

「シャルリー・エブド」事件から2年経って思うこと

日本が全体主義独裁国家になりつつあるのではないかという不安の言葉がサイトのForumに寄せられました

この記事はそれに対する答えに代えるものです。

今、これを書いているのはフランスの1/7で、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件からちょうど2周年、シャルリー・エブドの2周年記念号はなかなか読みごたえがあった。

1周年の去年は、前年11月にパリで同時多発テロがあって、人数で言うと記録的な犠牲者が出たこともあって、テロリズムの深刻化、国籍剥奪や緊急体制などの様々な処置も議論されていたので、シャルリー・エブド事件そのものとの距離の取り方が混沌としていた。
その上、去年も、ヨーロッパレベルで、ベルギー、フランスではニース、年末のベルリンと無差別テロが続いたので、様相は、ますます、

「自由に楽しみたいヨーロッパ人が委縮しないで済むようにセキュリティを強化しなくては」

という感じにシフトしていった感がある。

けれども、シャルリー・エブドのテロは、他のテロとは違う。

他の無差別テロは、恐ろしいけれど、いわゆるISやISシンパのテロリストでなくとも、彼らのインスパイアされた人々、社会的、個人的な様々な病理を抱えた人々による暴挙、蛮行と近い。

アメリカでの銃乱射や日本でも繁華街での車の暴走などどこでいつ何が起こるかは分からない。

シリアの内戦にどういう立場をとっているかというような直接の外交問題とは関係のないものがほとんどだ。
それが口実に使われてマインドコントロールされている場合はもちろんあるとしても。

それに対して、シャルリー・エブド編集会議の襲撃は、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というタイプのものであった。

こういうと、やはりISが悪い、テロリストが悪いなどと思うかもしれないが、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というのは、まさに全体主義独裁の行動パターンである。

ロシアの反政府的ジャーナリストたちも、中国の反政府的ジャーナリストたちも、拉致されたり、白昼何者かによって暗殺されたり、毒殺されたりしている。
それなのにいつの間にかうやむやになっている。

全体主義独裁の行動パターンに合致する。

権力者を批判する表現の自由は否定されるのだ。

そして、こういう言い方をすると誤解を招くのであまり言いたくないけれど、
「欧米民主主義・自由主義」を絶対善とする「先進国」が、それに反するものを、宗教政権であろうと軍事政権であろうと「敵」と認定して殺しに行くのも実は同じパターンだ。

みんな同じパターンで動いている。
ある意味で、日本もそれを踏襲しているにすぎない。

外交上の影響力の大きい世界の主権国の首長の中で、その抹殺パターンを否定して、ひたすら話し合いと弱者支援を通しての平和を訴えているのはローマ教皇くらいだ。

そのローマ教皇でさえ、

「『じぶんちキリスト教』の正義に外れる者は抹殺しても当然」

と主張する少なからぬカトリック信徒たちから執拗に批判されている。
そのうち教皇も抹殺されるかもしれない。

日本の憲法九条は「抹殺パターン」を明確に否定した珍しいものだったけれど、それが例外だったので、行動指針とならぬうちに、早くから「その他大勢」のパターン、昔なじみのパターンに従って変質していった。

それは「原罪」なのだろうか。私たちは、「自分と違うもの、自分を否定するものは消えればいい」とほんとうに思っているのだろうか。

「自分と異なるものによって生かされている、人は関係性のネットワークを途切れずに紡いでいくことで生きている」

ことも私たちは知っているはずだ、とは言えないのだろうか。

怒りや絶望は人の判断を狂わせる。

キリスト教が正しいかどうかなどは知らないが、力によって紛争を解決してはならないという今の教皇の言っていることは正しいと思える。
その「力」が破壊兵器に守られる抑止力であっても同様だ。

どうやってこの確信を日常の生き方のレベルに反映できるのだろうか。

それなしには世界は変わらない。
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by mariastella | 2017-01-08 00:42 | 雑感
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