L'art de croire             竹下節子ブログ

ヴァン・ゴッホの耳と宗教

先週の土曜日、Arteでゴッホの耳切り事件の秘密解明のようなドキュメンタリー番組を見た。

耳を剃刀で切り落とした事件は、実は切ったのは耳たぶだけだったというのが通説だったのだが、実際に治療した医師のデッサンが出てきて、ほぼ完全にそがれていたことが証明されたという話だ。

ゴッホが耳切り事件の後でアルルの住民80人の署名で危険人物だとされて精神病院に監禁されたが、実は30名で、ゴッホが入院して二日目にもう彼の家を別の人に賃貸契約してしまったのを、ゴッホも契約中だから抗議したので困った家主がバーに集まった人などに署名を頼んだものだったという話もある。事実は、癲癇の発作はあったものの、何ら「危険人物」ではなかったという。

それら20世紀を通じて語り継がれてきたいろいろなことが、アルルに30 年住むイギリス人女性が7年かけて調べ上げて真実に迫ったというドキュメンタリーなのだけれど、私の驚いたのは別のことだった。

私も、私の世代の日本人にはよくあると思うけれど、ごく子供のころからゴッホの絵と耳切り事件などの話に親しんできた。「ゴッホの手紙」も読んだし、ある意味「伝説の人」の一人だった。
私が小学六年生の時に読んだ画集と伝記は今でも手元にある。
ゴッホの過激さと悲劇と、孤独、貧困、そして迫力のある絵柄には強烈な印象を受けたのを覚えている。

で、改めて確認すると、確かに、正気を失って耳を切った、血まみれの耳をもって娼館に行き、娼婦に渡して気絶された、などとある。

でもこの番組で初めて知ったのは、27歳でハーグで知り合ったシーンという娼婦をモデルにしたという話の真相と、パリを発ってアルルに発った動機だった。

シーンは、子供を抱えて妊娠中の路上生活者でゴッホが連れて帰って1年半同棲し、生まれた子も入れて二人の子供もいっしょに、シーンに守られているという安心感で落ち着いた生活を送ったというのだ。

もうひとつ、パリよりも南フランスに行きたいと思っていたのは事実だったろうが、突然それが排他的な地方都市アルルに特定されたのにはわけがあるらしい。
出発のひと月前に、アルルで狂犬病に罹った犬に腕をかまれて一昼夜かけてアルルからパリのパスツール研究所に連れてこられた16歳の少女がいた。ラッシェルというこの少女はパスツール自らの治療を受けて一命をとりとめたが、かなりの傷跡が残ったという。
ゴッホはこの少女とパリで遭遇した。で、彼女にインスパイアされたか、彼女を追う形でアルルに行ったらしい。

当時のアルルでは、21歳の成年に達していれば売春は公認の職業だったが、16歳のラッシェルは娼家で下働きをしていた。
ゴッホは二週間に一度はこの娼家に客として通っていたが、その度にラッシェルにも会っていたのだろう。切り落とした耳をもってラッシェルを呼んでくれと頼み、「これをぼくの記念に」と渡して気絶されているが、単に正気を失って理解不可能の行動をしたというより、ラッシェルに特別な思いがあったという方が納得できる。

そう思ってみていくと、ゴッホがプロテスタントの牧師の息子で、自分も牧師になりたくて神学も学び、労働者の運動も支援し、画家になってもオランダでは不幸な人、貧しい人、虐げられる人のようないわば「社会派」の暗い絵ばかり描いていたことも、シーンへの寄り添いも、ラッシェルヘの思いも、いや、ゴーギャンを呼びよせたように、画家の共同体を作ってみんなの収入を分け合う「共産主義」を夢見たのも、すべてひとつながりのことであったように思う。

アルルで住んだ場所が、1840年代にできた鉄道で働く労働者の住む界隈でプロテスタントが多かったということも分かっている。
1952年に80歳で死んだというラッシェルの曽孫はまだアルル近くに住んでいるらしいが、ひよっとして彼女の家庭もプロテスタントだったのかもしれない。

狂犬に咬まれて死の危険があったのだから、病院付きのカトリック司祭が終油の秘跡のためにやってきて、彼女がプロテスタントだということでプロテスタント教会になんらかの問い合わせがあったのかもしれない。ゴッホはカルヴィニストだから、少女もひょっとしてカルヴァン派で、そのつながりでラッシェルと知り合ったということもあり得る。これは全くの想像に過ぎないけれど。

このドキュメンタリーではそういう面は注目されていないけれど、今思うと、たった37歳で自殺したこの画家の不幸や悲しみへの共感や「共同体」への熱い理想と信仰の関係が分かってきて痛ましい。
ゴーギャンがいさかいの後で出て行った時の怒りや絶望の深さもその理想の高さ故だったかもしれない。

ゴッホの画集をつくづくと眺め返しながら、いろいろなことを思う。
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by mariastella | 2017-01-16 08:42 | アート
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