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L'art de croire             竹下節子ブログ

『沈黙』をめぐって その7

『沈黙』のテーマについての考察を続ける前に寄り道。
笈田ヨシさんが、雑誌『日経回廊』で「映画『沈黙』に出演して僕が考えたこと。」という記事を書かれていたのを見せてくださった。
そこで初めて、笈田さんが、ジョアン・マリオ・グリロ監督『アジアの瞳』(1996)という日本とポルトガルの合作映画で、なんと中浦ジュリアンの役で出演なさっていたことを知った。

中浦ジュリアンというのは有名な4人の「天正の遣欧少年使節」の一人で、日本人で初めてポルトガル、スペイン、イタリアなどを訪れ、司祭に叙階された人たちだ。有馬の神学校に通っていた14、5歳の将来有望な少年たちが選ばれて、初の日本人司祭 を養成するために1582年に出発した。本能寺の変のあった年だ。

8 年後の1590年に帰ってきて、翌年会った豊臣秀吉にも好意的に迎えられた。その後天草やマカオで修練して1608年に司祭叙階される。博多で宣教していたが1613年にキリシタン弾圧が始まり、長崎に移り、翌年の江戸幕府によるキリシタン追放令が出た時に潜伏して20年も信者を支えた。1632年に逮捕され、翌年『沈黙』でフェレイラ神父が「転んだ」穴吊るしの刑にフェレイラや他のイエズス会司祭や修道士らとともに処せられた。

苦しさのあまり棄教したのはフェレイラ1人で、65歳の中浦ジュリアンは4日目に最初に息絶えた。ローマに旅立った日からちょうど半世紀が経っていた。毅然として「ローマに赴いた中浦ジュリアン神父」だと役人に言った。「ローマに行って教皇と会った」のは彼のアイデンティティの核にあったのだ。

けれどもローマに行った4人の少年のうち他の3人伊東マンショ、千々石ミゲル、原マチルノは殉教しなかった。ミゲルは神学の勉強を続けず棄教してイエズス会を去った。彼らはみなキリシタン領主の息子たちであり、政局の変化と共に棄教しても、生活の安定は保証されていた。リーダー格であったマンショは絶望して病死、学にすぐれたマルチノは1614年マカオに戻って出版や翻訳などの活動を続け1629年に死んでマカオの大聖堂に埋葬された。マルチノも大村領の名家の出だから、拷問されずに亡命という選択肢があったのだろう。高山右近が棄教せず追放されてマニラに渡ったのと同時代だ。

晩年のジュリアンは拷問のため失明していて、この映画でも目を隠している。彼に棄教を勧めるかつての仲間ミゲルの家で、座敷の隅に熱を出しているという赤ん坊(ミゲルの孫)をおいてミゲルが席を外した(ふりをした?)時に、そばにある盥からそっと水を汲んで洗礼を授けたシーンがあるそうだ。(親の正式な同意と依頼なしに洗礼を授けてもいいのか?とつっこんではいけない。別に割礼するわけじゃないからね。ここは以心伝心というわけだ。宗教の形は捨てても信仰は捨てていない、というのでなく、司祭を前にしてやはり形を求めずにはおれない、というのは『沈黙』の告解と通じる)

ネットで少し試聴できるが、やはり、笈田さんの存在感はすごい。



笈田さんの目力はすごいが、目を覆っていても同じオーラを発揮している。

それにしても穴吊りの刑に耐えて殉教した聖人である中浦ジュリアンを演じた笈田さんが、20年後に、杭に縛られて海水を浴びせられて死んだキリシタンの村の長老イチゾウを演じるなんて、なんというめぐりあわせだろう。

笈田さんには、迫害する側の役人をやれないのかなあ、とふと考えるけれど、彼が迫害者を演じたらそれはそれですごく迫力のある迫害者になるだろう。

笈田さんは今日本で、今月18日に東京芸術劇場シアターオペラでの『蝶々夫人』の演出をしている。

この紹介を見つけた。すごく刺激的な試みだ。観たかった。東京にいる方はぜひどうぞ。


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by mariastella | 2017-02-11 04:32 | 映画
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