L'art de croire             竹下節子ブログ

宇治神社、宇治上神社、平等院、奏楽の菩薩たち

これは兎の通う道「兎路」に由来するという宇治神社の清めの水
c0175451_16483973.jpg


宇治にゆっくりするなんて何十年ぶり。
宇治上神社の方の、「桐原水」の方は、小洞窟といった趣きだった。

平等院が極楽浄土のテーマパークみたいな意味で造られたこと、本堂を囲む阿弥陀来迎図と、それを待つ臨終者の絵を見ていると、年のせいかはじめて、実感を伴って、古来、死にゆく人たちは本当に阿弥陀のご来迎だの、聖母マリアのお迎えを信じてそれで死の不安が和らいだのだろうかと想像してみる。

無神論者の方が、死ねばブラックアウトと覚悟を決めていたのだとすると、信仰を持っている人の方が希望も恐怖もセットにして持っていたのかもしれない。
西方浄土の渇望は、来世での転落への不安のリアクションなのか、死の苦しみや痛みから解放されることがメインなのかどちらだろう、自分はこのような演出で「救われる」タイプなのだろうか、いざとなるとパスカルの賭けのような方向に行くのだろうか、やはり想像が及ばない。

如来のまわりに配された踊ったり舞ったりの「雲中供養菩薩」たちは、聖母を囲む奏楽の天使たちと同じ役どころだけれど、素晴らしい造形だ。

それにしても、 浄土に迎えられるとしても、九品という等級があるのは世知辛い気もする。
キリスト教的には恩寵 、恵みは「無償」という含意があるから、もっと救われるかもしれない。浄土に行ってまで格差があるなんて。

先日、大相撲の千秋楽の後 、相撲評論家みたいな人が国技とは何かについてコメントして、アメリカの国技は野球でメンバーが9人、スリーアウト、三塁、9回までと、3の倍数なのは三位一体のキリスト教で、多く点を取ったら勝ちというのは資本主義、などと言っていた。

私はすぐに三品に上中下の生が分かれた九品の浄土のことに思いがいたって、一見気の利いたことを軽々しくいうものではないなあと、自戒。
[PR]
by mariastella | 2017-04-01 17:38 | 雑感
<< ビッグイシュー 日本版 宝積寺の亀や菩薩や金剛力士 >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧