ルターの95ヶ条から500年、今年に入ってからルター派についていろいろと読んで、今までいかにbkbsi ちゃんと向かいあっていなかったが分かった。
確かに、考えてみたら、フランソワ一世がいた頃のフランスになぜこうもルターの改革派教会が根付かなかったのかということは、日本にキリスト教が根付かなかったということと同じくらい興味深いテーマをはらんでいる。
私は今まで、それはフランスのガリア教会主義が認められていたから(1516年8/18にレオ10世が前年に戴冠したフランソワ一世にフランスの司教を指名する権利を与えるなどのコンコルダを締結している)だと表現してきたし、それは間違いではないのだけれど、もっと根深いものがある。
ひとことでいうと、ルターの改革派教会とは、「キリスト教のラテン・インカルチュレーション」であったローマ・カトリックから分派した、「キリスト教のゲルマン・インカルチュレーション」だったのだなあ、と思う。
当時のカトリック教会についてルターの批判したようなことはカトリック教会の内部でもいろいろな人が声を上げていた。免罪符や聖職売買や司祭の要請についての多くの点の改革すべきところは自明だった。フランスでもギョーム・ブリソネなどが批判していた。けれども、「救い」の場から聖母や聖人を締め出すことはしなかった。「聖母と聖人と煉獄に関しては批判しない」というコンセンサスができた時にカトリックを去った人(ギヨーム・ファレムなど)などもいる。
ルターが死んだとき、多くのプロテスタント教会にルターの実物大の肖像画が描かれたり、デスマスクと手足の型がとられて服を着せられて保存されたりしたのも、カトリックの「聖人崇敬」が実は広く人々の必要に応えたものだったことを反映している。
(ルターのデスマスク)
ルターもかなりのものをラテン語で書いていたし、ラテン語の著作はフランスでもそのまますぐに読まれた。ストラスブルク、バーゼル、パリ、リヨンなどの印刷業者を通してラテン語からやドイツ語からの仏訳もかなり出回った。1534年までに15作と、エラスムスの著作のフランス語訳よりも多い。
それでもルターは「ドイツのヒーロー」だった。
今から200年前の1817年の10月には、ルターが身を隠したワルトブルク城で500人の学生が改革300周年と、プロイセン王国がライプツィヒでナポレオン軍を破った4周年とを同時に祝った。
第一次大戦のときのドイツのプロパガンダではルターとビスマルクがドイツの根幹を形成してい(た。イタリア人のローマ教皇やフランス人のカルヴァンに反対したということが、ドイツのアイデンティティを称揚したのだ。
ローマカトリック教会のラテン性もルター教会のゲルマン性も(さらにいえば聖公会のようなアングロサクソン性も)、みなそれぞれの地域でインカルチュレーション(文化変容)したキリスト教なのだが、日本のような国からは、みなまとめて「欧米の宗教」だと見なされきた。プロテスタントの民族性を分けて考えることは少ないだろう。
なぜフランスにルーテル教会が根を下ろさなかったのかを引き続き考えていくことで気づかされることは少なくない。