docomoのサービスを拝借して、百冊以上の日本の雑誌のネット版をタブレットで読むことができる。そのおかげで、日本に住んでいても立ち読みさえしないような雑誌にアクセスできる。
その一つがGQのeditor's letterだと前にも書いたが、今発売中のものは特筆に値する。
日本で教育勅語を唱和させる幼稚園の話にはじまって、教育に取り入れてもよい、などという見解が出されるなどしたことで、いろいろな人が的確な批判をしているのをこれまで目にしてきたが、この鈴木正文さんの文が一番私の考えていることと近かった。この文で彼のおばあさまがドイツ人だということもはじめて知った。そのことが彼の今の視野の広さにつながっているのかもしれない。
素敵な文章だったので全文引用したいくらいだけれど、まず要約。
1947年生まれの鈴木さんは小学生の時に黒人のハーフの同級生Mさんがが差別的な言葉を投げつけられて泣いているのを見て慰めたかったけれどできなかったし、旧友たちに抗議する勇気もなかった。
教育勅語の「道徳的目標」は「普遍的な道徳観」を示すものでどこがいけないかという考え方が今出てきているが、「教育勅語」との文脈的な結びつきを失うのでは意味がないし、文脈とは皇国思想であった。
「・・・果たして、親をうやまったり、友達同士や夫婦、兄弟が仲良くしてお互いを信じあったりすることが道徳的なのだろうか、」
「親をうやまい、家族仲良くし、友を信じることは、そうすることが倫理的だかに正しいからそうしなければならないことなのだろうか(・・・)こうしたことのすべてが、だれかにいわれてしなければならないこととしてあるべきなのか・・・」
「もちろん、僕たちはだれかを尊敬し、だれかを好きになり、だれかを信じる存在だけれど、そこで大事なのは、尊敬し、好きになり、信じるだれかを、僕たちが自由に決めるということだ。これは同時に、親をうやまわず、家族と仲良くせず、友を信じない自由もまた僕たちにはあるということでなければならない。それが個人主義というもので、この個人主義を獲得するために人間が数千年を要したことを僕たちは知るべきである。」
「(・・・)ほんとうに道徳的であるのは、そうした自由に立脚しつつ、「友」ならざる人を「友」とし、「家族」にあらざる者を「家族」とし、おのれの「親」ではない「親」を敬うという営為なのではないだろうか。なぜなら、友でも家族でも親でもない者を友とし家族とし親とするためには、道徳の力、つまり「正しいこと」をなすという倫理の力が必要だからだ。
少年だった僕が、Mさんを前にして持ち得なかったのは、実に、この道徳の力であった、といまおもうのである。」
以上だ。
これは簡単なことではない。
なぜなら、「正しいことをなす」こと、「正しくないことをしないようにする」ことの他に、正しいこととは何なのかを希求し分別する営為も必要だからだ。
ともあれ、自国ファーストとか家族ファーストとか自分ファーストといった内向きのポピュリズムが席巻する世の中で、鈴木さんの言葉は一条の光を投げかけてくれるものだった。