これは一応、
前回の記事の続きです。
ジローとマクロンとメランションの唱える経済改革を比較した記事も読んだ。
3人はいずれも現在のフランスの経済が破綻していることは認めている。
失業者が増え、格差が増大するばかりだからだ。
共に金融のエキスパートであるジローとマクロンは金融バブルのリスクを語り、マクロンはグローバリゼーションが賃金の低下を招き、ロボット化とデジタル化が雇用を奪ったことを指摘する。自然資源の枯渇がこれまでの産業モデルの終焉を招くことも3人が指摘する。
視座の転換について最も有効に語るのがジローで、その二つの柱は、
自然をリスペクトすること、
資源と経済活動を集合的次元でとらえなおすこと、だ。
マクロンはフランスがカテゴリー別にいろいろな規制があることが社会の改革を妨げているとして、創造的活動を妨げる規制の緩和を訴える。集合的なビジョンというよりは個人のエネルギーの解放に重点が置かれている。
メランションは、自然との調和、エコロジ―優先のためにすべての生産、流通、消費のつながりを修正しなくてはならないとする。
ジローは、今まで、フランス社会は危機(1789, 1848...)を通してしか変化しなかった、と言う。
けれども、真の変革は地道な仕事によって時間をかけて熟されたものでなくてはならない。1945年にできた社会保証制度はドイツに占領されていた時代に国立研究センターが研究したプログラムによるものだった。フランス人が個々の利益を超えて、生産活動の規則を変えて富を分配するよう、為政者に求める準備ができていなくてはならない。そのプログラムは果たして十分な検討を経たものだろうか? と問うのだ。
こう見ていくと、ル・ペンは別として、メランションはかなり、カトリック的な感覚を持っていると分かる。
マクロンも中学高校と、イエズス会系の学校にいたし、妻が離婚しているから教会での結婚式は不可能だったとしても、今でも妻の孫の洗礼式に参加したりしているのだから、フランスらしいカトリック・カルチャーは十分あると言える。
でも今のマクロンの選挙運動の手法は福音派などのメガ・チャーチのやり方で煽動している。
自分がカリスマで、「マクロン! プレジダン(大統領)!」と連呼させて、「救世主」のイメージを演出している。
もちろん、大統領候補たちはみな、自分こそが「低迷するフランス、テロの脅威にさらされるフランスの救世主」だというスタンスで出ている。これは立憲君主国ではうまく通用しないイメージだろう。
では、「もしローマ法王にフランスの選挙権があったら?」誰に投票するだろうというシミュレーションをしたらどうなるだろう。(続く)