L'art de croire             竹下節子ブログ

メランションとキリスト教

これは前回の続きです。

第1回投票の1週間前が復活祭で、その前の日曜は聖週間の始まる「枝の日曜日」だった。
フランス中のカトリック教会には、ツゲの小枝を盛った人々が集まる。教会前で配布されてもいる。
イエスのエルサレム入城を記念する日だ。

マルセイユで人々の前に現れたメランションはオリーブの小枝をボタン穴に指していた。「私は平和の候補者です」と言い、小枝を手にもって振り、地中海の木であるこの小枝を我々のシンボルにしようと持ってきたことを告げた。
預言者的なこの言葉を聞いた人々が「メランション! プレジダン(大統領)!」と唱和し始めた時、彼はそれを制して「それはやめてください! 私は自分の名がスローガンになるのは嫌だ! 皆さんは、信者なんかではない!『共通の将来』という名のプログラムを担う人々なのです」「不可能な完全性を一人の人間に託するという愚かな熱狂から覚めてください」と続けた。

この日に小枝をシンボルにするという演出は明らかに、自分が救世主のように熱烈に迎えられるということを意識したものであったはずだ(本人は偶然だったという)。第一、どこでも、すべての候補者は、救世主のごとくふるまっているし、支持者たちも、カルト宗教に洗脳された人々のように、ロックスターのコンサートに駆けつけたファンのように叫んでいる。メランションもホログラムで数ヶ所同時にミーティングをするなど、ユニークな演出を工夫していた。

でも、それを誘導しながら、なお、「信者みたいになってはていけない、使命を担った主体的な存在であれ」、
と、至極まっとうなことを言ったわけだ。

世界における南北の格差、他者への無関心、同胞愛などを語る時に福音的なレトリックを駆使するのはまるでローマ法王のスピーチのようであったりする。
フランシスコ教皇のスピーチも「民衆の神学」などと言われている。
いつも弱者の側に立ったもので、これは宗教(教義と典礼を備えたシステム)としてのカトリックの立場というよりも、イエス・キリストの唱えた生きる教えのキリスト教だ。

メランションがカトリックのレトリックをフランス社会に根付いたものとして自然に使うことができるのは、実際カトリックのことを熟知しているからである。子供の頃は教会の聖歌隊で歌っていたし、今もローマ法王の回勅が出ればすべて読んでいるという。

「信仰者、聖職者と話すのは大好きで、彼らは自分自身より大きい世界に身を置いて考えている。不幸の大海の中で幸せでいることは誰にもできない。我々は他者の身の上に対して責任がある。トレーダーと話すよりクリスチャンと話す方がたやすい。トレーダーたちは道徳的、個人的、集合的責任からなっている私の世界とは対極のところにいる。金を偶像崇拝してはならない。」と言う。

サルコジの政治顧問であったパトリック・ビュイソンは「メランションはフィヨンよりもキリスト者だ」と繰り返す。

「キリスト教は商業の世界の絶対支配を拒否し、偶像崇拝を呪う。それはマルクスが商品のフェティシズムを弾劾する時にリサイクルした考え方だ。この点ではメランションは、よりマルクス主義者であるからフィヨンよりキリスト教的だ。」と。

皮肉なことにメランションは候補者の中で最も「政教分離」派である。
2012年には、政教分離を絶対とするフリーメイスンのグラントリアンのメンバーだったことを明かしているし、2016年にも「共和国の再建」という講演をしている。

カトリック系私立学校への公的援助や、アルザス・ロレーヌや海外県における政教分離の例外の撤廃も主張している。
安楽死にも賛成だ。両親が離婚した後で教会が母親に取った仕打ちも恨んでいる。
フランシスコ教皇がEUで発言することは政教分離の原則に反すると批判するが、バーニー・サンダースをバチカンに招いたことやキューバを助けたことは評価する。イスラム原理主義は宗教に特有なものではないという教皇の考えにも同意する。「教皇は少しメランション支持者だ」と笑う。

マクロンはと言えば、難民、移民に関しては、メルケル首相を称賛し、クォータ制なしの受け入れを提唱している。
その辺はローマ法王に気に入ってもらえるだろう。(続く)
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by mariastella | 2017-05-01 01:48 | フランス
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