L'art de croire             竹下節子ブログ

マクロンと夫人を見ていてなんとなく考えたこと

5/3の夜、マクロンとル・ペンの討議があるのでそれを見てからまた書くことにするが、ここに書くのは大統領選とは直接関係のない与太話です。
政治情勢について知りたい方はスルーしてください。

先週、マクロンが第一次投票をトップで通過しただけなのに妻のブリジットを伴って支援者のもとに現れたことで、これまでの当選者は最終投票の後で、それもパーティの時にはじめて伴侶が並んだのに、と「はしゃぎすぎ」を批判する声があった。

フランスはアメリカのようなファーストレディのステイタスが公式に決まっているわけではないから、マクロンは自分が大統領になったらファーストレディの公的役割を明文化すると言っている。

ともかく、この「お祝い」で、マクロンの実の母親、弟、妻の一男二女がそれぞれの連れ合いと一緒に集まった珍しい写真が出回った。

マクロン自身も三人きょうだいの長男だ。マクロンの生まれる前に姉が幼くして亡くなったことがトラウマになったので、マクロンと弟妹のために母親は医師の仕事をパートタイムにしたという。父も医師だが2010年に離婚して、精神科医と暮らしているという。現役だからあまり姿を見せない。マクロンの弟と妹も医師になった。

マクロンは理系バカロレアを出たのに文科系予備クラスに入った。演劇活動で知り合ったブリジットとの恋に夢中で高等師範の入試を二度、筆記試験の段階で落ちている。
ENAも、最も正統的なコースから入ったわけではなく、今になってあれこれと明らかにされていることによると、やはり「15歳の恋」は、勉学の妨げになったということらしい。
それでも、ENAを経て財政省の役人としてキャリアをスタートし、銀行を経て、大統領側近となり、今度は大統領になろうとしているのだから、すごいキャリアだが、それを後押ししたのはおそらくブリジットさんなのだろう。
「マクロンの恋」を統御し、その才能に見合ったエリートに育てていったのはほかならぬブリジットで、彼のリップサービスではなく、この女性なしに今のマクロンはなかったのだろう。

そう思うと珍しい組み合わせだ。フランスのリセのフランス語教育や哲学教育は、とにかく古典をたくさん読ませる。

それによって、哲学的語彙と概念は一気に豊かになる。

日本語なら、少しレベルの高い思想書にはどうしても「漢語」が入ってくるから、日常のやり取りの口語とは少しずれてくるが、フランス語なら哲学の言葉も宗教の言葉も文学の言葉も、10歳の少年と30歳の大人が十分やり取りしあえる。

私は自分が15歳だったころを別として、大人になってから日本の10歳や15歳の少年とじっくり話したという体験がないので、そういうことが自然に対等にできるのかどうか分からない。日本語では年齢や性別や立場によって話し言葉のニュアンスがいろいろと変わってくるから、なかなか本当に対等な感じで話し合えない気がする。

ところが、フランスでは、自分の子供のような年(今や孫に近いような年)の15歳の少年とでも少女とでも、対等にいろいろなテーマについて真剣に話し合うことができる。

思えば、マクロンが15歳でブリジットと出会ったという頃の今から25年ほど前、ちょうど私も、パリのカトリック系のリセで15歳の少年たちを教えていた。正確には高校1年から3年のクラスで日本語を週3時間ずつ教えていた。私立の中公一貫校だが、私の給料は文化省から払われてる契約公務員待遇だ。

15歳から17歳くらいの少年たちはフレッシュで可愛かった。
もっとずっと昔、東京のリセ・フランセでも、小学校4、5年生(小学校は5年まで)、中学1.2年生、中学3.4年生、高校1.2年生の合同クラスで教えていたことがある。でもフランス人の子弟ばかりでなくインターナショナルで親の職業も滞日年数もばらばらだったし、私自身が20代だったから、「先生」を演じていた部分がある。

パリのリセでは、生徒たちは自分の息子のような年齢だ。
私は自然に「先生」だった。「マダム」から「先生」へと呼び方を変えさせていた。
そこでいろいろな生徒と知り合った。

概して女生徒の方が「大人」で距離を感じた。

授業が終わった後、他の生徒が出て行った後に残って私に話しかけてきたり、授業の前に私と直接話そうとするのは男の子たちの方が圧倒的に多かった。彼らは個人的ないろいろな悩みや将来についてなどを相談してきたり、日本とフランスの比較文明論を持ちかけてくるのだった。
もし今のようにSNSが発達している時代だったら、彼らとその後もずっと連絡を取り合っていたかもしれない。

ピアノの生徒もそうだ。

11歳とか12歳とかで個人レッスンを始める生徒たちに私は最初から対等な立場で音楽論を語る。
私の小さい時にこういう先生とめぐりあっていたかった、と思いながら、私の音楽論は長い間かけて模索し続け、実践しているものだということも伝える。テクニックだけの練習(まあそのおかげでベースができたわけだけれど)では絶対に見えてこない者があることを教える。音楽とは音符と音楽の間にあるということなど、他の楽器や踊りも見せながら説明する。
14、15歳になってくると、「練習する」ということについての哲学的会話も始まる。実存的な会話も始まる。

そういうことができるのは「フランス語」という言語に負うところがすごく大きいと思う。

私のトリオのメンバーであるHも最初に会った時は15歳の終わりだった。H は高名な教育者ルイ・ロートレックのギターの生徒で、私はロートレックの友人という立場だった。ロートレックといっしょにアンサンブルを立ち上げた。Hはそこの最年少のメンバーの一人だった。

Hは最初から普通の少年とは違っていた。 私は彼の母親よりも一つ年上だった。
ロートレックのアンサンブルでスペインに公演に出かけた。Hは18歳だった。その時に加わったのがやはりロートレックの弟子だった28歳のギタリストのMだ。往きのバスが故障して数時間立ち往生するというアクシデントがあった。その時にMが不思議な発言をした。私はそれに一目ぼれした。Hもそうだった。Mの不思議さに魅せられたのはその時居合わせた人々の中で私とH の二人だけだったと思う。私は私とHが同じ種類の人間であることを確信した。

その後、いろいろあったのだが、私はH の才能に感心していた。音楽家として私にないものすべてを彼は持っていた。
ロートレックとのさまざまなアンサンブルで弾いたけれど、それはまあ、時々小遣い稼ぎにはなる程度の、親睦グループみたいなものだった。バロック音楽の感性がないことは明らかで、フランスバロックの道案内をしてくれたのはHだった。グループの編成がいろいろと変わっていく中で、私は、HとMといることが最も知的な刺激に満ちていることが分かっていた。H が一時パリを離れた時期、家族から離反した時期なども通して、私のHへの信頼は一度も裏切られなかった。
Hがオペラ座図書館で見つけたミオンのオペラを持ってきて最初に3人で弾いたときの感激は忘れられない。私たちは私たちの音楽に出会った。それが1994年、Mは21歳でソルボンヌの音楽学科の学生だった。
私たちはそれから、20年以上、たまに他の人と共演することはあっても、ずっと新しい研究やチャレンジを続けながら、実にいろいろな場面で一緒に弾いてきた。Hは音楽のアグレガシオンを取得し、指揮者、チェンバロ奏者としても様々なアンサンブルに加わったり、組織したりしている。Mも国立の音楽院で教えながらバロックギターやテオルブでバロックアンサンブルにいる。

トリオは、音楽へのパッションは揺るいだことがないが、人間的には平坦な道ではなかった。何度もうこれでやめようと思ったかしれない。けれども、私は、若い彼らと音楽について、人生について、議論することの幸運を自覚していた。
そして、15歳だった彼は、今は40代半ばとなっている。でも私たちの関係は、最初に会った日から変わらない。いやますます、親密に、かけがえのないものになっている。私たちのかわした多くの言葉が、私たちの音楽を変え、人生のビジョンを変えた。

もちろんマクロン夫婦のような種類の関係ではないが、相手が15歳の時に知り合った少年と、何十年にわたって友人であり、時と共に、そして彼が編曲してくれる曲目が増えると共に、いろいろなコンサートのいろいろな場面の記憶と共に、言葉を通しても通さなくても以心伝心ですべて分かってしまう体験と共に、同じ音楽で同じ聖霊を分け合っていくと共に、「人間と人間の関係」が深まっていくことを私は知っている。

マクロン夫妻の本当の関係の機微は分からない。数年後に別れるなんていうこともあり得るかもしれない。
でも、大方の野次馬とは少し違って、彼らの話を見聞きすると、私は、15歳の少年と親子ほど年の離れた女性が、何十年もかけてますます理解しあい、助け合うことの真実を実感を持って想像することができる。
でも、日本で日本語だったら、と思うと…非現実的だ。

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by mariastella | 2017-05-04 02:04 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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