L'art de croire             竹下節子ブログ

「90歳の娘さん」-- 年をとるということ

先日arteのドキュメンタリー映画『90歳の娘さん』でパリ近郊の病院の高齢者医療のアルツハイマー患者のセクションにおける「ダンス」のシーンを見た。

ティエリー・チィウ・ニアンというダンサーが一週間毎日通って患者の前で踊り、患者を誘っていっしょに踊る。車椅子の人とも触れ合う。

その中に92歳のブランシュという女性がいて、はじめは杖をついていたのに、彼と踊ると生き生きして、片足でバランスをとったり、彼のことばかり考えていると言ったり、完全に恋する乙女の目になっていた。

この女性はサンジェルマンでアーティスト的な生活をしてきた人だそうで、結婚歴はなく子供もいないという。自分のいる環境も気に入っておらず、自分が「劣化」したことにも絶望していた。他の患者たちのようにチィエリーのパートナーと共に「古い歌をみんなで歌う」という活動も馬鹿にしている。

けれどもティエリーとのスキンシップやダンスの中ではがらりと変貌する。

この番組を見たのは私がダンスによるセラピーに興味があるからだ

でも、さすがに、90代の人々というのは私も想定していない。
ティエリーの官能的なコレグラフィーや体の使い方はいいとして、体も認知能力も衰えているはずの超高齢女性が生き生きと反応して周りに嫉妬の感情まで引き起こすのは印象的だとはいえ、なんだかのぞき見をしているような気分になって居心地が悪かった。こういう感じ。(ビデオは多分広告の後で出てきます)

ティエリーというのダンサーは父親がベトナム人で母親がフランス人のハーフで、もう50代半ばだけれど、若い頃の坂本龍一みたいな感じで、しなやかな体つきは20代の若者のようだ。
白髪も混じる長髪なのだけれど、患者たちはみな彼に「若くて美しい」と賛美の言葉をかける。
彼は若い頃から国境なき医師団と共にアフリカやアジアでボランティア活動をしていて、高齢者のダンスセラピーも、ただ気まぐれにやっているのではなくて使命感に突き動かされているプロなのだ。
だから年齢のハンディを抱える女性たちに妙な思わせぶりをするわけではない。
けれど、ダンサーが本気になって他者と関わろうと思ったら、自然にホルモン全開でフェロモンをまき散らすのか、ブランシュたちも本気で何かを目覚めさせられ、枯れ木に樹液が満ちるようになるのが伝わる。

はじめは何か見世物みたいでいやだった。

ティエリーはプロ、ブランシュは慈悲の対象、一時の幻想を与えてどうなるのだ、と思ってしまう。彼女がどんどんと恋に落ちるのを見るのが苦しい。

実際、映画やドラマを別として、リアルな人間がまたたくまに恋に落ちていくのを実際に見る、ということは普通はあり得ない。ドキュメンタリーやお見合い系番組があったとしても、登場する人は当然だけれど世間を意識し、カメラを意識し、要するに「どう見られるか」を意識している。

でも、ブランシュは、認知症のおかげで、他のスタッフの目も患者たちの目もカメラも完全に無視しているし、後でこの番組を見る私たちの目も当然存在しないに等しい。

だからこそ「見世物」を覗いているような罪悪感があり、はじめは他のいろいろな患者の姿を見るだけでも落ち込んで、「こんな風に年とる前に死にたいものだ」などとしか思えなかった。
ティエリーの暖かさや誠実さやまごころやリスペクトも伝わり、おそらく彼自身もこの交流から多くのものを与えてもらっているのだということは伝わるのだけれど、番組の底には、どうしようもない「現実の残酷さ」をも切り捨てないという筋が一本通っている。
感嘆し感動もするけれど幻想は抱けない。

そのバランスがあまりにも絶妙なので、居心地が悪いと思いながらとうとう最後まで見てしまった。

最後に残った感想は、

人は何歳になってもどういう状態にあっても、愛と思いやり、スキンシップが必要だけれど、「その相手」は何でも誰でもいいわけではなく、

柔らかくてふわふわな子猫だとか
元気で忠実な犬だとか、
若くてしなやかな異性だとか、

「相手を選ぶ」のだなあということが一つだ。

自分と同じように杖をついてよれよれの高齢者を眺めたりしわだらけの乾いた手で触ってもらったりするのではなく、生命のほとばしりとか躍動とかを感じられる相手を必要とするのだ。

もう一つは、高齢認知症患者や、「死に行く人」らが必要としているのはスキンシップだけではなく、スキンシップやかかわりの「侵襲性」だということだ。
たんに世話してもらっているとか、そばにいてもらえるとか言うのではなく、ティエリーのように、まっすぐ、相手の中に飛び込み、引き出し、一体化することを積極的に、執拗に、忍耐強く示された時、すべての人は「よみがえる」のかもしれない。
変な言い方だけれど「無理やり」誘ってほしい。その中でこそ、彼らが長い間失っていた「必要とされている」感が再生するのだ。

「現役時代」の人は、あちらこちらから頼られ、必要とされ、仕事や役割を押し付けられて疲れはてうんざりすることの方が多いからなかなか気がつかない。若くてきれいな人やいろいろな意味で力のある人には、多くの人が寄ってきてそれこそ侵襲しようとしたり親しい関係を築こうとするだろう。

けれども、若さと力と認知機能を失った人は、そのような、「周りからいやおうなく働きかけられる」という関係をすべて失い、「お世話してくれる」人だけが残る。
そうなった時にはじめて人は「年をとる」のかもしれない。

その意味で、ボランティアに関わる全ての人が見る価値のあるドキュメンタリーだと思った。


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by mariastella | 2017-06-19 00:49 | 踊り
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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