L'art de croire             竹下節子ブログ

地球のために何ができる? その4

私がうちに引きこもってぬくぬくと「情報収集」と分析だけして、巷の慈善事業に大した寄付もしなければ、通りのマニフェストにも参加しない「頭」だけの危機感と使命感を持っていることに対する後ろめたさを払拭してくれたのは、伝統的なキリスト教の考え方だった。
前から知っていたが、見方が変わった。

それは、「私たちはみなキリストの体の一部である」というパウロの言葉だ。

もともとパウロは「キリストの体」というのを「教会」という意味で使っている。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソの信徒への手紙1,23) とあり、その上で、「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。」 などと言う文脈では、教会の共同体はみな一心同体で、奉仕に励みなさいね、みたいにも聞こえる。

実際、この表現はそういう「キリスト者の共同体」の一体感を強調し、教会の聖性を語るときによく引用される。でもこれとは別に、次のような言葉もある。これも有名なものだが、少し長いけれど引用しよう。(コリントの信徒への手紙一/ 12,12-27)

>>>体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 <<<

この後に、有名な「愛」のパッセージが来る。

で、この部分も、確かに、洗礼を受けたものならみな多様でも一つの体と言っているので「キリスト教徒」限定のようにも聞こえるかもしれないのだけれど、比喩としてはよくできている。

>>体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 <<

>>すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」<<

と言われれば、なるほどなあと思うのだ。

そして、キリスト教、特にローマ・カトリックは、1960年代の第二ヴァティカン公会議以来、「救い」について、「教会」や「イエス・キリスト」の外に救いなし、という伝統的な姿勢に新たなニュアンスを加えた。
宗教としての教義や典礼の伝えられていない時代や場所においても、聖霊が働いて義となる生き方をして天国に行ける可能性を否定しなくなったのだ。

別の見方をすれば、キリスト教やカトリック教会以外でも、「義人」は聖霊の働きを受けているのであり、「キリスト者」なのだと取り込んでいるわけだ。

これは、例えば、どんな宗教を信じている戦死者でも靖国神社が「英霊」として祀ってしまうのと一見似ているかもしれないけれど、実は、キリスト教がユダヤ選民思想の世界で生まれたのに「普遍宗教」として発展した背景の根本にある考え方だった。
(続く)

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by mariastella | 2017-08-02 05:59 | 雑感
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