フランス映画をもう一本
『マダム』
フランスのアメリカ人を描いた映画はカルチュラルスタディとしていつもおもしろいので観に行くことにした。
これはそれに階級差を配して、アメリカ人、イギリス人、フランス人の金持ちの間に東洋人、スペイン人のメイドらが加わる。フランスかぶれのアメリカ人の金持ち夫婦が、豪勢な自宅のディナーに、ロンドンの新市長のゲイ・カップルやアイルランド貴族の美術ビジネスマンなどを招待するが、13人になってしまって縁起が悪いのでメイドのマリアが友人に仕立て上げられる。マリアはできるだけしゃべるな、飲むな、と言われるのだが…。
一見、一種のシンデレラ・ストーリーとして始まるのだけれど、このシンデレラが、貧しいけれど実は美しくて若くて頭がいい、というのではなく、ブルジョワたちの美の基準(つまり、現代の商業的美の基準)に当てはまらないような個性的な容貌のロッシ・デ・パルマ。ペドロ・アルモドバルの映画での常連である50代の熟年女性だ。大柄で顔も大きくインパクトがある。
監督はまだ30代の若いフランス人女性作家で、フランス人らしくインターナショナルだ。
母親がブルターニュの弁護士、父親がチュニジアのユダヤ人精神医でマイアミの大学でも学び、パリのテロの後でロスアンゼルスに住んでいる。
夫役のハーヴェイ・ケイテルは78歳でこの役には年取り過ぎている感じだ。
で、夫婦とも、フランス語やフランス文化の個人授業を受けているという設定なのだけれど、どちらも相手と浮気する気が満々だというのは、フランスとフランス人へ向けるステレオタイプがベースで、すべて紋切り型でカリカチュラルだ。
最近の『ラ・メロディ』だとか『ル・ブリオ』でも階級差がステレオタイプに描かれていたにもかかわらずそこから引き出されるメッセージの方向性がはっきりしていたけれど、この『マダム』にはそれがない。
監督の目がどの登場人物に対しても等しくシニックなのだ。
大きなうねりもないし、結末の後味も良くないし、カルチュラル・スタディとしても人間劇としても失望した。
ロッシ・デ・パルマほどの個性的な人を使ったのに「途方もない感じ」を出せなかったのはもったいない。
私が映画に求めているのは何なんだろうと自問するという意味はあった。