L'art de croire             竹下節子ブログ

「主の祈り」をめぐって その2

これは前の記事の続きです。


12/3からフランス中の教会で訳文が変わってしまう「主の祈り」についてのいろいろな意見の出現が最高潮に達している。

非常におもしろい。

実はベルギーでは今年64日の聖霊降臨祭からもう新約が採用されている。(国語としてライバル関係にあるネーデルランド語の新訳がすでにスタートしていたからだそうだ)

フランスは、ヴァティカンの祈祷書のフランス語新版が出るのを待つと言っていたのだけれど、いっこうに出ないので司教協議会が12/3をスタートと決めた。子供たちに要理を教えるカテキストたちは、フランスの新学期である91日からにしてほしい、と言っていた。(確かに、3ヶ月で文面が変わるのはまずいが、78歳向けの要理クラスの1年目の最初の学期は、まだ主の祈りを暗記させるなどという段階ではない。)

12/3から始まる待降節からの「変化」の予告は各教区でいろいろ準備しているし、プリントも配られるそうだし、フランスの司教会議による説明のパンフレットもある。カトリック系雑誌はいっせいに「主の祈り」の特集をしている。

不可知論家庭に生まれながら神を信じたけれどカトリックの洗礼は受けなかった哲学者シモーヌ・ヴェイユの「主の祈り」への没頭は有名だ。

もともと、カトリックの祈祷書の中では朝の祈り、夕の祈り、11度のミサ、とフルコースなら13度も唱えられるのだからうっかりすると、ただぶつぶつと形だけになってしまうこともありそうだが、シモーユ・ヴェイユは、朝に一度、全身全霊で、一語一語の意味をかみしめながら祈るので、その間に一瞬でも気が散ると、最初からやり直す、と言っている。

こういうタイプの人なら、どんな宗教のどんな祈りでも、その没頭そのものの瞑想効果というか、ミスティックな位相が共通しているもので、言葉の意味などは、どんなにかみしめても、ひょっとして、もう別の世界とジョイントしているのかもしれない。

とはいえ、普通の人には意味の分からない神道の祝詞だの仏教のお経だの、それぞれの聖職者によって「上げられる」タイプのものと違って、「主の祈り」って、パーソナルでも集団でも唱えられる祈りで、言葉の意味もまあ分かりやすいので、繰り返しているうちに刷り込まれるサブリミナル効果というのもあるかもしれないから、確かに「訳文」のニュアンスは大切だ。

今回の「変更」について、一番普通に言われるのは、「神が人に誘惑の罠をかけているかのように取られてはならない。悪に誘うのは神ではなくてサタンであり、それに負けないように助けてください、という意味に近い方がいい」というものだ。

実は「soumettre」という動詞がイスラムを連想するから変えたかった、という説は前回紹介した。イスラムは神への絶対服従、ユダヤ=キリスト教では服従は人間の自由意思に基づくもの、キリスト教ではそれがさらに、神の方が人間の中へスライドしてくれる。現在イスラム過激派が掲げる全体主義、教条主義に対抗して、より人間の「自由」な意思による神との「協働」を強調したいというのは分からないでもない。

司祭たちのコメント。

「けれども、復讐する神から、悪の前で無力な神に代わる、というわけではありません。誘惑の存在を合意していても神が敢えて人を誘惑にさらすわけではありません」、

「訳が変わるのは、別にキリスト教が変化したわけではありません。神と人間の関係のどの部分に焦点を当てるかというのは時代によって変わってきました。

過去は『人間の救済に心を砕く神』であり、ここ数十年は『社会の公正に配慮する神』となり、それが今は『ミゼリコルド、いつくしみの神』へと移ってきました。でも、実際は神は最初から慈しみの神でもあったのです。」

やっかいなのは、洗礼を受けて要理も受けているから「主の祈り」は暗唱しているけれど毎週教会に来ることはない多くのフランス人カトリック信者が集まる葬儀、洗礼、結婚式などの特別なミサだ。

そこで唱えられる主の祈りの訳が変わっていることなど皆は知らない。

だから、これからは、そのような冠婚葬祭ミサのために、新訳を必ず手渡すよう、注意を喚起するようにと配慮が求められている。

うーん、外野からみたら、前日までは何十年も「A」という文句だったのにある日突然「B」が正しく「A」は間違いということになる「典礼」自体の「融通のなさ」はナンセンスにも見えかねない。でもまあ「宗教」システムだけでなく、「新常識」がいつの間にかできていたり、「新条例」「新法制」がある日施行されたりするのは広く社会システムにもあることなので、その変化が何を反映して何をねらっているのか、人をより自由に平等に安全に導くものなのか、などをきっちり見極める必要がある。

だから今回の「変更」についていろいろ語られる「主の祈り」の解説も、示唆に富んでいる。

主の祈りの「読み方」について、前回は、7つの願いがシンメトリーになっていて、真ん中の「お父さんにパンを頼む」父としての神が中心で、前半は王(崇拝対象、権威)としての神、後半はモラルの審判者としての神であるというのを紹介した。日本のイエズス会の『神学ダイジェスト』でも読んだことがある。

同じシンメトリーでも違う読み方があるし、もっとアクロバティックな読み方もある。(続く)


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by mariastella | 2017-12-04 00:05 | 宗教
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