(これはこの前からの記事の続きです)
「主の祈り」が特殊なのはやはり、神を「父」とよぶところだろう。
イエスは神のことをabba(パパのような親称)と呼んだ。
人はつらいこと苦しいことに遭うと、辛さゆえにそれを父なる神に責任転嫁する倒錯が起こる。
つらい時に「父なる神」に不平を言ってしまうという誘惑に打ち勝って、子なる神イエスに目を向けなくてはならない、というローマ教皇フランシスコは、「キリスト教のすべての祈りの神秘はこのabbaという言葉に要約できる。この言葉で呼ぶ勇気を持つことでイエスは神は良き父であり、おそれることはない、と啓示したのだ」(2017/6/17)と語る。
ちなみに、1966年より前に一般的だった主の祈りのこの部分は
Ne nous laisse pas succomber à la tentation
だった。
つまり、「私たちがに誘惑に負けないように引き留めてください」というニュアンスだ。
その後の、「私たちを誘惑に引き込まないでください」というニュアンスになってしまいがちなのを避けて、
今回の「私たちが誘惑に入っていくのをとどまらせてください」的なニュアンスになったわけだ。
「負ける」にしろ、「従属させる」にしろ、「力関係」を連想させる言葉がようやく避けられたという印象である。
やはり、そもそも「誘惑」という言葉が曲者だ。
「誘惑」と「試み」と「試練」が混同して使われるからだ。
多分、ひとことでいえば、
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
(ヤコブの手紙 1章 13節)
というのがきっと正しい。
でも、すでにヤコブの頃からこういうことがわざわざ言われているということ自体が、人はいつも、
自分の弱さも
判断の誤りも
困難な状況も
すべてまとめて「誰かのせい」にしたがるという、変わらぬ人間性を物語るのかもしれない。
確かに、「誘惑」と「試練」は別物だけれど、「試練」に出会った時に、それを避けたい誘惑、それを誰かのせいにしたい誘惑、見て見ぬふりをする誘惑などが自分の中に生まれる。
このことについていろいろ考えたがそれはまた別のところで。(続く)