日本風の正月3日は終わったけれど、ヴァティカンのある枢機卿が飼っていた犬の話を最近読んで、犬のことを書きたくなった。
ヴァティカンには猫は勝手に出入りしているけれど、ちゃんと登録されていた犬はその犬だけで、具合が悪くなったときは、ベネディクト16世が、犬の傍についていてやれるようにと枢機卿に休みをくれ、犬が死んだときは、動物のための天国があると思う、と言ってくれたという。(職員たちの飼い犬はリードをつけて散歩させていたが、この犬だけはフリーで散歩が許可されていたのだそうだ。)
枢機卿が朝つける服によって、一緒についていけるのかどうか、帰りはいつなのかなどすべて把握していて、枢機卿の危機を救った感動的なエピソードもある。
今年は戌年で、うちには何しろ猫グッズばかりなので、犬の絵やグッズは少なく、それでも少し飾った。
でも、このヴァティカンの犬と枢機卿の熱愛ストーリーを読んで、自分の犬のことを思い出した。やっぱり、犬への愛って、犬一般ではなくて、特別な関係性、絆なのだと思う。
アイパッドミニで写真をとるようになってうちの猫たちの写真は飛躍的に増えたけれど、半世紀前の私の愛犬の写真など、手元にないし、そもそもペットの写真を撮る、という習慣などない時代だった。
で、当時、私はデッサンすることを思いついた。その頃人気だったスピッツで、デッサンしやすいように、動かないように玄関のたたきに閉じ込めた。
すると外へ出たくてドアの方ばかり向いているので後ろ姿ばかり。
その後であきらめてねそべってしまった。でも相変わらず外の方ばかり見ている。
もちろん協力的ではないけれど、出してくれと騒ぐこともない。
半世紀前以上前のデッサンだけれど、手元で見られる愛犬の思い出はこれだけなので、フランスにもちゃんと持ってきて、スケッチ帳は本棚にちゃんとおいてある。
無条件の愛、とか見返りを期待しない忠実、とかがこの世に存在することを教えてもらった。
でもそれを享受するには基本的に一対一の関係である必要がある。
物心ついたときから犬がいたが、私は家族の末っ子だったので、いつもヒエラルキー最下位で、犬からまったくリスペクトされていなかった。
11歳の時にバレエ教室の友達の家のスピッツが生んだ子犬をもらったのが「私の犬」との出会いだったのだ。
「私の犬」の名前はチロだった。墓標もデザインした。
この戌年に愛犬への感謝を捧げます