おびただしい猫ブログを時々眺めていると、猫を飼っていてどんなに世話が大変でも家族がみんな癒されて、異種や弱いもの、一方的に保護を必要として要求してくるものにひたすら尽くすことの喜びや感謝を日々感じている、という人がたくさんいるのが分かる。
たまに猫を虐待するような人のことも話題になるが、そういうのは猫の虐待というより広く弱者の虐待であり、絶対に許容できないものだから私の脳内「猫」空間からは弾き飛ばされていた。
ところが、石川啄木のこの歌を知ってある種の衝撃を受けた。
「猫を飼はば、 その猫がまた争ひの種となるらむ。 かなしきわが家(いへ)」(悲しき玩具)
彼は、
「ある日のこと 室(へや)の障子をはりかへぬ その日はそれにて心なごみき」 (一握の砂)
とも言っているから、「ささやかな心のなごみ」というのも知っている人だ。
でも、ひょっとしてそれはとても自己中心な心のなごみだったのかもしれない。
猫を飼ってもそれがいさかいの種になる、そんな家庭は深刻な不全感の中にある。
その「かなしさ」の重大さに思いをいたさせてくれる歌だ。
単なる「貧困」の指標などでは、とても測れない。