「仏祖の方便とは、皆、愚か者を教えるためのはかりごと」だという。
イエスの連発するたとえ話にも似ている。
>>『首楞厳経』には1つの喩えが説かれていて、演若達多という者が、朝起きて鏡を見ると、自分の顔が見えなかったことを、誤った持ち方をしているからだとは思わずに、鬼の仕業だと思い込んで、首から上が無くなったと勘違いし、驚き騒いで走り回ったことがあった。人の諫めも聞かなかったが、流石に、周りの人が余りに教え諭すので、鏡をよくよく見たところ、頭が戻ってきたと思った。このように、愁いが無いところで愁い、また、喜びを起こさずとも良いところで喜ぶ。
このことが喩えているのは、無明の心とは、理由無く頭が無くなったと思って、それを求めるようなものである。本覚の明心は、かねてより失われたことが無い。それは頭が無くなったと思い込むのと同じで、失ったように思っているだけだ。始めて見つけて、それを得たと思うのは、始覚門で菩提を得るようなものだ。<<
これを読んで、「信仰の夜」のことをまず連想した。
あのマザーテレサや十字架のヨハネも悩んだという「信仰の夜」だ。
彼らは人生の途中で神を見失い、闇の中で苦しんだと言っているわけだが、それも、「鏡が裏返った状態」だったのだなあ、などと思える。
逆に言えば、回心体験とか神秘体験とかいうのも、自分の視線の方向が変わったのではなくて、突然鏡が裏返ったようなものかもしれない。
何が、鏡を、自分と神を映す方向に回してくれたのか…は永遠の謎だけれど。
などと思っていたら、洗面所で、脇にあった鏡に自分の顔が映っていず、一瞬驚いた。
暗くゆがんだ光だけがある。
ちょっと怖い。
実はその置き鏡は、両面鏡で、片面が普通の鏡、もう片面がかなり大きい倍率の凸レンズなのだ。自分の顔のディティールが見えないので一応セットしてあるものだ。
普段は見えなくても気にならないので使わないけれど、たまに目に異物感があるとまつげが落ちて入っていたりするので置いてある。
で、それが、凸面の方がこちらに向いていて、屈折率が大きいので、まっすぐ正面から見るとちゃんと自分の顔が見えるけれど、離れたところから斜めに視線をやると、いったい何が映っているのか分からない光や歪みだけが見えていたのだ。
なるほど、と思った。
普通の鏡が、鏡面でない方に裏返っていたら、「見えない」だけですむことでも、鏡の特殊な反射を持つ側に裏返っていたら、「異様なもの」「ゆがんだもの」が見える。
神を見失う、とか、無神論になる、とかではなく、
亡霊の影に怯えたり、悪魔の存在を信じたりもしそうだ。
なにごとも、しっかり自分の目で見つめる、だけではだめなので、
どういうものを通して、
どういうアングルから見るのかを、
いつもチェックしなくてはならない。