先日、ガース・ディヴィスの『マグダラのマリア』を見た。
ガース・ディヴィス作品では、前に『ライオン 25年目のただいま』を機内で見た
ように、オーストラリア出身の監督だが、この『マグダラのマリア』はイギリス映画で、フランスの俳優も重要な役で出ている。フランスの役者と言っても、トルコ人のチェッキー・カリョー(なつかしい。1984年の『年の満月の夜』は、封切後に急逝したパスカル・オジェと若かったファブリス・ルキーニとの三角関係が強烈な印象を残したエリック・ロメール映画だ)やアルジェリア系の若手の名優タアール・アイムなど、癖のある人ばかりだ。
この映画については内容的に突っ込みどころが多すぎるのだけれど、少しずつ書いていく。
まず配役だけコメントすると、監督がそのカリスマ性で彼しかいない、とイチオシだったというホアキン・フェニックスがナザレのイエスを演じているのだけれど、カリスマ性がどうとかいうより、外見がものすごく老けていて、43歳だというが、クローズアップも多くて、しわが深く刻まれた顔はとても33歳のイエスに見えない。体もがっしりし過ぎている。
これまでいろいろなイエス・キリスト受難系の映画を観たけれど、一番違和感があった。
彼もヒロインのマグダラのマリアも青い目だけれど、それは気にならない。
今の時代の中高年は見た目年齢が昔の七掛けだというから、2000年前にパレスチナで紫外線を浴びて暮らしていた男なら33歳でも今の43歳の外見かもしれないけれど、でも、とにかくイメージとかみ合わない。
母の聖母マリアもまだ40代の終わりくらいのはずだけれどえらく老けている。
まあ息子の外見と釣り合っているとはいえるけれど。
ペトロを演じるのが黒人俳優。
ミュージカルや映画の『イエス・キリスト=スーパースター』でユダ役を演じて歌ったカール・アンダーソンが黒人だったのが印象的だったことを思い出した。
で、イエスが、この映画で「特別の使徒」として並べて扱ったのがペトロとマグダラのマリアで、黒人と女性、というわけで、なんだか、その後のキリスト教の白人男性世界の実態を思うと、これも「政治的公正」の配慮なのか、などと思ってしまう。
もっとも、ナザレのイエスがユダヤ人であることさえ認めたくないというヨーロッパ系キリスト教徒だっていつの時代もいたわけで、ヒトラーなどはイエスがアーリア人だと言っていた。
タアール・アイムのユダは悪くない。彼は30歳だが、それこそなんだか七掛けで20歳そこそこに見える。このユダのローマ兵への憎しみは、なんだかISに家族を殺されたシリアのキリスト教徒の痛哭のようで、真に迫る。
でも、このユダの若々しさ、みずみずしさ、と並ぶと、ますますイエスの「渋い濃さ」が際立って、違和感が消えない。
最後まで、ほとんど何の感情移入もできない珍しい「受難」映画だ。
「マグダラのマリア」とされてきた女性は聖書の中に出てくる三人の女性を591年にグレゴリウスが「罪の女」に一括りにしたのが、2016年に「復権」して、「使徒の中の使徒」「復活のイエスに最初に立ち会った人」と宣言されたし、フランスでは遺骨まで崇敬されているユニークな存在だ。
マグダラのマリアの聖書外伝とフェミニズム神学をミックスしたのがこの映画の視点だと言われているのだが…(続く)