先日の復活祭のミサで出会ったパリ総代理司教のブノワ・ド・シネティ師は、4/4に
『声をあげなくてはならない』 という「難民受け入れ」についての呼びかけの本を出版した。
難民の一人一人が「命」で「顔」なのに、我々は、「難民」というカテゴリーで冷たく扱っている。なぜ彼らはやってくるのか、なぜ我々は恐れるのか、について語った本だ。
この本についてのメディアからのインタビューを受けて、「またジョニー・アリディの葬儀ミサについて話すのはやめたいですね」と始めた。
ジョニー・アリディの歌の歌詞とパウロの言葉をつなげた印象的な説教は、テレビ中継を通してフランスで最も多くの人に聞いてもらえた説教だっただろう。
その彼は、復活祭のミサでも、ユーモラスで、庶民的で、余裕があってしかも説得力があった。まっとうなことしか言っていないのに、こちらの内面に伝わるような言葉だった。
この人はジョニー・アリディなど芸能人やセレブたち担当どころか、パリでは難民担当で、サン・ジェルマン・デ・プレ教会改修の650万ユーロの資金を集めた時と同じ情熱で難民のために必死になっている。
パリのブルジョワ・カトリックの多くが、生まれる子供(代理出産問題)や死に向かう人(孤独死や安楽死問題)では子供や病人の生命の尊厳を絶対擁護するのに、避難場所を求める難民の命の尊厳については関わりたがらないことについて、ブノワ氏は容赦しない。
趣味はボクシングでその堂々とした体格と、無邪気にさえ見える自然体は、他のパリのエリート聖職者とかなり雰囲気が違う。
《La Vie》No 3789
前に書いたようにパリ新司教のオプティ師が、30代の終わりになって神学校に入る前に、医師として11年間働いたように、エリート聖職者には最高学歴を経て一流会社に就職経験のある人も少なくない。ところがこのシネティ師は、なんと弱冠20歳で神学校に入ったのだ。
1968年の五月革命の年に生まれた若者だというのに。
母方の大叔父がパリの教区司祭で、日曜ごとに彼の家族の食卓を囲み、信仰や神について自然に普通に意見をかわしあうことを知ったという。ブノワ少年は、五歳年下の弟ポールとともに、福音書についての大叔父の話を途中で遮って質問をすることが許されていた。しかも、この大叔父の姪に当たるブノワの母親は、離婚していた。敬虔なカトリックで離婚に至ったのだから挫折感があったかもしれないのに、母は、二人の息子を世話するだけでなく七区のアパルトマンに、悩みを抱えていたり行き場のなかったりする人々をいつも受け入れていたという。ブノワ少年は、フランクラン、スタニスラス、とパリのカトリック名門リセで学んだ。
どんなグランゼコールのエリートコースにでも行けたのに、20歳で神学校に入った理由は? と聞かれた答えがこれ。
「確かに、簡単な選択ではありませんでした。でもどんな選択も簡単ではありませんし、何であれ、選択したものに忠実であることも簡単ではありません。私の幸運は、何が起こっても、いつも、愛されているという気持ちがあることです。神の存在を疑ったことはありません。なぜなら、自分が愛されていると疑ったことがないからです」
そういえば、確かに、この人には「幸せオーラ」が漂っていた。
幸せな人、いつも愛されていると感じている人が、こんな風にがんばるのを見るのは気持ちがいい。