L'art de croire             竹下節子ブログ

奇跡とは困ったもんだ

 『聖骸布の男』(講談社)というムックでも縁があった不思議好きの編集者から、ルネサンスのキリスト教絵画の中に散見されるUFOについてのコメントを求められる。

 私のサイトの宗教質問箱では、福音書に出てくる「おかしな記述」をどう信じるかについての質問が来ていた。まだ、答えてない。

 他のブログで、聖母の処女受胎についてのコメントであれこれ過剰反応があったからみたいだ。

 受肉と復活というのは、キリスト教が成り立つには信じざるを得ない部分で、まあ、これを受け入れると、必然的に、聖母の処女性とかなんとか、細かいことにファンタズムも生まれるし、そこにのめりこむ神学もある。

 今年は聖パウロの年というんで、パウロの手紙を読み返してると、彼のとらえたキリスト教というものの骨格がすごく分かって、それに感動したら、聖母にまつわる議論がいかに本質的じゃないかが実感できる。時には「変だよ」とか、「神の子にしてはいまいち・・」と指摘されるイエスの言動だって、受肉と復活のダイナミズムが、ヘレニズム世界の弁証法に合流して、今につながる近代理念だのそれがはらむテクノロジーの肥大だのを生む「歴史」がスタートしたことのすごさに比べたら、瑣末なことに感じられる。

 神の化身というのは繰り返し、神の受肉というのは1回きりである。

 すごい発想だが、これがあるから、「では、イエスが生まれる前の時代に生きた人類は永遠に救われないんですかい」という素朴な問いに対する答えに窮するわけだ。

 こんな苦しいキリスト教がシンクレチックに風化しないで、常に異端を創ることで自らを確立していったのは驚きだ。その道があまりにもアクロバティックだったので、そこから逃れるのはたまに起こるミスティックな狂熱だけだったのだろう。

 それで、原則として、キリスト教にまつわる枝葉の奇跡譚には、結構辟易しているのだが、グアダルーペの聖母だけは、執拗に存在感を押しつけてくる。

 昨年メキシコ人の音楽学者と話した時、メキシコでもインテリは誰も信じてないよ、教会がいろんなデータをでっち上げてるのはみんな知ってるよ、みたいに一笑された。

 メキシコという土地がまた微妙である。

 これがヨーロッパなら、どんな田舎でも、たとえばメジュゴリェの聖母御出現なんかでも、のめりこむ人もいるが、シビアに切って捨てる人もいて、いろんな解析が可能だ。司教の認定とかヴァチカンのお墨付きとかにはまずならない。

 アフリカとかアジアでも、データが乏しい、伝統が乏しい、すごく蒙昧かそれを批判するインテリかに分かれそう、非宗教的オカルトやカルトや超常現象趣味と区別が曖昧になる、などの理由で、ま、お話として聞いときましょう、面白かったらそれでいいんじゃない、という感じになる。

 ヨーロッパで、しかもカトリックの伝統のあるところ、スペインとかフランスとかイタリアに分散するイエスの聖骸布系の奇跡は、中世に山のようにあった「偽物」が全て淘汰されてきた末に生き残ったのだから、その信憑性を云々するのはかなり慎重かつ深刻になる。「最新のテクノロジーを駆使した科学的検証」というのになりがちで、奇跡のイメージと対照的だ。

 で、メキシコ。

 やってることは、「欧米か」って言えるほど、科学的検証っぽい。

 『大人のためのスピリチュアル超入門』でも書いたけど、グアダルーペの聖母がプリントされたファン・ディエゴのポンチョには不思議が多すぎ。

 染料が特定できない、筆の跡がない。(1936年化学者に繊維を分析させた。)

 1791年に塩酸がたれて右上に10センチの穴が開いたが30日後にふさがった。
 同じ繊維の布にコピーが作成されたが、15年で塵となった。

 1921年、アナーキストがダイナマイトを仕掛け爆発したが、ポンチョもガラスも無傷。

 1929年、カメラマンが聖母の右目に人の姿発見。

 1956年、眼科医が聖母の眼底を見ようとしたら瞳孔が閉じたり開いたりした。

 同年、8ヶ月にわたる研究の結果、Purkinge-Samson光学反応を聖母の目に発見。 

 1979年2月、メキシコのIBMの科学センター所長がデジタル処理をしたら聖母の目に12人の姿が。2500倍ではポンチョを見せるディエゴの姿が見えた。

 同年7月、フロリダ大学の生化学教授などNASAのメンバー二人が、絵具の不在と、ポンチョが、原因不明に、36,6から37度の「体温」を維持していることを「発見」。

 1981年、聖母のマントの上の星模様は、1531年12月12日(ディエゴがポンチョを司教に見せた時)の冬至の10時26分のメキシコの空のものだと発見され、天文学者が認める。

 NASAによると、聖母の姿から10センチまで近づくと、色が見えなくなる。横からレーザー光線を当てると、絵が布から0,3mm浮いているように進む。

 聖母は妊娠していて、その腹に聴診器をあてると、115-120の心拍音が聞える。これは胎児の心拍数に相当。

 極めつけ。

 去年、2007年、4月24日、中絶法が通過した後で、聖母の姿が薄くなり、変わりに強烈な白い光が差し、胎児の形に輝いた。
 多くの人が写真を撮り、それを分析した専門家たちは、それが合成でもなくフラッシュの光でもないことを証言。

 この最後のはまだ司教の認定を待ってる最中。

 何かやり過ぎ。

 政治的なのもモラル的なのもうさんくさい。

 じゃあ、実際に見ればといわれても、今は、動く歩道式に参拝するだけだし、テーブルマジックのトリックだって見抜けない私が行って検証したってどうなるものでもない。本を読んだり写真を見たりするだけ。
 結構まともな文書もある。ディエゴの列聖が最近だったので、いろんな研究書が出たからだ。

 イエスの遺骸を包んだ血塗れの布がヨーロッパのあちこちで大事に取っておかれたってことは、まあ、理解できる。でも、16世紀にメキシコで突然出現した聖母の絵に、これだけの「不思議譚」をこれでもかこれでもかって、付け加える意味は何?

 メキシコのインテリたちは「けっ」といって無視するから、「民衆御用達」のままでいいのか?

 ヨーロッパのキリスト教というのは、それが最初からかかえる弁証法の中に無神論を包含していた。脇に無神論の壁を築くことで神学が発達したといっていいぐらいだ。

 だから、奇跡譚にもそれなりの含羞だとか陰影がある。ニュアンスがある。

 メキシコのなりふりかまわなさはなんだ。

 王様は裸って言う人はないのか。

 聖母のマントの星の模様に見える星はそんなに多くない。
 いつの年のいつの空にだって、任意にこの位置の星を取り出せるだろうと思うのは私だけか。

 不思議話は魅力がある。

 どんどん深入りしていくことの魅力。

 5月に直島の南寺で、ジェームス・タレルの光の作品を見た。
 暗闇の中で瞳孔の開くのを待つ。

 奇跡みたいだったよ。

 
 

 

 
 
[PR]
by mariastella | 2008-08-23 04:02 | 宗教
<< ジュール・ラフォルグ 漢文って・・・ >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧