小鍛冶邦隆のWeb連載「音楽・知のメモリア」の第5回は「テロリスト・ルードヴィッヒ」を読んだ。
バッハ、モーツアルトと続いた後で、ゲルマン人は、ベートーベンに来て本格的にラモーから遠くに来たなあ、と思った。
ラモーは、システムの変革をしなかった。
ラモーにとって、システムは、どうでもよかったのだ。
その意味を新たに考えさせられる。
一定の視点と視野の設定はラモーにもある。ってか、それしかない。
それが確固としてるのにシステムの構築に結びつかないところがすごい。
数学者ラモーのハーモニー論を、バッハも研究し尽くした跡がある。
バッハの記号的、教育的な曲の組み立て方を見てるとよく分かる。
ベートーベンにおいては、不協和音が身体的な暴力装置になっているという指摘がすごい。懲罰的だって。
ラモーにおいて、きらきらした雲母のような、白銀の月の火口のような、「色」になる不協和音が、ベートーベンでは、規律性を起動するための破綻となるのだ。
まあ、ラモーの不協和音を近代楽器でやったら、懲罰的になることもあるかも。
ラモーの不協和音には、バロック楽器という素材が前提だったから。
ベートーベンは、身体性によって、構造の側から聴き手を「順化」させようとしたのだそうだ。これって、すごくゲルマン的ではないか。
ラモーの身体性は、聴き手を招待する。あれほど数学的な脳内人工楽園の創造主が、なんで共感覚的な世界を展開できるんだろう。
ベートーベンに殴られるのが好きな人は多そうだが、
私はラモーに淫するのが好き。