L'art de croire             竹下節子ブログ

超越について

 公営TVをつけてみたら、教皇のパリ到着の特別番組をやっている。
 
 ヨーロッパ人は3人に一人は「信者」と答え、フランス人は2人に1人しか信じてると言わない。無神論者が一番多いのもフランス。
 でも、JP2がなくなった前後は、全チャンネルがヴァチカンに釘付けだったし、今回もいざ教皇が来るというと、明日のアンヴァリッドのミサのためにフランス中から集まる若者が今夜から広場で集まるのだそうだ。今日の午後は多分ライシテに関してのスピーチ、夜はノートルダム、日曜はルルドのミサ、これもTVで放映されると言っていた。
 こういう時は、フランスはカトリックの国なんだなあと思う。ミシェル・オンフレイのような昔タイプの無神論者が健在なのもそのせいだろう。 
 サルコジ夫妻は教皇を空港に迎えた。これも信者というより、ブッシュ夫妻の猿真似だろうな。調子に乗ってライシテ・ポジティヴで「神、神」って言うなよ。

 今執筆中の本のために無神論を研究することは、思想史や精神史をすべて無神論のフィルターにかけなおすことだった。
 私は平均的日本人なんで、神がいるとかいないとかの論議にはあまり揺さぶられないだろうと思っていた。

 意外だったのは、「超越」は存在しないという論議だった。

 神とか「聖なるもの」は、文化や歴史の産物なので、いろいろなヴァリエーションがあると思っていたが、漠然と、「超越存在」はあると信じていたらしい。

 ある意味で、超越はまさに超越なんだから、「どのようにあるか」は意味論的には認識できないんだが、人間が、生まれる前とか、死んだ後とかの観念を持つ以上、この世の時空以外の「超越」観念をかかえているのは自明だと思っていたのだ。
 音楽のような非物質的な美を鑑賞したりできることも、「超越」を受け入れられやすくしていたかもしれない。
 
 でも、無神論にまつわる物質主義というのは、一貫して「超越」の否定だったのだ。
 
 ボードリヤールが継承したので日本でも知られているギイ・ドゥボールの『スペクタクルの社会』のことを考える。

 資本主義のプロパガンダ、中央集権的なマルキシズムのプロパガンダ、嘘、虚構に基づいている点で実は一つのものであるとドゥボールは看破し、いまや、その統合形が北京オリンピックとなった。現代世界は市場経済原理が自律的に牛耳るので政府の力や責任は幻想に近い。
 で、現実と虚構が相互貫入し、一種のニヒリズムが生まれ、それも、アクティヴなニヒリズムというか、破壊、脱構築の世界である。
 今は、相互貫入どころか、ウェブの発達でヴァーチャル世界が現実の外装フィルムみたいになっている。人はそのフィルムの上で生きている。あるいはフィルムと現実の隙間で。

 そして、超越が消滅する。

 つまり、世界は、現実を失った時に、「神」も一緒に失うのだ。

 ということは、実は、「神は現実の側にいる(いた)」らしい!

 神や超越が現実を担保していたのだ。
 少なくとも、現実構築の一要素だった。

 虚構の世界には、政府が要らないように、神も要らない。

 神や聖なるものなんて「嘘だ、迷信だ」と、無神論者が長い間声を上げてきたが、何のことはない、世界中が虚構になれば、神も消えるのだ。

 仏教が、現実の苦悩からの救済理論として、超越を否定した無神論だというのも、こう考えるとロジックである。
 苦悩に満ちた「この世」は幻に過ぎない。
 つらい現実と見えるものは、存在のモード、命のモードの一つに過ぎず、不定のものである。
 現世は夢まぼろし。苦悩はもうないし、神や超越も必要ない。

 大日如来なんかテイズムの神に似てるしな。テイズムやデイズムは無神論のヴァリエーションだった。

 西洋における「汎神論=パンテイズム」という言葉も、無神論を指す造語だったことを思うと、感慨深い。

 じゃあ、ネオリベのアメリカ人がしきりに神、神、って言ってるのは一体なんだ。
 アリバイか?
 神を口にすることでよりよく虚構世界を管理するつもりなんだろうか。

 私はヴァーチャルな人間ではないらしく、また、この世は幻と見る悟りにも程遠く、超越とセットになった現実を実感してるようだ。

 考えてみると、フランス・バロック音楽理論とその実践における人工性というものは、広い意味では現代と同じ「虚構」や「スペクタクル」でも、実は脱構築やニヒリズムとは正反対で、「超越と現実をセットで再構成する」という意思と方向性を持っている。

 だから、楽しい。
 果たして強者の遊びなんだろうか。
 「生の歓び」っていうのは私にとって自然な一つのテーマなんだけど。
 人は、神が死に、現実を失った世界でも、楽しく生きられるのか?

 (余談だが、ドゥボールに触れようとして、「状況主義」という言葉を日本語で検索してみたら、状況によって行動が変わるというパーソナリティ理論とか、日本は状況主義国家で状況に流されるだけ〈日和見に近い意味らしい〉、なんていうのが最初に出てきた。芸術運動としても、68年当時の過激左派としても、「状況主義」は消滅した感がある。)
[PR]
by mariastella | 2008-09-12 19:48 | 宗教
<< 超越について その2  B16 がフランスに来ることで... >>



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧