L'art de croire             竹下節子ブログ

Fondation Cartier

 夏の終り(フランスでは秋分の日までが夏だ)の気持ちのいい日、Fondation Cartier と 先週教皇が講義をしたCollege des Bernardins に行った。両方ともカルチエ・ラタンから遠くなく、カルチエの美術館には中世の修道院をイメージした中庭(Theatrum Botanicum)がついているのもおもしろい。

 Cesarの展覧会だ。

 この美術館は環境展示の一種で、現代のアーチストが内部とぐるりの庭を自由にデザインできるようになっている。 Installation アートにも向いている。

 セザールは10年前に死んでいるので、この美術館の設計者でもある建築家 Jean Nouvel が、作品を選んで展示した。つまり、容れものの作者がセザールの作品で中をデザインした形になっているので、アーティストが場所を見てから考えるというのと逆になる。インスタレーションをするのは、建築家なのだ。

 たとえば、スイスで1996年にセザールが、地元の新聞720トンを6m四方くらいの型にはめて押し込んで五つ並べたインスタレーションを、今回のジャン・ヌーヴェルは、パリの新聞を押し固めたのを三つ並べて庭に置いた。

 それでも、それは、「セザールの作品」である。

 コンセプチュアル・アートとはこんなものかなあ。「仕様書」だけが作品なのか。

 セザールのコンセプトというかアイディアには三つの大きなシリーズがある。

 親指や手や乳房など体の器官を拡大したもの。
 どろっとしたジェル状の液体が垂れて広がるところを固めたもの。(Expansion)
 それから最も有名な compressions シリーズで、自動車なんかを潰したものだ。

 どれも、着色や大きさの変化と素材(親指をクリスタルやブロンズや大理石などでつくる)の変化で無限のヴァリエーションができる。

 親指は、手の彫刻の展覧会に自分の指のかたどりを出そうとしたらそれは彫刻とは認められないと言われて、pantographie を使って拡大したのがきっかけだという。
 コンピューターによる拡大とかできない時代だから、すごいテクニックを要したと思う。

 便器をおいて「泉」と題するのは、コンセプチュアル・アートといっても、コンセプトしかない。詩みたいなものである。

 しかし、「親指を拡大したものをいろんな素材で作る」というアイディアは、完璧なテクニックがあってこそ成立する。「下手」では、アイディアの強靭さが失われる。

 で、吉井秀文のボンド・アートと同じで、そのコンセプトそのものにアーチストの署名があるわけで、後は、他人がもっとうまく作成しても、その人は、エピゴーネンであるか、ただの技術者である。コンセプトに署名したものの作品なのだ。

 親指や乳房のコピーだと、セザールの作品であり(親指は彼自身の親指で指紋もはっきりしてるしなあ)、そこから抜け出るには、ロン・ミュエックみたいに全身を拡大しなくてはならない。全身拡大のリアリズムは、ハイパー・リアリズムでもあり、表情や姿勢つきの全身となると、コンセプトだけでなくデザインや演出もあるから、それはオリジナル性を獲得する。でも、他の人が違う全身像を拡大制作しても、それはロン・ミュエックのエピゴーネンになるだろう。

 そして、セザール作のたくさんの親指をどこにどうやって配するかは、ジャン・ヌーヴェルの「作品」である。この出会いは一期一会であって、今パリにいる人には一見の価値がある。

 自動車のスクラップを見ていたら、それが Desacralisation だというのがよく分かる。
 つまり、聖なるものの否定であり冒聖なのだ。
 自動車は普通スクラップになったところを見せない。
 それを見せるから、冒聖になる。
 美女の死体を野ざらしにして腐敗していくのを観察するような倒錯がある。
 美女なら、最初は美女だったという認識があり、腐敗によって美のはかなさが見えてくる。

 しかし、自動車が権力や金や文明や進歩などというさまざまな含意をまとう「偶像」であることは、それがスクラップになった時に、その全容を表すのである。
 冒聖によって、「聖なるもの」の喪失を知る。機能や外観の魅力やいろいろなシンボルごと見る影もなく押しつぶす「冒涜」が、我々が自動車や機械に聖性を付与していたことを痛みとともに悟らせるのである。汚された時にはじめて感知される聖性だ。

 逆に、親指だの、乳房だのという、ヒューマニズム的には「聖なる」ものであり、「自然」としても「聖性」を持っていそうな「体の一部」は、全体から剥離され、拡大されることで、ある意味で同じように冒涜される。官能的である。聖なるものを否定してるはずなのに原始宗教的ですらある。

 それに比べると、どろっとした流れや垂れを固めた作品は、時の封じ込めとか、マチエールの侵犯とか、存在のとらえ方で遊んでいるので、冒聖的な感じはない。

 昨日だったか、ロンドンのサザビーズで、Damien Hirst の作品が1億ユーロを超す売り上げを見せたという。この人は、動物の死体を丸ごと薬液につけてナチュラルヒストリーとかいって作品にしている。さすがに本物ではないが、妊婦や胎児を再現したりしてるのも、「冒聖」の系譜なんだろう。

 これにも技術力が要される。

 私の近頃考えているのは、芸術における「うまいか下手か」の問題であるが、コンセプチュアル・アートを腕力的で圧倒的な技術力で完璧に呈示する、っていうのは、それなりに敬服というか、センス・オブ・ワンダーを刺激される。
 技術力というのは神への挑戦なんだか、神殺しなんだか知らないが、見るほうも腹に力が入って疲れるぞ。きっと「自分の内なる聖なるもの」を守ろうという警戒心が生まれるのかもしれない。
 やっぱり「超越」感覚をいじられるかどうかが、アートを前にしているかどうかの基準なのかもしれないな。

 
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by mariastella | 2008-09-18 06:31 | アート
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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