L'art de croire             竹下節子ブログ

聖フランチェスコと奇跡と裸

たった今、St.Jose Manyanet y vives に関係する問い合わせに答えたところだ。問い合わせと直接関係ないので書かなかったが、この聖人の聖痕のことを思い出してしまった。このスペイン人(1833-1901)は、確か、16年間も、脇腹に聖痕を受けてどんどん弱って死んだような記憶がある(違ってたら失礼)。記憶に残っているのは、聖痕というのは、傷なので「痛い」ということはあるが、一応超常現象の一種だから、それが死因になるというのは変じゃないかと思ったからだ。20世紀の聖痕のチャンピオンであるパードレ・ピオなんか、開いた傷口から出血し続けたのに貧血にもならず、長生きしたし、亡くなった後に全ての傷が消滅したと言う。

しかし、カトリック世界の奇跡の「聖痕」者の嚆矢となったアッシジのフランチェスコだって、聖痕を受けてからどんどん体が弱ったという話だし、生存中は包帯などで隠していたが、仲間の修道士ルフィーノが、脇の傷から血が出ているのを見てわざと指を突っ込んだのでフランチェスコが痛みに飛び上がった。

じゃあ、聖ホセ・Manyanetの方が、由緒正しいフランチェスコ型聖痕なのか。

フランチェスコの聖痕は死んだ後も消えず、彼を慕う人たちの接吻の嵐、みたいになった。足の傷にはご丁寧に釘状のものが見えていたともいう。
これは骨のキストじゃないかと思うし、脇の傷も、触れられて痛く、出血で衰弱するなら、なんかの病名がつきそうだけどなあ。指を突っ込まれたのはもちろん、イエスの復活を疑った聖トマスに、疑うなら脇の傷に指を入れてもいいよ、みたいな展開になったことからの連想だ。

フランチェスコは、その兄弟たちからイエスの再来のように思われていた。それで、彼の言行録ができた時に、そういうエピソードが入ったのだろうか。それを読んだ人々が、そこからインスピレーションを受けて、実際の聖痕の系譜が生まれたのだろうか。

フランチェスコが聖痕を隠していたというのは謙遜の心からだというのだが、「聖痕者」第一号なのだから、それを見せるべきか、隠すべきか、手当てするべきか、逡巡はなかったんだろうか。

あ、別に、フランチェスコを茶化しているわけではない。理解できないだけ。
復活のイエスの脇腹の傷口が開いていた、ってことですら、私には理解できない。
トリノの聖骸布やオヴィエドの聖外布に滲みた夥しい血を見ていると、これだけの血が失われて、しかも満身創痍の人が、傷口あけたまま復活したというのが、すごく怖いシーンだと思わずにいられないからだ。

フランチェスコは、福音書の言葉に従って世を捨てようとして、着ている服も全部脱いでしまった、というシーンも有名だ。「小さな花」のエピソードには裸のエピソードがこの他にもある。

フランチェスコがある宿で、美しい女性から言い寄られた。彼は、「その提案、OK」と答え、彼女は、「じゃあ、床を用意しましょう」と言う。するとフランチェスコは「来なさい、最も美しい床を見せてあげましょう」と言って、大きな暖炉に行き、そこで裸になって熱した火床に横になるのだ。まるで花の上に横たわるように。もちろん火傷なんかしない。女性は恐れおののき、改心して回心する。

フランチェスコの脇腹の聖痕に指を入れた修道士ルフィーノも裸つながりだ。

ルフィーノは、敬虔だが、話すのが苦手で、ある日、フランチェスコからアッシジに行って説教しろと命じられるのに、私にはとてもできません、と辞退する。
するとフランチェスコは、ルフィーノがすぐに従わないのに気を悪くして、それなら裸になって(下穿きはつけててもいい)アッシジに行き、教会の中で裸で説教しろ、と命じるのだ。

これって、たちの悪い罰ゲーム?的な、パワーハラスメントじゃないかと思ってしまうが、実際、ルフィノが裸で出発した後、フランチェスコも反省して、自分も裸になって後を追い、聖堂で裸で説教し始めているルフィーノに合流して、裸で、清貧についてのすばらしい説教をしたという。

まあ、裸というのは清貧のたとえというかシンボルなんだろうが、服とか装飾品がなくなったら、付き合いはもっと、濃密になる気もするし、こういう経緯だから、フランチェスコが聖痕を隠すのを、ルフィーノは「みずくさい」と思って、指を入れたのかもしれない。

フランチェスコの奇跡譚をどう読むかはいろいろな立場があるだろう。
でも、精神性と肉体性が微妙にからみあって、後にカトリック特有の「聖痕」者の伝統が本当に出現したんだから、そのフィジカルなインパクトは大きい。
 
私の好みの空中浮揚もフランチェスコはどんどん高く上ったみたいで、足を掻き抱いて接吻した修道士もいる。これもその後の神秘家たちの超常現象に影響を与えたろう。

『小さな花』Fioretti があまりにも有名なんで、元が一体どうなっているのか知りたいと思った人もいた。
聖フランチェスコこそキリスト教改革派の先駆者だと考えたフランスのプロテスタントのポール・サバチエ牧師が20世紀初めに、Fioretti の種本であるラテン語の「フランチェスコとその仲間たちの行電」の写本を発見した。Fioretti は、このテキストのダイジェストのイタリア語訳だったらしい。

フランチェスコは1226年に死んだが、その後まもなく、フランチェスコ会は、財産も持ち始めた体制派と清貧の急進派とに分裂した。時の教皇が何度か調停に入り、結局、1317年に、ヨハネ22世が、急進派が上長の命令に従わないのは傲慢の罪であるとして切り捨てる。
彼らは追われて、山に籠り、ますます禁欲的に、ますます急進的になり、イエスと使徒になぞらえて、『行伝=言行録』を書き記したのである。

で、この人たちは、禁欲的だから絶滅した。でも、やがて、本体の会の方にも改革派が生まれて、今はそっちの方がマジョリティだから、言行録も、Fioretti として陽の目を見たわけである。

そこには、宗教的理想が社会的な力関係によって変質してくのかという問題もあるし、いや、そもそも、人は若き日の理想をどのように保持して伝えられるのか、それを飼いならすのか、偶像化して牙を抜くのか、という問題もあるだろう。
言行録のラテン語からのフランス語新訳がもうすぐ出るというニュースをカトリック雑誌で読んだところなので、感慨を覚えた。

どんな「啓示」宗教でも、たいていは、神も啓示も、人間にいいように作り変えられたり偶像に取り替えられたりする。時々、それらを吹き飛ばして、偶像をなぎたおして、最初の啓示の意味を問おうとする改革者が現れる。その改革者の放つ強烈なオーラは人々を回心に招くが、また、それが偶像化して・・・そんな繰り返しである。

しかし、人間の歴史と欲望の文脈はどんどん変わるので、今や、偶像化ばかりではなく「改革者」のオーラの読み取り方にも気をつけなくてはならない。それには、精神の「自由」とは何か、をいつも問う必要がある、と、つくづく思う。
 


 
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by mariastella | 2008-09-26 01:43 | 宗教
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