L'art de croire             竹下節子ブログ

教条的ディスクール

 朝起きたら、自分のサイトの掲示板に投稿があったというメールが来ていた。

 「哲学・宗教質問箱」だ。

 「ラザロ」さんの「愚かな金持ち」という投稿だ。

 キリスト教関係の掲示板化してるので、そういう言葉に反応して送られてくるスパムの一種だろう。質問箱の趣旨に合わないということで、このサイトを管理してくださっているスタッフが消去してくれるだろう、それとも自分で消しとこうと思ったが、一応読んでみた。その後消されるかもしれないので、ここにコピーしとく。



  イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいのである。あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、やさしい」。  新約聖書の言葉

富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。


 以上だ。

 別に異論はない。

 「イエスの口から出た言葉」だって、文脈を無視して切り取られてぽんと出されたら、かなりへんなものだってあることを思うと、この言葉は、まあ納得できる。

「富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。」

 という部分は、まあ、富んでいる人や、満腹してる人、笑っている人から見ると「大きなお世話だ」と思われるだろう。


 でも、この警告だのアドヴァイスは、パウロの『テモテへの手紙1』の6章からの抜き書きみたいなものでなっている。パウロと福音宣教の志を同じくするテモテへの言葉だからこれでいいので、「神の人」という自覚のない人に突然突きつけられても、違和感あり過ぎかもしれない。

 まあ、近頃はサブプライム金融危機とかネオリベ市場主義の崩壊、のようなご時世なので、これを読んで、「なるほど、投機による『欲張り』は行き過ぎると罰が当たるなあ」とか、「おいら、下流でよかったよ」みたいになごむ人もいるかもしれないが。

 あまりにも富み過ぎでいるのがよくないのは分かる。「笑う」のは、上機嫌という意味では絶対にいいと思うけど。「満腹」っていけないのか?

 ここで、最強のあの方の言葉を拝聴。
 ネットで拾っただけだが・・
 
 日野原重明著 「生きるのが楽しくなる15の習慣」 講談社プラスアルファ文庫

 から、


 1  愛することを心の習慣にする
 2  「良くなろう」と思う心を持つ
 3  新しいことにチャレンジする
 4  集中力を鍛える
 5  目標となる人に学ぶ
 6  人の気持ちを感じる
 7  出会いを大切にする
 8  腹八分目より少なく食べる
 9  食事に神経質になりすぎない
 10 なるべく歩く
 11 大勢でスポーツを楽しむ
 12 楽しみを見出す
 13 ストレスを調節する
 14 責任を自分の中に求める
 15 やみくもに習慣にとらわれない


 この8番目、「腹八分目より少なく食べる」ってのがある。

 そうか、満腹はよくない。

 日野原さんみたいに元気で楽しそうでしかも人のためになる生き方をしてる方の言葉を聞くのは、「あやかりたい」という気持ちになる。33歳で十字架につけられたイエスや、やはり投獄されたり処刑されたパウロの言葉もありがたいが、同じ日本人のDNAを持っていて97歳で現役って人は魅力的だ。

 もっとも、50代や60代ですでに体にガタが来ている人や、若くして病気や障害とともに生きている人もいるので、そういう人には日野原さんの元気はまぶしくてうっとおしいかもしれない。

 それでは、と、中島義道さんのことを思い出す。

 これもネットで拾ってみよう。

 『私の嫌いな10の人びと』新潮社

 1 笑顔の絶えない人
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
 3 みんなの喜ぶ顔を見たい人
 4 いつも前向きに生きている人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
 8 物事をはっきり言わない人
 9 「おれ、バカだから」と言う人
10 「わが人生に悔いはない」と思っている人

 この人って、偽善や欺瞞を憎むっていう点では、まさにイエスかパウロって感じである。隠れキリシタンみたいな人だ。

 日野原さんは、さすがに年の功というか、最後の

 15 やみくもに習慣にとらわれない

 っていうところで、ちゃんとガス抜きを用意してくれている。

 さて、漠然と、日常の中で「生きにくい」と思っている人たちは、どちらを読むといいんだろうか。

 どちらにも罠がある。

 どちらの本を読んでも、多くの読者は、「自分と引き比べて」考えてしまうからだ。

 「あ、私って、これかも」

 「一体どうしたらこういう風になれるんだろう」

 「おいらにはとても無理無理」

 「この人たち所詮、(おいらに比べると)勝ち組じゃん」

 「ええい、だからどうしろっていうんだよ、これじゃダブル・バインドだよ」

 エトセトラ・・・

 多分、問題なのは、「自分」を基準にして読むことだ。「自分」を主役にして生きることだ。「自分」のパフォーマンスを追求したり、「自分」の好悪に忠実だったり、「自分らしさ」や「自己実現」や「自分の幸せ」をさがすことだ。

 私たちそれぞれの「自分」が、私たちを窒息させる。私たちを閉じ込める。

 パウロが、神にのみ望みを置くように、というのは、別に「自分と神」が特別親密になろうといってるわけではない。むしろ自分を消していく、ぎりぎりの孤独があって、そこでは自分というものは、点でしかない。点とは、数学上の定義どおり、位置だけあって、面積がないものである。神と出会うというのは、自分が点になるということで、多くの宗教の「悟り」の言葉は、そういう境地を表している。「絶対無」とか「空」とかいうのも、虚無ではなくて、点に近い。その「点」を失えば、「悟り」は「虚」になる。

 そして、自分が「点」になれば、その神との出会いの「無」において、「他者」との出会いやつながりが広がるのだろう。

 「神と富とに仕えることはできない」というのが本当だとしたら、

 「神と他者」には仕えることができる。

 その「他者」とは、私たちが譲歩したり、優先権を差し出すことのできる他者である。つまり、「相対的に弱くて小さい者」だ。

 自分より弱い他者とつながり支えることができないような「智恵」は、教条主義から免れるのは難しい。

 信号の色がなんであろうと、

 大型トラックは乗用車に気を配り、
 乗用車は自転車に気をつけ、
 自転車は歩行者に譲り、
 歩行者は杖を突いて歩く人に譲り、
 支配者は被支配者に譲る。

 たとえ楽しく生きられなくても、生きるのにはマナーが必要だ。
 


 
 
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by mariastella | 2008-10-07 19:07 | 雑感
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