今、グランパレなどで大々的なピカソ展をやりはじめたので、ラジオでいろんな話をしていた。ピカソの子孫もいる。
芸術上の天才には生前不遇な人も多いのに、ピカソは「天才」だと認知されながら長生きした。
天才だと自称あるいは自覚している人の99%は天才じゃない、しかし、すべての天才は自分の天才を自覚しているんだそうだ。天才の自覚は天才の必要条件(充分条件ではない)らしい。
しかし、ピカソは、一生、失敗作を恐れていたそうだ。
天才とは、「人と違う=オリジナリティ」を別に目指すわけではない。しかし、先行する天才の偉大さに追いつこうとする野心がある。
コンセプチュアル・アートの人は同じコンセプトで連作する。
「人と違う」コンセプトを発見したらせいぜい使いまわすとも言える。
でもピカソは、失敗をたえず恐れていた。
実際多作の中には凡作もある。
それがまた次のチャレンジにつながった。天才とはそういう道のりらしい。
「人と違う人」というのは天才でなくても存在するし、当然それを自覚している。その孤独は引き受けるしかないものである。
キュービズムなんかは遠近法の革命で、コンセプトというよりパラダイムの変換だった。
バルセロナのピカソ美術館にはベラスケスの模写連作の部屋があり、あれを見ていると、天才のクリエーションへの「迫り方」とは何かが見えてきて実に迫力があるのだが、今回の展覧会は、ゴヤやグレコやマネやアングルやセザンヌやらへの迫り方も系統的に見せているらしい。
1947年にルーブルでピカソ自身が、ドラクロワの作品とそれをモチーフにした自分の絵を展示するという試みをした。その時、「ドラクロワがあなたの絵を見たらなんというと思いますか」、と聞かれたピカソは、「気に入ってくれると思う、ドラクロワだってルーベンスにインスパイアされたんだから」と答えたそうだ。
彼が過去の大画家の作品をモチーフにヴァリエーションを連作するのは、たとえていえば、偉大な演奏家が過去の偉大な作曲家の作品を、楽器を変えたりテンポやニュアンスを変えたり、解釈を変えたりしながらいろいろな演奏を試みるのにも似ている。
ヴラマンクによるゴッホやセザンヌの模倣は全然違った。
彼は「演奏」していない。
彼は、自分で「作曲」しようとしたのだ。
彼は「他の人と違う」自分があり、それを自覚していたので、ゴッホやセザンヌをモデルにして、その「違い」を表現しようとして、ある程度は成功した。
でも、ヴラマンクは天才じゃなかった。
ゴッホやセザンヌと比べてしまうと、その格差に愕然とする。
ピカソは天才だったので、「演奏家」としても優れていて、それを血肉にして自分の作品も創ったのだ。