L'art de croire             竹下節子ブログ

2013年 06月 18日 ( 1 )

奇跡の広場と貧困の意味

フランス語の単語の中で私にとって意味も音も嫌いなもののひとつに「gueux」がある。

うまく訳せないが、「物乞い」の中でもより汚らしい感じのニュアンスだ。

17世紀のパリにはこのgueuxたちが集まるゲットーと化した区域がいくつかあり、今の2区あたりにあったそれは「奇跡の広場」cour des miraclesとして有名だった。

46メートルの長さの一帯に500家族、5000人もが折り重なって住んでいたといわれる。

なぜ「奇跡」と呼ばれたかというと、昼間はさまざまな障害者をよそおって物乞いの稼ぎに言っている人たちが、そこに帰って来て日没になると、みんなしゃんとして障害が消え病気も治るからだという。

目の見えないふりや松葉杖を使うのはもちろん、石鹸の泡をつけて癲癇のふりをしたり、牛の血と小麦粉をこねて潰瘍をつくったり、蛙の皮で皮膚病に見せたり、赤い木の実をつぶして吐血してみせたり、処刑者の手足を調達したり、不幸の演出もなかなか手が込んでいたようだ。

当時は、ブルジョワや貴族の子弟のために、社会勉強かただの見世物かは分からないが、ガイドがついてそのようなゲットーをめぐるというツアーみたいなものまで存在していたらしい。

17世紀というと都市化が始まり、地方で食べていけなくなった人々が大挙して大都市にやってきたのだが、結局仕事もなくてゲットー化した時代だ。

今のアフリカなどからの移民がヨーロッパに活路を求めてやってくるのに大都市の片隅で難民化するのと構造的には似ている。

それでも17世紀より少し前の時代までは、物乞いは物乞いとして充分に生活が成り立っていた。

なぜなら、ルネサンスの頃までは、人々は天国に行くために積極的に施しをしたからだ。

病気や障害によるハンディや貧困に苦しむ人は、「前世の因果」などのせいではなく、この世での罪でもなくて、イエス・キリストが苦しんだように「犠牲者」であるのだから、貧者に施すことはイエス・キリストに仕えることに通じるからである。

物乞いたちも、障害や病気の症状の他に、巡礼の途中という旅装(サンチアゴに行くために貝殻を付けるなど)をしたり聖人の遺物を身につけたりという小道具にも工夫していた。

けれども社会構造的に貧困が拡大してからは、それと共に犯罪も増え、都市の安全が脅かされるようになった。社会に寄生する「貧者」のイメージは著しく傷ついた。

そこで「善き貧者」と「悪しき貧者」という区別が生まれるようになった。

16世紀にすでに、偽の障害者や病者の摘発と追放がしばしば行われるようになっている。
偽者は、市内から退去しない時は鞭うたれたり、精神病者や犯罪人や娼婦たちと同じ場所に収監されたりした。その場所がパリの「公立病院」の祖型ともなったのだ。

軍隊に押し込まれたり、カナダ開拓に強制移民させられるケースもあった。

「奇跡の広場」のゲットーには、元締めのような存在がいて、毎日の稼ぎの割り前を受けとっていたという記録もある。こういう仕組みも、今でもいろいろな形でまだ残っている。教会やチャペルの出入り口や巡礼地に物乞いがいるのも現在もよく見られる光景だ。

そして今のカトリックの神父の中にも、そういう輩のハンディのほとんどは演技なのだから、安易に施しをしてはならないと言う人がいる。

「貧しい人に寄り添う」というのは現在のローマ教皇の掲げるキリスト者の道であるのだが、彼の模範とするアッシジの聖フランシスコの志を受け継ぐフランシスコ会の中でさえ、「本当の貧困」と「偽の貧困」や「よい貧困」と「悪い貧困」の区別はいつも思索のテーマにあがってきた。

選択した貧困、受容された貧困は徳の一つだが、選択しない貧困の苦しみは人々を押しつぶす。
真の貧者、つまり(社会や病気などの)犠牲者としての貧者には寄り添わなくてはいけない。

そしてキリスト者が貧しく暮らすことが「徳」になるのは、真の貧者とパンを分け合うところにある。

単に清貧のための清貧へとエスカレートするのは悪い貧しさである。

13世紀の聖ボナヴェントゥーラがすでにそういってフランシスコ会士たちを戒めているのだから、「清貧原理主義」への誘惑もまた昔からあったということだろう。

宗教者の目指す物質的な貧しさは、犠牲者としての貧者を救済するという目的のための手段しかない。信仰における「真の貧しさ」の追求とは神からの賜物に対する心の中にあるという。

つまり、神からもらえる時は謙虚に受け取り、取り去られる時も執着しない。

自分自身を見据えることなく、自分が他者に与えたものも見てはいけない。そういう貧しさによってのみ、人は神への完全な信頼の境地を得ることができるそうで、神を完全に信頼できた時には「真の喜び」が得られる仕組みになっている。

理屈としてはよく分かるし、そういう喜びを得られる人はうらやましい。

赤貧に対する好奇心、
自由意思による苦行に感嘆する心、
さまざまな運命の犠牲者の苦しみを見た時の罪悪感、
不公平に対する怒りや恐れ、
同時に生じる嫌悪感や使命感にいたるまで、

貧困にまつわる各パーツの感情には、それぞれ覚えがあったり理解できたりしてしまう。

それだけにかえってすなおな行動がとれないで、gueuxという字面に眉をしかめながら飼い猫を愛でているばかりな生活態度はいかがなものか、と自分でも思う。
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by mariastella | 2013-06-18 05:22 | 雑感



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