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L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 02月 09日 ( 1 )

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その5)

映画『沈黙』、フランス公開初日の最初の回に観に行った。

もうさんざん映画評やら、感想やら、スコセッシの言葉などを読んだり予告編をネットで観たりしていたので、なんだかもう見る前に食傷気味かなあと思っていたのだけれど、「百聞は一見に如かず」、アカデミー賞の撮影賞のノミネートというのはすごく妥当だと思うくらいカメラワーク、アングル、素敵だ。音とそして無音の部分も魅力的。

拷問だとか処刑シーンは見たくないのでいやだなあと思っていたけれど、意外に我慢できた。
リアルの知人笈田ヨシさん(村長のジイサマ)が磔られているのはショックだったけれど。
彼にも書いたのだけれど、普通なら彼のリアルさが作品への没頭を邪魔するかもしれないと思ったけれど逆で、彼がリアルの彼のままなので、作品世界全部が彼にくっついてきてリアルに見えた。

このジイサマとモキチの信仰がすごく説得力がある。
塚本晋也の相貌と表情には誰でもキャッチできる誠実さのシグナルがある。
この2人の組み合わせ、そして、若いイエズス会士二人の描き分け、演じ分けが秀逸なので、物語としてのメリハリがある。

フェレイラの描き方はとても日本的だと思った。
私は『無神論』の「一七世紀の無神論」という項で、フェレイラにも触れている。イエズス会のガラス神父の著作にも触れて、当時のカトリック神学者の状況について書いた。当時のヨーロッパでは「一般信者は何も理解しないでただ信じているだけ、それでOK」というスタンスだったのだが、一六世紀後半からの日本人の信者はほとんど「知的に理解」して賛同する人々だった。高山右近もその一人だ。
一方で、当時の仏教僧は信徒に何かを理解させ説得するという必要はまったくない主流秩序の構成要素だった。だから宣教師とまともにディベートをすればひとたまりもなかった。
不立文字の禅宗が盛んな頃だったが、日本人がすべて「以心伝心」でやっていたなどと思うのは幻想で、多くの人は、「真理の言語化」というものに出会って驚倒し魅惑された。

『沈黙』の時代の迫害は、もう完全に政治的なものだから、理性の次元も宗教の次元も超えている。

もう一つの次元に「愛」というものがあるのだが、これは驚くべきもので、これを「信仰」と呼ぶのなら、それは「愛の対象に出会った人」にしかわからない。

そういうこともこれから少しずつ書いていくつもりだし、今書いている本の流れとも関係している。

だから『沈黙』もそういう全体の文脈でしか私には見られないのだけれど、せっかくだから、スコセッシの話の続きもふくめて、まだ続けていくことにしよう。

今日のところは、私には意外だったある「フランス人の感想」を紹介。

1. キリシタンの一人が突然首を切り落とされるシーン。その男が1人だけ残されるのに、恐怖の様子が見られなかったのは不自然だと思った。(えっ、そんなこと言われても、もう一度見てみないと私には分からない。ほんとにそうだとしたら何か意味があるのだろうか?)

2. 通辞役が日本人には見えない。不自然すぎる。
(不自然、不自然って自然主義的なことばかり言ってどうする? でも私が通辞役の浅野忠信って北欧系アメリカ人のクォーターなんだよ、って言ったら、なるほど、と言われた。そんな微妙なことってあるのかなあ。井上筑後守役のイッセー尾形とのコントラストが絶妙だと思うけど。)

3. で、肝心の、踏み絵を踏んで棄教するということと信仰の問題はどう思う? と質問。そしたら、

「拷問や強迫によって強要された自白は無効だから」って。

うーん、ある意味すごく明快。

こういういろいろな迫害の歴史を経て、少しは暴力制御装置が働くようになった時代に生きててよかった。

(続く)
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by mariastella | 2017-02-09 03:22 | 映画



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