L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 02月 12日 ( 1 )

『沈黙』をめぐって  その8

中断していたスコセッシのインタビューから。(カトリック雑誌より)

---『クンドゥン』との関係。仏教への傾倒について。

仏教の静謐さ、瞑想が好き。宇宙と対立するのではなくその中に居場所を見つけること。台湾でも日本でも自然と一体化するするやり方を見た。それも神性の一種の受容かもしれない。けれどもキリスト教の要求の高さ、他者をのことを考えるように仕向けるところが私の気に入っている。私は映画人としてはエゴイストだが、子供の時からキリスト教的考え方に影響を受けている。

(これはなかなか突っ込みどころが多い。仏教にもキリスト教にも静謐や沈黙の修行や伝統もあればやかましいものもある。他者に施しをせよという戒は仏教にもある。自然と一体化とか宇宙の中に居場所を、というのは確かにキリスト教にはない見方とだと思われそうだが、キリスト教は自然や宇宙も人間と同じ「創造物」としているのだから、人はすでに自然と同じ側にあるのだ。神は宇宙や自然の外に、超越した存在だ。ギリシャやオリエントの多神教世界では自然や宇宙の側に「人間を超えた」もの(神?)を見ているのだから、一体化は時として「諦念」だったりもする。でも、そもそも、エジプトもギリシャもパレスティナも日本も、大きく見れば「ローラシア神話文化圏 ⁽『キリスト教の謎ー奇蹟を数字から読み解く(中央公論新社)』第六章p83参照)」なのだから、太陽を崇める神のヒエラルキーや、「国づくり」神話のような「神による人間世界の創造」というテーマも実は共通している。初期にデウスを大日と訳した誤解などは別としても、根本のところで親和性があったという気がする)

---ロドリゴとキチジロー、司祭とユダのどちらに近いですか?

初めはロドリゴに近いと思っていたが、結局はキチジローだ。善いことをしようと思うのにいつもぼろぼろになる。力がなく、自分にも他人にも誤ったことをする。でもある意味でキチジローはロドリゴの師(メンター)だとも言える。そして最後まで彼のそばに残った。


( キチジローはユダというよりパウロだなあと思う。パウロは「ローマの信徒への手紙」の7 章でこういうことを言っている。

わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。
善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

これってキチジローそのものだ。そして多分、誰でもそうだろう。自分の中で天使と悪魔が戦っている、という感じよりも、デフォルトが悪で、善は「望むもの」としてしか存在しない。

だからこそ、望まない悪を犯したことを後悔し、告解すれば免償してもらえるカトリックのシステムはキチジローにとって「希望」そのものだった。性懲りもなくあんなに何度も赦してもらいにくるなよ、と思ってしまうが、悪業のカルマを積むばかりで来生は畜生道に落ちるしかない、と絶望したり良心の呵責に苦しめられたりするのはつらい。司祭に告解して、重荷を下ろしてもらえて、さあ、行きなさい、と懲りずに信頼してもらえるカトリックの方がセラピーとしてすっきりする。キチジローがロドリゴのメンターだというのもこれに通じるだろう。ロドリゴが踏んだ踏み絵のイエスは、自分自身の自尊感情だったのだ。)
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by mariastella | 2017-02-12 06:38 | 宗教



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