L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 03月 02日 ( 1 )

ロシア革命から一世紀経った

寄り道です。

2月最後の日の夜、Arteでロシア革命にまつわる記念番組を見た。

レーニンのドキュメンタリー。
1917/3/17の情報環境が今のようにFacebook Twitter 衛星放送が完備していると仮定してのロシア皇帝退位の特別番組というおもしろい趣向のもの。アメリカやフランスでの反応が次々と繰り出される。
プーチンに至るまでのロシアにおける独裁者の系譜みたいなもの。

三つめは深夜だったので居眠りしてしまった。ネットで視聴可能だと思うが、なんだかおなかいっぱい。

ロシア革命の2月から10月の間に何がどう変化したのかについては、『フリーメイスン』(講談社選書メチエ)の中の、ロシア革命とフリーメイスン(p127~130)で、フリーメイスンとのかかわりの中で書いた。今回のドキュメントでは全く触れられていない。

逆にイタリアやスイスにいたレーニンとフリーメイスンには接触がなかったのだろうか?と思ってしまう。

この番組で興味深かったのは、やはり日露戦争との関係で、1905年の革命が失敗したこと、レーニン憧れの兄がそれに加わって死刑になったことなどをあらためて意識した。
そして、やはり、それが第一次大戦下に起こったことの決定艇的な意味も考えさせられた。
当時のフランスとの関係の難しさも。(ドイツと独自に停戦するかどうかなど)

多くのフランス人もロシアにいた。百年前の2/24にペトログラードの通りを埋めた人々たちが高らかに歌ったのはフランス国家のラ・マルセイエーズだったのも印象的だ。

橋が封鎖されたので凍った河の上を人々が渡ったのも。

イランのホメイニ革命の前にホメイニ師を迎えたパリのメディアがはしゃいでいたことなども思い出す。

ニコライ2世が譲位すると言ったのを断った弟のミハイル(なかなかの美丈夫だが、断ったのに、結局翌年兄よりひと月早く処刑されてしまった)のヨーロッパ的感性もおもしろいし、そもそもニコライ2世の皇后アレクサンドラがドイツのヘッセン大公の娘で、そのドイツと戦争していることの難しさもあった。やはりドイツのザクセン公に由来する名を持っていたイギリスの王室がイギリス風(ウィンザー)に名を変えたのも同じ1917年のことだった。

ともかく王家の間については当時も今も姻戚関係がびっしりあるヨーロッパにおける「戦争」や「革命」というものの複雑な実態を考えさせられる。ヘッセン大公国もザクセンも伝統的にカトリックの神聖ローマ帝国に属していた。それがナポレオンによって解体され、でもナポレオンも結局オーストリア皇帝の娘を皇妃に迎えている。その前にロシア皇帝の娘との結婚を望んだのだが、時のロシア皇帝アレキサンドル一世に断られた(『ナポレオンと神』p168~171)。ロシアはもちろんロシア正教である。その辺の駆け引きもおもしろい。

ボルシェビキはその後がちがちの「無神論」共産党という一神教モデルの一党支配体制を築いたわけだが、冷戦終了にあたっては、ロシア正教のネットワークが有効に利用された。
プーチンはロマノフの皇帝よりも正教の聖人に自分を重ねた

ロシア革命の百年後にセーヌのそばにロシア正教のカテドラルがそびえていることになろうとは、いったい誰が想像しただろう。
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by mariastella | 2017-03-02 00:53 | 雑感



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