L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 04月 21日 ( 1 )

こんの げん さんの作品を見て考えたこと その2

これは前回の記事の続きです。

こんの げん さんのfacebookを拝見したら、イントロに「保存修復技術 à 東京芸術大学大学院」と書いてあった。

正確にどんなことをする技術なのかは分からないけれど、今回の展示を見た時に、最初に、どこの遺跡の発掘物の展示だろう、などと思ったことを思い出した。

今回の作品は、火災のダメージを受けたものを「修復」するどころか、自然の力によって加作されたもの、メタフォルモーゼしたものとして提示されている。

作者のクリエイトの上に別のクリエイトが上書きされた。

では、制作における作者の驚くべき緻密な技術を支える「保存修復」技術と、この被災の力を取り入れることはどう両立するのだろう。

こんのさんの経歴を見る前に、引き続き以下のような趣旨のメールをお送りした。

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こんのさんの「宇宙は異質な物質が満たされている」という言い方に触発されて、電子の話を想起したのだが、ほんとうは、彫刻作品が現出するにあたっての「有」と「非有」の関係を考えていること。

ウパニシャドで、宇宙の初めは「非有」しかなかった、という時、それは「無」とか「空」のような単純な存在否定の意味ではなく、すべてのものが混有する存在混迷で、何物も他から区別されていない渾沌だということだ。「有」は存在秩序が「名と形」に従って分節された事象のシステムで、すべてのクリエーションは存在形成力ということになる。

これはむしろ井筒俊彦さんの受け売りの考え方なのだが、私にとって、彫刻作品とはすべて何かのマチエールから存在を生む行為だと思っていた。

けれども、今回こんのさんの作品の展示を見た時、そこに働いていたのは、コスモスからカオスに戻す、クリエイトとは逆の「非有」の力だったわけだ。

それが、「有」と「非有」の境界領域を可視化してくれたから魅力的だったのか、あるいは、クリエイトを破壊する「暴力」に抵抗する何かが露出したから魅力的だったのかどちらだろう。

作品が完成するのは鑑賞者と作品の間だ。
でも、これまではその出会いは、作品に凝縮し、周りにも漂っている作者の意図、作者が見ていたものとの出会いのような気がしていた。

ルミネでの展示では、それが損なわれた現場と遭遇したわけで、そのインパクトが、創造よりも破壊から来るのだとしたら、アートとはいったい何なんだろう、と衝撃を受けたわけだ。

****

以上。

こう書いた後で、(多分文化財の)「保存修復」にも精通したこんのさんが、自分の作品を「被災」から修復しなかったばかりか、そこに新しい力を認めたのはなぜだろうと、あらためて考えた。

ルミネの展示会で、ショップの人にお話をうかがった時に、「アトリエの火災があったのは、東日本大震災のすぐ前のことで、その後に震災が起こったので、それどころではなくなった」というような話を聞いた。

あの東日本大震災の津波などの圧倒的な暴力的な映像や、破壊、自然の風景や人間による構築物の姿が一変した様子は、多くのアーティストにとってトラウマになったと思う。

それに加えて、一見自然の風景も町の様子も変わらないのに、放射能という目に見えない毒のために見捨てられて廃墟化していく町を見る不条理。

外的な力が加わる破壊と、見捨てられることによる崩壊の両方を私たちは見せつけられた。

最近、自らも炭鉱で働いたことがあるという柿田清英さんによる軍艦島の写真集を見た。

一瞬核戦争後のどこの廃墟かと思うような荒涼とした風景なのに、たった数十年前に人々が「そこから去った」というだけで、町が、生活の匂いが、荒廃し果てている。

フランスには何百年も前に建てられた教会などがたくさんある。

パリのノートルダム大聖堂は850年以上建っている。
もとは外壁が彩色されていた。今はステンドグラスを除いては中も色の名残がない。
宗教戦争の時、フランス革命の時、何度も外も内も破壊の対象になった。

でも、何度も何度も「保存修復」が重ねられてきた。
しかしそれは、決して、彩色された「元の姿」を再現しようというこだわりではない。

「保存修復」しようとされてきたのは、「建物」ではない。

「建物と人間の関係性」である。

ノートルダム大聖堂は、軍艦島や放射能汚染地域のように「見捨てられた」のではなかった。いつも、セーヌ河のシテ島で人々の真ん中にあり、ゴシック聖堂の誕生を何世代にもわたって祈念してきた人々や石工たちの技術の跡を内包していた。

軍艦島の写真が怖いのは、そこに移っているのが時間や災害による崩壊ではなく、忘却と絶望だからだ。

日本でも、奈良時代平安時代からあるような寺院や神社の古びた感じは、いつも人々と共にあり、霊性を内包した枯れた味わいがあると受け入れられてきた。

最近になってきらびやかな色彩の当時の形に再現されたものもある。
その中には、「建物と人間との関係性」を考慮しないものもある。

こんのさんが火災後の作品を展示しているのは、それが受けたものが忘却や絶望ではなく、火災による傷跡と対面したこんのさんが、自分の作品との新しい関係性を発見し、その創造性をあらたに人々の前に提示したのだろう。
こんのさんが、自分と作品との関係のラディカルな変化を私たちと共有したいという「意志」そのものがクリエイトなのだろうと思うと、納得がいく。

忘却や絶望や負のエネルギーのベクトルなど、所詮、人間の価値判断で決まるものではないと改めて考えさせられた。

いのちとは、関係性の中にだけ宿る。
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by mariastella | 2017-04-21 02:37 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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