L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 05月 09日 ( 2 )

マクロンと陰謀論

フランスの新大統領について書くのはもうこの辺で終わりにしておこうと思っていたのだけれど、選出の夜の演出について「やはりそう来るか」、と予想した陰謀論が愉快だった。

夜空に赤く光るルーブルのピラミッドを背景に壇上に立った姿は印象的だった。
ルーブルのピラミッドと言えば、これはもうできた頃から、その三角形の数とか、場所とか、フリーメイスンだなんだと噂されていた。ルーブルも『ダヴィンチ・コード』などで怪しげなオカルトのイメージも作られ、マクロン自体が「神がかり」、「ミスティック」だと評され、本人も自分は超越的なものの存在を信じる、自分にはそこから発せられる使命があると感じる、などと発言している。

で、ピラミッドが赤く光り、頂点に「目」が光り、その前で両手を広げて掲げた(フリーメイスンの「コンパスと定規」の形)映像が、ネット上にすごい勢いで広がって、フリーメイスンだ、イルミナティだ、陰謀だ、ということになっている。

実際は、当初、マクロンはエッフェル党の前のシャン・ド・マルスを集会の場所にしようとしていたのをパリ市長のイダルゴに断られたのでルーブルは第二候補だった。

もっと笑えるのは、カトリック右派で、ル・ペンに投票を呼びかけていたクリスティーヌ・ブタンが、最初にマクロンが66.06%で当選というニュースを聞いたとき思わせぶりにtweetしたことだった。
もちろん、666が黙示録の獣(悪魔の数字)ということをにおわせて、マクロンはサタンの手先、アンチ・クリストだと言いたいわけだろう。(『キリスト教の謎第六章で少し説明しました)

残念?ながら、最終的には66.1%に落ち着いたので、ブタン女史の懸念が払しょくされてめでたい。
それにしても、「政治家」と名のつく人があまり考えなしにその場限りのtweetを残すのって、リスクよりもプロフィットの方が大きいからなのだろうけれど、デジタル環境は確実に政治も陰謀論も変えた。

人間が、自分たちの知覚できる「世界」とは別の「超越」的なものを感じるのは普遍的で、それをどのような表象を使って「シンボル」化していくかは、時代や場所の条件によって変わっていくものだ。
それが「教義」と「典礼」を備えると「宗教」になるし、イデオロギーが形成されると政治的党派にもなる。西洋近代はヒューマニズムの「大きな物語」を掲げることに成功したかに見えたけれど、「ポストモダン」はそれを「小さな物語」のひしめく多様性に解体した。
と言っても、人はいつも「大きな物語」の中に自分の居場所を求める。

マクロンの書いていく物語が始まる。

陰謀論について)

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by mariastella | 2017-05-09 18:08 | フランス

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』をオペラ・コミックに観に行った。



指揮、音楽監督は、マラン・マレの音楽やヴィオラ・ダ・ガンバが日本にまで知られるきっかけになった『めぐり逢う朝』(アラン・コルノー監督)でガンバ曲の吹き替えをやったジョルディ・サバールだ。

ド・ラ・モットの台本、1706年、ロイヤル・アカデミーのために作られた典型的なフランス・バロック・オペラ。

風の神エオールの娘アルシーヌとの結婚式を迎えようとする王セイクスを3人が妨害する。アルシーヌを恋するぺレ(セクス王の親友)、セイクスが先祖の王座を奪ったと恨む魔術師フォルバス、魔女のイスメールだ。
宮殿は破壊され、地獄の光景が現れ、嵐、遭難、魔の力、バロック・オペラの要素満載だ。

舞台の演出によってだけではなく、オーケストレーションでそれを表現しようとした。ラモーで頂点に達する18世紀オペラの先駆と言える。嵐を描写した曲は特に18世紀好みで、宮廷の舞踏会でも何度も演奏されたという。


嵐の音楽。まったく古くないことが分かると思う。

でもオペラそのものは他のフランスバロック・オペラ同様、1771年以来上演されなくなった。ジョルディ・サバルは、このアルシオーヌのダンス曲を集めたCDをリリースしている。
どのダンス曲も、「受肉」していて、サバルがまずこのダンス曲のダィジェストに挑戦したのは正しい選択だったと思う。

「三一致の法則」などに則って地に足をつけた「戯曲」と違って観客を別世界に誘うエンタテインメントとして超自然の世界がデフォルトで表現されるバロック・オペラだが、ここではダンスや衣装やさまざまなからくり装置ではなく「サーカス」を使った肉体性と演技によって展開されている。

バロック・オペラとダンスの関係についてこれまでにもいろいろ書いてきた。

この記事を読むとその前のものもリンクされてくる。(長いので、興味のない人はスルーしてください)

で、簡単に言うと、Les arts Florissantsの演奏したダンス曲は「受肉したダンス曲」だったが、踊られるのではない「濃すぎる」ビジュアルが邪魔だった。

エルヴェ・ニッケの時は、ダンス曲がまるで「つなぎ」のようにさっさと平板に飛ばされていた。
今回は、ある意味でバランスは悪くない。

ダンス曲はラモーの先駆として肉体性を備えている。

ジョルディ・サバルの指揮はそれをよく生かしている。
楽器のバランスもすばらしい。

で、今やほとんどすべてのバロック・オペラで見られるように、登場人物のコスチュームはミニマムで現代的。

舞台装置はミニマムだが効果的で、紐、綱、ケーブル、ピアノ線などを駆使していろいろな効果を表すほか、裏のからくりの背景も見せる。

歌手も吊り上げられて空中で歌ったり大変だが、何よりもサーカスのアクロバットの4人が上へ下へ、あるいは大きく回転したり、体を自在に捻じ曲げたり逆さになったりするので、重力が感じられず、その意味で、音楽を損なわない。

後は、合唱のメンバーがものすごく巧い動きをしている。地獄のシーンの地を這い蠢く様子など、振付がすばらしいに尽きる。あの迫力ある演技をしながら歌うのだから大したものだ。

フランスのバロック・オペラの最初は、オペラ歌手とは「歌える役者」のことだった。
アルシオーヌとセイクス、ペレを歌うレア・ドゥサンドル、シリル・オヴィティ、マルク・モイヨンの演技も半端ではない。
その上に、台本がドラマティックだ。愛し合うカップルの姿がリアルで「ラ・ラ・ランドですか?」というくらいの近い距離感がある
同時に、ギリシャ悲劇やシェイクスピア劇のような生と死の実存的な問いまであって、客席が息をのんで静まり返る場面もある。
それとは対照的に、そこだけが室内楽に編曲されて王から何度も所望されたという嵐の曲や、誰からも愛される「水夫の行進」などは純粋に楽しませてくれる。

それでも、ジーグ、サラバンド、メヌエット、いろいろなダンス曲が出てくるたびに、せっかくダンサーもいるのにバロック・バレーが全くないのは物足りなかった。特に最後のシャコンヌ。ほんの少しだけダンスっぽい振付がある。バロック・バレーのアドヴァイスはカロリーヌ・デュクレだとプログラムにあった。懐かしい名前だ。

彼女とはパリでのコンサートで観客を誘って踊った時に、いっしょに見本を見せて踊ったことがある。
彼女はコンテンポラリーから来たダンサーで、最初に七区のコンセルヴァトワールでバロック・バレーを習いに来た時に私が上級クラスにいたのを知っている。そのせいか、もうバロック・バレーのプロとして踊るようになっていたのに私をほとんど先輩のように扱ってくれた。
そんなカロリーヌの存在を感じたのがシャコンヌの一部分の振付だけだった。その部分を見たせいでかえってシャコンヌは全部ダンスで見たかったとフラストレーションを感じた。

6月にはヴェルサイユでも上演されるという。もう一度行きたいくらいだけれどスケジュールの都合で多分無理だろう。



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by mariastella | 2017-05-09 06:41 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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