L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 05月 31日 ( 1 )

モリエール賞とサボテンの花

先日、いつもは見ないのだけれど、珍しくモリエール賞の授賞式をTVでみた。

すべてのスケッチのシナリオを用意したニコラ・ブドスの才気と逸脱に関心があったからだ。
この人は父親も有名コメディアンのギイ・ブドスで、フランスの左翼BoBo(つまりブルジョワのボヘミアン)の典型みたいな人で、スマートな好青年風(今37歳)なのに、毒舌が多すぎて、これまで何度も罰金刑の対象になったり、脅迫されたりしている。

「シャルリー・エブド」みたいな人だ。ある意味、すごくフランス的な人である。

授賞式では、目を閉じたマクロンの画像を出したり、マクロンが高校生で演劇の主役(ジャン・タルデューの短編戯曲で案山子のコスチューム)を演じた有名な画像ももちろん使われた。

うーん、こういう演出、シナリオを見ていると、ほんとうに、例えば今の日本のテレビに出るような「お笑い芸人」には絶対期待できない過激な政治性、表現の自由、全規制撤廃オンパレードだ。文化大臣も出席しているのだけれど、「忖度」などという現象はかけらもない。

そういえば、シャルリー・エブド襲撃事件のすぐ後で、やはり挑発や冒瀆全開の催しが大々的に行われてコメディアンが活躍したのを思い出す。

このモリエール賞は別にコメディだけではなくすべての芝居が対象だけれど、その祝祭はやはり、政治的公正やブルジョワ的上品さなどを過激に壊すことを通して、「自由」を表現するのがフランスの伝統なのだ。

それでも彼らの過激さとエネルギーと演劇への情熱とに酔いそうだった。

で、その授賞式の前に昨年のモリエール賞の主演女優賞を受賞したカトリーヌ・フロの『サボテンの花』が放映されていたので観た。

映画『偉大なるマルグリット』で、音痴の歌姫がカトリーヌ・フロで、金ほしさに彼女に個人レッスンをする奇怪な歌手がミッシェル・フォーで、この個性的な2人が『サボテンの花』の主役の歯科医と助手を演じる。

私は芝居でも映画でもいわゆるラブ・コメディというのはあまり関心がない。

けれどもこの『サボテンの花』というのは、フランスとアメリカの比較文化を考えるにあたって興味深い作品だ。

元の戯曲は1964年が初演で、大ヒットして翻訳されブロードウェイでも上演された。

話はブルジョワの客を持つ中年の歯科医師ジュリアンと、若い恋人のアントニアと、歯科の受付ですべてを仕切る有能な中年の女性助手ステファヌ、アントニアの若い隣人イゴールらの込み入った関係だ。

ジュリアンは、独身で、結婚を迫られないように妻と三人の子供がいると嘘をついていた。アントニアはそれをジュリアンの正直さだと好意的にとっていた。

ある時、ジュリアンはアントニアを真剣に愛し始めて結婚を決意する。

おくさんははどうするの、と聞かれて、妻とはもう離婚の合意があるとか、妻も実は浮気しているとか、嘘に嘘を重ねていき、妻と会いたいというアントニアのためにステファヌが妻の役を演じることになる。

ステファヌは母親と愛犬と暮らしている。妹の子供たちが時々やってくる。

まあ、いろいろあって、ボードヴィルというかドタバタ喜劇でもあるのだが、ステファヌは妻役を演じているうちに意識下でジュリアンを愛していたことに気づくし、妻の役を演じているうちに「女」として目覚め、若いイゴールにまで迫られ、すべての登場人物が「嫉妬」の感情によって愛に気づくという微妙な心理劇だ。

アメリカでステファンを演じたのがローラン・バコールだった。

大人の「職業婦人」が「職場の上司」との関係、老いた母との関係、客(歯科の患者)との関係の中での「顔」から、「妻」のふり、「愛人」のふり、若い女性や若い男性との個人的な関係の発生を通して、感受性の窓が次々と開いていく、女優としていろいろな魅力を見せることのできる役がステファヌだ。

で、1969年にアメリカで『サボテンの花』として映画化され、ステファヌ役はなんと当時54歳のイングリッド・バーグマンで、若いアントニア役がゴールディ・ホーンだった。この時、シチュエーションは少し変えられて、バーグマンは独身ではなくシングルマザーという設定だ。

こういう話はアメリカ好みらしく2011年にもリメイク映画ができている。「ウソツキは結婚の始まり」という邦題で、そこでは独身の外科医が、不幸な結婚をしているという嘘をつくことで女性の同情をひいて愛人にするという設定になっている。時代の差を感じさせる。

この時のステファヌにあたる役がまだ40代初めくらいのジェニファー・アニストンだ。今や40代はじめなどとても若いので、1960年代の「結婚をあきらめた女」の設定とは、見た目も社会的なスタンスも違う。

で、2015年、60歳のカトリーヌ・フロが原作の戯曲を再現。

あらためて、よくできた芝居が「古くならない」こと、男と女の機微をめぐるフランス語の豊かさ、年の差やら身分やらを超えた心理戦などにおける「国民性」はあるのだなあなどと確認できた。

個人的には登場人物の誰にも共感も感情移入もできないにもかからわず、細部の感情の動きや感慨は確かに普遍的でもあり、また、フランスで暮らしている私の周りの具体的な誰それの行動の仕方やシチュエーションと重なるのでリアルでもある。

しかもこのセリフとこのセリフ回し。映画でなく芝居ならではの魅力が満載だ。カトリーヌ・フロとミッシェル・フォーという際立った個性派と、「若者のステレオタイプ」のようなアントニアとイゴール役の対比のバランス(その他に カリカチュラルな患者たちも彩を添える)が絶妙だ。演劇はやはり贅沢だ。


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by mariastella | 2017-05-31 06:22 | 演劇



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