L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 08月 13日 ( 1 )

ファニー・アルダンが M to F を演ずるすごい映画『Lola Pater』


30代の青年が、母親の急死のショックの中で、幼い時に別れた父親をはるばる訪ねて行ったら、父親はオリエンタル・ダンサーの熟年レズビアンだった!


ファニー・アルダンは好みのタイプから程遠いけれど文句なしの名女優だ。

一時は拒食症とかいう噂でがりがりに痩せていたが、68歳の今、ある程度肉がついて、肩、手足の骨太さが「性同一性障害の元男」という役をやっても、なんとなく納得できる。

監督は1965年生まれのフランスとアルジェリア二重国籍のいわゆる移民の子弟であるNadir Moknècheナディール・モクネシュ。パリで生まれたが3歳で父を亡くし母とアルジェに戻り、キリスト教系の学校の寮で暮らす。16歳でパリに戻ってバカロレアのと2年の法学部を経て演劇に転向した。

アメリカにも留学し、現代のモロッコやアルジェリアのシーンを描く映画を監督するが、この映画も、カリカチュアではなく、宗教の問題にも触れていない。

とはいっても、厳格なイスラム法では禁じられている酒、タバコ、音楽、踊りなど、何でもやっているローラを揶揄するコメントがあったり、主人公ズィノの子供の頃の割礼記念のビデオが出てきたり、葬儀やパリの墓地のムスリム区画での埋葬、フランスに来たんだから犬を飼っても平気(犬はムハンマドを噛んだということでイスラムでは不浄とされ嫌われている)というズィノの叔母のことばなど、今のフランスで暮らす「普通のムスリム」のリアルな生活感が見える。

ズィノはオーステルリッツ駅近くのマンションの高層階に母親と猫と住んでいたが、母は動脈瘤破裂で突然死する。飲みかけのコーヒーだかティーだかのカップがテーブルに置かれたままで、テーブルにのぼった猫がカップを倒すシーンでその死による人々のパニックが伝わる。

ネコはその後もあやうい、シンボリックな役割を果たしている。

ピアノ調律師で作曲もする30代のズィノは、遺産相続の手続きで、公証人から、父のファリッドが離婚していないばかりか南フランスのカマルグに住んでいると知らされる。それまでは、父のファリッドはある日「蒸発」し、は妻子を捨ててアルジェリアに戻ったと聞いていたのだ。

オートバイをとばして南仏に向かうズィノ。

町で最初にすれ違うのはフランシスカンの修道服を来た修道者らしい人。


で、訪ねた住所はなんとレッスン中のオリエンタルダンスの教室だった。

女性たちがたっぷりした腹を見せてベリーダンスをしている。(ああ、グラナドス!

教師をしているのは妖艶な熟女ローラ。

ファリッドの息子が来たと伝えられたローラは動揺する。

同姓同名の人違いだと言ったが、ズィノは彼女が父の妻なのだと思った。

自分や父と同じ姓だからだ。では、父は重婚していたのだろうか。


公証人から書留を受け取ってパリへ出ていくローラ。


ローラは、女性と暮らしている。相手の女性はどちらかというと「いかにもレズビアン風の」中性っぽい人だ。このカップルはもう若くないわけだが、この人の愛(パリでローラが自殺未遂で入院した時に駆けつけてくるシーンにはほんとうに泣かされる)がすばらしい。

彼女にも励まされてローラはパリで息子に自分が父だと告白する。

衝撃と拒絶。

ズィノの怒り、ローラの絶望、どちらも説得力がある。

ローラはもと、クラシック・バレエの男性ダンサーだった。息子も音楽の世界に生きるアーティスト。政治的にはトランスジェンダーを差別などしていない。

しかし、理論や建前と、それが「親子」の間に起こる場合の感情の齟齬というのは別だ。

事情を知っていた母親にも騙されていたことになる。

何を赦していいのか受容していいのかも分からない。

叔母からは、実は母親のマリカはファリッド(ローラ)が性同一性障害だということを知っていて結婚したと聞かされる。叔母も女性の姿となった義兄に再会して驚くが、昔は彼のことをゲイだと思っていた、という。

ローラは、「自分はいつも女性を愛している。レズビアンになった異性愛者なのだ」という。

性同一性障害と言っても、ジェンダーのアイデンティティと肉体的な性のアイデンティティは別のものだ。

ファリッドとマリカは愛し合っていた。けれどもファリッドは男の姿で男としてふるまうことにもう耐えられなくなったのだ。女になってレズビアンのカップルとして息子を育てられたならよかったのだろう。けれどもマリカは、女になるファリッドが耐えられないのではなく、そうなったら世間の目に耐えられないのだ。

性別と見た目に関しては、生きていくうえであまりにもジェンダーの縛りと圧力が大きいので、第一の苦しみはそこから来るのかもしれない。

マジョリティの人たちから見ればみなひとからげに性倒錯だと思われるかもしれないが、どの性を性的対象と見るのか、と、自分の生物学的な性別を認めるのかはまったく関係がない。


私など自分でも、「性別」としての女性は違和感がないが、アイデンティティの底にあるのは「兄のいる妹」という枠内での性別だ。脳内では女性も猫も子供も、柔らかくてかわいいものは大好きで触りたいし見ていたいが性的対象ではない。細かく見ていくと、性的には「女友達が大好きなゲイの男」と一番親和性がある気がする。妹タイプなので男っぽい感じのレズビアンから声をかけられることもよくあったが、私の好きなのは女っぽい猫っぽい柔らかい女性で、しかも性的興味は全くないのでスルーしていた。


兄のいる妹として生まれて家庭内で妹ジェンダーというアイデンティを課された女性でも、まったくそれが自分に「あっていない」と苦しむ人もいくらでもあるだろう。それは最初は反抗や反発になり、やがては家族から離れるという形で解消できるかもしれない。「嫁」だの「母」などという後発のアイデンティティなどはもっと不安定なものとなる。

人間とは、肉体の性別アンディティティと社会から押し付けられるジェンダーと誰に何に性的欲望を覚えるかという性的アイデンティティが複合的にあるだけではなく、実は生まれた時の周囲(大抵は家族)との関係性から来るアイデンティティとの齟齬もあり得るわけで、「カテゴリー分け」だのロビー活動などには絶対に納まりきれない複雑なものなのだ。

それでもこの映画でファニー・アルダンという大女優を起用したことの倒錯にはくらくらする。


映画界にはAlexis Arquetteのような真正のトランスジェンダーの女優たちもいるのだから、彼女らを起用すべきではなかったのかという意見もあった。

ファニー・アルダンは男でもなく、アルジェリア人でも、アラブ系でも、トランスジェンダーでもない。


実は、トランスセクシュアルの友人たちがいる監督がこの映画の構想を自分の母親に話した時に、母親がその役はファニー・アルダンに頼むべきだ、と言ったのがきっかけだったという。

低いしわがれ声と、エレガントな長身、の迫力に加えて奇抜な衣装。

バロックとマニエリズムの境界。

アルモドバルの映画の世界ですか、といいたくなるが、実は、とても抑制が効いていて登場人物全員が非現実的な「上品」さをたたえている。


ズィノは、結局、性別は関係なく「父親」を求めている。

ファリッドも息子を愛していた。罪悪感にとらわれた。

でも彼にとっては、自分の意識に合致する体を手に入れること、女性のオリエンタル・ダンサーになれるかどうかは、生きるか死ぬかの問題だったのだ。

ズィノ役のTEWFIK JALLAB35歳で、パリの近郊でモロッコ人の母とアルジェリア-チュニジア人の父の間に生まれたこれも典型的な「移民の子弟」だ。

「父と息子」の関係を突き詰めることで、何世紀にもわたる「父系制」社会に挑戦している映画だともいえる。

性別や見た目や世間の目などと関係なく、「それでも愛している」という心を封じていた二人は、揺らぎながら互いに相手をかばおうともする。けれども、愛を口にして、もし向こうから同じ言葉が返ってこなかったらどうしようという恐怖が愛にまさる。

これは普遍的な映画なのか、ニッチな映画なのか、評価もかなり分かれている。

私の好みにははまり過ぎなのだけれど。

ライオンキングでも猿の惑星でも、当然のように与えられるテンプレートに「父が息子」へ「力」を継承させるという者がある。この映画がそれを大きく揺るがすものであるということにセンシティヴであるかどうかが評価の分け目になるのだろう。

日本ではいわゆる「オネエ」キャラが一見市民権を得ているように見えるが、普通の人には性的マイノリティの中での性的アイデンティティと性的欲望との組み合わせの区別などつかないことだろう。

日本のM to F で私の知っているのは(直接知っているわけではない)、性転換手術の前後から細かくレポートしてくれたブログを愛読していた能町みね子さんくらいだ。(今もネットの週刊誌で連載を読んでいるが、オリンピックを盛り上げるために都知事がラジオ体操奨励したことへの記事など、同感で笑えた。)

深刻なのはやはり、「子供」がいる場合で、「子供との関係」における性別の刷り込みや世間の目こそ、「父系性社会」の基盤だから、「基準を離れる」のは大きな試練となる。


日本でも、2014年から、性同一性障害のため女性から男性に性別変更した夫とその妻が第三者との人工授精でもうけた子について、戸籍に嫡出子として記載できるようになったという。

同じケースでも、男性から女性に性別変更した人への偏見の方が実際は厳しいのではないだろうか。「女が男になる」のは上昇であり、理解できるが、「男が女」になるのは下降であり理解できない、としないと男性優位のシステムを揺るがすからだろう。女が男の服を着て活発に動くのは、子供が大人の真似をするように「ほほえましい」。でも男が女装をしてしなをつくるのは男優位社会の侵犯とみなされる。あるいは完全に「枠外」の異種動物のように容認される。

この映画の登場人物の苦しみに共感できて、それでも人間性と愛の光の中で物語を観ることができてラッキーだったと感謝する。


[PR]
by mariastella | 2017-08-13 05:17 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧