L'art de croire             竹下節子ブログ

2017年 08月 14日 ( 1 )

ウィーンの話 その5

キリスト教最初の殉教者ステファノの「聖遺物」に捧げられたウィーンのシュテファン大聖堂。

メインのステファノの聖遺物は内陣内にはない。


有料の宝物庫の一番上の部分にある。


そもそも、使徒のうち最初の殉教聖人ということでメ、ジャー中のメジャーの1人であるステファノの聖遺骨の信憑性はどの程度あるのだろう。


よく知られている「お話」の典型的なのは次のようなものだ。


イエス・キリストの受難と復活の数年後の1227日(オリエント教会での祝日)、まだ、キリスト教徒というアイデンティティのないステファノは、イエスの教えを受け継いで、エルサレムの律法学者たちの神殿偏重を大祭司の前で批判したので怒りをかい、石で打たれて殺されて、路傍に放置された。

その遺体をでエルサレムの北20マイルCaphargamalaにある自邸まで運んで、40日の喪の期間を経た後で墓所に埋葬したのがガマリエルという聖パウロの律法の教師と言われる人だった。

彼の甥はイエスにひそかに傾倒してイエスの埋葬の世話をしたニコデモとされる。

ガマリエルとその息子ハビブもイエスの死後に使徒から洗礼を受けている。

ニコデモも、石打ちにあって、傷を負い、ガマリエルの屋敷に逃れた後で死に、ステファノのそばに埋葬された。後に、ガマリエルと、20歳のハビブも死んで同じ場所に埋葬された。その後、ガマリエルの屋敷は崩落した。

で、キリスト教がめでたくローマ帝国の国教となった後の415年になってから、Caphargamalaの敬虔な司祭ルキウスが3度ステファノのお告げを聴いた。ステファノは、その名が赤と金で刺繍されている助祭の祭服を着ていた。

その指示にしたがってガマリエルの屋敷跡を掘るとまず石だけが出てきた。もっと北の方を掘れというお告げに従って修正すると、ステファノらの遺骨が発見され、地は振動し、芳香が立ち上った。

遺骨をエルサレムの聖シオン教会に移したのが415年の1226日で、大雨が降り、それまで続いていた深刻な旱魃が解消された。


ところが、聖シオン教会に納められていた棺をコンスタンティノープルに移そうとしたある未亡人が意匠の似たステファノの棺と夫の棺を取り違えた。棺が運ばれる途中で次々と「奇跡」が起こった。港について、ラバで運ぼうとしたらラバが動かなくなった。82日、その場所に最初の殉教者教会が献堂された。


ビザンティンの記録によるとまた別で、ルキウスの仲介でステファノの右手の骨がエルサレムの大司教に届けられ、その後、皇帝による寄進に感謝するために429年にコンスタンティノープルに移譲された。439年にはエルサレムに引退した皇妃が別の部分の骨をコンスタンティノープルに送った。6世紀に別の皇妃ユリア・アニキア?が残りをコンスタンティノープルに移した。

そういう経緯でステファノの聖骨全部がコンスタンティノープルにあったが、十字軍による1204年の侵略によって、ほとんどが西ヨーロッパの各地に持ち去られた。


フランスではブザンソンのカテドラル聖ジャン(ヨハネ)大聖堂にある「ステファノの腕」が長い間巡礼者の崇敬の対象になっていた。5世紀(445)にステファノの腕の骨大小2本がローマ皇帝ホノリウスに贈られた際に、途中で今のブザンソンに当たる古都Vesontiに留まった。小さい方の骨は手の形の容器に納められて巡礼者に祝福の按手をする見立てになっていた。

当時は聖エティエンヌ(ステファノ、シュテファン)カテドラルだった。崇敬物として一時代を画した後、16世紀には、5世紀にテオドシウス帝から大司教に贈られたという触れ込みのイエスの聖骸布が新たな崇敬の対象になった。

1523年に壁が崩れて「発見」されたというのだ。

プロテスタントの宗教改革の反動でカトリックの聖遺物崇敬が高まった時期だ。

今も有名なトリノの聖骸布がリレイからトリノに落ち着くまで1418-5234年間、この地方の神学校に保存されていた間に模写されたものだと言われているが、ともかく1523年以来復活祭と昇天祭に一般公開されて、多くの奇跡が起こり、聖骸布信心会が大きな勢力を持った

その後1669年にあらたな聖ヨハネ大聖堂に移された(ブルゴーニュ公国は正式にフランス王の支配下に入っていた)。フランス革命後の1794年にパリに持ってこられて吟味されて、偽物であるとされて破棄を申し渡されたはずだが、ナポレオンがカトリック教会と和解した後19世紀にはまたブザンソンに現れて崇められたという。この聖骸布をモティーフにした数々の絵も有名だ。

で、そのようないわば、宗教改革だの近代革命だののもたらす流行りすたり、の中で、ステファノの聖遺骨の方は信心の対象としてはすっかり忘れられた形になったらしい。「宝物」としては今も健在だ。

宗教改革でカルヴァンなどからあれほど馬鹿にされて弾劾されたのにしぶとく聖人崇敬を手放さなかったカトリックだから、「お話はお話として」、信心の本質的なシンボルとしての「聖遺物」はどんな形でも、ちゃんと残ったわけだ。


これらの事情を鑑みるに、宗教改革や近代革命による損害がなかったウィーンのシュテファン大聖堂にあるステファノの聖遺物というのは、同じように、13世紀初めにコンスタンティノープルからもたらされたステファノの骨の一部を看板の聖遺物として掲げたものの、後にその聖遺物そのものへの崇敬はすたれたので、「宝物」庫にひっそりと保管されているという感じなのかもしれない。

聖堂の内部では皇帝の棺の方がずっと立派に安置されている。

ゴシック時代のシュテファン大聖堂の前にあったローマン教会も、ステファノを守護聖人としていたらしい。12/26に朝日が主祭壇に射す方向に向けて建てられているという。それは人々に攻撃される前のステファノが空を見上げると神の光が射したことにちなんだものだ。(ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。)(使徒言行録7,55-56

だからどうしてもステファノの聖遺骨を必要としたのかもしれない。

前置きが長くなったので、ステファノの聖遺物との対面は次回に。

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by mariastella | 2017-08-14 06:15 | 宗教



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