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L'art de croire             竹下節子ブログ

フランスとイスラム  その2フランス3

ここからはしばらく、政治学者ジル・ケペルが『シャルリー・エブド』No 1276(2017/1/4)に載せた記事を要約する。

2012年3月にメラー事件というのがあった。フランスとアルジェリアの二重国籍マオメッド・メラーという23歳の男がトゥールーズで次々と軍人を殺した後でユダヤ人学校を襲った事件だ。

この事件は第三世代のジハディストによるテロの発端だったのだが、当時大統領選を控えていたフランスでは、一匹狼の特殊な事件だと考えられていた。

その初めは、2005年の1月にシリア人のアブー・ムスアブ・アルスリーが、西洋世界に対する攻撃を呼びかけて、西洋世界のアキレス腱はヨーロッパだと断定した。

それまでのアルカイダは、ビン・ラディンのようにアメリカを狙い、アルジェリアやアフガニスタンというようなイスラム国にジハードを仕掛けた。第三世代というのは、それがインターネットを通した呼びかけであったからだ。どこにいても、今いる場所で「殺す」こと、それによってパニックを誘発し、特定の場所の戦いを内戦にまで広げていくのが「戦略」だった。

ところが、その2005年から、メラー事件の起こった2012年まで、フランスの対テロ諜報部門はこの変化を全くとらえていなかった。(続く)
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# by mariastella | 2017-02-21 02:23 | フランス

フランスとイスラム  その2

次に、フランスのイスラム過激派対策を誤らせた「イスラモフォビー」(イスラム嫌い)というコンセプトについて。

イスラモフォビーは「一部の過激派やテロリストとフランスの穏健なムスリムを混同するな」という言い方によって、実は巧妙に「イスラム批判」と「ムスリム差別」を混同している。
この二つは別物だ。健全な宗教批判は表現の自由に属するが、ある宗教に属する人をまとめて批判するのは「差別」という「法的な罪」を構成する。

宗教は批判の対象となる。宗教とはシステムであり、逸脱することもあるし、権力によって取り込まれて利用されたり変質したりもするからだ。

宗教は文化現象の一つでもあるから、ある宗教の価値観が他の文化圏の価値観とは合わないことも当然ある。イスラムの価値観がフランスの共和国の価値観と合わないと言って批判することは自由だ。

けれども、ある人がイスラムに帰属しているからといって偏見を持ったり、蒙昧だと言ったり、アラブ風の名や風貌を持っているというだけで差別することは、それこそフランスの価値観に反する「罪」である。

ある国の指導者のやり方やイデオロギーを批判することは健全だが、その国のすべての国民をまとめて中傷するのはヘイトスピーチである。

ある人がある国に生まれることは選択によるものではないし、イスラムの場合はムスリムの父を持つ子供は自動的にムスリムとなり、棄教は死に値するとされているのだから、これも選択の余地はない。

ニーチェはユダヤ主義を激しく批判したが、ユダヤ人差別主義者ではなかった。(続く)
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# by mariastella | 2017-02-20 01:32

ポピュリズムと妊娠中絶とキリスト教の関係

月イチ更新の健康ブログに、近頃の欧米のポピュリズムが「人工妊娠中絶」の合法化や改正などについてうるさく言っているのを見てちょっと書いておこうと思ってアップしたのですが、結構長くなったし、このブログにも書いたテーマとつながっているので紹介しておきます。

この記事です。

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# by mariastella | 2017-02-20 01:31

フランスとイスラム  その1

フランスとイスラムについて前にもう書いたことがある。この記事ではエマニュエル・トッドについても すでに批判している。

これからしばらくこの話について書く。
どうしてトッドのような誤りが生まれたかについてもゆっくり書いていく。

その前に少し概論をして、さらに、アルジェリアのジャーナリストで作家のカメル・ダウードによる2012年から2015年にかけての記事の抜粋を訳する。この人の新しい本が2/15に発売されたばかりだ。

ヨーロッパでイスラム過激派によるテロが頻発するようになったのは、いくつか理由がある。

まず、油断していたこと。

アルカイダはアメリカを標的にしていたし、アフガニスタンやアルジェリアの過激派はイスラム圏でテロを展開していた。フランスでは1997年以来、テロがなかったこともあり、ヨーロッパは別だと思っていたのだ。

イスラム過激派とイスラムのイデオロギーの区別がつかなかった。
というより、イスラムは政治の次元を包含した宗教だという認識によるリスク管理がなかった。

キリスト教はもともとローマ法が制定されていた場所に生まれた政教分離的な宗教だった。
いや、もっと言えば、ユダヤ教がアイデンティティになっていた社会で生まれた非宗教的な教えだった。その後のヨーロッパでは、キリスト教が政治にも軍事にも取り込まれてしっかりと社会の全体主義的規範となったのは事実だ。けれども、ルネサンス、宗教改革、近代革命などを経て、「宗教としてのキリスト教」は限りなく弱体化した。

残ったのは、「伝統儀礼としてのキリスト教」「民間信仰としてのキリスト教」と、キリスト教の基盤である福音にある「自由と平等主義と平和主義」が世俗化した西洋近代普遍主義の価値観である。

「宗教としてのキリスト教」は「信教の自由」の項目の中でのみ存続を許され、キリスト教もそれに適応してきた。

そんな社会にイスラム教が入ってきた。多くは、北アフリカのマグレブと言われる旧植民地(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)からの移民による共同体によるものだったけれど、1960年代以降に、ナーセル大統領の暗殺を謀ってエジプトから追われたスンニー派のイスラム主義(シャリーアによる法治国家の設立を目指す)組織ムスリム同胞団がやってきた。
一部はエルドガン政権のトルコにも亡命したが、ヨーロッパにやってきた彼らは、ヨーロッパにイスラム法治国を打ち立てることを計画した。
もともとイスラムは成立において宗教と政治と軍事が一体化したものだ。異教徒を改宗させてイスラム法による統治を広げる原則を推し進めるグループは、「三度目のヨーロッパ陥落」を目指した。
イスラム勢力は、ヨーロッパでは七三二年にポワティエの戦いでシャルル・マルテルに阻まれてピレネーを越すことができず、その後レコンキスタによってイベリア半島からも撤退したし、一六八三年には第二次ウィーン包囲でヨーロッパの神聖同盟に破られて、領土の割譲を強いられた。三度目の正直が二一世紀の今だという。(続く)
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# by mariastella | 2017-02-19 03:02 | フランス

ウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』(2007)

おしゃれな映画だという評判だったが、ちょっと違うかもしれない。

3人兄弟の造形がユニークなのは確かだ。包帯だらけの兄、いつもアイマスクはつけるがズボンなしで寝る長身の弟、小柄で濃い感じの末弟。アングロサクソンっぽいオーウェン・ウィルソン、東欧系ユダヤ人っぽいエイドリアン・ブロディ、ラテンっぽいジェイソン・シュワルツマン(名はドイツ風だけど。この人は私の昔のピアノの生徒そっくりだ)、とても父母を同じくする血のつながった兄弟には見えなさすぎる。

兄が、インドの長距離鉄道に乗るスピリチュアルな旅を弟たちに提案し、「a,b,c」と項目を並べながらするべきことを指示するのだが、最後の方で、ヒマラヤの修道院で孤児を世話しているエキセントリックな母親が、同じように「a,b,c...」と数え立てるので、ああ、この長男は、スピリチュアル好き(クジャクの羽を使った儀式など)も、こういう話し方も母親譲りなんだなあと分かる。

死んだ父親は、車だとか、サングラスだとか、ベルトだとか、多くのトランク(ルイ・ヴィトン)などの小道具を通して息子たちに影のようにつきまとっている。撮影の年のこの3人は、40、35、27歳くらいでかなり年が離れている。

ダージリン鉄道の汽車の小宇宙もおもしろいし、広がるインドの風景ももちろん興味深い。

寓話か不条理劇みたいで、大きくは、イニシエーションがテーマなのだろう。

それぞれエゴイスティックに生きていた兄弟たちが、長距離列車の客室に閉じこめられて、いろいろな感情の対立やすれ違いがある中で、共に列車から降ろされたり、川に落ちた少年たちを助けたり、助けられなかった一人の葬儀に参加したり、母親と再会したりするうちに、3人の絆と信頼感は深まる、という話なのだけれど、「いい年をした男たちが…」とつい思ってしまう。
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# by mariastella | 2017-02-18 05:53 | 映画

『沈黙』をめぐって その11

映画『沈黙』をめぐっていろいろ書いてきたけれどどこまで何を書いたのか分からなくなったので、ここでいったん停止することにする。
今執筆中の本のテーマと重なっているのでよけいに頭の中でまざってしまった。

本に書いていることの一つは、殉教における自由の問題だ。

以下、それについての一節をここに要約コピーしてこのテーマは終わりにする。

迫害に耐えた「殉教者」たちの多くは「宗教としてのキリスト教」に殉じたといえるだろう。理性で納得して洗礼を決意しキリスト教を実践した人々には、時代の空気が変わってからも、「大義のために死ぬ」という美学を貫くことを余儀なくされた場合があるだろう。宣教師の多くは自分たちの「羊」である信者たちへの責任を感じ、家族や臣下にキリスト教を勧めた武士たちにも義理が生じ、先行するキリスト教のイエスの受難や殉教聖人の後に続くという決意があったかもしれない。
「確証バイアス」をもって日本にやってきた宣教師はともかくとして、「形だけの棄教」にも応じなかった信者を支えていたのは「信仰」よりも「狂信」に近い原理主義的確信であったかもしれない。それは迫害者側も同じことで、人はそれぞれの「大義」のために殺したり殺されたりしていた。 

殉教者の中には、原理主義的な偏狭の罠に捕らえられたり、「義に殉じる」「誓いに殉じる」という原則を貫いたりしたのではなく、純粋に「愛」のために死んでいった人々がいる。

殉教を覚悟で、むしろそれを大いなる恵みとして意気高らかに喜びのうちに死んでいった。日本の場合も、死を前にした宣教師らが本部に送った手紙の中には、熱烈な愛の歓びと勝利を謳ったものがある。これは、神が「受肉」して人として苦しんだイエス・キリストとの「関係」の上に立つキリスト教の特徴の一つかもしれない。彼らは、「狂信」や「原理主義」や「宗教」のためにではなく、ただ並外れた「イエスへの愛」のうちに死ぬ以外の選択肢がなくなっていたのだ。このことは、「忠義」のために命を捨てるという文化の日本社会に「愛のために命を捨てる」という新しい地平を開いた。

そのこととも関係しているのが、貧しいキリシタン村の指導者や、学のない庶民の殉教だろう。
彼らの多くが棄教しなかったのは、殉教を決意した親兄弟からの同調圧力のせいでもなく、宗教の原理主義的な教えに「洗脳」されていたからでもなく、「イエスへの盲目的な愛」のためだけでもない。多くの「庶民」に殉教の覚悟を促したものは、キリスト教の根本にある「自由」のメッセージだった。

イエスは「神の言葉」に依って立つユダヤ教の世界で生きていたが、いつしかその神の言葉が、形骸化し支配階級のツールとなり、偽善の足場となっていることを批判した。「神の言葉」や「律法」を司る階級が、それらを人々の手に届かない「聖なるもの」とすることで権威や権力や利益を獲得していたのだ。イエスはそれを批判した。神の言葉も律法も、人間のためにあるのであって、人間が神の言葉や律法のためにあるわけではない。神が人間を愛し、信頼し、何度信頼を裏切られてもまた愛したように、人も隣人を愛し、敵さえも愛さなくてはならない。

けれども、最初のキリスト者の共同体はすでに、個々の生き方よりも共通した「形」にこだわるという誘惑にさらされていた。パウロが割礼の有無についての議論の中で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(ガラテヤ5)」と言っていることがその状況をよくとらえている。パウロは、キリスト教が「軛としての律法」から人々を自由にするために出発していると訴え続けたのだ。それは同時に、「律法遵守主義」の中に人質のように取り込まれている「神」をも解放することを意味していた。

日本の戦国時代から江戸時代初期までの動乱期において、農民の多くは、戦乱に巻き込まれ、土地や作物を略奪され、蹂躙されてきた。暴力の行使を裏付けとした支配構造のただなかにあった。そんな時に、人の世界の上下関係や差別構造をすべて超えた超越神が被造物であるあらゆる人々を愛していて、そのために「人が人を殺す」世界にあえて「独り子」を遣わしたという教えが入ってきた。

人は神の前に「平等」であり、神は人に各自(ペルソナ)の「自由」を与えたという。その神を信じれば、イエス・キリストによる救いにあずかれて、天国での永遠の命と安らぎが得られる。この世での差別や暴力に苦しみ続けるばかりであった農民や漁民らにとって、「キリスト教」ははじめて自分たちが個人として愛され救われるという希望をもたらせてくれるものだった。

キリスト教の信仰の中で、彼らははじめて「自由」を獲得した。彼らの共同体は共通の神を拝み、それ以外の権威を認めない、妥協しない共同体だった。拷問され、「形ばかりの踏み絵だから踏むがよい」などと言われても、踏み絵を踏んで失われるのは信仰ではなくて「自由」だった。

思えば、義のため、忠節のために命を捨てるという文化の日本においても、愛のために「心中」するというカウンター・カルチャーが存在した。
それも、社会の中で容認されない恋、恋を遂げるために必要な金銭が用意できないの末の心中である。

神に愛されていると知り、神の子キリストへの愛の中で「自由」を知った人々にとっては、「棄教」は信仰だけではなく自由を捨てることと同義だった。キリシタン大名の息子に生まれたわけではなく過酷な生を生きていた庶民たちは、はじめて人を平等に愛するという「主」、自分たちのために苦しくて屈辱的な死を受け入れたという「主」、その「主」への愛を通して主のもとでもう誰にも搾取されない永遠の生を得られることを知った。

このようにいったん自由と愛を知った庶民にとっては、棄教することは再び「奴隷の生活」に戻ることと同義だった。(・・・・・)
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# by mariastella | 2017-02-17 02:37

『沈黙』をめぐって  その10

映画『沈黙』の話に戻る。フランス語での「批評」で印象に残ったものを少し。

「日本に何年も済んだことがある」と称するフランス人が、この映画を見てショックだったというコメントを残しているのを見た。

「日本という国は全くこの通りで、信じられないような暗黒面を自然の美しさが隠している」というのだ。(日本で何があったんだ、このフランス人…)

リベラシオンだかの映画評では、

「この映画ではの信仰は、それを否定する相手に対してどれだけ抵抗できるか、ということに集約されていて、棄教するくらいなら他の人たちが殺されるのを受け入れる方がましだという、今なら〈狂信的〉と形容される態度に近い。日本人が、おびえて司祭にすがりつく者たちとサディックな審問官のどちらかに単純化されているのは弁証法的な視点が全くないひどいものだ。スコルセッシは17世紀の日本と同じように古臭い」

という趣旨のものがあった。

あるカトリックメディアのレビューではバチカンで教皇も含むイエズス会士のために特別上映した時のエピソードが伝えられる。

上映後に、日本人の残虐さと暴力についての話題になった。

その時に、フィリピンのイエズス会士の一人が立ち上がってこう発言したという。

「ええ、確かにこの時代の日本人は残酷にふるまいました。でも、当時、別の種類の暴力がアジア人に対して犯されていたのです。それは西洋が『真理』をもってきて、アジアの文化はよくないと言ったことです」

日本人はもしキリスト教を食い止めなければ政府も領土も彼らの本質も失うだろうと考え、自衛のために国境を200年閉ざしたのだ、とレビューは締めくくられている。

こういう時に、「カトリック大国」のフィリピン人でもやはりアジア同士の視点を持つのかな。
ということは彼らも「西洋」主導のカトリックの上から目線や、植民地とセットになってきた歴史を消化しきれていないのかもしれない、などと思ってしまう。

そういえば、『沈黙』の時代とちょうど同じころ、確かクロムウェルのアイルランド侵略があって、カトリックが半端でない殺され方をした。
それは一応「キリスト教」文化圏同士の内戦でもあり、民族的にも文化的にも、ヨーロッパと日本のような差がない。要するに、「宗教」はどこでも口実に過ぎなくて、覇権争いであり、政治の問題だということだ。
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# by mariastella | 2017-02-16 06:16 | 映画

閑話休題 トランプ大統領の握手とトルドー首相

先日フランスのTVのニュースでトランプ大統領と安倍首相の握手のシーンが映って、なんだかいやな気分になった。
トランプの握手の仕方についてはもうさんざん知られているのだから、何か対策を立てていけばいいのに。
相手の手を自分の手の上に載せるように手首を曲げるのは、宮廷ダンスなどで伝統的に男が女の手を取る形だ。
普通の握手なら手は縦になる。

いろいろ含意がありすぎ。

カナダのトルドー首相は十分対策を練っていたようで、フランスでも話題になった。日本語でもこういうサイトなどで見られるようだ。

で、共同声明の時も、トルドー首相が突然フランス語に切り替えて話しだし、トランプが少し驚いた顔をして、それを見たトルドーが「よろしければスペイン語で続けますよ」と言ったそうだ。スペイン語といったのはトランプのヒスパニック差別(メキシコとの壁やホワイトハウスのスペイン語ページの閉鎖など)を揶揄しているのだ。

トルドー首相は、フランス系の自分の父親が首相時代に根づかせた英仏2ヶ国語公用語制の存続に最初は積極的ではなく、そのことを批判されて謝罪したという過去がある。
カナダのやり方にはいろいろ思うところ(イヌイットへの差別など)もあるが前にこの記事にも書いたようにアメリカに対してはなかなかやるなと思う。

カナダとは普段から縁があるのでこういう時には気分がいい。

フランスは5月に選ばれる次の大統領までトランプとの会見はないのだろうか。フランス大統領がどういう握手をするのか見ものだ。

そもそも、アングロサクソンの握手とフランスの握手は全く違う。
アングロサクソンの握手はshake handsで手を握って振るようなシェイクだが、フランスの握手はserrer la mainで、強く握る、ワン・アクション、ワン・プレッションのひと振りで終わり。
長く握っているようなのは、ボンジュールといいながらの握手ではあり得ない。長いものは特別誰かを祝福したりなどの別の意味が生じる。

ほとんど写真撮影用の握手をしなければいけない政治家の会見など、ボディランゲージが見えすぎてほんとうに大変だなあと思う。
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# by mariastella | 2017-02-15 07:34 | 雑感

『沈黙』をめぐって  その10 番外: ル・ペンと猫

殉教のテーマで書くことがまだまだたくさんあり、その上、フランスとイスラムの関係、日本で読まれているエマニュエル・トッドのひどさなどについてもじっくり書きたいのだが今取り込み中で、ゆっくり書けない。

で、今日はちょっと寄り道して「猫」の話。

映画『沈黙』で、五島に戻ったロドリゴの目に移ったのはおびただしい数の猫ばかり、というシーンがあった。猫好きには印象的だ。

「フクシマの猫」のことも心をよぎる。

最近、猫についてショックなことというか、考えさせられることがあった。

サイトのフォーラムで、最近こんなことを書いた。

>>>猫飼いって、どんなに親ばかで自慢しても罪がない感じがします。猫を支配しているわけではないことが明らかだから…。
プーチンが猫を愛でている写真なんてあり得ないでしょ。クリントンもオバマもトランプも犬の「ご主人さま」だし。(007のボスが白いペルシャ猫を愛でていたのはある意味もっと怖いですが。)<<<

ところが最近、フランスの大統領選の第一次投票の一番人気である極右国民戦線のマリーヌ・ル・ぺンがとても猫好きであることを知った。

写真を検索してみると、父親のル・ペンも猫との写真はあるが犬との写真もある。いかにもという感じのものだ。

マリーヌと犬で検索しても出てこない。
猫との写真を見る限り、本気で猫好きのようだ。

犬好きの権力者のイメージを覆すための「演出」だとしたら驚きだけれど、まあそこまでする意味はないだろうと思う。
2015年のインタビューで、一番最近泣いたのは? と聞かれて、猫が犬にかまれて殺されたことを挙げ、それだけで目が潤み、私は猫かあさんだから、と言って、その後他の猫を守るために引っ越しまでした、と語っている。

前にこのブログでリシュリューの猫というシリーズを書いた。
考えてみると、リシュリューも権力の権化みたいな人だ。
そういえばカール・ラガーフェルドと猫についても書いた。こっちの方は排他的な一匹への愛なのでナルシストっぽい感じがするが…。

マリーヌ・ル・ペンって、不思議な人だ。
偏見を捨てて公平に見てもその政策はとても私には容認のできない者なのだけれど、猫かあさんって…親近感を掻き立てられすぎる。

同時に、犬好きがどうとか猫好きならどうとかなんて軽々しく口にしてはいけないんだなあ、と自戒させられた。
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# by mariastella | 2017-02-14 06:25 |

『沈黙』をめぐって  その9

スコセッシのインタビューの続き。(カトリック雑誌より)

--- 『沈黙』の最期にロドリゴの棺の中に小さな木の十字架がある意味は?

これは原作にはない。私は何年も、エピローグを読んでいなかった。エピローグに東インド会社のオランダ人によって、ロドリゴが何度も棄教の宣言をさせられたとある。つまり、彼は何度もキリスト教に戻ったのだ。遠藤は彼が信仰を持ち続けていたと言いたかったのだろう。遠藤は別のところで、第二次大戦後にイエズス会を去った還俗司祭を1950年代初めにあるレストランで見かけたことを書いている。食事が出された時、その人が十字を切って食膳の祈りをするのを見たという。それもヒントになった。信仰は何かとてもパーソナルなものになったのだ。

(これは今のフランスでは決して珍しくない妻帯司祭の例にもある。彼らの多くは教会法上、司祭職を続けることはできないけれど、信仰はまったく変わらないと言っている。制度としての宗教のさまざまな制約に抵触することで帰属を放棄せざるを得ないことと、キリストの愛に生き、弱い立場の者に寄り添い続けることは別だ。それこそパウロが割礼の有無についての議論の中で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(ガラテヤ5)」と言っているように、キリスト教は「軛としての律法」から人々を自由にするために出発した。しかし、典礼や規則の体系を伴う宗教という社会的な表現なしには「信仰」は形にならない。
人間は社会的存在だから、生まれた瞬間から、時代や場所、所属社会の文化や伝統を背負っている。「宗教」は長い間そのような逃れられない属性の一つだった(サウジアラビアのような国に生まれれば今でもそうだ)。今の「先進諸国」では信仰の有無も、宗教の有無も強制されない。「棄教」の形も進化し続ける)

---信仰とは、共同体で分かち合うことがなく心の奥で生きる親密なものであり得ると思いますか?

全くそう思う。信仰は日常の行動を通して生きることができる。宣教師の役割は変わった。助け合いの次元はもう布教の中にない。「国境なき医師団」のような様々な団体は天使の働きをしている。信仰のあるなしにかかわらず義となるやり方で働いている。

(特定の共同体への帰属意識がなくて決められた典礼に従わないで生きることは難しくないが、宗教行為を通して表現しない信仰は、やはり他者との関係の中で生きられなければ意味がない。一人で自分の「無病息災」を祈っているようなものは信仰ではなく別の次元の原始的な「神頼み」に過ぎないのだろう。「宗教」としてのカトリック教会でさえ、今の教皇は教会の外へ出ていきなさい、野戦病院であれ、などと言っている)
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# by mariastella | 2017-02-13 04:32 | 映画

『沈黙』をめぐって  その8

中断していたスコセッシのインタビューから。(カトリック雑誌より)

---『クンドゥン』との関係。仏教への傾倒について。

仏教の静謐さ、瞑想が好き。宇宙と対立するのではなくその中に居場所を見つけること。台湾でも日本でも自然と一体化するするやり方を見た。それも神性の一種の受容かもしれない。けれどもキリスト教の要求の高さ、他者をのことを考えるように仕向けるところが私の気に入っている。私は映画人としてはエゴイストだが、子供の時からキリスト教的考え方に影響を受けている。

(これはなかなか突っ込みどころが多い。仏教にもキリスト教にも静謐や沈黙の修行や伝統もあればやかましいものもある。他者に施しをせよという戒は仏教にもある。自然と一体化とか宇宙の中に居場所を、というのは確かにキリスト教にはない見方とだと思われそうだが、キリスト教は自然や宇宙も人間と同じ「創造物」としているのだから、人はすでに自然と同じ側にあるのだ。神は宇宙や自然の外に、超越した存在だ。ギリシャやオリエントの多神教世界では自然や宇宙の側に「人間を超えた」もの(神?)を見ているのだから、一体化は時として「諦念」だったりもする。でも、そもそも、エジプトもギリシャもパレスティナも日本も、大きく見れば「ローラシア神話文化圏 ⁽『キリスト教の謎ー奇蹟を数字から読み解く(中央公論新社)』第六章p83参照)」なのだから、太陽を崇める神のヒエラルキーや、「国づくり」神話のような「神による人間世界の創造」というテーマも実は共通している。初期にデウスを大日と訳した誤解などは別としても、根本のところで親和性があったという気がする)

---ロドリゴとキチジロー、司祭とユダのどちらに近いですか?

初めはロドリゴに近いと思っていたが、結局はキチジローだ。善いことをしようと思うのにいつもぼろぼろになる。力がなく、自分にも他人にも誤ったことをする。でもある意味でキチジローはロドリゴの師(メンター)だとも言える。そして最後まで彼のそばに残った。


( キチジローはユダというよりパウロだなあと思う。パウロは「ローマの信徒への手紙」の7 章でこういうことを言っている。

わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。
善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

これってキチジローそのものだ。そして多分、誰でもそうだろう。自分の中で天使と悪魔が戦っている、という感じよりも、デフォルトが悪で、善は「望むもの」としてしか存在しない。

だからこそ、望まない悪を犯したことを後悔し、告解すれば免償してもらえるカトリックのシステムはキチジローにとって「希望」そのものだった。性懲りもなくあんなに何度も赦してもらいにくるなよ、と思ってしまうが、悪業のカルマを積むばかりで来生は畜生道に落ちるしかない、と絶望したり良心の呵責に苦しめられたりするのはつらい。司祭に告解して、重荷を下ろしてもらえて、さあ、行きなさい、と懲りずに信頼してもらえるカトリックの方がセラピーとしてすっきりする。キチジローがロドリゴのメンターだというのもこれに通じるだろう。ロドリゴが踏んだ踏み絵のイエスは、自分自身の自尊感情だったのだ。)
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# by mariastella | 2017-02-12 06:38 | 宗教

『沈黙』をめぐって その7

『沈黙』のテーマについての考察を続ける前に寄り道。
笈田ヨシさんが、雑誌『日経回廊』で「映画『沈黙』に出演して僕が考えたこと。」という記事を書かれていたのを見せてくださった。
そこで初めて、笈田さんが、ジョアン・マリオ・グリロ監督『アジアの瞳』(1996)という日本とポルトガルの合作映画で、なんと中浦ジュリアンの役で出演なさっていたことを知った。

中浦ジュリアンというのは有名な4人の「天正の遣欧少年使節」の一人で、日本人で初めてポルトガル、スペイン、イタリアなどを訪れ、司祭に叙階された人たちだ。有馬の神学校に通っていた14、5歳の将来有望な少年たちが選ばれて、初の日本人司祭 を養成するために1582年に出発した。本能寺の変のあった年だ。

8 年後の1590年に帰ってきて、翌年会った豊臣秀吉にも好意的に迎えられた。その後天草やマカオで修練して1608年に司祭叙階される。博多で宣教していたが1613年にキリシタン弾圧が始まり、長崎に移り、翌年の江戸幕府によるキリシタン追放令が出た時に潜伏して20年も信者を支えた。1632年に逮捕され、翌年『沈黙』でフェレイラ神父が「転んだ」穴吊るしの刑にフェレイラや他のイエズス会司祭や修道士らとともに処せられた。

苦しさのあまり棄教したのはフェレイラ1人で、65歳の中浦ジュリアンは4日目に最初に息絶えた。ローマに旅立った日からちょうど半世紀が経っていた。毅然として「ローマに赴いた中浦ジュリアン神父」だと役人に言った。「ローマに行って教皇と会った」のは彼のアイデンティティの核にあったのだ。

けれどもローマに行った4人の少年のうち他の3人伊東マンショ、千々石ミゲル、原マチルノは殉教しなかった。ミゲルは神学の勉強を続けず棄教してイエズス会を去った。彼らはみなキリシタン領主の息子たちであり、政局の変化と共に棄教しても、生活の安定は保証されていた。リーダー格であったマンショは絶望して病死、学にすぐれたマルチノは1614年マカオに戻って出版や翻訳などの活動を続け1629年に死んでマカオの大聖堂に埋葬された。マルチノも大村領の名家の出だから、拷問されずに亡命という選択肢があったのだろう。高山右近が棄教せず追放されてマニラに渡ったのと同時代だ。

晩年のジュリアンは拷問のため失明していて、この映画でも目を隠している。彼に棄教を勧めるかつての仲間ミゲルの家で、座敷の隅に熱を出しているという赤ん坊(ミゲルの孫)をおいてミゲルが席を外した(ふりをした?)時に、そばにある盥からそっと水を汲んで洗礼を授けたシーンがあるそうだ。(親の正式な同意と依頼なしに洗礼を授けてもいいのか?とつっこんではいけない。別に割礼するわけじゃないからね。ここは以心伝心というわけだ。宗教の形は捨てても信仰は捨てていない、というのでなく、司祭を前にしてやはり形を求めずにはおれない、というのは『沈黙』の告解と通じる)

ネットで少し試聴できるが、やはり、笈田さんの存在感はすごい。



笈田さんの目力はすごいが、目を覆っていても同じオーラを発揮している。

それにしても穴吊りの刑に耐えて殉教した聖人である中浦ジュリアンを演じた笈田さんが、20年後に、杭に縛られて海水を浴びせられて死んだキリシタンの村の長老イチゾウを演じるなんて、なんというめぐりあわせだろう。

笈田さんには、迫害する側の役人をやれないのかなあ、とふと考えるけれど、彼が迫害者を演じたらそれはそれですごく迫力のある迫害者になるだろう。

笈田さんは今日本で、今月18日に東京芸術劇場シアターオペラでの『蝶々夫人』の演出をしている。

この紹介を見つけた。すごく刺激的な試みだ。観たかった。東京にいる方はぜひどうぞ。


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# by mariastella | 2017-02-11 04:32 | 映画

『沈黙』をめぐって その6

『沈黙』のテーマに関しての考察を当分続ける。
 
この映画の中で、日本には「キリスト教が根付かない」とい有名なくだりがある。
植え付けても根枯れする、というのだ。

日本語で文化と訳されるカルチャーという言葉はもともと植物の栽培に関した言葉だ。

で、この映画では、キリスト教、あるいは「普遍協会」の「アカルチュレーション」は不可能だと言っている。aculturation は、栽培で言うと「移植」だ。臓器移植で拒否反応が出て失敗するという言葉も連想する。
で、今のカトリック教会(第二バチカン以降)というのは、もうaculturationはやめて、インカルチュレーション inculturation (栽培で言うと埋め込み)の時代だよね、ということになっている。
つまり、帝国主義の侵略と親和性のあるようなアカルチュレーションはやめて、種だけ持って行って現地のやり方で育てよう、という感じか。

詳しく知りたい人には 2013年のコンゴで出たこの文を読むと感動的によくわかる。

人間の宗教的な「召命」と文化とにはオーガニック(有機的)なリンクがある。「普遍教会」であろうとなかろうと、その宗教的な表現はすべて「文化」に結びついたものだ、とある。
つまり、ローマ教会が「普遍」の教えだと思っていたものは、「普遍」をヨーロッパ文化の文脈で表現した教えだったという当たり前のことだ。

木を移植するのにはそれに適した気候、風土の研究が必要だ。ヨーロッパ産のものがすぐに日本に根付くとは限らない。
ローマ教会は、パレスティナから広がったキリスト者たちが広めた考え方を「体制宗教」としていく中でしっかり自分ちでインカルチュレーションしていた。種が埋め込まれて、風土に適した新種が育ったのだ。そういう形でなければ新しい宗教が習俗や伝統としては根付くことはない。

で、一六、七世紀のフランシスコ会やイエズス会は別として(中国のマテオ・リッチなどかなりインカルチャーした人もいたけれど)、遠藤周作が影響を受けた近代以降のフランスのパリ外国宣教会はアジア専門だったこともあって、よーし、今度こそ失敗しないぞ、とがんばった。
彼らが建てた日本人向けの教会には畳敷きのところが多かったのもその意気込みを表している。
長崎で「隠れキリシタン」を「発見」したのがパリ外宣の神父で、フランスのカトリックは沸きに沸いた。原種に近く戻す必要はあったけれど、「インカルチュレーション」の奇蹟だと思った。
でも、隠れキリシタンではなく、宣教師らの作ったミッションスクールなどを通してキリスト教を「欧風文化」の一環とみなしていた日本人の感覚とはかえってずれていたかもしれない。

要するにこういうことだ。

ローマ教会が、自分たちの「普遍」も文化の一形態であり、それを超えたところに真のルーツである「普遍価値」があり、それを異文化世界で広め認めてもらうことは不可能ではないのだ、とようやく理解するためには、

プロテスタントに離反され、
宗教戦争で血を流し、
近代革命に追放され、
政治の道具にされ、
自分たちの内部でしっかり根腐れを起こしているのも何度も土を入れ替えたり品種改良したり、
そうこうしているうちに人々の心が離反していった、

そういう経験のすべてを必要としたということだ。

こうなるといいかげん、宗教としては「終わりのコンテンツ」となっても不思議ではなかったのだけれど、そうならなかったのにはわけがある。

それは『沈黙』とは別の話なので別のところで。

ともかく、『沈黙』でフェレイラが「この国って絶対無理なんだ」って言っているのは、

アカルチュレーションのやり方で「真理の花」を咲かせるっていう方法論が間違っているんだよ、

と気づいたと言っているのだ。

けれども前の記事でも書いたように、一七世紀前後のヨーロッパのキリスト教世界というのは、一応同じ文化の中だったのに、地質が変わり、栽培法も変わり、「真理」も「花」も、その有用性はおろか存在すら疑われた時代だった。
イエズス会士たちはそれを十分知っている。

「拷問に負けて棄教はしたけれど心の底では信仰を捨てずにずっと神を信じて生きていきましたとさ」というようなお花畑な話とは無縁だった。

「社会の秩序維持のため、キリストへの愛のため司祭職を全うするけれど、心の底では無神論の誘惑にさらされて疑いと迷いの中で生きていきました」というケースの方が縁がある。

通辞と井上様がロドリゴのことを「よし、あいつは傲慢だから絶対転ぶぞ、」という感じで予測した人間観察は正しかった。(続く)
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# by mariastella | 2017-02-10 01:13 | 宗教

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その5)

映画『沈黙』、フランス公開初日の最初の回に観に行った。

もうさんざん映画評やら、感想やら、スコセッシの言葉などを読んだり予告編をネットで観たりしていたので、なんだかもう見る前に食傷気味かなあと思っていたのだけれど、「百聞は一見に如かず」、アカデミー賞の撮影賞のノミネートというのはすごく妥当だと思うくらいカメラワーク、アングル、素敵だ。音とそして無音の部分も魅力的。

拷問だとか処刑シーンは見たくないのでいやだなあと思っていたけれど、意外に我慢できた。
リアルの知人笈田ヨシさん(村長のジイサマ)が磔られているのはショックだったけれど。
彼にも書いたのだけれど、普通なら彼のリアルさが作品への没頭を邪魔するかもしれないと思ったけれど逆で、彼がリアルの彼のままなので、作品世界全部が彼にくっついてきてリアルに見えた。

このジイサマとモキチの信仰がすごく説得力がある。
塚本晋也の相貌と表情には誰でもキャッチできる誠実さのシグナルがある。
この2人の組み合わせ、そして、若いイエズス会士二人の描き分け、演じ分けが秀逸なので、物語としてのメリハリがある。

フェレイラの描き方はとても日本的だと思った。
私は『無神論』の「一七世紀の無神論」という項で、フェレイラにも触れている。イエズス会のガラス神父の著作にも触れて、当時のカトリック神学者の状況について書いた。当時のヨーロッパでは「一般信者は何も理解しないでただ信じているだけ、それでOK」というスタンスだったのだが、一六世紀後半からの日本人の信者はほとんど「知的に理解」して賛同する人々だった。高山右近もその一人だ。
一方で、当時の仏教僧は信徒に何かを理解させ説得するという必要はまったくない主流秩序の構成要素だった。だから宣教師とまともにディベートをすればひとたまりもなかった。
不立文字の禅宗が盛んな頃だったが、日本人がすべて「以心伝心」でやっていたなどと思うのは幻想で、多くの人は、「真理の言語化」というものに出会って驚倒し魅惑された。

『沈黙』の時代の迫害は、もう完全に政治的なものだから、理性の次元も宗教の次元も超えている。

もう一つの次元に「愛」というものがあるのだが、これは驚くべきもので、これを「信仰」と呼ぶのなら、それは「愛の対象に出会った人」にしかわからない。

そういうこともこれから少しずつ書いていくつもりだし、今書いている本の流れとも関係している。

だから『沈黙』もそういう全体の文脈でしか私には見られないのだけれど、せっかくだから、スコセッシの話の続きもふくめて、まだ続けていくことにしよう。

今日のところは、私には意外だったある「フランス人の感想」を紹介。

1. キリシタンの一人が突然首を切り落とされるシーン。その男が1人だけ残されるのに、恐怖の様子が見られなかったのは不自然だと思った。(えっ、そんなこと言われても、もう一度見てみないと私には分からない。ほんとにそうだとしたら何か意味があるのだろうか?)

2. 通辞役が日本人には見えない。不自然すぎる。
(不自然、不自然って自然主義的なことばかり言ってどうする? でも私が通辞役の浅野忠信って北欧系アメリカ人のクォーターなんだよ、って言ったら、なるほど、と言われた。そんな微妙なことってあるのかなあ。井上筑後守役のイッセー尾形とのコントラストが絶妙だと思うけど。)

3. で、肝心の、踏み絵を踏んで棄教するということと信仰の問題はどう思う? と質問。そしたら、

「拷問や強迫によって強要された自白は無効だから」って。

うーん、ある意味すごく明快。

こういういろいろな迫害の歴史を経て、少しは暴力制御装置が働くようになった時代に生きててよかった。

(続く)
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# by mariastella | 2017-02-09 03:22 | 映画

高山右近の列福式と『沈黙』の関係など

高山右近の列福式のビデオをネットで試聴した。

へー、大阪城ホールってこんなに大きいんだというのが第一印象。
メガ・チャーチみたいだなあ。

長崎での列福式とか列聖式などでは、周り一帯がテーマパーク風になる感じなので不思議ではないけれど、大阪って、南蛮文化館を観に行ったことがあるくらいで、カトリックの教会など見たことがない。

それなのにこの大盛況って、やっぱり、元大名っていうインパクトだろうか。小説やドラマで戦国ものは日本人の好きなテーマだし、去年の大河ドラマもキリシタン弾圧とか細川ガラシャとか、右近と同時代のものだったようだから、タイムリーだったのかもしれない。

以前の殉教者セレモニーの時にも書いたけれど、時の主権者の政令に背いた犯罪者を称えることに躊躇する中国なんかと違って、判官びいきというか、つらい最期を遂げた人に共感を持つ日本って悪くない。

忠臣蔵だって、言ってみれば、殿中で刃傷沙汰を起こして罰せられた主君の仇という名目で、たった一人の相手を討つのに武装した47人が攻め込むなんて、しかも、ただ警備の任務に就いているだけの武士たちを殺したのだろうから、なんだかひどい話にも思えるが、日本人好みのストーリーだ。

高山右近の方は、殺されたわけでもないし、拷問も受けなかった。

その後のキリシタン迫害では、ひどい拷問のために宣教師さえ棄教したということは、映画『沈黙』で描かれているとおりだ。

右近はマニラに追放されてすぐに客死して、殉教と認められたわけだが、彼がこういう撤退の仕方をしてくれたことの意味は実は大きい。

その後のひどい迫害の後でも、そのことがカトリック教会に知られていたにもかかわらず、いわゆる「十字軍」的な日本への侵攻が試みられなかったからだ。戦国大名という立場の右近が「叛旗を翻す」ような行動をとらなかったことはすばらしいメッセージだ。

当時の迫害には三種類ある。

最初は長崎の26殉教聖人のように、天を称えて十字架に架けられた人々。
これは、迫害する側にとってはまずい結果だった。
まさに、「殉教聖者」を誕生させたわけだから。

十字架上で殉教するなど、同じように磔刑死したイエス・キリストをいただくキリシタンにとっては「光栄」でしかない。信仰の強さが信仰の正しさを証明するようになっては藪蛇である。

次に追放。

追放するなら、特に、キリシタン大名の追放なら、領地や財産を没収できるからまだ実利がある。

しかしそれではもうやっていけなかった。

で、拷問をエスカレートさせる。
コストパフォーマンスの関係からいうと、拷問して棄教させるのが一番有効である。
特に「指導者」たちを。

それが『沈黙』の世界だ。

で、それでも、なんというか、この世界は一応全体としては「野蛮」から「文明」の方に向かっている。

今のISのような「野蛮な宗教過激派」が中東のキリスト教コミュニティ(中東は世界で一番古いキリスト教コミュニティのある場所だ)を支配した時も、キリスト者に選択肢を与えた。

まずキリスト教を捨てさせてイスラムに改宗を迫る。

改宗しない者にはいくつか選択がある。

金を払う(だからといって自由に信心行がで切るわけではない)。
家財産を捨てて出ていく。
逃げ遅れた者、金を払わない者、は首を切られて殺される。

多くの人がイラクやシリアから出て行った。
それが今のヨーロッパの難民問題の始まりだ。

そして、中東のキリスト教徒を迫害するISはけしからん、ということで、同盟軍が、空爆という名の「十字軍」侵攻を始めた。

もちろんいろいろ状況も時代も違うけれど、基本的にはこういうシナリオがある。

そう、高山右近と彼と共にマニラに追放された300人の日本キリシタンは、「宗教難民」なのだ。

『沈黙』のタイプの拷問と棄教は、もう古いタイプの迫害である。

高山右近型の「難民」をどう受け入れてどう評価し、迫害者をどう扱ってどう評価するかが、今問われている。

このことについては別の場所でも書くことにしているけれど、そういう意味で右近が2017年の今列福されるということは意義深い。

列福式では右近が追放されたにかかわらず、神に従い光へと向かう喜びと希望の中にいたというようなことがコメントされていたので、スコセッシの言葉を思い出した。

スコセッシも、悲惨で残酷に見える『沈黙』の一番のテーマは、実は、ミゼリコルド(神の慈しみ)とそれに対する「喜び」なのだ、と言う。

痛めつけられて殺されるので自衛のために脳からドーパミンが放出されて歓びになるんじゃないのか、というわけではないようだ。(その喜びの正体は今なんとなく分かるが、別の機会に書く)

でもとりあえず生き延びようと逃れるシリアの難民たちは、ヨーロッパの国々が「与えてくれる」ミゼリコルドにはたして希望を持っているのだろうか。

難民を宗旨に関係なく受け入れよという今のローマ教皇の呼びかけは、「慈しみ」の特別聖年を設けた人だけあって、筋が通っている。

一応キリスト教のトランプ大統領は、南米出身のフランシスコ教皇が選出された背景にはオバマ大統領とヒラリー国務長官の陰謀があった、として、調査を命じたそうだ。
笑える。

そして、

いつか列福される可能性もなく、立派なミサを捧げてもらえることもなく、ただ、家も故郷も捨てて、命がけで徒歩や危険な船で「政教分離の文明国?」にやってきて鉄条網に阻まれる人々のことを考える。

「政教分離の文明国」に生まれ育ちながら、その底辺で、住むところも持たず、寒空で飢えたり凍えたり、孤独に苦しんだりする人々のことを考える。
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# by mariastella | 2017-02-08 01:24 | 宗教

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その4)

スコセッシはニューヨークのリトル・イタリーという地区で育った。
一方にギャングや不良グループがいてもう一方にカトリックの司祭たちがいる、という環境だ。

彼に外の世界への目を開いてくれたのは11歳から17歳まで指導された司祭だった。
司祭は、スコセッシにイギリスの小説家グレアム・グリーンの『権力と栄光』(1940)を読むように勧めた。

グレアム・グリーンは、イギリス国教会からカトリックに転向した人だ。
この小説は20世紀前半のメキシコ革命下のカトリック迫害をテーマにしたものだ。ウィスキーを飲んでアル中気味の神父がカトリック摘発の警察当局から逃亡して村に隠れるが、当局は村人を人実にとって神父を誘い出そうとする。同僚には当局の弾圧に負けて結婚した神父もいる。

遠藤周作は『沈黙』を書くのにこの本の影響を受けたと明言している。

司祭に勧められてスコセッシが読んだものではこの本だけはない。
もう一冊は、Dwight MacDonaldの『ある革命家の回想』(1960)で、トロツキストからソ連を憎む平和主義者に転向したNY生まれのジャーナリストの作品だった。

スコセッシはぜん息でアパルトマンに閉じこもる少年時代だったから、司祭との出会いや読書が大きな影響を与えたことは確かだろう。

『最後の誘惑』の後でポール・ムーアから「本気で信仰について語りたいのならぜひこれを」と『沈黙』を渡され、ロドリゴの棄教のシーンにはまった。
キリスト教の基礎となるメッセージ隣人愛や汝の敵を愛せよ、に立ち返って信仰を考えようとした。革命的だと思った。ユートピアかもしれないが、非暴力に価値を与えたことで人類はサバイバルに成功したのだ。

とスコセッシは語る。

なるほど。

1920年代、チェスタートンらと同じ時期にカトリックに転向したグレアム・グリーンは、1930年代には共産党に入党した。どちらも当時の知識人にとって一種のブームだったという。晩年にも、確信を持ったカトリック信者と共産主義者には共感があると言っている。「解放の神学」などの影響も想像できる。

『栄光と権力』の直接の舞台となったのは、メキシコ革命に続くクリステロス戦争という白色テロ、宗教迫害の残滓で、1924年のカリェス大統領による迫害から内戦となり、犠牲者たちのうち22人の司祭と3人の信者が殉教者として2000年に列聖されている。カトリックの反乱軍はグアダルーペの聖母の旗を掲げて、司令官の名もイエズス何某だ。

殉教の司祭クリストバルは信徒の武力蜂起を戒めていた。
逮捕されてもすぐに敵を赦し、自分の流す血がメキシコの平和の礎となるようにとの言葉を残して処刑されたという。

内戦はおさまったが、そ1940年にカトリックの大統領が就任するまではカトリックの司祭への追求は続いたという。

『権力と栄光』はジョン・フォードの『逃亡者』として映画化され、ヘンリー・フォンダが追われる神父役だった。
検索するとネタバレ付きのストーリーが日本語でも出てくる。

何かが決定的に『沈黙』と違っている。
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# by mariastella | 2017-02-07 03:12 | 宗教

フラクタルの最期

毎日、楽しみにしていたフラクタルが全滅。

犯人はこいつ。



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ごめんなさーい、と逃げた先がこれ。


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最近変えたPSのモニターの空箱。これを見たネコ飼いは絶対切り取りたくなるよね。
え、私だけ?
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# by mariastella | 2017-02-06 00:02 |

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その3)

映画『沈黙』の公開がいよいよ来週水曜に迫ったので<スコセッシ監督もフランスにプロモーションに来てあちこちでインタビューを受けていたのだが、なかには「へえー」っと思ったものもあった。
いろいろ考えさせられたので少しずつ紹介していこう。

それにしてもスコセッシの知名度は高いから話題にはなるけれど、フランスでの上映館はかなり少ないようだ。
観客動員を見こめそうにない映画という市場原理の方が監督の知名度に勝つということだろう。

今発売中のパリ・マッチ誌なんて、『ムーンライト』(これはわたしも観にいくつもり)を絶賛しているページの片すみに★2つの『沈黙』評がほんの少し。しかも、

「(宣教師が)天皇の審問官によって迫害」

なんていう事実誤認はまあいいとして、

「偉大なスコセッシは的外れで、私たちに、役柄に説得力を与えられなかったスターを使った長すぎる映画をおしつける。拷問の積み重ねもなんの感動ももたらさない。ラストはグロテスクだ。まあ、しょうがない、ZEN(冷静を保つこと)で行こう。」(評者Alain Spira)

という言われようだ。

アメリカでもなんだか「色モノ」という目で観られたり、イエスの言葉が聞えるシーンで観客から失笑が漏れたという話も聞いたけれど、フランスでの一般の反応はどうなるだろう。

スコセッシが、この映画をバチカンに持っていって教皇と会見し、イエズス会士らと共に試写を見てもらったこともよく知られているが、では、教皇と会ってどんな話をしたかというと、

質疑応答はただ一つ、

スコセッシが教皇に

「長崎に行ったことがありますか」と聞き、

教皇が

「ありません」と答えた。

教皇が日本に行ったことがないのはネットで調べたりイエズス会の誰かに聞いたりすればわかるでしょ。

(私なら、せっかくだから、「もし教皇がロドリゴの立場ならどうなさいますか?」と聞いちゃうかも。)

で、教皇からは、映画の成功を祈ってます、good luck、って言葉をいただいたそうで。

でも、スコセッシは大満足。

なぜなら、家族を引き連れてバチカン入りしたスコセッシの目的は多分、教皇からの「祝福」を受けること。
実際、家族全員を「祝福」してもらった。

カトリックの祝福というのは、神父が、物や人に大して神の恵みが働くよう願い求める行為だ。

教皇による祝福も、一司祭による祝福も、「神の救いの業」を想起するのだから「効き目」は変わらない。
でも、代々カトリックであるシチリア系のスコセッシにとっては、NYのリトル・イタリーのゲットーで育った自分が、なんと、バチカンで、ローマ教皇からの祝福を家族と共に受けられるなんて…。と、これがメインになっていたとしても全然不思議ではない。

特に『最後の誘惑』ではスキャンダルになったし、『クンドゥン』ではダライ・ラマに共感する映画を作ってるし、さあ、この辺で、名誉挽回、だと思ったのかどうか…。

(続く)
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# by mariastella | 2017-02-05 00:33 | 映画

フラクタルの話

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枯れ木のように見えるプラント3種を鉢に植えて水をやっていたら、あちこちから芽が出てきた。やがて、ふたつに枝分かれするタイプのものと、三つの葉が出てその真ん中のものだけ延びてさらに三つに分かれる、などのパターンができて、フラクタルってこういうものだなあ、と毎日毎日観察している。ルネ・トムの「構造安定性と形態形成」ってまさにこれだ、と思う。

今日はこれから 演奏会で弾くので昨日の続きはまた後日。

私に殉教者の心を始めて理解させてくれた本は、最近読み返した2冊。昔京都の赤尾照文堂で買ったもの。

海老澤有道『京畿切支丹史話』東京堂書店 昭和17年
木村太郎訳 『日本廿六聖人殉教記』 岩波書店 昭和6年

キリスト教の殉教者の謎が解ける気分だった。
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# by mariastella | 2017-02-04 00:34 | 雑感

高山右近の列福、映画『沈黙』のキリシタン迫害で殉教について考える

大阪城での高山右近の列福式が近づき、スコセッシの『沈黙』が公開され、日本ではキリシタン殉教についての関心が高まっている。(フランスでは来週上映開始)

高山右近は迫害によって殺されたわけではないが、一国の城主だったのに権力や財産をすべて捨てて追放されることを受け入れ、国外で客死した。
それを「殉教」がとして認められたので、「右近の執り成しによる奇蹟」の認定がなくても福者に列せられることになったのだ。

殉教について私はサイトで見られる記事とかブログのこの記事などで何度か日本のキリシタンの殉教のことについて書いてきた。

基本にある違和感は変わらないのだけれど、周辺部ではいろいろ感じ方が変わってきた。

まず、キアラ神父(映画のロドリゴ)などは、やはり、宣教師だったのだから、きっちり殺されるべきだったと今は思う。
他のすべての人についてはそれぞれの状況や性格や情緒に従っていろいろな選択があって当然だと思う。
迷いや恐れや保身自体は、キリスト教の上の「罪」ではないし、近代法風に言っても、迫害されているのだから、「信仰を(いったん)失うこと」「棄教したと形式的に宣言すること(踏み絵を踏むことも含む)」「隠れること」などは明らかに「緊急避難」や「正当防衛」に該当して、「罪」とは思えない。

でも、仮にも、聖霊の恵みと使命を受けたはずの神父で、その中でも危険を承知で別世界の「宣教」に志願したような「宣教師」は、当然想定されるような「迫害」を前にして「緊急避難」や「正当防衛」の余地はない。

内心がどんなに動揺していても、パードレと信頼してくれる信徒たちのの信頼を裏切らない、という責任がある。

つまり、心では決して信仰を捨てていず、人々への拷問をやめさせるというプラグマティックな判断で、

「ここはひとまず人助けのために踏み絵を踏んでおこうか、イエスさまがこんなことで罰を下すと思えないしな。ここは長い目で、この国で地道に信仰の種をまく方が有益かも」

なんて思うのは、合理的には正しいが、やっぱり

「宣教師がそれをやっちゃダメでしょ、たとえ他のすべての人が転んでも、宣教師だけは死を恐れないところを見せるべきでしょ」

と思う。

イエスの一番弟子だったペトロは確かに鶏が鳴くまでにイエスとの関係を3度も否認した。

でも、それは、イエスがまだ殺されていず、したがって復活もしていなかったからだ。
忠実な「弟子」ペトロはイエスを逮捕に来たローマ兵の耳に切りつけたくらいに「師イエスお大切」の情熱はあった。でも当のイエスからそれを戒められて、情熱はしぼみ、後は逃げに回り、自己嫌悪に陥った。

でも、その後にイエスの復活によって「忠実な弟子」が「信仰者」になり、「使徒」となった。
イエスの復活によってキリスト者が「誕生」したのだ。
それからの彼らには怖いものがなくなった。
特に「死」はもう「怖いもの」ではなくなった。「死」は「復活」の信仰の証しだからだ。

キリスト教はそういう宗教だ。
だから、「宣教師」は、宣教師だけは、「イエスに何と言われても、踏み絵を踏むべきではない」。

もちろんイエスは彼らの弱さを赦してくれるだろう。
でも、彼らは、彼らの「証し」を聞いて信仰に入った信徒たちを裏切るべきではない。

私が宣教師だったとしても、もう諦める。殺される以外の道はない。
イエスのためではない。
私の話を聞いてくれた人のためだ。

もっとも私は絶対宣教師にはならない。
石橋を叩いても、下に急流が見える限りは渡りたくないヘタレだからだ。

などと思いながら、最近久しぶりにある本を読み返したら、日本での殉教者の心情が突然理解できた。

いや、理解を超えるものだと理解できたのだ。
こうなったら違和感もへったくれもなく、ただ、感嘆の思いしかない。

それはいったい何かというと…  (続く)
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# by mariastella | 2017-02-03 00:12 | 宗教

トランプ、フェミニズム、ミスユニバース、プルエス、相撲と紅白歌合戦

私は(先進諸国の中で)「日本は遅れている」という言い方は嫌いだ。そんなことは一括してはとてもいえないし、分野にもよるし、時と場合にもよるし、感受性の差にもよる。

ひと世代前の日本人の仏文学者がフランスでの体験を書いて、ソルボンヌの教授のやることなすことに「…しておられた」などと敬語を使いまくっているのを読んでもなんだか不愉快なくらいだ。

けれども、週刊朝日(2/10号)の北原みのりさんの記事をネットで読み、澤藤統一郎さんのブログのこの記事とかを見ていると、暗然とする。

どちらもトランプ大統領がらみのテーマだ。

北原さんのはフェミニズムに引き付けてのものだけれど、もちろんすべての差別において人の「モノ化」は通底している。

この週刊朝日の記事もそうだけれど、実際、インターネットのサービスで、今まで見たこともないいろいろな週刊誌などをザッピングできるので、男性をターゲットにした若い女性のグラビアでの扱い方を目にすると胸が悪くなる。

トランプに話を戻すと、メラニア夫人がいつもなんとなく悲しそうな顔をしているのは本当だし、これについては、フランスの大統領なら少なくとも自分の連れ合いにこんな態度をとるということはあり得ないだろう。

今年のミス・ユニヴァースのコンクールでで半世紀以上ぶりにミス・フランスが勝利したということについてさえ、ただの遺伝子の比較に過ぎなく、なんのprouesseもない勝負にフランス人が誇らしい、みたいなことを言うべきではない、と批判する人がいた。
フランスの教育やフランスの環境によって学者やアスリートやアーティストが育ったり力を発揮したりして国際的に認められるなら誇ってもいいが、ミス・コンテストはその人の個人的な遺伝子の勝利であり、コンテストの中でprouesseを求められないから意味がない、という。

この「プルエス」という言葉、昔、東大のフランス科にいた時のなんの授業だったかで、すごく細かく説明されていたテキストを読んだ。
とても印象的だったので、おかげで今でも、単に辞書的な意味でなく、その背後にある価値観がよくわかる単語のひとつになっている。

今、ためしにgoogle翻訳で日本語にしたら、「業績」と出てきた。
フランス語から英語にしたらprowessと出てきた。
その英語をさらに日本語に訳したら「武勇」と出てきた。

うーん、まあ騎士道などと関係があるから、「業績」よりは「武勇」の方がまだ近いけれど、もっと、ある「決意」を、克己とか精進とかを伴って遂行した結果に得られたもの、という感じかな。
ヒロイックな含意がある。
ミス・コンテストには確かにそんなものは必要ないから、やはり「見た目」がモノとして評価されているだけだ。

大相撲で、久しぶりに「日本出身力士」が横綱になったと話題になっているのも目にした。
でもフランスにいて聞くとこ、の言葉は微妙な言葉だなあと思う。

モンゴル出身などで日本国籍を取得した横綱と区別するためらしい。
国籍とは関係なく、「日本生まれではない」というニュアンスがある。

では、日本生まれの外国籍の人は「日本出身」ではないのだろうか。
あるいは、両親が日本人で外国で生まれた人が日本で力士になったら、「日本出身」とは言わないで「日本人」というだけなのだろうか。
あるいは「日系二世」とか?

でも、文脈からいうと、「日本出身」というのはどうも、日本の「純粋な血」をひいた、という、例の「単一民族」神話を反映しているらしい。

フランスでも、差別問題で口に出される言葉に「Français de souche」のがある。soucheは木の株というか、土着のという感じで実際は「白人」という人種的な言葉を避けるためかのように使われている。

まあ、いわゆる白人でもフランスにはイタリア移民、ポルトガル移民、ポーランド移民はとても多いのだが、二、三代目ではFrançais de soucheとは呼ばれない。
Français de soucheとは、「先祖代々のフランス人」ということになる。

とはいえ、先住のケルト人だけではなく、ゲルマン人の移動と共にやってきた人、ローマ帝国の版図と共に広がったラテン系の人などがまざっているわけで、「先祖代々」と言っても見た目もいろいろだ。
フランク族のクローヴィスとかシャルルマーニュとかが今の独仏伊あたりを統合したので、そして、彼らがローマの国教だったキリスト教に改宗して共同体をオーガナイズしたので、結局は「白人のキリスト教徒」みたいな含意もある。フランスに多いイタリア、ポルトガル、ポーランド移民はみなカトリック国という共通点も見逃しがたい。

でも、柔道重量級の世界チャンピォンであるテディ・リネールなど、フランス本土ですらないカリブ出身(本人はフランス本土生まれだが)の黒人だし、サッカーで一世を風靡したジダンは北アフリカのベルベル人だし、伝説的なテニスチャンピォンのヤニック・ノアは黒人との混血だが、フランス人がそういう時に彼らを「フランス出身でない」とか「ウィンブルドン現象(よそから来たものに地元が負ける)」だなどとは言わないし、多分思ってもいない。すごく単純に、「フランス万歳」と喜んでいる。

まあ、相撲は日本の「国技」で、世界的にはローカルスポーツだから、「日本代表」対「外国代表」という国際試合がないので、よけいに出身の「差」が目立つのだろう。

日本の外から見ている限りでは、モンゴル出身の横綱も見た目には区別はつかないし、お相撲さんというのは誰でも訥々と語るイメージがあるから、インタビューなどを受けての日本語を耳にしても違和感がない。

ただ、本来閉鎖的な日本の相撲の世界にわざわざ挑戦する外国人力士の出身国と日本には、やはり「経済格差」があるようで、その「出稼ぎモチベーション」抜きには今のような状況には絶対になっていないだろうなあとは思う。
昔は日本でも、ハングリー精神で地方からやってきて横綱を目指すというような例があったのに、もう日本人にはそういう人は少なくなったともよく言われる。

個人戦のスポーツはいろいろな含意や偏見を反映しているから難しい。
チームのスポーツは、その中で多様性を発揮できるからもう少しリベラルな感じがする。
ラグビーなんか、日本でもナショナルチーム自体が国際的だ。
フランスのサッカーのナショナルチームなど、「先祖代々の白人の」フランス人なんてマイノリティだ。

愛国心とは別に選手やチームの「プルエス」を愛でるファンも多いだろう。

そういえば、日本には今も「紅白歌合戦」という、形だけにせよ、「男女対抗」の「合戦」がある。
確かに歌は筋肉のつき方や身長などと関係がないから、男女が「同じ土俵」で競い合うともいえるけれど、パロディだとしても、よくこのコンセプトが続くなあ、と思う。こんな催しって日本以外にあるんだろうか…。
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# by mariastella | 2017-02-02 00:44 | 雑感

ポンピドー文化センター

パリのポンピドー文化センターができてちょうど40年ということで、記念のドキュメンタリー番組を先日見た。

ポンピドー・センターの歴史はそのまま私のフランスでの生活の歴史に重なるので感慨深い。

できた時には、「友の会」のような支援グループに会費を払って登録していたので、その後、展覧会にも並ばずに入れた。

開館一周年記念のパーティにも招かれて出席した時、センターをかたどった直方体の大きなケーキが出されたのも懐かしい。

ポンピドーセンターの近くはなじみの界隈になった。

まだミッテラン政権の前で、同性愛が刑法上の罪を構成していた時期で、この地区にゲイの友人が、フランスで初めてのゲイのためのカフェを開いていて、ある夕方に訪ねて行った。親密な雰囲気のカップルたちがカウンター席で寄り添っていた。私は目立たないように奥の席に通された。

ベトナム人の知り合いが「七つの牛料理」という名のレストランを開いて、七つの調理をした牛肉料理が次々出てくるのをはじめて食べたのもセンターのすぐ近くだ。ネムという揚げ春巻きをミントの葉といっしょにレタスに包んで食べることもそこで初めて覚えた。

図書館の雑誌コーナーに日本の週刊誌が置いてある時期があって、感激したこともある。

だいぶ後で、私のピアノの生徒のお母さんがここで働いていたので、数々の招待券をもらったこともある。

今回のドキュメンタリー番組で初めて知ったのは、ここが、予定の敷地の半分をセンターに、半分を広場にするというデザインが採用されてできたものだということだ。私は最初から広場は広場だと思っていたのだけれど、じつは、広場はセンターの一部、というか、一体だった。

最初に大道芸人がこの広場に集まってきた時に、警察から追い出されたが、みな戻ってきた。
なぜなら、そこはセンターの一部であるから、センターが警察に撤去を要請しない限り、市や警察は無断で介入できないからだ。

で、いつも大道芸人が集まるなじみの光景が出現した。それは折り込み済みだったわけだ。

2000年の改修以来、図書館部分との入り口が別になったり有料部分も増えたりして、広場の大道芸人はぐっと減ったという。

最近は行っていないけれど、テロ対策はどうなっているのだろう。
広場へのアクセスは自由だから、セキュリティ検査はできない。

嫌な時代になったなあと思う。昔はセンターの外側も内側も、町の延長のような感じだったから。

昨年、金沢の21世紀美術館に久しぶりに行ったけれど、そういえば、昔はポンピドーもこんな感じだったなあ。

なつかしい。
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# by mariastella | 2017-02-01 01:03 | フランス

音楽はテロよりも強し、なのに…

音楽によるレジスタンス、人間の尊厳の証のシリーズ です。

第3弾です。前のはここここなど。




ロンドンに亡命しているクルド人のグループNishtiman (故国という意味)だ。

クルド人の故郷はイラン、イラク、トルコ、シリアにまたがる他、レバノンやアルメニアへ流れた人も含めて3千万人近くもいる。
ISと最も勇敢に戦っていることでも知られているが、実はあらゆる国から利用されている感じだ。

オジャランのロジャヴァ革命の女性の自由と平等、信教の自由など、クルドの理念は中東の希望の灯のように思える。

2012年に結成されたグループは、トルコ、イラン、イラクからの亡命者だ。
シリアのクルドはすでにパスポートもなく国を出られない状態だった。

シリアの故郷をテーマにした曲もある。

イスラムとマイノリティのキリスト教だとかいう以前に、二千年以上前からあるゾロアスター教とかミトラ神の信仰も喚起される。
2015年にIS軍の侵入に40日持ちこたえたコバナの町をタイトルにした新曲は、ゾロアスターの火の守護の川の化身である女性の勇気を称えたものだという。

演奏者としてもすぐれている彼らの曲を聴いていると、ああ、今はもう彼らは、絶対にアメリカには入れてもらえないんだなあ、と思いをはせてしまう。

すばらしい音楽の演奏家たちも「アメリカ・ファースト」の壁に遮られるのだ。

剣にも砲弾にも屈しないアートがナショナリズムに屈せられるのだとしたら、深刻さは重大だ。
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# by mariastella | 2017-01-31 01:32 | 音楽

ウィリアムズ姉妹

先日ピアノの生徒の一人と話をした。どれだけ練習すればうまくなれるかという話だ。

彼女はクラシック・バレエもずっと続けている。
その弟はアイス・ホッケーの選手で、かなりの時間を練習と試合に割いているが、私とギターのレッスンも始めているのだ。スポーツ系の訓練と音楽の練習は両立するのか、という話にもなった。

ちょうど、テニスの全豪オープンの女子シングルスで、ビーナスとセリーナ・ウィリアムスの姉妹が制覇したニュースを聞いたばかりで、姉妹の父親が「白人を打ち負かせ」と言ってずっと訓練させていたという話を耳にした。

父親のリチャード・ウィリアムスは、1978年にテレビで偶然全仏オープン女子テニスを見た。ルーマニア人のバージニア・ルジッチがシングルスで優勝し、20万フランの小切手を手にしたのを見て自分も娘をテニスのチャンピォンにすると誓ったそうだ。
1965-73の最初の結婚ですでに3人息子3人娘がいたが、その後で生まれる娘に期待をかけることにする。
「エホバの証人」の信者である新しい妻との間で1980年と1981年に生まれたビーナスとセリーナを4歳でコーチにつけて、男子とだけ練習させて、「白人を打ち負かせ」と激励して週30時間の練習を課した。
テニス界は白人プレイヤーが主だった時代だ。
娘たちの母とは、彼女らが10歳くらいの時に離婚している。その後ビーナスより一つ年上だけの女性と三度目の結婚をしたという。
 
娘たちは14歳でプロになり、17、18歳で父の夢見た全仏オープンに出場してテニス界の常識を変えた。2002年の全仏オープンでは決勝戦を2人で戦い、優勝と準優勝を分け合った。「相手を叩きのめす」パワープレイで有名だそうだ。
以来、姉妹共に世界を制覇し、30代半ばの今年も、全豪オープンの決勝を姉妹で戦ったばかりなのだ。

セリーナは、スポーツも訓練も嫌いだ、と2012年の自伝で語っている。白人からの差別も受けてきたという。
昨年末白人男性とと婚約したばかりだ。

私の生徒が「週30時間練習したらチャンピォンになれるんだねえ」と言ったので、

いや、ひょっとしたら、子供を通して一攫千金をねらうそのような父親は他にもいるかもしれない。
でもまず、父の期待に応えようとして頑張っても、心身の強さがなければ、ドロップ・アウトする子供、故障する子供もたくさんいるだろう、
それに、たとえ、心身頑強で週30時間の練習に耐えても、チャンピオンになるとは限らない。
才能や運が足らずに芽を摘まれるのがほとんどだろう、と答えた。

まだ、音楽やダンスの夢を娘に託して練習を強要する親の方が、「敵を倒す」というレトリックを弄しないだけましかもしれない。
音楽やダンスはそれに対する情熱があるだろうが、リチャード・ウィリアムスは最初から「大金」にひきつけられて、「黒人女性のテニス・プレーヤー」という付加価値も巧みに心得たうえで、マネージメントしてきた。

リチャードは早く家を出て路上生活に近い暮らしもした人だそうで、姉妹もギャングの町で時として弾丸がとびかうコートで練習や試合を続けてきたという。

セリーナの生涯獲得賞金はすべての女子プロスポーツ選手を含めて史上1位で8000万ドルを超えるという。
父親はさぞや満足している…のだろうか。

姉妹は私の子供といっていい世代だ。

親の夢と子供の関係についても考えさせられる。

彼女らは、「成功者」なのかもしれないが、なんだか「犠牲者」にも見えてくる。
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# by mariastella | 2017-01-30 01:11 | 雑感

アサド大統領の不思議

先日、シリア大統領のバッシャール・アル=アサドについてのドキュメンタリー番組をTVで観た。

私はこのアサド大統領というほど、「自由世界」からの罵倒の言葉とその外見が違う人はいないなあ、といつも不思議に思っていた。

彼が眼科医で、ロンドン大学に留学している時に、兄の死で故国に呼び返されたという過去や、ロンドン生まれのキャリア・ウーマン(銀行の投資部門で働いていた)の美しく聡明そうな奥さんがいることは知っていたので、こんな女性に愛されているのだから悪い男ではないのでは? とも思っていたくらいだ。

迷彩服の兵士たちの間を回るときも真っ白なワイシャツに黒ズボンだったり、モスクで床で礼拝する時もスーツにネクタイ姿だ。

イラクのサダム・フセインだとか、リビアのカダフィだとか、チュニジアのベン=アリだとか、エジプトのムバラクは、いかにも「独裁者」っぽい強面の外見だが、アサドは、内向的で穏やかで、という評判が不思議ではないほど、背は高いが華奢な印象がある。顔もよくみると、かわいいかも。父親のハーフェズの画像検索をすると、独裁者だった父親もすらりと上品な感じだ。

見た目だけなら、どうみてもアサドは理性的な穏健派で、こぶしを振り回す独裁者タイプのトランプとは大違いだ。

そしてアサドは伝統的な「西洋エリートタイプ」の外見をよく心得ていて、それをフルに使っている。

シラク大統領は、フランスにとっての保護国同然のレバノンへの脅威を軽減するために何度もアサドに会っていた。
アサドが大統領に就任する前からだ。

バシャールは自分にとって息子のようなものだ、などと公言していたのだ。

それからいろいろあった。

アサドが、一度は父の時代からの政権の腐敗を一掃しようという改革の気配を見せたにかかわらず、結局父から譲り受けた絶対権力を決して手放さない、そのためには、一般人を含む弾圧(化学兵器も含む)も辞さない、という強硬策に出たのも事実だ。
中東が石油資源を含んで地政学的に複雑なところで、米露欧トルコ、イラン、サウジ、そして数々の軍産複合体の利害と思惑がこの国の「内戦」をこじらせた。

それでも、おなじみの「正義の味方」「国際社会」が干渉して、アサドを放逐してシリアを「民主化」するという方向は動かせないと思われた。

そこに現れた「僥倖」が、誰の目にも分かりやすい「極悪」であるにISだ。

そのうちにフランスについても書くつもりだが、ISの登場によって「救われた」勢力はたくさんある。

ともかく、ISも、最初は「国際社会」から祝福されたシリアの「反アサド軍」も、だんだんと、欧米の目から見ると、「イスラム過激派」に集約されはじめた。

アサドが内戦後初めて国を出た先はプーチンのロシアだ。
ロシアはアサド(とシリア内の自国の軍事基地)を助ける。

そこでまた、イスラムスカーフもかぶらないヨーロッパ人っぽい妻を連れて、スーツとネクタイのアサドが国際メディアに登場。

欧米のジャーナリストも積極的に招いて、インタビューを受け、イメージ戦略を繰り広げ始めた。
ISに破壊されたキリスト教会でキリスト教徒にも寄り添う。

1/26には、英外相のボリス・ジョンソンが、イギリスはアサドの退陣は求めずロシアと協力すると言った。

誰でも、ISの野蛮さやテロを見ると、「アサドの方がまし」だということに異論はない。

ISは、SNSによって、中東の若者やヨーロッパに住む若者を洗脳して、無差別テロを決行させる。

少なくともアサドなら、、シリア政府軍が国境を越えてヨーロッパを攻撃してくることはあり得ない。

けれども、国境を越えてヨーロッパになだれ込んだのは何百万人という「難民」だった。
中東の内戦だと思っていたものが、国境を超えたのだ。

大量の難民の流入という現実は、人権やヒューマニズムを掲げるヨーロッパの「文明国」にとって、ミサイル弾によるよりもずっと、ずっと深いところを狙い撃ちされるものになった。
欧米軍の空爆は、ヨーロッパ人の良心に向かってうち放たれる「大量の難民」というミサイルに対する迎撃ミサイルみたいなものかもしれない。
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# by mariastella | 2017-01-29 00:16 | 雑感

バロック・バレーやバロック音楽の場でも政治談議(追記あり)

日本とフランスの絶対的な違いを感じるのは、政治論議かもしれない。

バロック・バレーのクラスでフランス大統領選についてかなりの議論になった。
エリカは第一次投票でメランション(極左の位置づけ)に投票するが、決選投票でフィヨン(保守)とル・ペン(極右)になったら棄権する、と言う。
他にもメランション派がいるが、棄権には反対だ。

アメリカではメリル・ストリープがトランプを批判したスピーチが有名になったが、アートの世界はたいていインターナショナルで左派が多い。同性愛者も多いし、いわゆる「普通に結婚して子供がいて」という人は少ないから、5人の子持ちのフィヨンなどに親愛感を持つこともない。

しかし、過去に数年間メランションの「左派戦線」の手伝いをしていたというカメラマンの女性が、実はメランションはひどい、権力欲の塊だ、と、熱心に内輪話を暴露し始めた。

メランションの是非をめぐっていろんな意見が飛び交った。
国際情勢の把握についてはメランションが一番まともだという人は多い。

私は5年前にはなかなか説得力があると思ったことはあるけれど、なんだかアクの強さが鼻についてきて、信用できなくなっていた。

ル・ペンが政権につくことは間違ってもないだろう、しかし2002年のシラクとル・ペン(父)の決選投票のようにル・ペンの反対票が80%以上もシラクに集まって、シラクが「勘違い」したようなきっかけをフィヨンに与えたくないから棄権する、というのがエリカの意見だ。

フィヨンの妻の収入についての調査がはやばやと始まったらしい。
正直、清廉潔白を売り物にしているから打撃は大きそうだ。
もちろん反フィヨン派は大喜びで飛びついているが、やればやるほど、女性差別と妙な嫉妬の匂いも漂ってきた。

弁護士の資格を持ちながら、一度も働かずに5人の子の母、というイメージだったのが、数年間にわたってトータル5千万円以上(?)の収入があったというのが不当だという感覚があるらしい。

フィヨンは、妻が実際に仕事をしていて、収入も申告しているのでやましいところはない、と言い、上院議員だった時には特定の問題で弁護士である自分の息子2人に仕事としてアドヴァイスをもらい支払ったこともある、と付け加えた。このことが後から取りざたされたら困ると思ったのだろうか。
でも、そんなことを言われるとつい検索して、彼の議員時代は2005-2007、当時、息子のうち年長の2人は21-23歳くらいと分かり、学生のアルバイトじゃないか?とかえってうさん臭く感じる。(追記あり)

それに比べて、前にも書いたが、マリーヌ・ル・ペンの方は、何度連れ合いを変えても、子供がいても、女性差別的な批判は受けない。

と言ってももちろん父親との関係をはじめとして極右として突っ込みどころは多すぎてさんざんたたかれているので、一回りしてある種のクリーンさを獲得しているのは奇妙だ。

トランプがどんな暴言を吐いても、それが人柄の真摯さだとか正直さ、率直さだとかと支持者の目には映ったこととどこか似ている。

もっとも、ル・ペンは、トランプのように、演出なのか何か知らないが、「下品で頭が悪い」と揶揄されるような態度や言辞をふりまくのとは対極に冷静で堂々としている。

ル・ペンの怖さは、党首のマリーヌ・ル・ペンも、実質ナンバー2のフロリアン・フィリポも頭が切れるということかもしれない。

それをいうなら、どんな階級の人だって、フランス人には、馬鹿にはなり切れない「外面」がある。
開き直り、というのがわりと下手な人たちだ。
ポピュリストたちもそれをよく心得ているから、アメリカなどとは戦略も違ってくるのだろう。

これで4月あたりにあらたなテロがフランスで起こったら? 
ほんとうに排外主義が勢いをつけて何が起こるか分からない。

それにしても、「フィエの振付譜を見てペクールのブーレを踊る」場所の更衣室で「天下国家」が論じられるのは本当にフランス的だ。
日本のカルチャースクール、スポーツクラブ、各種のダンス教室などでは想像できない光景だと思う。

トリオの仲間とはなんでも掘り下げて語りあう。

カルテットの仲間とは、世相の話はしても政治の話は少ない。弾いている音楽に即癒されてしまうので、音楽賛美の言葉ばかり出てくる。

ペプッシュ(Pepusch)のトリオ・ソナタは美しすぎて泣けてくる。ブランデンブルグの第三楽章も弾いていて気持ちがいい。拍と強弱のバランスさえ注意して後はひたすら弾いているだけで、それなりの満足が得られる。本当はバイオリンもビオラも後もう一人とチェロも一人必要なのだけれど、とにかく音が途切れる部分がないので、バイオリンとビオラ2台だけで十分楽しめるのだ。

今日はラモーを3曲練習した。『ダルダニュス』のタンブラン。
こんなに軽やかだ単純そうに見えて、成功で知的な工芸品のような作りでしかもエレガントで独特の色や香りを持つ曲はラモー以外には絶対に書けない。

トリオのMは、大統領選は、原発即時廃炉だけを基準に投票すると言っている。
それもありかもしれない。
美しいものをいつまでも味わえて伝えていける社会が続くには、地球がバランスよく存続してくれないと困る。

(追記: トリオの練習の時に、フィヨンの子供への報酬についての検索結果を話したら、Mから、その日のル・モンド系のネット記事にもそれが取り上げられていたとリンクが来た。

私は息子2人と聞いたと思ったのだが、その記事によると、現在弁護士なのは長女と長男だそうで、もちろんふたりとも、フィヨンが議員だったころはまだ学生だったとある。それに対してフィヨンは、「今弁護士である子供たち」と言うつもりだったので、当時弁護士というのは言い間違いだった、と言っているそうだ。

妻については、議員アシスタントとして月7900ユーロ、その後、フィヨンが政権を去った後で20ヶ月間、ル・モンド誌から月5000ユーロ支払われたが、文学作品についての記事を2本出しただけ、だとかいうそうだ。
いずれも、フランスの公務員の平均サラリーの倍以上ということで、まあ、「裏切られた」という感じを持つ人がいるのは理解できる。中途半端な清廉潔白に向けられる目は厳しい。トランプの妻ならいくら稼ごうが使おうが文句を言われないだろうが。

でも、日本で言えば去年の舛添前都知事のスキャンダルもそうだったが、別に弱者を虐待したとかハラスメントだとか公金の明らかな横領というのでなければ、この主のトピックがあれよあれよという間に広まって攻撃材料となっていくのを見るのは気分が悪い。「罪なき者、石もて打て」っていう言葉が聞こえない人って多いのかなあ、と思う。)
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# by mariastella | 2017-01-28 03:53 | フランス

ポスト・トゥルースと宗教

ブレクジットとトランプ、英語圏のこの事件で急に脚光を浴びたのが「post-truth」という言葉だ。

ポスト真実とか訳されていて、要するに、一部の人や団体が自分への利益誘導するために都合のいい「真実」をでっちあげる、ような意味で使われている。

言い換えると、今はもう、あることが「真実」であるかどうかよりも、「真実」に見せかけることが重要であり、かつそれがメディア・バイアスやSNSのおかげで可能になる時代だということらしい。

思えばポスト・モダンだって、「モダン」、つまり近代において真実とされていた理念を相対化してたった一つの真実などないのだ、と言った面ではポスト・トゥルースだった。
そして、その後、ポスト・ポストモダンに振り戻ったのではなかっただろうか。
いや、振り戻ったというより、願わくば、螺旋状に回って回帰した?

人は「真実」を必要とする動物だから、相対化が進むと、「真実もどき」の産業によって分断されて食い尽くされる。

それよりはまだ、「老舗宗教」で宗教性を満足させておく方がリスクは少ないし、事実、戦後の日本人の多くは、「無宗教という名の宗教」で、「なんちゃって真実」を上手に使いまわしてきたともいえる。

でも、このポスト・トゥルースのトゥルースは、真実というより「事実」とか「現実」に近い。

宗教の文脈におけるトゥルースは、真実というより真理だろう。

イエスが「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8,32)

という時の真理は、まさに、ポスト・トゥルースなどで加工されるような現実や事実ではなくて、人間の手の届かないところにあるものだ。

私はこれまで、「何かが真実であるためには現実である必要はない」ということをいろいろなところで書いてきた。
その場合の真実とは、「真理に至る道」みたいなもので、それはたとえば、「事実」ではないとみなが認識しているフィクションを通しても表現できるものだ。

よくできた「映画」や「小説」を「体験」することで垣間見える「真実」があるのはみな知っている。

逆に、フィクションでなくてリアルであっても、簡単な手品の前でさえ「わー、すごい」と感心する自分の知覚など何の役にも立たない。

見かけの「不都合な事実」に対する人の態度にはいろいろある。

誰かが挙げていた次の四つの例。

車に乗って急いでいる時に運悪く赤信号に変わった場合。

 1. しょうがないから停止。
 2. ひょっとして青信号じゃないか?
3. 急いでいるんだから命がけでそのまま進む。
 4. 赤信号は他人への停止信号で私には進めという信号だ。

これを宗教風にアレンジすると、

「太陽は地球の周りをまわっている。見れば分かるだろう」

 1. その反対の可能性もあると思うけれど、実際回っているように見えるのだから、受け入れる。
 2.そんな説は間違っている。回っているのは地球。
 3. その説に反対してたとえ火炙りになっても地球は回る、と自説を曲げない。
 4. お説の通り、地球は太陽の周りをまわっている。(いつの間にかすり替わっている)

「われこそは神だ。帰依せよ」

 1, そう言われるのだから帰依する。
 2.そんな神は偽物に違いないから信じない。
 3. たとえ神罰があたっても「私の神」を信仰し続ける。
 4. 「神は私だって? その通り。」

余命宣告みたいなものを前にしたらどうだろう。

信じない、とか怒って抵抗するとか、の段階を経て最後は受容する、みたいなシェーマがよく紹介されているけれど、うーん、「死を信じない」というのもありそうだ。

「死じゃありません、死後の世界への再生です」「次の生まれ変わりの準備です」とか。

現実としての「死」がトゥルースとしたら、死後の世界ってまさにポスト・トゥルースかもしれない。

実は、キリスト教が宗教として成立した時の核には、この問題への回答があった。

それはよく言われているように、「キリストを信じたら永遠に生きるのです、主のもとに行けるのだから幸せです」みたいな単純なものではない。真理と現実をどう見るかという明確な提案がある。

仏教風の「この世は夢幻、執着を捨てて悟りの世界へ」とか、祖先信仰風の「死んだら先だった親や友達に会える楽しみがある」みたいなものとは違う。この説明を今書いているところだ。

「永遠に生きます」とか「復活します」とか「生まれ変われます」という言説だけではとても「受容」の境地に至れないタイプの私には、感情的にも合理的にも「おお、なかなかいいかも」という考え方だった。

結局、大切なのは死後でなくて、生きている間の「生き方」で、それを支えるのは何かということなのだ。
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# by mariastella | 2017-01-27 00:12 | 宗教

フランス大統領選 レバノンのマクロン

私の仲間たちは大統領選でマクロン支持に傾いている。

社会党の予備選を無視したマクロンがひそかにオランドの祝福を受けているというのは先日のレバノン行きで証明されたかのようだ。在レバノンフランス大使館に泊まって大統領にまで会っている。
経済には強いが外交政策は未知? と言われるマクロンの外交力を印象付ける感じだろう。

後は、やはり若さと、セクシーさが人々を引き付ける、といわれる。

マクロンは私には別に好みではないけれど、確かに、ヴァルス、アモン、メランション、フィヨン、ル・ペン、サンダース、クリントン、トランプ…と並べてみると、これらの人々はあまりセクシーな感じはない。
オバマにはそういうアピールがあったのかもしれないけれど。

ミーティングで新興宗教の教祖のように声を嗄らして張り上げていたのも、冷たさを払拭する真摯な感じだとか言われていた。

レバノンについての記事はフランス語を読める方はこのサイトをどうぞ。

このサイトは、「風たちぬ」というユニークなサイトで、注目できる。

フィヨンの方は、ウェールズ人の奥さんが、「専業主婦」として昨年10月にも「夫の政治に介入したことは一度もない」とコメントしていたのが、数年にわたって夫のアドバイザーとして給与が支払われていたということを、今日(1/25)の「カナール・アンシェネ」が書き立てている。

いつも夫のそばで協力していたという証言もあるし、相談にのったからと言って「介入する」とは言えない、とか、配偶者が秘書的役割を果たして給与をもらうのは右派左派を問わず一般的に行われている、とかいろいろ反論もあちこちでコメントされてきた。

フィヨンはもう早々と「飽きられてきた」のだろうか。

政党抜き(でも大統領に好かれている?)で突っ走るマクロンがやはり魅力的に見えるのだろうか?

今日は社会党予備戦の決選投票前の最後のディベートが公営放送で中継されるけれど、私はArteでウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』(2007)を見るつもり。
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# by mariastella | 2017-01-26 00:28 | フランス

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その2)

(これは前の記事の続きです)

スコセッシはシチリアのイタリア系で司祭になりたくて神学校に通ったこともあるというほどのカトリック信者だ。

14歳で神学校に入ったが、若すぎる、規則を守らない、ということで1年後に退学させられた過去がある。

1988年の『最後の誘惑』を見たニューヨークの聖公会の大司教ポール・ムーアから原作を与えられて、「この話は真実の信仰についてのものだ、魅力的なテーマだから読んで考えてください」と言われたそうだ。
その後スコセッシは黒澤明の『夢』にゴッホ役で出演するために日本に行き、この本を持参したという。

『最後の誘惑』のスキャンダルはまだ記憶に新しかったから、スコセッシがロドリゴ役に声をかけた役者質の中には、スコセッシとならどんな映画でもやりたいがこれだけはだめだ、宗教ものは自分のスタイルではない、と断られたこともあったと言う。

『最後の誘惑』は、上映中止になった国もあったと覚えているけれど、フランスでは普通に上映されていた。私も観に行った。問題視されたイエスとマグダラのマリアのラブシーンみたいなのは「人間イエスの頭の中の誘惑」という試練の映像化という設定なのだから、別に何でもありだと思った。

その時に、実は多くの人にショックだったのは、ラブシーンではなくて、むしろそれまでの欧米系のイエスの伝記映画の十字架上の受難シーンで初めてイエスが全裸で磔になっていたからではないかと思ったことを覚えている。

といっても、中世の受難の絵には、全裸のイエスのものが普通にあった。
それをフランスで最初に観た時は私も驚いたけれど。
それまで知っていたのは、腰に布を巻いたものばかりだったからだ。

アダムとイヴは禁断の実を食べてから裸でいることを恥じるようになった。イエスは、原罪のない無垢の存在を十字架に捧げたのだから、全裸で問題はない。それに、多分史実的には、イエスでなくともこの種の十字架刑は全裸で執行されたと考えた方が自然だ。で、画像だけでなく全裸のイエスの十字架像は今も残っている。

それが宗教改革後のトリエンテの公会議で禁止された。

イエスは原罪がなくても、見ている信者たちは罪深いのだから誤解を招く、教育によくない、というわけで、教会にある全裸の十字架像は廃棄、もしも芸術的に価値ある作品ならば腰布を巻くようにと通達された。検閲みたいに黒い色を塗られただけのものもある。

絵で有名なのはシスティナ礼拝堂のミケランジェロの『最後の審判』の中央のキリストで、後に腰布が描き足された。

でも、十字架のキリストが全裸であるのが自然だという議論は何度も蒸し返された。

聖フランソワ・ド・サル(サレジオ)は、1614年3月28日の説教で、「われらの主はなぜ十字架上で裸でいることを望んだのか」と語っている。

プロテスタントの多くは、キリストの姿そのものを十字架から消して、シンボルだけを残した。
裸問題は解決する。

そんなわけだから、スコセッシが『最後の誘惑』で十字架のイエスを全裸にしたのは、いわゆる教義や神学には直接関係のない部分であり、伝統的な表現の一つでもあったのだから、そのシーンを見ても、そのことだけを批判することは誰にもできない。
でも、それについて何も言えない、というフラストレーションが、イエスの想像上のラブシーンへの怒りに向けられた。けれども、スキャンダルの火元は、実はラブシーンではなく、全裸の方だったのだ、というコメントを当時書いた。

それから時が経ち、メル・ギブソンの『パッション』だの、ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』だの、いろんな「過激」な説や表現が世間に広がった。

『最後の誘惑』を見た聖公会の大司教が、スコセッシに『沈黙』を渡して、「真実の信仰についてのもの」だと言い、スコセッシが30年近くかけて完成した今回の映画は是非見てみたい。
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# by mariastella | 2017-01-25 00:27 | 映画

トランプ就任式の報道の差

前に就任式の中継を見て記事を書いた翌日、日本のメディアの報道を少し見た。

「反対派のデモの一部が暴徒化した」という感じの記事が割と目立ったのが気になる。

もちろんフランスの報道でも、襲われた銀行とか催涙弾とか、いろいろ報道されていたけれど、あれはフランス的に言っても、「デモの一部が暴徒化」したのではなく、最初から「暴徒」が侵入したのが明らかだった。
残念ながら、フランスでも、どんな種類のデモにだって必ず現れる「便乗型暴徒」である。

もちろんだから大したことではないというわけではないけれど、フランスの報道では、平和裏にデモをしていた反対派もトランプ信奉者も互いをリスペクトしあっていて、衝突、摩擦は起こらなかった、と強調していた。

第一、反対デモにやってくる人と、トランプ支持で地方から出てきた人たちというのは、互いに初めて見る異星人のようなもので、いがみ合うほどの接点がないというのだった。

そして反対派にとっても、伝統的に就任式の政権交代の成功は「アメリカン・デモクラシー」のピークだとみなされている上に、次の日に大規模デモを予定していたのだから、当日に秩序を乱すという発想はない。

しかしこういう便乗型暴徒が必ず繰り出してくる光景というのは、日本人には理解できないと思う。
日本人って行儀がよくて、「行儀の悪さ」への想像力がなかなか働かなくなっているのかもしれない。

もう一つ、不法移民を追い出すとかいうトランプのディスクールについて、フランスの解説者が、次のようにコメントしていた。

もともとアメリカとフランスでは、移民という言葉の含意が違うんですよ。

フランスでは移民は、労働力がほしい時(炭鉱労働者をアルジェリアから受け入れるなど)に旧植民地(つまりフランス語を解する人)から来てもらった人たちか、経済・政治難民など自国にいられなくなって着の身着のままやってくる人たちのようなイメージですが、

移民の国アメリカでは、移民とは「働く移民」です。努力して働かない移民は認めない、必死で働く移民だけが認められるというのがベースにあるんです。

という趣旨だった。 なるほどと思う。

この感覚はむしろ、フランスと日本の方が似ているかもしれない。

「移民ではない生粋の自国人」みたいなアイデンティティの幻想があって、

「困難を抱えるよその国からやってくる移民」をどこか見下しているのではないかと思う。

日本やフランスの極右の排外主義と、
アメリカがアメリカ・ファーストだとか言っている時の排外主義とは、
ポピュリズムの煽り方が微妙に違うのだろう。

さて、フランスでは社会党の予備選の決選投票が、ヴァルス対アモンに決まった。

ヴァルスが、

本選になったら第一次投票で敗退確実のアモンか
勝利の可能性がある自分か

という言い回しでアピールしていたのは情けない。
これでアモンが代表に選ばれれば、ヴァルスは「さあ、皆さん、アモンのもとに団結しましょう」なんてしらじらしく言えるのだろうか。

どちらが選ばれてもオランド大統領の積極的支持を受けられない可能性もある。
オランドはマクロンを支持したりして。

マクロンとヴァルスの政策は似ていて、民主進歩主義みたいな路線である。
社会党的な部分はソシエタルだけだ。

アモンの政策はメランションに近い。

今回アモンがヴァルスを抑えてトップだったのは、なんだか、アメリカ民主党の予備選で、サンダースを選ばずにクリントンを選んだことでと本選でトランプに敗れた教訓を生かそうとしているかのようだ。左派だから左派らしい政策を、ということで。

けれど、アメリカならサンダースが選ばれていれば本選は「トランプ対サンダース」だったろうだが、フランスではたとえアモンが選ばれても、本選で「アモン対フィヨン」になる可能性は限りなく少ない。左派にはマクロンもメランションもいるのだから。

水曜のディベートで「本選」を視野に入れた言葉がどのくらい出てくるのかが見ものである。
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# by mariastella | 2017-01-24 01:36 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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