L'art de croire             竹下節子ブログ

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プーチンがマクロンにプレゼントしたものとは

5月末にプーチン大統領がマクロンに招かれてヴェルサイユ宮殿に出向いたとき、ピョートル大帝の記念展だったのだけれど、実はプーチン大統領はもっと古いことを持ち出した。「西欧好き」のピョートル大帝よりも前に、ロシアのアンナ(キエフ大公の娘)がアンリ一世に嫁いでフランスの二つの王朝ナヴァール(アンリ四世が出た)とブルボンのふたつを創始したという歴史だ。
で、プーチンがマクロンにプレゼントしたのは、「ランスの福音書」と言われるものの復刻版で、その第一巻がオリジナルの手稿の復刻で、第二巻はロシア語による注釈と解説からなっている。

オリジナルはランス市立図書館のカーネギー文庫にある11世紀のもので、キエフから嫁いだアンナが持ってきたものであり、歴代の王は戴冠式でこの福音書に手を当てて誓ったと言い伝えられていた。

1717年にピョートル大帝が、1901年にニコライ二世が、それぞれランスを訪れた際にこの福音書を見せられたという。
ところが、2017年にはプーチンがその復刻版をマクロンに贈ったというわけだ。

マクロンが、華麗なヴェルサイユを見せつけて、暗に、

「(ロシアの田舎の)ピョートル大帝が(文化先進国)ヨーロッパに向けて目を開いた」

ことを寿いだことに対して、

プーチンは、

「いや、それよりずっと前に、キエフのアンナこそがフランスの発展のルーツとなったのだよ」

とデモンストレーションしたわけだ。

この発言についてすぐに反応したのはウクライナの大統領府長官だ。
アンナはモスクワではなくキエフのアンナで、由緒ある福音書もアンナの父であるキエフ大公ヤロスラフ一世の有名な図書館にあったものだという。
11世紀から13世紀のキエフ大公国はボルガ河から黒海にかけての大国で今のポーランド、ウクライナ、ロシアの一部からなっていた。首都はロシア正教の揺籃の地キエフである。

実は、これが11世紀にアンナがフランスに持ってきたものだという説は歴史的にあやしい。14世紀にプラハでボヘミア王がスラブ文化を推進した時に、11世紀にキリル文字で書かれた注釈付き福音書を修道院に下賜したものらしい。

後に、愛書家であったランスの枢機卿が16世紀にこれを入手してランスのカテドラルに贈呈したと言われる。
歴代のフランス王が聖油を塗付されたランスの戴冠式でこの聖書が使われたかどうかはよく分からない。

しかし、アンナの父ヤロスラフ賢公と言えば、ウラジミール一世の息子だ。
ウラジミール一世は、キリスト教に改宗してキエフをキリスト教化した人で、正教会、カトリック、聖公会、ルーテル教会共通の「聖人」でもある。
そしてもちろん、ウラジミール・プーチンの守護聖人だ。

「ピョートル大帝がフランスにきてフランス文化にほれ込んで300年という歴史を祝いに来た」

のではなくて、

「聖ウラジミールの系譜こそがフランス王朝文化をつくったんだよ」

というメッセージをプーチンは復刻版に託したわけである。

オリジナルがキエフからランスにやってきたのが11世紀だろうと16世紀だろうと、その後に、フランス革命もロシア革命もそろってキリスト教を否定した。

でも、共通のルーツと共通のルーツをめぐる幻想はフェニックスのように舞い戻って使いまわされる。

こういうの見ていると、日本の場合は、日米首脳会談だとか日露首脳会談だとかがある度に、いくら「なかよし」風にふるまっても、こういう駆け引きができるほどの共同幻想がないのだなあ、とあらためて思わされる。

それなら、日韓首脳会談や日中首脳会談なら、文化のルーツを共有する国として豊かな共同幻想を潤滑油にしてもよさそうだけど、たかだか百年くらいの「不都合な歴史」ばかりを前面に出してぎすぎすするばかりなのは、何だか悲しい。



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by mariastella | 2017-07-09 05:47

『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン)

Mommy/マミー』は、当時まだ25歳だったグザヴィエ・ドランカナダ映画(2014)カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。基本的に批評家好みの映画。

最初にこれを観た時は、フランス語が聞き取れないので驚いた。カナダ映画ははじめて観るわけではないのに、フランスに来て最初の頃、映画のフランス語がとても聞き取りにくかったことを思い出して懐かしくなったくらいだ。

これは要するに、ケベック訛りというより、完全にケベック方言だからだ。

映画の最初に施設の人が母親役のアンヌ・ドルヴァルに話しかける言葉はよく分かる。つまり、「標準語」なのだ。

これまでケベックから来た人とも何度もフランス語で話したけれど、別に不自由は感じなかったのは、ちゃんと「標準語」を使っていてくれたからなのだ。

植民地でほど宗主国の言葉は古いままで維持されるというのはよく言われることだ。フランス語の「単純過去」は、もう普段の会話で使われないけれど、アルジェリアなどでは今も普通に使われていると聞いたことがある(それももう古い話だけど)。

今のフランス語では音便になってoiが「ゥワ」、aiが「エ」と発音されるのを、この映画ではオイとかアイとか二重母音が残っている。時々「by the way」など英語も混ざる。いわゆるクレオールというのとは少し違う。

私はフランス・バロックをやっているから、フランス語を17、8世紀風にはどう読むかはよく知っているが、それは「朗誦」の世界のことであって、ケベック方言しかも俗語、口語の世界だから歯が立たない。

私の周りには、かなり親しい人も含めてモントリオールとフランスを行き来しているカナダとフランス二重国籍の人が少なくない。だから、語彙の違いなどはよく知っている。例えばフランスの「昼食」というのはカナダの「朝食」、ディナーのディネが昼食で、夜食のスぺが夕食だ。英語の影響で最初がずれたのだろう。だから、この映画で夕方に「スぺの用意ができたよ」とかいうのはよく分かる

で、もちろん他のフランス人にも聞き取れないわけだから、ほとんどの場面にフランス語の字幕が入っている。といっても、訛りをとって書き起こすのではなくて、「訳している」ところも多い。でも、そのうちに癖が分かってきて聞き取れる分も多くなった。

で、これについて、監督のドランは、ケベック語を讃えるものだとはっきり言っている。

彼は何度も、ケベックは英語の大海に囲まれて非常なストレスにさらされてきたというのだ。

特に、男たちは400年間、「英語につぶされてきた(英語話者がボスであり資本家でありフランス語話者は使用人、労働者という格差)」、その中でフランス語を守ってきたのは女性で、1964年からの女性解放の運動はとてもラディカルなものだった、女性たちがカナダを引っ張っている、女性たちを通して、アメリカでもなくフランスでもないケベック、ケベック語を堂々と世界に配信したい、などと言う。

ベルギーにおけるフラマン語とフランス語の関係にも似ている。

いやー、上に書いたように、モントリオールの知り合いがたくさんいて、私がいつ行っても泊まるところもあるというのに、今までなんとなく、「モントリオールの人っていいなあ、みんなバイリンガルだし」、などと思っていたので、彼らのアイデンティティとしてのフランス語の重さがここまでだとは思っていなかった。

そんなことを聞くと、ナポレオンによってアメリカに売却された後のルイジアナの人々のことも想起される。

ケベックもルイジアナのようにフランス語を失っても不思議ではなかったのだなあ、と、ケベックの歴史をあらためて振り返る。

若いだけでなく童顔のグザヴィエ・ドランは10代くらいに見える。(父親がエジプト人のアーティストというのもおもしろい。ドランはフランス系の母の名前だそうだ。)

実際10代の頃に、シナリオを持ってアンヌ・ドルヴァルを訪ねて行ったらしい。

しかも、彼の映画に出る熟年の女優たちはまるでみな彼の魅力にとり憑かれたようなことを言っている。

『マミー』の後でカンヌでパルムドールをとった映画に出たナタリー・バイも同じ感じだ。

ベテランのスタッフやベテランの俳優たちに囲まれて天性のカリスマを発揮しながら皆の心をつかんで自分の権威を認めさせてしまうところは、なんだかマクロン新大統領のことを想起してしまう。

映像も音楽もすばらしいけれど、本人も言うように女性、特に「母親」に人生のすべての陰影を見て「家族」を強迫的に描いていくのは重い。その母に対峙するのが自分自身のような性的マイノリティや、多動障害の少年や余命を宣告された青年などなので、ますます重い。

『マミー』では子供を亡くしたショックで言語障害になって休職中の女性も出てくる。

一方で、ケベック語、ケベック方言などという以前に、すごい量で繰り出される卑俗な言葉や乱暴な言葉に圧倒されるので、無意識にバリアを張って観てしまい、どこにも自分の気持ちを投影できない

後に残るのは、新自由主義経済の爪痕の深刻さばかりだ。

映画なんて観ている場合じゃない、などと思ってしまう。



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by mariastella | 2017-05-24 00:04

フランスとイスラム  その2

次に、フランスのイスラム過激派対策を誤らせた「イスラモフォビー」(イスラム嫌い)というコンセプトについて。

イスラモフォビーは「一部の過激派やテロリストとフランスの穏健なムスリムを混同するな」という言い方によって、実は巧妙に「イスラム批判」と「ムスリム差別」を混同している。
この二つは別物だ。健全な宗教批判は表現の自由に属するが、ある宗教に属する人をまとめて批判するのは「差別」という「法的な罪」を構成する。

宗教は批判の対象となる。宗教とはシステムであり、逸脱することもあるし、権力によって取り込まれて利用されたり変質したりもするからだ。

宗教は文化現象の一つでもあるから、ある宗教の価値観が他の文化圏の価値観とは合わないことも当然ある。イスラムの価値観がフランスの共和国の価値観と合わないと言って批判することは自由だ。

けれども、ある人がイスラムに帰属しているからといって偏見を持ったり、蒙昧だと言ったり、アラブ風の名や風貌を持っているというだけで差別することは、それこそフランスの価値観に反する「罪」である。

ある国の指導者のやり方やイデオロギーを批判することは健全だが、その国のすべての国民をまとめて中傷するのはヘイトスピーチである。

ある人がある国に生まれることは選択によるものではないし、イスラムの場合はムスリムの父を持つ子供は自動的にムスリムとなり、棄教は死に値するとされているのだから、これも選択の余地はない。

ニーチェはユダヤ主義を激しく批判したが、ユダヤ人差別主義者ではなかった。(続く)
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by mariastella | 2017-02-20 01:32

ポピュリズムと妊娠中絶とキリスト教の関係

月イチ更新の健康ブログに、近頃の欧米のポピュリズムが「人工妊娠中絶」の合法化や改正などについてうるさく言っているのを見てちょっと書いておこうと思ってアップしたのですが、結構長くなったし、このブログにも書いたテーマとつながっているので紹介しておきます。

この記事です。

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by mariastella | 2017-02-20 01:31

『沈黙』をめぐって その11

映画『沈黙』をめぐっていろいろ書いてきたけれどどこまで何を書いたのか分からなくなったので、ここでいったん停止することにする。
今執筆中の本のテーマと重なっているのでよけいに頭の中でまざってしまった。

本に書いていることの一つは、殉教における自由の問題だ。

以下、それについての一節をここに要約コピーしてこのテーマは終わりにする。

迫害に耐えた「殉教者」たちの多くは「宗教としてのキリスト教」に殉じたといえるだろう。理性で納得して洗礼を決意しキリスト教を実践した人々には、時代の空気が変わってからも、「大義のために死ぬ」という美学を貫くことを余儀なくされた場合があるだろう。宣教師の多くは自分たちの「羊」である信者たちへの責任を感じ、家族や臣下にキリスト教を勧めた武士たちにも義理が生じ、先行するキリスト教のイエスの受難や殉教聖人の後に続くという決意があったかもしれない。
「確証バイアス」をもって日本にやってきた宣教師はともかくとして、「形だけの棄教」にも応じなかった信者を支えていたのは「信仰」よりも「狂信」に近い原理主義的確信であったかもしれない。それは迫害者側も同じことで、人はそれぞれの「大義」のために殺したり殺されたりしていた。 

殉教者の中には、原理主義的な偏狭の罠に捕らえられたり、「義に殉じる」「誓いに殉じる」という原則を貫いたりしたのではなく、純粋に「愛」のために死んでいった人々がいる。

殉教を覚悟で、むしろそれを大いなる恵みとして意気高らかに喜びのうちに死んでいった。日本の場合も、死を前にした宣教師らが本部に送った手紙の中には、熱烈な愛の歓びと勝利を謳ったものがある。これは、神が「受肉」して人として苦しんだイエス・キリストとの「関係」の上に立つキリスト教の特徴の一つかもしれない。彼らは、「狂信」や「原理主義」や「宗教」のためにではなく、ただ並外れた「イエスへの愛」のうちに死ぬ以外の選択肢がなくなっていたのだ。このことは、「忠義」のために命を捨てるという文化の日本社会に「愛のために命を捨てる」という新しい地平を開いた。

そのこととも関係しているのが、貧しいキリシタン村の指導者や、学のない庶民の殉教だろう。
彼らの多くが棄教しなかったのは、殉教を決意した親兄弟からの同調圧力のせいでもなく、宗教の原理主義的な教えに「洗脳」されていたからでもなく、「イエスへの盲目的な愛」のためだけでもない。多くの「庶民」に殉教の覚悟を促したものは、キリスト教の根本にある「自由」のメッセージだった。

イエスは「神の言葉」に依って立つユダヤ教の世界で生きていたが、いつしかその神の言葉が、形骸化し支配階級のツールとなり、偽善の足場となっていることを批判した。「神の言葉」や「律法」を司る階級が、それらを人々の手に届かない「聖なるもの」とすることで権威や権力や利益を獲得していたのだ。イエスはそれを批判した。神の言葉も律法も、人間のためにあるのであって、人間が神の言葉や律法のためにあるわけではない。神が人間を愛し、信頼し、何度信頼を裏切られてもまた愛したように、人も隣人を愛し、敵さえも愛さなくてはならない。

けれども、最初のキリスト者の共同体はすでに、個々の生き方よりも共通した「形」にこだわるという誘惑にさらされていた。パウロが割礼の有無についての議論の中で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(ガラテヤ5)」と言っていることがその状況をよくとらえている。パウロは、キリスト教が「軛としての律法」から人々を自由にするために出発していると訴え続けたのだ。それは同時に、「律法遵守主義」の中に人質のように取り込まれている「神」をも解放することを意味していた。

日本の戦国時代から江戸時代初期までの動乱期において、農民の多くは、戦乱に巻き込まれ、土地や作物を略奪され、蹂躙されてきた。暴力の行使を裏付けとした支配構造のただなかにあった。そんな時に、人の世界の上下関係や差別構造をすべて超えた超越神が被造物であるあらゆる人々を愛していて、そのために「人が人を殺す」世界にあえて「独り子」を遣わしたという教えが入ってきた。

人は神の前に「平等」であり、神は人に各自(ペルソナ)の「自由」を与えたという。その神を信じれば、イエス・キリストによる救いにあずかれて、天国での永遠の命と安らぎが得られる。この世での差別や暴力に苦しみ続けるばかりであった農民や漁民らにとって、「キリスト教」ははじめて自分たちが個人として愛され救われるという希望をもたらせてくれるものだった。

キリスト教の信仰の中で、彼らははじめて「自由」を獲得した。彼らの共同体は共通の神を拝み、それ以外の権威を認めない、妥協しない共同体だった。拷問され、「形ばかりの踏み絵だから踏むがよい」などと言われても、踏み絵を踏んで失われるのは信仰ではなくて「自由」だった。

思えば、義のため、忠節のために命を捨てるという文化の日本においても、愛のために「心中」するというカウンター・カルチャーが存在した。
それも、社会の中で容認されない恋、恋を遂げるために必要な金銭が用意できないの末の心中である。

神に愛されていると知り、神の子キリストへの愛の中で「自由」を知った人々にとっては、「棄教」は信仰だけではなく自由を捨てることと同義だった。キリシタン大名の息子に生まれたわけではなく過酷な生を生きていた庶民たちは、はじめて人を平等に愛するという「主」、自分たちのために苦しくて屈辱的な死を受け入れたという「主」、その「主」への愛を通して主のもとでもう誰にも搾取されない永遠の生を得られることを知った。

このようにいったん自由と愛を知った庶民にとっては、棄教することは再び「奴隷の生活」に戻ることと同義だった。(・・・・・)
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by mariastella | 2017-02-17 02:37

ジュッぺとフィヨン フランス大統領予備選その3

今日のニュースではジュッペとフィヨンがそれぞれ別のチャンネルでインタビューに答えていた。

サルコジはカルラ夫人と末娘を学校(幼稚園?)に迎えに行くシーンが映されていた。

で、ジュッペとフィヨンの政策の違いが比べられたが、確かに大きな相違点はない。
フィヨンの「勢い」みたいなのは目に見える。
ジュッペへの投票が多かったのは彼の地元であるボルドー近辺とパリだった。
なんとなく分かる。

ボルドーにもフィヨンの地元にも親戚がいる。
フィヨンに投票した人はその「人がらのよさ」を強調する。

うーん、「見た目」のポピュリズムとは別に「私生活」をポピュリズムの視線で見ると、確かにフィヨンはフランスの政治家として珍しく安定している。

ミッテランは愛人を公費で住まわせて隠し子がいた。今になってラブレターが公開されている。
シラクも隠し子の噂で有名だった。
サルコジは3度の結婚のたびに子供がいる。トランプと同じ。
オランドは事実婚のロワイヤル女史との間に子供が4人もいるのに、ジャーナリストと浮気して別れて、そのジャーナリストとも別れて暴露本を書かれているし、今も女優と交際中。
ジュッペは2度の結婚で3人の子供。

フィヨンはリセで知り合ったウェールズ出身のイギリス人の奥さんと1980年の結婚以来5人の子供のカトリック家庭。昔から家族写真がよく出ていた。

マクロンのような型破りの純愛家庭もあるが、フィヨンはまず、クラシックな家族イメージ。
強烈な政治と権力の鬼みたいなキャラクターの政治家たちからそろそろこんいう落ち着いた感じの家庭人を人々が求めるとしても不思議ではない。しかもただの優等生ではなくて、中学時代も高校時代も「停学」歴があって、趣味はカーレースというのもユニークだし、若いころはなかなかハンサムだった。

フィヨンがこのまま公認候補になる確率は高い。
プーチンと気が合うという話は、緊張緩和の役に立つかもしれない。

「2番目の男」のイメージが完全に覆った。こういうこともあるんだなあ。
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by mariastella | 2016-11-22 07:20

ヘンリー・オサワ・タナーのイエスとニコデーモス

この前の続きだが、ある「効果」を実現するために工芸的で抽象的な構成をしていくタイプの画家と正反対に、写実的な絵が、単純化していって、その上で、別の世界に突き抜けるというようなタイプのものがある。

絵が信仰告白だと明言していたヘンリー・オサワ・タナー(はじめて有名になったアフロ・アメリカンの画家で、20世紀になってから人種差別を嫌ってフランスに住み、フランスで埋葬されている)の『イエスに会いに来たニコデーモス(ニコデモ、ヨハネ3章)』のいくつかの絵(同じ年に描かれた)を見ていてそう思う。

これが写実的なやつ。


 これが抽象化する過程

これが宗教画に昇華したもの


疑いも持っていたニコデーモスがイエスにあって何を体験したかがよく分かる。

この人の写実的な画で、イエスに読み方を教えるマリアというのがある。

大工仕事を教える父ヨセフを補完するように「読み書き」を教えるのは母マリア(マリアも母のアンナから読み書きを習った)担当だったのだけれど、これは写実的でディティールがすごくいい。

文化や伝統としての宗教画(教会や修道院や貴族から注文された)もあればそれに自分の美意識を託した画家もいる。
近代以降には、本気で信仰を画で表現した人たちがいて、それがアフロ・アメリカンでもあり得たということは不思議ではないのに、何となくアメリカの黒人の信仰表現というと黒人霊歌のイメージがあるので、オサワ・タナーの絵を見ているとあらためてアートの普遍性を感じさせられる。
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by mariastella | 2016-04-15 18:37

フランスのクリスマス

フランスのクリスマス・イヴは日本のお正月のように家族で集まる大きな行事だけれど、考えてみたらこのフィーバーはすごい。

いくらクリスマス商戦、マーケッティングに踊らされているといっても、ヨーロッパでクリスマス・プレゼントを用意するために借金までするのはフランス人だけだそうだ。

しかもいかに世俗化しているとはいえ、クリスマスといえばイエス・キリストの誕生日で町に普通に見かける教会が盛り上がっているのを目にしないわけにはいかない国なのに、政教分離、脱キリスト教や無神論や不可知論がイデオロギーにさえなっていて、ムスリム系移民や移民の子弟が何百万人もいるこの国で、クリスマスにはすんなりと家族で集まって贈り物をし合ってごちそうを食べようね、というのがコンセンサスになっているというのは、クリスマスの奇跡だ。

いや、フランスに住んで40年、日本と違って他人の目など気にしないこの国で、唯一、強迫的な「同調圧力」を感じるのがクリスマスだ。

実際、この日には、フランスの自殺者数がピークになるという。

同調圧力の中で一つの救いは、日本のお正月と違って、弱者支援の伝統があるところだろう。

イヴの夜やクリスマスの昼、たいていの教会はミサの後に食事をふるまい、それには、国籍、宗教など問われない。通りすがりでも入れてもらえる。

ひとり暮らしの人々にプレゼントが届けられ、難民の子供たちをエッフェル塔に招待するとか、ホームレスの人をセーヌ河のクルーズの食事に招待するとか、公立の保育所や幼稚園の生徒全員に市からクリスマス・プレゼントが配られるとか、とにかくいろいろなものがある。

今年のヨーロッパは特に難民問題が深刻だったけれど、何しろイエス・キリストは馬小屋の藁の上で生まれたし、その後も、ヘロデ王の殺戮を逃れて養父と母と共に夜逃げしてエジプトに亡命したという「難民家族」で育った。 

「洗礼だけのカトリック」が大半である飽食の人々にとってはかなり不都合なそういう設定が、クリスマスとなると意識下に頭をもたげて、「クリスマスの慈善」に向かわせるのかもしれない。

今年は今のところ記録的な暖冬でパリは東京より暖かいくらいだから寒さの深刻さは少ないけれど、「家庭の団欒」の同調圧力が強く働くこの国のクリスマスだからこそ、家庭の貧困や家庭崩壊(この二つは貧困から家庭が崩壊したり、家庭崩壊から貧困に陥るなど多くの場合連動している)の広がりを直視させられる。

でも、今時のクリスマスとはいえ、クリスマスには「消費」もあるが「文化」もある。

今朝のラジオで、哲学者のシンシア・フロリ(Cynthia Fleury)が

文化(カルチャーというのは育て養う意味がある)とは、自分や他者に対する憎悪に抵抗する力であり、より悪い方向へ向かうという誘惑からの守りである、

と言っていた。

食べ物や寝る場所だけではないものを分け合うことの大切さを思う。

追加: 結局クリスマス・イヴのミサは平和に過ぎだ。リールの教会では15人のムスリム男性がミサの間に教会をガードしたそうだ。本当に武装テロリストが来たら守り切れない非武装の人だけれどシンボリックな連帯は感動を生み、ミサの後で教会から出てきた人たちは守ってくれたムスリムたちとハグし合ったそうだ、

先日の州議会第一回投票では極右国民戦線の党首マリーヌ・ル・ペンが40%で首位だった地方の町のことだから、ほっとさせられるいいニュースだった。

今年のクリスマスは16世紀半ば以来457年ぶりかで、イエス・キリストの誕生日とイスラムの預言者ムハンマドの誕生日が一致する年だったそうだ(イスラム暦は数え方が違うのでずれていく。キリスト教でも正教系などクリスマスの数え方が違う宗派もある。)。

人類の二人に一人がキリスト教とイスラム教だというのだから、彼らが共に祝える祝日というのは貴重だし、その日が平和に過ぎた(多分。これを書いている時点ではまだ世界中で半分以上の地域は12/25がまだ終わっていないから)ことが平和な共存のきっかけになってくれるといいのだけれど。
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by mariastella | 2015-12-26 02:15

テロリスト勧誘システム

以下は昨日の記事の補足です。

移民の子弟ではないいわゆる「普通のフランス人青年」がジハディストになる経緯について質問を受けたので書いておく。

これはたちの悪いカルト勧誘と全く同じだ。

まず、毎週教会に行くようなブルジョワ家庭の子弟。
親が子供の自由を尊重する場合はたいていの子供は堅信礼の後で教会に行かなくなる。中にはスカウト活動やボランティアなどを続ける子もいる。(このタイプはカルトにはまらない)

まじめなタイプの子供で、親や教会活動の偽善を見抜いて憎むようになる子もいる。
日曜だけミサに行ってもそれは社交のためで、実際はみな弱者を踏みつけて勝ち組であることに満足しているではないか、という類だ。罪悪感もある。(リスクグループその1)

次に、、基本ブルジョワやインテリ家庭でキリスト教の教養もあるのに68年五月革命世代で宗教から離れ無神論を掲げ、子供に宗教教育を一切しない場合、子供たちはやはり親の享楽的な生活や自由な生活のエゴイズムに反発するケースがある。(リスクグループ2)

1の子供たちはカトリックには失望しているので仏教、他のマイナー宗教、各種カルト団体に向かう場合がある。2の場合はそれ以外にカトリック原理主義グループに接近することがある。

そういった「自分さがし」や「親への反発」「不公平で偽善的な社会への不満」などの過程にある青年たちに触手を伸ばすのがカルトの勧誘だ。

青年たちが何を求めているかについてカルトが有する「マーケティング」の力は半端なものではない。
カルト的でない宗教にはまった場合は実害はない。旧仏領インドシナの仏教徒コミュニティはフランスにたくさんあるが、別に彼らは帝国主義を責めることをアイデンティティにしていない。

他のカルトグループも、若者を洗脳して社会から分断したり奴隷化することがあるが、多くは一部の指導者の富の蓄積に寄与させるもので、基本的人権の侵害、財産権の侵害以外に他者への危害を推奨することはない(それはそれで十分問題だが)。もちろんオウム真理教のように教祖のキャラクターによってはテロに向かうグループもある。

さて、そういうベースがある「先進国」でISは勧誘を始める。

ひとりのフランス人をシリアに送ることに成功した勧誘者はその度に15000ユーロの報奨金を得る。

勧誘のプロによる勧誘の方法はひたすら「愛の宗教イスラム」である。

偽善的な親、弱者をくいものにするエゴイスティックな社会、堕落、などに失望している青年、自分の未来像を描けない青年はその愛の宗教に救われる。イスラム教徒になる。フランス国内ではそれ一筋だ。

その後で人々の命が危険にさらされているシリアに旅立つ。ここまでが勧誘者の仕事で報奨金を得る。

現地で戦火で廃墟となった町を見、学校にも行けず武器を取って戦わざるを得ない孤児を見、悪の権化である英米や悪魔に魅入られた祖国フランスによる空爆(テロだと言われる)を見る。

そこではじめて「狂信」の次のステージである「怒り」に導かれる。
「怒り」のステージから、戦い、報復、悪人の殲滅のジハードのステージに行く頃は洗脳が完成しきっている。

中には「こんなはずではなかった」とISから出ようとする者ももちろんいるけれど、あっさりと殺される。

これが、「普通のフランス人」をテロリストに仕立てるプロセスで、それ自体はよくできたカルトと変わらない。

違うのは彼らには武器や石油があり、石油資本の大国から提供される潤沢な資金があるということだ。

フランスにいる段階で洗脳を解いたり、カルトにねらわれやすい潜在的な層に対して、彼らが必要としているものを民主的、互助的な世界で提供したりしなくてはならない。空爆など続けていては洗脳の手伝いをしているようなものだ。

イラク侵攻やリビア侵攻の失敗から西側大国が何も学んでいないことは、驚くべきだと思っていたが、彼らには、1990年代からの中東政策の失敗体験よりも、いまだにナチス・ドイツに勝利した成功体験の方が大きいということが分かってきた。

悪魔であるヒトラーを倒すためにはスターリンとさえ手を組んだじゃないか、という成功体験が、シリア国軍と組んだりロシアやトルコやイランと組んでともかく戦力でまさることでヒトラーならぬISを壊滅させることができるという感覚がどこかにある。

戦争による成功体験の方が戦争による失敗体験よりも使い勝手がよく、それで莫大な利益を得る者がいるということなのだろう。

金曜はすべての家庭が三色旗を掲げて、などと言われているが、私の周囲はもちろんゼロだし、批判も多いことを付け加えておく。

また非常事態宣言による裁判所の条令なしの家宅捜索でレストランに突然捜索が入りドアを壊すなどした映像が防犯カメラに映ったのを一般TVも大きく扱った。その謝罪やそのような被害は完全に賠償すると政府は言っている。メディアの自由が残されているというのは本当に大切だ。
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by mariastella | 2015-11-27 00:08

パリのテロ事件について  その8

テロから一週間過ぎた。

日曜のナルシシスティックなデモの心理療法的効用と

それを最大限に安上がりに利用したコストパフォーマンスの高かったお得な政治劇も終わり、

シャルリー・エブドが五百万部(これまでのフランスの新聞の最大部数はドゴールの死の後の220万部だそうだ)でることで、「表現の自由」原理主義たちにとっても割の合う一週間となった。

ヴァルス首相はブッシュ並にフランスを守る、テロリストを許さない、と鼻息を荒くしているが、一方ではフランスらしい多様な意見が出始めている。

私はこのブログではこれで打ち切って、遅れた仕事にかかるつもりだが、この件について、「フランスの政教分離」とカトリックについて、まともな記事をそのうち公表するつもりである。

少しだけ触れておこう。

今のヨーロッパ内部でのイスラム過激派によるテロについて考える時に、

「ヴァイオレンスの責任が一神教にある」とか
「イスラム過激派のジハードとカトリックの異端審問は同じ」

などという単純な言説はもちろん間違っている。

日本から見て「白人の価値観至上主義」などと言うのも間違っている。

白人の価値観ではなくて、キリスト教の価値観と言う方がかなり真実に近いのだが、問題はキリスト教徒も含めて彼ら自身が絶対にそう言わないところだ。

啓蒙時代のユニヴァーサリズムから「キリスト教」の含意をすべてとりのぞいたものが「西洋近代の民主主義や自由平等主義」だからだ。

特に、世界でも一つと言われるフランス型の政教分離(ライシテ)はすべてカトリックの聖職たちが形成してきたと言っていい。

そのことをカトリック自身もほぼ絶対に言わないし、政治家はもちろん無視している。

なぜカトリックの聖職者たちがライシテを作ったかと言うと、

1.無神論者や反教権主義(ローマ・カトリックを認めない)者たちには、政教分離を考える必要がなかった。カトリックを追放したり迫害したり財産を没収するだけで事足りるからだ。

2.サヴァイヴァルをかけて新しい社会の「環境設定」をするのはカトリック側の使命となった。

3.カトリックにはそれまでの知識や哲学や教養などの膨大な文化資産があった。

4.啓蒙の時代以降のカトリックの聖職者たちは啓蒙思想の中に本来のキリスト教のメッセージを読み取った。

5.彼らは独身である。 仕事へのモティヴェーションが高い人が、日銭を稼ぐ心配、家族の心配、老後の心配、財産形成や管理の心配などがない時、その生産性は高くなり、仕事の質も当然高くなる。

こうして彼らは自ら政教分離の空間を「発明」して、その下で生きる社会を形成した。

このことを誰も言わない。

その内容についてはここではくわしくは書かない。

ひとつだけ書いておくと、

「神が支配者でありすべてを決める」という姿勢と、

「神も主人も倒せ、人はそれぞれ個人の欲望を持つ相対的存在である」

という立場はどちらもカトリック的ではない。

トマス・アクィナスが言ったように「神は人に責任ある存在としての尊厳を与えた」。

「自由意志」と言うやつで、人は神と共に自分たちの生き方を絶えずオーガナイズする役割を与えられる。
 
しかし、その責任を果たさず神を愛し人を愛するという原則に外れると枠から外される。

それは政治家が失言によって辞職に追い込まれるのと同じだ。
責任には「自制」が要求されるからだ。

それのない社会、「誰でも好きなことを無制限にやったり言ったりする権利がある」と言えば、何が起こるだろう。  

「絶対自由で好きなことをやりなさい」、で、そこで当然起こる衝突を制圧するために重警備社会が登場する。

このことを「世界の監獄化」と評した人がいる。 

「自由世界は監獄の運動場みたいなものだ。
囚人を勝手にふるまわせているが、ぐるりはすべて警護官にびっしり取り巻かれているのだ」と。

自由に冒涜の言辞が飛び交っても軍隊に警護されなくてはならない国では意味がない。

イスラムがフランスで問題になるのは、フランス型の政教分離というコンフィギュレーションがカトリック由来なのでイスラムには合わないからだ。

もう一度政教分離の神学的ルーツにまで戻ってコンフィギュレーションを変更しなくてはならない。

フランス・カトリック型のコンフィギュレーションの中でイスラムが生きるのは不自然だからだ。

フランスのカトリックは政教分離をうまく生きている(自分たちに合わせて作ったのだから当然だ)。

戦後のフランスでカトリックや無神論者や無信仰者がユダヤ人を差別することなど久しくなかった。

差別も区別もなかった。(一部の極右はすぐに社会的に制裁される)

ここ10年ほどの間に公立小学校でユダヤ人の子供たちはムスリムの子供たちに攻撃されるようになった。

公立学校に残るのは今や3分の1で、3分の1がユダヤ人学校に、残りの3分の1がカトリックの学校に通っている。

それでも多くのユダヤ人がフランスを出てイスラエルに移住することを表明している。

その深刻さを、それまで

「僕たちの政教分離は完全に機能しているもんね」

と満足していたフランスの「共和国市民」たちは気づかなかった。

あるいは見て見ぬふりをしてきた。

何となく、

「ルールを破るムスリムは出て行ってもらいましょう、あんたたち、うちのコンフィギュレーションでは機能しないから」

と警戒や忌避の感情を養っていただけだ。

と、なんだかんだ言って結構書いてしまった。

これから少し間をおくつもりです。
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by mariastella | 2015-01-15 00:52



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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