L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:猫( 36 )

イズー君はハンス少年か

水場が好きで洗面台や流しに来る猫の話はよく見聞きしていたけれど、うちの代々の10匹ほどの猫の中で、蛇口から水を飲むのが好きなのはこの夏ちょうど3歳になったイズ―君だけだ。

何でもお兄ちゃん猫スピノザの真似をして大きくなったのに、おなかを出して寝るのと蛇口の水が好きというのだけは生来のもののようだ。

私の書斎には洗面台がある。そこで顔を洗ったり歯を磨いたりする。
で、その蛇口から水が出る音を聞きつけるだけでイズー君が現れて体を半分洗面台の中に入れてくる。

で、私が水量を調節して、「ちょろちょろ」くらいにしてやったときに蛇口に口を当ててごくごくごく、と飲み始めるのだが、その半分くらいは下に流れている。

おもしろいのは、すぐに口を当てるのではなく、両手でかわるがわるに、蛇口、レバー、洗面台の回り、蛇口の後ろのタイル部分などを必死に「ざっざっ、」と掻き出すことだ。

飲んだ後も、洗面台から降りる前に周囲を丁寧にざっざっと掻くというか、こする。

爪で掻いた後で肉球でこするという感じだから、タワシとスポンジで掃除しているようなもので、おかげで洗面台の回りはいつもピカピカで掃除いらず。(まあその後でぬれた足でPCの上に座るのでラップトップの蓋は足跡だらけだけど)

その儀式を見ながら、最初は

「えい、えい、水よ、もっと出ろ」
「さあもう飲んだから水を止めなくちゃ、えい、えい、水よ。止まれ」

とアテレコをして、もちろん実際は私が出したり止めたりしていたのだけれど、最近別のことを連想するようになった。

それはオランダの少年の話。

今、ウェブで確認してみたら、こういうのがあった。
海面より低いオランダで、堤防の決壊を防ぐために、少年がひと晩穴に手を入れて防いだというあの美談だ。

で、イズーちゃんが毎回水を飲む前に見せる律儀な必死さのパフォーマンス。アテレコを変えてみた。

「あ、大変だ、水がちょろちょろ出てる。
何とかしなくちゃ、ざっざっざっ、
埋めればいいのかなあ、ざっざっざっ、
あ、まだ出てる、
じゃあ、今度はここだ、ざっざっざっ、
あ、まだ止まらない、
それならここは? 
ざっざっざっ、
大変だ、大変だ、何とかしなくちゃ、
これはもう、こうするしかない、
口を当ててぼくが全部飲んじゃえばいいんだ、
えい、ごくごくごく、
かあさん、早く来て、ぼくがんばるから・・・」

とアテレコしてみたらぴったりなのだ。

洪水を心配しているのか節水のために頑張っているのかは知らないけれど、なんだか、健気。
真剣さにじーんとくる。

同じ場面を見ていてもアテレコを変えるだけで、おバカ猫がハンス少年になって感動物語の主人公に…。
お涙ちょうだいの物語の作り方ってこんなものなのかなあ。

ひょっとして、私は暇なのか?
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by mariastella | 2016-09-03 02:11 |

ネコを愛せると自分を愛せるかもしれない

先日、知人夫妻のうちでの昼食会で彼らの16歳になるテリアをたっぷりかまってきた。

でも、衰えがはっきり見える老齢で哀れをそそる。

うちの15歳の猫が毅然としてジャンプ力も衰えていないのとは全然違う。

私は生まれた時から犬のいる生活で、フランスで猫を飼うまで自分は「犬派」だと思っていて猫は苦手だった。というのは以前にも書いたことがある。

ウェブ上にはネコ好きのための、ネコがかわいいという動画はたくさんあって、そんな暇がないのにちょいちょい見ては後悔するのだけれど、最近、

「トコトン掘り下げ隊 だからネコが大嫌い20連発 」
というタイトルに出会ってつい見てしまった。

元「犬飼い」の元「猫苦手」派の私には笑えるほど納得のいくものばかりだった。

ほんとうに、あの犬のつぶらな瞳、飼い主に絶対忠実、呼ぶと必ずやってくるし、どこを触られても怒らない、というのは魅力なのに、いつもこちらがご機嫌伺いしなくてはならないような猫をいったいどうやって好きになれというのだろう。

それにいつ引っ掻かれたり咬まれたりするかもしれないし、触らせてくれるかどうかも分からない。

でも、「猫」派にとっては、それらすべてが「かわいい」のだ。

自分の思い通りにならない「お猫さま」に忍耐強く仕えて、少しずつ受け入れられてもらえる快感、ついに頭をすりつけてもらえたり喉を鳴らしているのを聞けたりする瞬間の嬉しさ、しかしそれも毎回続くとは限らない。

そんな猫を愛することを知ってはじめて、利己主義や自己中心主義のロジックから離れることを知る。
そしてそういう「利他」の受容と遂行を心から喜べるのがまた驚きである。

猫を飼っていて一番精神衛生にいいのは、かわいらしさやゴロゴロすりすりモミモミというしぐさなどではない。

自分の利己主義が相対的なもので、自分が見返りのない愛をそそげる、いや、たとえ痛い目に合わされても憎まずに愛し続けることができる、などという意外なキャパシティを発見できて、共生の形が広がることを実感できるところなのだ。

犬に愛してもらえると自分を愛することができるように、猫を愛することができると自分を愛することができる。
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by mariastella | 2016-07-13 18:08 |

ライシテと「原罪」

カトリーヌ・キンツレールと言えば、ラモー好きの音楽家にとっては特別の人だ。

ラモーを研究し始めた最初の頃からの一番信頼のおける著者なのだが、彼女はフランスの政教分離(ライシテ)の専門家でもある哲学者だ。

最近読んだ彼女のライシテとイスラムについての記事は、マルセル・ゴーシェなどの反対の路線で、とても分かりやすかった。全面的に賛成だ。

ライシテには二つの原理がある。

一つは、政権担当者とそれに連なる機能を行使している者(公務員など)は、いかなる宗教も特別扱いしてはならないということで、
もう一つは、それ以外の一般市民は信教の自由を「信じないこと」も含めて自由に生きることができることだ。

だから、政府との対話に特化した宗教の代表を立てることは(ナポレオンが始めた管理法だが)ライシテに反しているし、そこにおける調整で、どの宗教もみんな平等にとか、モスク建設の援助をするなどもってのほかである。

一方、各宗教者や信徒がそれぞれの実践を公的な場所で行うのは自由であり、その安全は守られなくてはならない。

ただし、過激派のイマムがテロを煽動する、ヘイト・スピーチや差別的言辞があるなど、反社会的、反共和国的な言動や実践があった時は、1905年法によって十分とりしまることができるし、対処しなければならない。

それだけの話だ。

とても明快なので、いつもながらの「猫との生活」への適用で考えてみた。

異種共生とか、ハンディキャップの問題とか、生産性とか老いとか病とかを考える時、いつも「猫たちを愛して共に生きることで救われている」日常によってインスパイアされているからだ。

自分の子供なら障碍があったり、自立できなかったりなどの問題はつらいだろうけれど、猫なら一生面倒を見なくてはならないのにそれが重荷だとは思えず、それぞれのあり方に応じて楽しく共生できることの実感は、貴重なものだ。
多頭飼いというのも重要ポイントだ。
それぞれに違うし、互いに仲の悪い猫もいる。

私は犬を飼ったこともあるので犬との関係性も容易に想像できる。

で、年齢も種類も異なる犬数匹、年齢も性格も異なる猫数匹と暮らしているのを想像する。

私は「政権担当者」だ。

だから絶対に彼らを「差別」しない。
平等に扱う。
(犬は実はフランス型の「統合政策」に向いている。こちらの価値観、習慣、要求に合わせて「飼いならす」ことができる。)
でも、そこはライシテ、犬も猫も、それぞれの特質を無理に変えることはできない。
命令に従えない猫もリスペクトする。

けれども、たとえば電気のコードを齧るなど、共同生活にとって絶対脅威になることや彼らの一員の命の脅威になるような行為は取り締まるし、予防の対策もたてる。
それ以外は基本的には最大限に自由にさせる。

政権担当者の最も大切な仕事は彼らの「快適な生活」の保証のために「奉仕」することである。

「公僕」というやつだ。

うむ、納得できる。

では難民問題は?

突然動物愛顧センターから、虐待された犬や猫を引き取ってくれと頼まれる。あるいは自宅の庭に捨てられた猫や傷ついた猫が迷い込む。

出来ることなら「我が家の子」として迎え入れてあげたい。

少なくとも、里親としてとりあえずの安全を確保して世話をしてやりたい。

でも、うちにそんな余裕があるだろうか?

先住の犬猫にストレスや伝染病や寄生虫をもたらすのではないか。
隔離して世話するキャパシティが自分や住まいにあるだろうか。

うーん、そこはやはり、情動だけで受け入れるのではなく、何が本当にできるのか冷静に考えなくてはいけない。
愛護センターに寄付するとか、里親のネットワークづくりをするとかの方法もある。

ああ、しかし、犬猫の他に、血を分けた人間の幼児とかも一緒に暮らしていたらどうなるだろうか。

やっぱり「自分の子が別格一番」、と血縁で優先順位をつけたり、見た目で動物種差別をしたりするのだろうか。差別しない自信がない。

極右の煽動に賛同してしまう人の心理もなんとなく分かる気がする。

と、ここまで、天下国家のことを「自分ち」スケールに落とし込んでシミュレーションしていたのだが‥‥。

テロ対策や侵略戦争などのことにまで仮定が広がると、「シミュレーション、無理」という壁に突き当たった。

さまざまな障碍や、見た目の違いや、老いや病気の問題や、それぞれが違っても快適に生きる権利、などというテーマなら十分に展開できるのだけれど、テロは無理だ。

犬も猫も、善良すぎる。
虐待されて人間不信になったり、互いの相性の良し悪しとかはあったりしても、「憎しみ」や「悪意」はない。

それらのもとになる「絶望」もない。

なぜ、人間だけが動物として変な方向に倒錯しているのだろう。

ひょっとしてこれが、「原罪」というやつなのだろうか。

というわけで、犬猫との共生をイメージしたマイ・「ライシテ教室」は、自分の中で早々と閉じてしまった。002.gif
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by mariastella | 2016-05-20 00:27 |

猫マウンティング

子供のためのバロック童話のデジタル紙芝居の音源を製作者に送るための録音が明日で3日目。万聖節の休暇だというのにラッシュアワーの電車に乗っている。

帰ってきたら、私がいないことに慣れていない猫ズにまつわりつかれる。

かわいい。

私はいわゆるマウンティングとは縁のないタイプだと思っていた。

何かを手に入れたりいいことがあったりしても、それを他人に見せびらかすという気はさらさらなくて、むしろ目立たないように隠しておくタイプだ。

人に自慢することで優越感によってより満足を得られるというタイプの人の心理は分からないと思っていた。

でも、猫に関しては違うのに気がついた。

うちには「トリプルK」の猫が2匹いる。

「かわいい、かしこい、カッコいい」のスピノザくんと、

「かわいい、こわがり、くいしんぼう」の万年中二のイズーくん。

このイズーが、いわゆるツンデレで、なかなか膝に上がってこないし抱っこもさせてくれない。

でも、気が向いたら、自分から膝の上にやってきて腹を出して寝てゴロゴロ言う。

その時はすごく幸せな気分になるのだけれど、得意な気分にもなって、

なんだか、その姿を誰かに見せないと損だという気分になる。

イズーが私以外の家族の膝で同じことをしているともちろん嫉妬してしまうのだけれど、それとは別に、ともかく、「イズーに好かれている私」の姿を誰かに見せて悔しがらせることで幸せ感が倍増というのが実感なのだ。

そのつまらない見栄があまりにも強いので、その時だけ、

「ああ、誰かに会うとあれこれ自慢話とかをしてマウンティングせずにいられない人の心理ってこういうのだろうなあ」

とすごく理解できる。

猫ブログなどで、夫婦がやはりどちらがツンデレの猫により好かれているかについて火花を散らすというのがを見かけるから、かなり普通のことみたいだ。

猫に対してだけそうなるのだろうか。不思議だ。

しかも、猫が一瞬そういう友好的な態度をとってくれても、実は、それはこちらが特に好かれているからなどと関係なく、猫は全然別のロジックでそうやっているのだということも、よくよく分かっている。

つまりそれが一瞬のことで、偶然で、自分が幸運だっただけで、自分の手柄でないことはよく分かっている。

そういうものに限って「自慢したい」ということなのだとしたら、人にあれこれ自慢する人って、その幸福が一瞬で、偶然で、自分の手柄でないってことを自覚しているからなのかもしれない。037.gif
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by mariastella | 2015-10-20 03:16 |

L'ailurophobie アイルロフォビア=猫恐怖症

L'ailurophobie (またはfélinophobie, élurophobie et gatophobieなど)というのをはじめて知った。

いや、なんにでも恐怖症というのはあるから猫恐怖もあるだろうが、猫恐怖症の人に人生ではじめて会った。

マダガスカル出身の中年女性。

パリ郊外の仏教センターにチベット人医師の診察を受けに来た人で、バス停で降りてからいっしょにセンターまで歩いた。
暖炉のある待合室に通されてソファに座って話している時、彼女が叫んだ。

2回の階段から降りてくる猫が見えたと言うのだ。

彼女はソファから飛び上がって部屋の隅に行き、猫は困る、猫が来ないようにと叫んだ。

「あ、大丈夫、庭に出ますから」とセンターの人は言ったけれど猫は階段の下でうろうろしていた。

猫の毛のアレルギーかとみんな思った。

でも女性は猫を凝視して、

「お、恐ろしい、なんてこわいやつ、こ、こっちに来ないで」

などと騒いでいる。

「この子はおとなしいですよ」

とセンターの人が言う。

「私は最初にこのセンターに入った時から猫の唾液が空気の中にあるのを感じていたわ。猫の唾液の中の有害成分は空気の中に広がるのよ! 科学的にも証明されてるのよ!」

と彼女は叫んだ。

私の着ていたセーターはうちの下の猫がやってきてはモミモミ、チュッチュッと吸われているので、唾液もたっぷりついているはずだから、ひょっとしたらそれは私のセーターのにおいかもしれないな、とちらりと思った。

「心理的なものじゃないですか」

と誰かが言った。

「違う、私はマダガスカルでカメレオンだって怖くない。猫は恐ろしい、この猫は怖い」

猫が部屋に入ろうとのっそり歩いてきた。

明らかに暖炉の前に敷いてある横長の絨毯が猫の定位置のようだ。

センターの人が

「では、2 階で待てるようにしますから、上がってください」

と言った。

でも女性は相変わらず恐怖に凍りついていて

「で、でも、猫が、ほら、こっちに来る!」

と大騒ぎ。

明らかな憎悪の念すら発散している。

見るとノルベジアンみたいな長毛の大型猫で、ほれぼれするほど美しい。

私は、では彼女がサロンを出て2階に上がるまで猫を抑えておいてあげよう、と最初から思ったのだけれど、
あっけにとられたのと、彼女の恐怖が伝染して一瞬動けなかった。

猫が悪魔の化身だとか、集められて焼かれたなどの中世の伝説なんかが頭をかすめる。

すごい。

あからさまに開示された恐怖と憎悪の持つ伝染力はすごい。

この猫好きの私が、何となくこの猫を怖く感じたのだから。

結局私が立って行って猫を撫でてやったら、気持ちよさそうに寝転んでされるままになっている。

その間に女性がセンターの人に「守られて」「避難」したので、みんな、ほっとした。

私は猫を撫で続け、もちろんこちらも超気持ちいい。

心なしか、周りにいる人たちから尊敬されているような気分。

それにしても、蛇恐怖症とか蜘蛛恐怖症なら、遭遇する場所は限られているけれど、猫飼い率ヨーロッパ1と言われるフランスで暮らすのに、猫恐怖症はかなりのハンディだろうと思う。普通なら「あ、私は猫アレルギーなんです」というくらいでやり過ごすはずだが、それができないから「恐怖症」なのだ。

猫に対して、というのもそうだが、互いが知り合いでもない場所で、しかも仏教センターで、口コミでチベット人医師に診察を受けに来ているような状況で、大人の女性がまるで悪魔に遭遇したかのように騒ぎ叫び出すのを見るのは初めてだった。むしろ彼女の方が「悪魔憑き」みたいで怖かった。

今まで普通に話していた人が突然自分のコントロールができなくなったのだから。

そしてたった一人のその恐怖発作が他の人をも一瞬「どうしたらいいかわからない」パニックに陥れたのはすごい。

女性が2階に上がってから、残った人々は互いに、自分は犬派だとか猫派だとか話し始めた。

犬にも猫にも詳しい(?)私は当然いろいろと薀蓄を傾けたのだが、私の手に愛撫されて腹を出して陶酔している巨大猫のオーラのおかげで、同席していた僧侶たちにもすっかり感心されてしまった。

待合室で読むつもりで持ってきていた資料なんて、開きもしなかった。
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by mariastella | 2015-02-02 03:07 |

イズー君の話

8月の半ば、イズーの一歳の誕生日を祝った。

ネットでよく言われる「中二病」と言うのが私にはよく分からなかったが、このイズー君を見ていて、分かった。

ほんとにおバカだし、一時は、寝ていない時はいつも走っていて、歩いているのを見たことがなかった。

猫はいわゆる「斜め跳び」というのをする。威嚇と恐怖のまじったような時で、背を丸め、尻尾もカーブさせて足をそろえて怖い顔で斜め後ろに跳ぶのだ。でもイズーは、その斜め跳びのスタイルのままで全力で前に走っていくことがある。信じられない。

猫ブログや猫マンガで、ネコに向かって指をピストル型に構えて「パン!」というところりと腹を見せて倒れる芸をやる猫を見かける。あれが憧れでやってみたかった。

イズーは幸い、最初からおなかを見せるのが好きでおなかも肉球も触り放題というタイプだったので、教えることにした。
食事の前に、まず「お座り」と言って座らせた後、押さえて伏せにして、「ころり!」と声をかけて一回転させることにしたのだ。

そのうち、フランス人にも分かるように、「お座り、クッシェ!(伏せ)」というのを足すことにした。
すぐに覚えたが、お座りをとばして、餌を見るとすぐに伏せをして一回転するようになった。

隣でスピノザお兄ちゃん(おじいちゃんと言っていい年だが、私は自分のことをママと言うのでイズーには「ほら、お兄ちゃんが…」などと言うことになる)は、お座りして私の指示を待っている。サリーちゃんが生きていたころに並ばせて振付けしたものだ。メロディに合わせて二匹が順番にお手をすることになっていた。

イズーも大きくなってくるとさすがに、「ころり」をするのはどうも自分だけで、お兄ちゃんには要求されていないということが分かってきた。

それで一時は、絶対にころりをせずに、ハンストと言うか、餌から背を向けて去って行ったこともある。太り気味だからこちらも気にしない。

よくよくおなかがすいたり、特別おいしいメニューの時は、言われなくても自主的にころりをする。

はじめは壁際で回転して壁につっかえて回転しきれないで失敗することもあったが、それはカウントに入れてもらえないので今はちゃんと位置を定める。

イズーが他に分かるのは「じゃらん」ということばで、お気に入りの猫じゃらしの呼び名だ。

「じゃらんをもってきて」と言うと必ずどこかから持ってくる。

はじめはお気に入りのおもちゃでいつもそばに置いておきたいのかと思ったが、はっきりと「これで遊んで」と要求しているらしく、私が起きると寝室の前でじゃらんと一緒に待っているし、私が書斎に上がるとじゃらんと一緒に上がってくる。

端を咥えるので、もう一方の端が階段に当たってカタンカタンという音がする。

階下で本を読んでいたりすると、カタンカタンという音が聞こえてくる。

それでも気が付かないふりをしながらそっと見ていると、私の足もとにじゃらんを置いて、それからその前で座り込む。

これってまったく犬みたいだ。

犬が猫みたいなふるまいをしたら(人を噛むとか引っ掻くとか)安楽死ものの大事件だが、犬みたいにふるまう猫ってすごくかわいい。得な動物だ。

イズーは何しろ12年半ぶりにうちに来た仔猫だったから、「猫かわいがり」した。

マヤ、スピヌー、サリーと性格や行動パターンが決まっていたから、新入りのイズーが当然だけれど生まれながらに全然別のタイプであることは新鮮だった。

イズーのおかげでスピヌーもすっかり若返って毛の艶もよくなった。でもスピヌーほどいい性格の猫は見たことがない。そのスピヌーがもう13歳を超えて、5年後にはもう生きていない確率が高いのが信じられない。

誰かが、愛するということは「愛することを意欲することだ」と言っていた。

それを言うなら、猫はただ無条件にかわいいから、愛することに努力や意欲を必要としない脊髄反射的「猫かわいがり」なので、「愛する」のとは違うのかもしれない。

人間の子どもなら確かにかなり努力して「愛することを意欲」しないと、ちょっとしたことで失望したり裏切られたと思ったりしかねない。

私は「子供より猫がかわいい」とか「子供がいなくても猫がいれば平気」とかいう人に共感できると思っていたこともある。老後に世話してもらうなどの見返りをつい期待してしまう子供よりも、自立を想定せずただ世話をして看取ってやる猫への愛の方が無償で純粋かもしれないと思うこともあった。

けれども、「努力の必要な愛」というのを養っていく、という点では、人の子供の方がはるかに難しい。難しいことに挑戦することは、「猫かわいがり」の癒しよりもきっとずっと意味があるのかもしれない。
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by mariastella | 2014-09-04 07:56 |

異種共存と異世代共存の効用

子猫がうちへきてからひと月半になる。

「I」の年なので「Izou」(イズー)と名付ける。「いじゅちゃん」と呼んでいる。

母親はシャルトルーなのでグレーの猫。

歩いているのを見たことがない。

寝ている、食べている、隠れている、いたずらしている、狙っている、甘えている、などで静止状態になることはあるが、動いている時はいつも走っているか跳んでいる。

あるいはスピノザに飛びかかっている。組み倒されて咬まれたりするのだが、実は全然痛くされていないことは、起き上がってすぐにまたかかっていくことからもわかる。

真正面からでない限りスピノザは取り合わないので、オンブ状態になってずり落ちてしまうこともある。

スピノザは12年近く、一度も一匹だけで過ごしたことがなかった。最初は兄弟たちがいたし、うちに来た時にはマヤがいて、その後サリーと9年もいっしょにしっぽり過ごしていた。

3年前にサリーが死に、今年のはじめにマヤが17歳で亡くなった。

それから体をよく掻くようになって、かさぶたがあちこちにできた。毛艶も今ひとつ悪い。

ノミよけの薬はもう12年半も毎月飲ませているのだからノミではない。ブラシをかけてももちろんその兆候はない。獣医はアレルギーかもしれないと言った。

直感的に、子猫を連れてきたらことは解決すると思った。

正解だった。

全ては変わった。

人と猫という異種との共存も貴重だが、世代が多様化するのも大切だと思った。

今のスピヌーとイズーでは、いっしょに育ってきたサリーとのような「しっぽり感」はもちろんないが、スピヌーは明らかに若返って、自信を取り戻して(何の自信だ?)、毛並みも艶々、イズーに対しては、長老風味、なかよし親父、こわもての体育教師(体罰付き)、ワル兄貴、の役割を全部果たしている。

スピヌーがイズーを組み伏せると一応こちらはスピヌーの方を叱るが、その中にも、「ほら、あんたはお兄ちゃんでしょ、この子がどうしようもないのは分かるけどさ、そこはまあまだ子供なんだから、私たちも我慢してるんだから、協力してよ、」というニュアンスがあってスピヌーもそれをキャッチしている。

今さら子猫を飼って、この子がマヤのように17年も生きたら、面倒みられるのかとか、掃除が大変、片付けが大変とか、マイナス面も考えたが、「猪突猛進のおバカな子供」と共存する楽しさは想像を絶するものだった。

子猫を飼うのは12年半ぶりなので忘れてたよ。

みんながなごむので、こういうのを見てたら、人間同士で、血のつながりのない養子縁組だとか、白人が黒人の子を養子にするとか、文化の違いとか、についていろいろ悩むのはほんとうに馬鹿げているなあとつくづく思う。

私とは異種で、スピヌーとの血のつながりもなくて、この先自立する可能性もなく一生食べさせてやらなくてはならないことも分かっていて、それでいて、イズーといっしょに暮らすのを決めたことには「幸せ」しかないのだから。
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by mariastella | 2013-11-30 23:55 |

ゲイのカップルについて解けた謎

西原理恵子さんの「毎日かあさん」のネットで見ることのできた分(2013/10/7)に、西原母娘がネット動画の子犬や子猫をよだれを垂らしながら見ているシーンがあった。

そばには本物の猫や犬がいて、「わたしがいるのになにごとですにゃー」とか「どうしてこっち見てくれないわん」と言う。
あわてた娘さんは「そ、それはそれ、これはこれ」と弁解し、母は、

「たとえ彼女がいてもエッチな画像を見てしまう男心とは今のこの状態を指します」

と娘に説明する。

ついでに、猫カフェについて「お店に新しい子入りました」と情報が入ると、「何、若い子か ?」と色めきたち、子猫を見ると「ちょっとさわってええかー」と相好をくずす客について、

「世間のおとうさんがキレーな女の人のいるところでお酒を飲む」

のと同じだと解説する。

笑えた。

私は毎日毎日、一度はネットで猫ブログや猫サイトを開いて、動画を見たり写真を見たりしては「かわいいー」とでれっとするのだが、その横には本物の愛猫のスピノザがちょこんと座っていたり、しっぽでキイボードをぱんぱんしたりしているのだ。
もちろん本物の猫もしょっちゅう撫でてやったりかまってやったりするが、他のかわいい猫を見るのも飽きない。

西原さんの説明はすごくよく分かる。

彼女がいるのにエッチ画像を見たりキレーな女の人に接待しにもらいに行ったりする男は、こそこそやらないと、たいていは彼女に叱られるだろう。

で、私がいつも不思議に思っていたのは、私の周囲にいるゲイのカップルの自宅に筋肉質の男のヌード写真や絵やオブジェがあれこれ飾ってあり、レズビアンのカップルの自宅には、豊満な女性ヌードの絵などが飾ってあることだった。

現実の自分たちよりもたくましい男の体だとか、セクシーな体の若い女の体などを自分の相方が見るのは嫌じゃないのだろうか。外見よりも人間性、取り換えのきかない自分だけを見てほしいと思わないのだろうか。私なら「自分の彼」がどこかの美女の写真を観賞用に飾っておくなどとても我慢できない。

しかし、どうやら、同性愛カップルの彼らや彼女らは、それらの「観賞用の図像」をいっしょに眺めては鼻の下をのばしているらしい。その心理が分からなかった。

そうか、猫か。

猫好きな人は、自分の猫はもちろん大好きだけれど、よその猫も好き、姿を見るだけでも好き、子猫の画像など見てうっとりしたり肉球の画像を見て萌えたりする。
それで自分の猫への愛が減るわけでも何でもない。

それに比べると、男女のカップルというのは良くも悪くも「飼い主と犬」との関係のように共依存的なものが多いのかもしれない。

互いに「ナンバーワン」や「オンリーワン」の忠誠を求めたくなるし、そのような「特別の関係性」の維持を前提としている。
子育てなどには安定した家庭が必要だからおのずとそうなっているのだろう。

男女の関係があまりにも「対等」で「自由」だと、簡単に別れそうだ。

いわゆる「夫唱婦随」など、微妙な「支配‐被支配」の関係が合意されている方が長続きするのかもしれない。

それは互いの「所有」意識にもつながる。まさに「自分の彼」とか「自分の彼女」だからこそ危機管理が必要となるわけだ。

で、犬は「自分の犬」になっても、猫は完全に「自分の」猫になどなってはくれない。

猫はただ、かわいい。

猫好き同士が猫写真や猫グッズを見せあってデレデレしているのが楽しいように、同性愛のカップルが魅力的な同性の写真や絵をいっしょに眺めてデレデレするのもさぞや楽しいのだろう。

そうなると一番つらいのは同性愛者なのに世間的な理由で異性と家庭を持って暮らしているような人たちだろうな。

人生の雨の日にも嵐の日にも絶対に変わることなく寄り添ってくれる犬と暮らす人はもちろん幸せだ。

猫型同居か、犬型同居か・・・

うちでは犬を飼いつつ、よそでは猫にデレデレするのは許されるのか。

人でも動物でも、苦しい時とか弱った時にどのような思いやりを自然に持てるのか、あるいは育んでいけるのかが永遠の課題なのかもしれない。
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by mariastella | 2013-10-10 00:44 |

リシュリューの猫 その8

このシリーズ最後はリシュリューの一番のお気に入りだったという

Soumise スミーズちゃん。 

ペルシャ猫だったらしい。いつも膝に乗せていたとか。

このネーミングは何か不思議だ。

Soumiseとは服従した女性、従順な女性という意味だ。

猫、特に雌猫にはあり得ないような性質である。

いや、ひとつだけあり得るかもしれない。

スミーズちゃんのことを考えるとどうしてもラグドールを連想してしまうのだ。

ラグドールは抱き上げると腕の中でぐったりと脱力するのでぬいぐるみのようだと言われていて、抱っこ好きの猫飼いなら一度は憧れる。

1960年代にアメリカでアン・ベイカーという人が、ジョセフィーヌというペルシャ猫の産んだ3匹の子猫たちがみな異常におとなしくて愛情深いことに気づき新種として改良することを思いついた。

売りだすにあたって、猫が抱っこに抵抗せずに、布の人形ラグドールのようにぐったりと身を任せることの不思議について、遺伝子の突然変異だとか、神さまのプレゼントだとか、宇宙人に拉致されて返されたからだとか、さまざまな説が広められた。

新種猫の販売にマーケティングが利用された最初のケースだと言われている。

ラグドールはあまり声を出さずひたすらおとなしく、室内にいるのが好きでおっとりしている。警戒心がなく簡単に服従する。

「服従」…。スミーズちゃんそのものだ。

といっても、猫飼いは、猫を犬のようには服従させようなどと思わない。

抱かせていただければ、愛撫させていただければそれで望外の幸せを感じる。

普通は、猫飼いの方が猫に服従しているくらいだ。

腕の中でぐったり身をまかせてくれるなんて、猫飼いなら想像しただけでも萌えるだろう。

これまで見てきたようにリシュリューの他の猫たちはけっこうにぎやかでいたずらっぽいイメージだ。

そんな中に、突然、一匹だけ、ぐったりごろにゃん猫が登場した。

20世紀のアメリカで「これは売れる」と思って商品化された最初のラグドールたちのように、ペルシャ猫の中には、何らかの変異で警戒心がない脱力系が生まれることが昔からあったのかもしれない。

だとしたらリシュリューのお気に入りになったことも分かる。

リシュリューは権勢を誇っていたが、失脚した王母や王弟をはじめとして多くの敵がいたし、陰謀、暗殺計画もたくさんあった。
それを事前に摘発するために公的なスパイ制度をはじめて作った人でもある。
心の休まる暇はなかっただろう。命を狙われ続けていた。

逆にリシュリューの怒りをかわぬよう表向きは忠誠を誓っていた人や服従していた人ももちろん多い。

そんなリシュリューには犬は必要ではなかった。三銃士のような親衛隊を何百人単位で抱えていた。

で、自由でおもねらない猫たちに安らぎを求めた。弱い猫を無償で保護し愛して、さらに自分の方が猫のご機嫌をうかがうことに倒錯的な喜びすら覚えたかもしれない。
いや、カトリックの高位聖職者の称号を持って説教などしていた人だから、猫に対する時にだけ「弱者に仕える」キリスト教的愛の実践をすることで良心に折り合いをつけていたのかもしれない。

そんな自由奔放、我儘放題の猫たちの中に、唯一、天然ラグドールの美しいペルシャ猫がいた。

スミーズちゃん。「お気に召すまま」ちゃん。

権力者に対する下心もおもねりも恐れも崇敬もなく、ただ、ぐたりと身を任せる猫。

フランス絶対王政の基礎を作り軍事にも政治にも文化事業にも超人的なパワーを発したリシュリューのさぞストレスフルだった生涯を思う時、スミーズちゃんは彼にとってこそ「神からの賜物」だったのだなあと思う。

今、多くの国でラグドールは純血種のうちトップ・テンに入る人気者である。

1960年代半ばにラグドールの母となったペルシャ猫の名が、フランス革命を経てナポレオンが皇帝になった時にナポレオンの手から冠を受け取った皇妃ジョセフィーヌの名だった。
ジョセフィーヌはナポレオンとの間には嫡子が生まれなかったが最初の結婚で生まれた娘を通して孫が後の皇帝ナポレオン三世となっている。
奔放で恋多き女性だったので従順とは正反対の人だったが、「ラグドールの母猫」の名として猫の歴史にも縁ができたわけだ。

リシュリューが今この記事を読んだら、なんというだろうか、ちょっと聞いてみたい。
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by mariastella | 2013-08-23 00:20 |

リシュリューの猫 その7

13番目の猫はGazetteガゼットちゃんだ。

ガゼットとは後に「新聞」となる定期刊行物である。

リシュリューはフランスで最初のガゼット発行を主導したことで歴史に名を残す。

発行者はテオフラスト・ルノドーだ。

ルノドーは、プロテスタント出身の医師だった。後にリシュリューが陥落させたプロテスタントの牙城モンプリエの医学校では、プロテスタントの学生でももちろん受け入れられていたから医師になれたのだ。

17世紀の初めごろ、社会の貧富の差が拡大し庶民が苦しむのを見て、社会改革を目指し、マリー・ド・メディシスの内閣に『貧者の条件について』という論文を上奏した。

それが評価されて1612年にルイ13世の侍医の一人としての称号を得るがカトリック勢力にはばまれた。

結局1625年ごろにカトリックに改宗し、リシュリューの内閣に参与した。

求人と求職の情報を載せる印刷物も発行している。社会政策を標榜することは変わらなかった。

同じ流れで、1631年5月30日に、フランスで最も古い週刊新聞となった『ガゼット』をリシュリューの肝いりで刊行したのだ。

ガゼットとは装丁なしの情報誌で、その語源はヴェネツィアのGazeta de le noviteという新聞が16世紀の貨幣gazeta硬貨一つの値段だったからだとか、宝や富をあらわすラテン語のgāzaに由来しているのだとか諸説ある。

ともかく政府主導で刊行され800部を刷るようになったこの新聞が、『ガゼット・ド・フランス』と名を変えて革命時代なども経てなんと1915年まで続いたというのだから大したものだ。

ヨーロッパ全体で見ると最も古い新聞はストラスブルクで1605年に発行された4ページの週刊紙で、« Relation aller Fürnemmen und gedenckwürdigen Historien »(すべての重要で記憶すべき話の報告) というものだった。

フランスのガゼットより後にスウェーデンのクリスティナ女王が1645年に出した新聞はなんと2006年末まで続き、その後も紙はなくなったが今も電子版が続いているというから、ヨーロッパの新聞の息は政治形態よりも安定して長いようだ。(イギリスの最初の定期刊行物は1622年の『Weekly Newes from Italy』だったそうで詮索するとそれもなかなか興味深い。)

さて、リシュリューの『ガゼット』は金曜発行の4ページ(週に寄っては12ページに上った)もので、外国のニュースとパリのニュース、宮廷のニュース、外交と政治情報が主な内容だったが、当然リシュリューの政策を支持するものである。
1634年には主だった事件を特集する別冊も発行されるなど人気を博し、17世紀末には郵便制度の発展によってかなりの部数に達したらしい。

リシュリューは1642年に、ルノドーも1653年に世を去り、ルノドーの子孫によって受け継がれたガゼットは、ルイ14世の絶対王政の時代を経て1762年、『ガゼット・ド・フランス』として政府の広報紙になった。

それ以来、政権が目まぐるしく変わっても、時の政府の広報誌としての役割を果たした。革命で国民国家の概念が生まれルイ16世が処刑された後は『ガゼット・ナショナル・ド・フランス』となり、ナポレオン時代にも慎重に中立を保ちながら1915年まで存続したのだ。

ガゼットちゃんという名の意味と語感からは、あちこち飛び回っておしゃべりな猫がなんとなく想像される。

『ガゼット』が登場した1631年に以後に生まれた猫なのだから、リシュリューの死の床の近くにそのガゼットちゃんが丸まって静かに喉をならしていたという可能性も、充分あるだろう。

「ガゼットはどこだ」と猫を探すリシュリューに新聞を持ってきたり、

「ガゼットはどこだ」と新聞を探すリシュリューのもとに猫を連れてきたりした召使もいたかもしれないな。
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by mariastella | 2013-08-22 02:23 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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