L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:猫( 37 )

イ長調で文句を垂れる猫

トリオの仲間とうちの練習室で練習していると、隣りの廊下から猫のスピノザ(通称スピ、またはスピヌー)が、入れてくれといってしつこく鳴く。

ドアをがりがりしたりノブに飛び上がったりもするが、だめだと分かると、哀切と不満が絶妙にからんだ「入れてよー」コールをかけてくる。

その訴求力はすごい。

他の音なら無視して演奏できる私たちもつい動かされてしまう。
私たちトリオがいつの間にかスピを交えたカルテットになっているような具合に声が侵入してくるからだ。

それは、Buryのシャコンヌを演奏している時だった。

この曲を私たちはラ長調(日本風に言うとイ長調)で弾いている。
スピは、それをキャッチして、必ず、自分の嘆き節を「ラ」の音で始めるのである。

それだけだと、「あれ、スピって、ラの音でなくんだなあ」 で終わるだろう。

けれども、私たちは、楽器のピッチを「ラ=440ヘルツ」で弾く時と、418ヘルツで弾く場合と二通りあって、半音近いずれが出るのだが、スピヌーは、どちらの場合でも、正確にその二つのピッチを使い分けるのだ。

つまり、私たちの演奏の基音を正確にキャッチしてアジャストすることで、「曲のドア」を楽々と開けて、何食わぬ顔で四番目の演者におさまってくるわけなのだ。

440と418(こっちがバロック・ピッチだが、歌などが入らない場合は、弦の張り具合や音の届き具合を考慮して私たちは440でも弾く)を聞き分ける猫、というより、多分、鳴き始める時に自然に共振するのだろう。

それにしても単にギャーギャーなくと雑音として無視されることを学習して、同じ調性で演歌風にビブラートをきかせた恨み節を挿入するわけだから、そうされると、こちらも思わずスピとの「仲間感」が生まれてくるのがシュールである。
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by mariastella | 2012-06-02 00:34 |

ニーチェと猫

ニーチェって猫嫌いだったんだろうか。

『ツァラツストラはかく語りき』の中でも、月を、屋根の上をしのび歩くオス猫にたとえて「いとわしい」といっている。

極め付きは、猫を「愛する能力のないもの」としてそんなものに喉を鳴らしてもらうことはくだらないと戒めていることだ。

これについて、こんな解説がなされることがある。

人からの評価を気にするな、あなた以外の他人のほとんどすべては自分のことしか考えていない。ほんの一部があなたのことを好きか嫌いかであるが、あなたを嫌う人のうちの半分は、理由があってあなたを嫌っているのではなく、すべての人を嫌っているのだ。だから、みんなから好かれようとするのは不可能でばかげたことだ。

それは本当だと思うのだけれど、そして、猫が喉を鳴らすのは確かに猫自身の自己満足の表現かもしれないけれども、そうやって満足を音にしてくれる信頼ぶりに、私たちは愛を感じるのであって、猫によって人間同士とは違うまた別の愛し方や愛され方を学ぶのだ。

ニーチェが猫をひざに乗せてめでていたら別の人生を送っていたかもしれないなあ、と、ふと思う。

それとも、私が知らないだけでニーチェには愛猫がいたのだとしたら・・・

ますます不可解でかわいそうになってくる。
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by mariastella | 2012-03-10 07:28 |

A.I.

キューブリックが考えついてスピルバーグが演出したというこの「母親に愛されたいと望む」少年アンドロイドの映画「A.I.」は、封切当時これといって私の関心を惹かなかったのだが、最近DVDで見る機会があった。

「愛されたいと望む」プログラムなんて、最低だなあ、と思った。

せめて「愛する= 相手の幸福を望む」プログラムにすればいいのに。

「愛されたいと望む」なんて、プログラムのレベルでは、破壊を望むのと同じくらい暴力的だ。

そんな明らかに発想からして破綻しているアンドロイドを、息子を失いそうになって悲しみの淵にある母親の慰めのために与えようというのだ。

猫を飼え、猫を、

と思った。

猫型精神のプログラムでもいいけれど、それをアンドロイドにする必要はない。

外見が人間だったら、この映画にあるように、子供たちから嫉妬されたり、いじめられたりするからね。

この映画の少年アンドロイドはどちらかと言えば「犬」型だ。犬は主人に忠誠を誓い愛も求めるから、絶望した人間の支えになることもあるが、主人と特別な関係を勝手に組み立てて自分の世界のヒエラルキーに組み込むから、後で主人が結婚したとか子供が生まれたとか、状況が変わると、新参者に嫉妬することもある。

それをキャッチして新参者の方がその犬を厭うこともある。

この映画でも、少年アンドロイドと、奇跡の回復をなして母親のもとに戻った人間の少年の間でも、当然そういう緊張が生まれたわけだ。

しかも、犬より悪いのは、形が人間だということの他に、アンドロイドには食事も与えなくてもよく、世話がかからないというところだ。

物質的、生活的な依存関係がない。

ある程度の「共依存」がないと、生活の場での都合よい「愛」はなかなか成り立たない。

猫は、外見がまったく人間とは違っても、美しいし、柔らかく気持ちいいし、かわいいし、でも、食べ物やトイレの始末などの世話は遠慮せず要求するし、こちらに愛させてくれる(それも向こうの機嫌次第だけれど)。

まあ、猫には、お世話させてもらって、愛撫させていただこうと努力させてもらって、自然体で美しい姿を愛でさせていただいて、などと、こちらがそういう努力を強いられることによって、逆に生きる元気を与えてもらえるわけだ。

息子が意識不明で絶望している母親に、「愛されたいと望む」プログラムのロボットを与えるなんて、設定からして完全に「間違っている」と思うので、その後の展開がいかにシンボリックで寓話的でそれなりに興味をつないでも、出発点の違和感は乗り越えられない。

やっぱり猫ですよ、猫。
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by mariastella | 2011-07-18 02:09 |

モデムと猫

 ここのところ、コンサートがつまっていて忙しい。

 うちの雄猫スピノザは、パソコン用のモデムのところで寝るのが定位置だ。

 枕、抱き枕、全身はみ出すが無理やりベッド、と3通りでいつも寝ている。モデムの置き方をどんなに工夫してもだめ。

 今度、直接触らないようなケースを作ろうと思っているが。

 湯たんぽ気分?

 電磁波マッサージで気持ちいいのか?

 猫の体にも悪そうだし、パソコンにも悪そうだし、すごく気になるが、いかにも気持ちよさそうだ。

 無理やり追い立てると、今度はキーボードの上に寝ようとする。

 何で?

 キーボードから無理にどかせても、尻尾だけぱん、と置く。スピノザの尻尾は重いので、画面がぱぱっとめまぐるしく変わる。

 まやはプリンターの上が定位置。そこからじっとカーソルの動くのを眺めている。

 「自然の驚異」なんて感じのppfが誰かから送られてきたのを開くと喜んで見ている。
 動物ものも好きだ。

 何でみんなパソコンの周りにいるんだろう。
 引き出しに猫用おやつを入れてあるからかなあ。
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by mariastella | 2009-06-15 19:34 |

安全確認なし

 うちの長女猫マヤは、長椅子で丸くなって寝ているところに突然覆いかぶさられて羽交い絞めされても、目をつぶったまま喉を鳴らし始める。

 このようなユートピア的「信頼」を目にし耳にし肌に感じると、精神衛生にすこぶるいい。
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by mariastella | 2009-02-10 19:45 |

壊れものである権利

 来年の1月24日と25日にトゥールーズで、宗教者を中心にした大会がある。

 Fragilites interdites? Plaidoyer pour un droit a la fragilite

 というものだ。 フランスでダンボールに 「fragile」と書いてあったら、「割れ物(注意)」という意味だ。人が「壊れものである権利」の擁護がテーマである。

中心となっているのはISTR(諸宗教科学と神学研究所)の創設者Bernard Ugeux神父で、彼は、ここ数年、信仰における弱さの復権、擁護に熱心だ。

 私も昨年、『弱い父ヨセフ』(講談社選書メチエ)の中で、十字軍的、アメリカ的、あるいはイスラム過激派的な「強さ」とは、よく日本で安易に言われるような「一神教的」「狩猟民族的」な文化の強さではなく、ただ、権力拡大欲や開拓移民的メンタリティや部族父権的メンタリティなどの中に現れた一面であって、本来のキリスト教は、強いものは弱いものの中に現れるという逆説に特長を持つことに触れた。

 でも、Ugeux師は、私が言い控えていたことを堂々と言ってくれる。

 彼は、アフリカの悲惨を体験する中で、神の無力さを受け入れざるを得なかった、と言い切る。シスター・エマニュエルが、カルカッタのスラムで、乳児たちが次々と破傷風で死んでいくのを見ながら「神はいなかった」、と言ったのと同じだ。

 苦しむ人は、ほとんどいつも、見捨てられた、不当に罰せられた、と感じ、どうして神は何もしてくれないのか、と呻吟する。人は最も壊れやすい時、最も神を必要とする時、神への信頼を失って神に悪の責任をとらせようとするのだ。

 Ugeux師は言う。

 「神は全能ではない、神が一度も望んだことのない力を勝手に付与したのは人間だ。神は物事をあれこれ操作するのではない、神がするのは自分を捧げることだけだ。

 そして、神が自分を捧げるのを受け取ったりそれに合意したりするのは、人間の側にかかっている。

 悪は解決しない。悪は一つの謎であり続けるし、この世も不条理であり続ける。

 それでも、あなたに自分を捧げてくる神を受けいれてその愛を信頼するかどうかは、人の選択である。」



 で、愛を受け入れるのには、コツがある。

 それは、自分の弱さを受けいれて、差し出すことだ。

 これはすごく難しい。

 多くの文化の中で、すべての教育が、逆のことを称揚するからだ。

 より強くなれ、より大きくなれ、競争に勝て、自立しろ。

 新自由主義の時代には、自己管理に自己責任に成果主義が加わる。

 「全知全能」の神が権力者のモデルであり、権力の担保であったりもする。

 聖性とは完成への道を目指すことだという誤解もある。

 もっとやっかいなものもある。

 それは強さや全能の誘惑が、孤高への誘惑と結びつくことだ。

 Dereliction の誘惑である。

 一匹狼が、ゴルゴ13が、かっこよく見える。
 彼らは、人間の期待する全能の神を投影する姿だからだ。

 苦しみや痛みや絶望も人を分断し孤独の淵に追いやるが、
 強さや勝利の志向も、こうして、人を孤立させる。

 しかも、人は、そのような孤独が精神の「自由」を保証するものだと錯覚を起こす。

 孤高で強い人間の厳しく硬い殻には、「自らを捧げる神」をとらえるレセプターがない。

 猫と触れ合う時、どうする?

 猫好きの夢は、猫が、ごろにゃんと横になり、目をつぶり、喉を鳴らし、腹を見せて愛撫させてくれることである。

 もっとも柔らかいところ、もっとも傷つきやすいところ、もっとも壊れやすいところを、差し出してくれる。そしたら、私たちは、こちらも、一番感じやすい手のひらや指先で、そっと、そっと、羽のように、壊れ物をあつかうように、猫を撫ぜるのである。
 猫の自由も、尊厳も、猫好きの自由も尊厳も、失われはしない。

 ほんとうの自由とは、これに似ている。

 互いの柔らかいところで、もっとも弱いところで、人と人は、(人と猫は、人と神は)真につながるのだ。
 壊れ物である権利とは、自分を無防備に差し出す権利でもある。
 人は弱い時、「自立」を失う。寝たきりになった人は、体を触らせる。
 自分を自分で守れなくなった人は、助けを、世話を、受け入れる。

 人は自分の最も弱く、柔らかいところに、神を住まわせることができるのである。
 
 弱い神に背を向けたら、きっと、猫にも逃げられる。

 Ugeux師のいうキリスト教の神とは、そんな神だ。
 もっとも弱い人、もっとも小さい人に寄り添うことが神と出会うことだと、イエスも言っているのだから、そうなんだろう。

 日本の自殺者数は、毎年、交通事故の死者数よりひと桁多く、殺人事件の被害者数よりふた桁多い。

 強くなれなかった人、大きくなれなかった人、勝てなかった人、有用性を失った人、自己実現できなかった人、自己管理に失敗して自己処理を選択した人、痛い人、苦しい人、絶望した人、が自死を「選択」する。逃避もあれば、それが最後の尊厳だと思う人もいる。

 これは、大変な事態だ。少子化問題どころではないのではないか。
 
 人は、最も弱いところ、最も傷つきやすいところで、やさしく自由に結びつき、支えあえるのだということを、声を大にして呼びかけなくてはならないのは、日本じゃないのか?

 死ぬまで自立してピンピンコロリだとか、アンチエイジングだとか、いじめに負けない強い心とか、ポジティヴシンキングとか、念じれば通じるとか、努力すれば成功するとか、そんな言説の一つ一つが、どこかで誰かを、確実に、少しずつ、絶望の淵へ追いやっている。

 無神論より、怖い。

 



 
 

 

 
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by mariastella | 2008-12-12 09:43 |

ネコの自由と安全

 今朝のラジオで猫論議をやっていた。

 猫マンガとか猫事典とか書いてる人たちの座談会だ。猫好きな人ばかりだから、聞くほうも馴れ合いの安心感がある。

 猫がヨーロッパに入ってきたのは、ネズミとともに、なんだそうだ。ネズミとペストが一緒に入ってきて、その解決策として猫が導入されたんだそうだ。

 黒猫が魔女とともに焼かれたのは、そもそも猫が尻尾を掲げて、尻を見せることが、性的だと見なされたので、娼婦や魔女と結びつけられたとか。

 猫を飼う人は自分の生活に「予見不可能性」を引き入れている。
 猫を飼う人は「自由」の価値を主張する人である。

 ふんふん、まあ、この辺は、猫好きのお約束の自己評価である。

 で、室内飼いの猫について。

 猫を室内飼いする人は、猫の安全を求めている、と言う。
 
 で、猫を放し飼いにしないで、家に閉じ込めることは「自由」の謳歌に反しないか。

 すると、

 「自由は安全を含む」

 から当然だという。

 うちには室内飼いの3匹の猫がいる。

 彼らのせいで家も家具もぼろぼろだ。

 しかも、猫は自由、独立のシンボルみたいなイメージがあるから、それを妨げているのではという罪悪感がいつもあった。去勢しただけでうしろめたく、一生の借りを作ったような気もした。

 でも、ずっと彼らとうまくやっていて、彼らが「いい感じ」なのは分かる。

 最初の猫は車に轢かれて即死した。
 次の猫はどこかで毒を撒かれて死んだ。
 喧嘩の傷がもとで死んだのもいる。

 3年以上生きたのはいなかった。

 いろいろあって、ついに、完全室内飼いに踏みきった。

 それ以来、一匹も死なない。
 
 13歳が1匹に、8歳が2匹である。

 家具は傷だらけで私の手や腕や肩や背中も傷だらけだが、彼らには傷一つない。

 毛並みはつやつやのぴかぴかで、肉球も赤ちゃんのようにぷよぷよ。


 だから私の選択が「間違ってない」とは思ってた。

 しかしいつも罪悪感がはりついていた。

 「自由は安全を含む」(La liberte inclut la securite.)

 と言われて、10年来の罪悪感が霧消した。

 彼らの自由をリスペクトするには、安全を提供してやらなければならない。

 危険があると分かっているところに、自由に、勝手に、さあ、どうぞ、と送り出すのは本当の自由のリスペクトではないのだ。

 自由と安全はセット。

 自由のために安全を目指し、安全のために自由を行使できなくてはならない。

 子供の教育とか国の安全保障とかについても、いろいろ考えさせられる。
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by mariastella | 2008-10-16 02:27 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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