L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:本( 46 )

それでも、世界は、だんだんよくなっている by スティーブン・ピンカー

私が日ごろ言ったり書いたりしている実感に、

時代と共に人間社会の暴力は確実に矯められてきている

というのがある。

核兵器だとか、過激派のテロだとか、心を病んだ人による大量殺人とか、女性や子供、高齢者、障碍者など弱者への虐待などのニュースを見聞きすると、暗い気持ちになりがちだ。

けれども、そもそも、私のような、百年前に生きていたなら立派な弱者で踏みつけにされているだろう人間が、自分の部屋でぬくぬくと、世界中の悲惨や暴力の実態を眺めて悲憤したり絶望したりするという状況自体が、人類史的に考えてもすごい。

ピケティの新資本論ではないけれど、膨大な統計を駆使して、30年もかけて、「今は昔より良くなっている」という「福音」を知らせてくれる本がある。

2011年に出たのが最近ようやくフランス語訳出版された。1000ページもある大作だ。

17ヵ国語に翻訳されているというから検索したら日本語訳は見つからなかった。

英語版はこういうの。


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「今までで読んだ中で最も重要な本のひとつ」って、ビル・ゲイツの推薦文もある。

スティーブン・ピンカーの『The Better Angelsof Our Nature』で、副題が「暴力と人間性の歴史」だ。フランス語訳のタイトルは『La partd'ange en nous 私たちの中の天使の部分』で副題が「暴力の凋落」という。序文が、フランス人でチベット仏教僧になった有名なマチュー・リカールによるもの。

人間性の中にある天使というのは、リンカーン大統領が1861年の就任演説の最後に出てくる有名な部分だ。今日本語を検索したら、

「われわれは敵同士ではなく、味方なのです。われわれは敵同士になるべきではありません。感情が高ぶっても、われわれの親愛のきずなを切るべきではないのです。思い出の神秘的な弦が、全ての戦場や愛国者の墓から、この広大な国の全ての生けるものの心と家庭へとのびていて、再び奏でられるとき、統一の音を高らかにならすことだろう。その音は確かに、われわれの本来の姿であるよい天使によって鳴り響くことだろう。」と出てきた。

まあ、今、生存している私たちは、当然、生き残ってきた人たちの子孫だ。ひどく暴力的で反社会的な人たちは長い間には社会的に淘汰されていくだろうから、全体として共生に向いている人が増えるのは社会進化論的にも当然だともいえる。

それにしても、世間では、ネガティヴな言説、危機を煽る言葉ばかりが幅をきかせている。その方がインパクトがあって「売れる」からかもしれない。

総体的に暴力の少ない社会で「国難だ、国難だ」と叫ぶ政治家もいる。

昔はよかった、過去の栄光をもう一度、という人たちもいる。

もちろん、リンカーンの言葉も、その理想とは裏腹に、150年経っても、アメリカの差別も暴力も残っているじゃないかと言われそうだけれど、たまにこういう高邁な演説を読み返すのは精神衛生にいい。日本国憲法の前文だって、現実と乖離していても、読むとほっとする。

ピンカーさん、ありがとう。




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by mariastella | 2017-10-16 01:37 |

『キリスト教は「宗教」ではない』に載せなかった部分

小寄道さんのブログ『キリスト教は「宗教」ではない』の感想を書いていただきました。

タイトルのせいでいろいろ誤解される懸念もあったのですが、直球で理解していただけて安心しました。


その終わりに、


>>>追記:4章の「宣教師たちのキリスト教」において、ロレンソ了斎という人物についてなぜ破格のページを割いたのだろう? 全体を考えると、その扱いは不思議に思えた。<<<

とありました。


それについてここでお答えします。


単に、版組のために、ページを削る必要があったので、p124の「一例を挙げよう」の後と「片目の聖徒」の間にあった他のエピソードを削除したのです。


それでも「片目の聖徒」を残したのは、「片目失明者友の会」を支援している友人へのメッセージを込めたかったからです。


で、ここに、削除した部分を再録します。前にも、新書のジャンヌ・ダルクで削除したエピソードをサイトの「ジェンダーの話」に再録したことがるのを思い出しました。ネットって便利ですね。

では、以下が、削除した部分です。(削除したのは、まあ、この部分は、歴史事実関係の記録なので、私の解釈とは関係がないから本質には影響しないと思ったからでもあります。日本のキリシタン史については私でなくとも他の研究死者がたくさんいらっしゃるのだし。ロレンソ自身の資料は貴重なものを手に入れたのでぜひ紹介したいと思いました。私にとって魅力的な存在だったので。)

(以下、単純変換ミスなどを訂正しました)



キリスト教が仏法の一派でないことが分かり仏教勢力からの激しい反発を受けた後で、宣教師ヴィレラ一行が一五六〇年末にようやく京都居住と布教の許可を得た頃の話だ。その許可を得たのも、単なる行政手続きではなく、判断を下す役人が「教えを聞いて魅了された」からだった。「お談義」と呼ばれるキリスト教教義の説明(要理)はカルト宗教のアジテーションや奇蹟のパフォーマンスとは程遠いものだった。次のような例が報告されている。

ある時、天台、浄土、神道と各宗を渡り歩いた禅学の博識で知られていた山田庄左衛門(当て字)という美濃の武士が「天主堂(教会)」にやってきた。対応にでた日本人修道士イルマン・ロレンソは、手順に従って、日本の諸宗と造物主デウスとの間の差異を説明しようとしたが、庄左衛門は笑ってこう言った。

「それらの説明は必要ない、私は禅宗であり神仏は何もない」「禅宗は四大元素を説き、第五の無(涅槃)を加えた。禅学者はその本質を明らかにしようと苦労し、千五百の公案を熟想するが、全生涯を通しても三百の公案を解決する者はほとんど見出せない。我々は中国やインドの碩学の古来よりの著作を多く持っているが、第五の元素に踏み入った者もなく安心と悟りを与えない。それについて知っていると自負する者は他宗の知識の蘊奥を極めた者をも凌ぐと信じられる。貴僧の教法はこの禅宗の核心についてどうするのか伺いたい」

ロレンソは答えた。

「それを聞いてくれて非常にうれしい。というのは毎日理性に満足も与えず役にも立たないことを説く煩わしさを免れさせていただけたからだ。貴下の言う第五元素、禅宗で考究し苦労されているものを知っているからこそ、パードレがはるかかなたの国より渡来されたのであり、それが主要目的であり最大の動機である。日本人の知らなかった第五元素の本質を少しの誤謬もなく真理に基づいて知るパードレの教えにより最終解決を与えられるのが現世における唯一の有効な方法だ。それがパードレの直接の天職であり目的であり熱望であるからだ。ヨーロッパの古代哲学者は第五元素を天と呼んだ。しかしこれも他の元素と同じく被造物だ。デウスとは無限の隔たりがある。しかし高邁なことを理解するには順序があるので、まず、被造物と目に見えるものとについて説明し、次に、すべての理性的被造物の持つ不可思議で不滅の本体、理性的霊魂(アニマ・ラショナル)とは何か、次にわれらのアニマと天使や堕天使との相違を説明しよう。これらについての認識を持ち理解された後で、それを観じ永遠の歓びのために我らを創造された最高の霊的本質(スピリツアル・スタンシアであるデウスについて話そう」

これを聞いて非常な喜びと満足を覚えた庄左衛門は、突然、紙と墨を所望した。話の要点を書きとめるためかとロレンソは思ったが、それは、さらに重要な一一の質疑を書くためで、その疑問を説いてくれれば自分はキリシタンになる、と庄左衛門は言った。ロレンソとロレンソの相談を受けたヴィレラがそれらすべてに答え、満足した庄左衛門はようやく「要理」のお談義を聞きに通って洗礼を受けたのだ。


お談義と大名布教

お談義は、世界は永遠でなく始まりがあったこと、太陽も月も神ではなく、人には理性的霊魂と知覚的霊魂とがあり、理性的霊魂が後世にも生き残ること、をまず伝え、その後の質疑応答に移る(ここで天文、博物学の知識による自然神学の弁神論が使われる)。

 次に相手の宗旨を個別に取り上げ、根拠を挙げて誤謬を是正する。それが理解されると、三位一体の玄義(ミステリヨ)、天地創造、ルシフェルの追放、アダムの原罪とデウスの御子のこの世への受肉、受難と復活昇天、十字架の玄義の力、最後の審判、地獄の戒め、天国の快楽が説明される。

これらの「真理」を理解した時に、デウスの十戒を授け、それまでの宗旨を捨てること、戒を守ること、咎を悔いることを説明し、最初の秘跡である洗礼が必要なこととその玄義を解説する。

畿内におけるキリシタン隆盛の嚆矢となった一五六三年の奈良における大名たちの劇的な入信も、同様にきわめて知的なプロセスを経たものだった。旧弊を排する進取の気風に満ちた若者や、現実に不満のある下層の民を扇動したり迎合したりするものではない。全てを言葉で説明して理解を求めるというキリスト教の布教は、一見すると、不立文字の「禅」が人気を博していた当時の武家社会とは相いれないように思えるかもしれないが、もともと日本は漢文を通して「学」を深めてきた社会だ。新しい宗教との出会いにおいてそれがどのように「言語化」されているかを確認するのは、実は、知識階級にとって不可避の欲求だった。

布教にはずみをつけたのは、松永久秀の重臣で山城守結城忠正という文武両道の達人である「老人」である。そのきっかけは、比叡山の僧徒が松永久秀に提示した「天下の治安維持策一三ヶ条」だった。そこに伴天連追放の二ヶ条が組み込まれていた。それには「伴天連居住の山口や博多は戦乱によって荒廃しているから、都から追放すべし」という言いがかりも含まれている。とはいえすでに公方(足利義輝)から宣教の認可状が出ているのだから久秀の一存で無下に追放はできない。久秀は重臣である碩学の結城忠正と清原外記に宗論させようと考えたのだ。

都の仏僧は忠正に贈賄し、忠正のような高識の学者なら、伴天連と宗論すれば二、三語で説伏できるであろう、伴天連を放逐し財産と家屋を没収できる、と、そそのかした。

乗り気になった忠正は松永久秀に、伴天連を追放するのと殺すのとどちらがよいか、と尋ねた。その時点で忠正はキリシタンにも伴天連にも会ったことがなかった。ところが、ディエゴという洗礼名を持つある信徒が訴訟事件で久永のところに来た時、結城忠正が取り次いだ。ディエゴがキリシタンであると知って、「汝の神はなんと言うか」と質問したところ、ディエゴは滔々とあざやかにあらゆる質問に明快に答えたので、忠正は深い眠りから覚めたごとく畳に手を突き、頭をさすってキリスト教を賛美し、切支丹になろう、と言って、堺にいるパードレを招く書簡を送った。

日本人の一信徒がこのように明確に尋問に対応できたということは、洗礼を授けるにあたっての教義の理解が徹底していたということだろう。「先祖代々からの宗派」でもなく、現世利益を約束する甘い言葉による新宗派による勧誘でもなく、ましてや脅しによる改宗でもない。キリスト教はその宗教の教義によって人々を知的に納得させ、決断させていたわけだ。

さて、忠正が本気で感動して書簡を送ったのに、堺のヴィレラは半信半疑で真意を測りかねた。とりあえずロレンソを遣わせて探らせることにした。奈良に着いてすぐに忠正を訪ねたロレンソを待っていたのは、久秀に指示されて伴天連を論破するためにやってきた公家の清原外記だった。ご談義と討論が数日にわたって続いた。ご談義の知的説得力は大きかった。忠正だけではなく和漢の学に通じた外記も、数日後には完全な理解に至ってキリシタンになる決意を固めた(後に忠正は主君久秀にもロレンソを合わせたが、久秀は心を動かされたものの、熱心な法華信徒であるので改宗には至らなかった。)

 六日以内に報告する手はずだったのに十日過ぎてもロレンソから消息が来ないので心配していたヴィレラのもとに、忠正からの洗礼志願の書簡を携えたロレンソが戻ってきた。洗礼には、入信希望者の自筆の願書が必要である。入信とは、「理解」、「決意」、「願い」という三段階のプロセスを経てはじめて可能になるものだったのだ。後に「踏み絵」を踏むことで「棄教」とみなされる日本のキリシタン史のことを思うと、「入るのは簡単で脱退は難しい」カルト宗教などと全く逆のものであることが分かる。

 

さらに四十日ほどして、忠正の要務が終わった時にヴィレラは奈良に来て、忠正、忠正の嫡子左衛門尉、外記、その他数名の身分ある士に洗礼を授けた。それまでの経緯を耳にしていた同じ奈良の沢城主もひそかにやってきて、二日二晩ロレンソのご談義を聞いた後、その場で洗礼を志願してかなえられた。

忠正の嫡子である結城左衛門尉は飯盛城で三好長慶に仕える放埓な武士だったが、受洗後は人が変わり、城にロレンソを招いた。好奇心からデウスの話を聴きに来た人もいたが「他の及ばざる智慧と才能、無常の記憶力」を有していたロレンソが「非常な霊感と熱をもってお談義をし、非常に豊富な言葉を用いて、典雅、明晰にして精緻」であったことに皆が驚嘆した。名談義を前にして尊敬と畏怖の念を持ち、夜昼を問わず教談が続けられてついには三好殿の重心七三名他五百人が一挙に受洗を決意した。

奈良で洗礼を受けた沢城主の高山友照も、戦乱中にありながら、妻子家臣にも談義を聴かせたく思ってロレンソを招いた。そのお談義を聞いて妻子と家臣一五〇名が受洗を決意した。

これらの経過も興味深い。今の私たちは、家父長制と主君の絆の強固な昔の日本において家長や主君が宗旨替えをしたのだから、一族郎党が自動的に宗旨替えをしたのだろうと考えてしまいがちだ。けれども、ザビエルの方針通り、「理解」、「決意」、「受洗の願い」のプロセスは、「女子供」に対してもまったく平等に適用され、求められるものだった。この時、嫡男の高山右近は十歳だった。ヨーロッパでも幼児洗礼を受けた子供が要理を学んで初聖体拝受にあずかることのできる年齢である。右近はその後キリシタン大名として、戦国時代を通して多くの功名を立てたにかかわらず、切支丹禁令に従わないことで地位や領地を失って一六一四年末にフィリッピンのマニラに追放され間もなく客死した。

右近の次の世代に幼児洗礼を受けたカトリックの子弟は、右近や友照のように「言語」によって劇的な回心を遂げた世代ではないので、家父長制度の圧迫を免れていなかったとは言えない。殉教の覚悟を固めた親や主君を見ながらあえて法に従って棄教するという選択の自由はなかったかもしれない。それでも、その後、遠藤周作の『沈黙』のモデルとなった一六三〇年代や四〇年代、日本のキリスト教を根絶するための徹底的な迫害を前にしても棄教することなく神を称えながら残酷に殺されていった信徒が多くいたのだから、知的な革新と決意の上に成り立った一六世紀後半の日本人の「回心」は本物だったのだろう。


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by mariastella | 2017-10-14 06:57 |

ジェルファニョンにミルネール、彼らはすごい

このブログにそのうちアップしようと思って書き留めておいたはずのデータが見つからなくなった。こんなことならもっと早く載せておけばよかった。

それはリュシアン・ジェルファニョンのこの本についての記事だった。還俗した元司祭で、歴史学者で、枢機卿が序文を書いている。この本は彼のたどった道を照らしてくれる。

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その後で読んだ本も忘れないうちに挙げておこう。

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の4冊。いつも明快なティモシー・ラドクリフは英語からの翻訳。しかし、この4冊の中で最も衝撃的、目から鱗の本はジャン=クロード・ミルネールのフランスとヨーロッパについての論考。アンチ西洋主義や近代、ポスト近代、文明の衝突論などがなんでもかんでも混在させてしまったものを見事にすっぱりと説明している。

「西洋の理念」が新自由主義経済などを生み出した、だからその西洋の理念を批判、否定しようというよくある説に対して、
そこで「西洋の理念」といわれているものはポストモダンのテクノロジー、新自由主義経済などが生んだ仮説の総体であって、「結果」なのだ、だから、それを批判しても意味がない。

石油がヨーロッパ以外のところで産出されたということと二度のオイル・ショックによって、「神」は中東に引っ越した。

ヨーロッパ構想はフランスの「共和国主義」の敷衍だった。イギリスが入った時点でそれは崩壊した。

などなどの解説が説得力ある形で展開する。
フランス語が読める人にはぜひお勧め。

でも今の日本を見ていると、こういうような問題意識の意義を分かってもらえるようにも思えない。

先日フランスのTVのニュースで、日本のJアラートの話に続いて、小学校で避難訓練し、サイレンが鳴ったら子供たちが机の下に隠れる、というシーンが映されていたのに驚倒した。
あまりにもカリカチュラルだ。
地震警報の避難訓練のシーンを間違えて使っているのではないかと思ったが、実際にそういう訓練があったそうだ。さすがに「本土決戦」に備えた竹槍訓練ですか、と揶揄されていたようだが。

アラートを鳴らした時点では、ミサイルがはるか上空だということが分かっていて何の防衛リアクションもなされていないというのに。第一、そんな上空にあるミサイルを迎撃する技術はまだないともいう。

そんな状況でアラートを鳴らしたり、避難しろと言ったりする政府、これがフランスだったら正気を疑われる。韓国の文在寅はカトリックで、就任後すぐにローマ法王にコンタクトして、キューバとアメリカの間で根回ししたように北朝鮮との間に入ってくれと頼んだのだそうだ。それが何らか力になるかどうかは分からないけれど、少なくともあらゆるルートを駆使して戦火を忌避する努力は見える。日本の政府はあんなトランプとしっかり組んで、国連の核兵器禁止条約にも反対するのって、リスク管理の観点だけからいっても理解できない。

時事問題を追っているとくらくらするので、次回からは、「天国」、死後の世界、神についていろいろ書くことにする。まずは「サルにでも分かる天国」15のQAをカトリック雑誌から紹介。そして最近読んだD.H.ロレンスの神に関する論考を紹介しよう。この人、とても気が合う。

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by mariastella | 2017-09-26 01:10 |

楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

久しぶりに小説、しかも日本語の小説を読んだ。

最近手に入れて、日本の文庫本「読み待ち」の棚(ここには加賀乙彦さんの『宣告』やら、東野圭吾、殊能将之のミステリーなどがもうずっと置いてある)に並べる前にパラパラと目を通したら面白くてつい全部読んでしまった。

小説は仕事が一段落した時にゆっくり読もうなどと思ってとってあるのについたまってしまう。日本語の文庫はノンフィクションや科学読み物の方を先に読んでしまうからだ。後は膨大な「読みかけ本」があって、その他、仕事に必要な本を読んだり資料を作っているうちに日が経つ。

最近は、10月のコンサートのために練習も毎日しているのでますます一日が短い。

それなのに…。

本の名は楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

なぜ引き込まれたかというと、

最近日本の記事を読んでいて気になっていたことの空気がすごくよく分かったからだ。

知事と都議会の関係(この本では町長と町議会の関係)とか、
公有地の無償貸与の話とか、
地元への「見返り」とか、
高齢者問題とか、

いずれも、ユニヴァーサルであるようで、すごく日本的な部分がある。

フランスもいくらでもスキャンダルなどあるのだけれど、日本とは突っ込みどころが違う。
議員の「不倫」疑惑などがフランスでは歯牙にもかけられないことなどは日本人にも想像できると思うけれど。

私は友人も家族も近い人には商社マンや政治家がいないので、日本のそういう世界についてはこれまでも企業小説や政治小説で知識を仕入れてきた。

でもこの『プラチナタウン』は、小説としての強度はないのだけれど、あらゆる意味で、ちょうどいいサイズで、町の財政再建のストーリーが進んでいく。明快だし後味もいい。

日本経済において総合商社が占めていた位置についてもノスタルジーと共に考えさせられる。

文庫の解説にもあるように、舞台となるのが宮城県であり、この小説の最初の刊行が東日本大震災以前だったことには感慨を覚える。

考えてみると風光明媚な場所の多くは、火山帯だったり海辺だったりするので、噴火、地震、津波、台風などのリスクが常にある。

折から、裕福なリタイアカップルが老後を過ごすパラダイスのようなイメージのカリブ海だとかマイアミ・ビーチなどがハリケーンによって大きな被害を受けた。

「対話」や外交努力が不可能な自然リスクがたくさんあるのだから、その上に人間同士がわざわざ武器開発をエスカレートしないでほしい、とつくづく思う。

日本の中の「都市」と「田舎」の抱える問題や、知識としては知っていたけれど日本では一戸建てでも50年経てば資産としては土地の値段しか残らず、マンションは古くなると資産価値がなくなるというのもあらためて驚かされる。
この小説でもアメリカでは築100年のビルも立地が良ければ資産価値が上がることもある、ということが紹介されている。パリ市内など一戸建ては例外だからなおさらだ。

日本で快適に年取るのにはお金がかかる、というのはなんとなく感じていた。
でも、お金さえあれば快適さや安全を変えるところだなあとも。
フランスでは大金持ちは知らないが、お金を払ってもなかなか快適さが買えない。
でも、リタイアした人が普通に暮らしていたらあまりお金もかからない。
サルコジが「ぶっ壊す」としたものをマクロンがさらに推し進めているから、これからどうなるかは分からないけれど。

ともかくこの本を読むとリバースモゲージだとか介護の話、公共事業神話、地方再生と福祉、ネットで読む日本の雑誌でもよく取り上げられることがリアリティを持って語られるので、知識が整理できる。
もちろん思いは「国家戦略特区」の今治市の議会のことにまで飛んでいくのだが。

私が日本に行く頃に解散総選挙になるのだろうか。






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by mariastella | 2017-09-19 02:19 |

良寛とアッシジの聖フランチェスコのシンクロニシティ

とても不思議なことがあった。

私は「シンクロニシティ」というのをあまり信じない。

「偶然」に意味をこじつけているような場合が多いからだ。

うまく使うと「おおこれは神のお導き」、「あなたはやっぱりこうなる運命だったのです」のようにいわゆるマインド・コントロールに悪用されそうな気がする。

でも、夕べはあまりにも意外なことがあったので、つい書き留めておきたくなった。

いわゆる共時性という意味のシンクロニシティとは少し違うけれど。

それは、ちょうど、読売日本交響楽団のプログラム誌「月刊オーケストラ」のためにアッシジの聖フランチェスコについての原稿を書き終えた時のことだ。メシアンの同名のオペラのコンサート・ヴァージョンが秋に演奏されるにあたっての企画だそうだ。メシアンについても言いたいことはいくらでもあるけれど私の担当はとりあえず聖フランチェスコの今日性ということで、参加させていただいた。

朝もキリスト教関係のことを読んだり書いたりしていたので、ちょっと気分を変えたくて、わりと近くにあった日本語の本を手に取った。

北川省一著『良寛游戯』(アディン書房刊)という本。

厚紙のケースから取り出して、本体を机の上において、なんとなく、フランス語の本の癖で、右から左に開いてしまった。すると、漢字がたくさん並ぶページの中ですぐ目に飛び込んできたのがそこだけカタカナが目立つ

「聖フランチェスコ」

の文字。

いやあ、目を疑った。

結びの部分であり、聖フランチェスコの晩年と良寛の晩年を重ねている。

さらに読んでみると、「終わりに」の部分に、この本は良寛を、荘子とニーチェを通して解釈したもので、エピクロスや聖フランチェスコも引き合いに出したのは著者が西欧文学を学んだ人だからで、良寛を宗門や郷土史の枠から解き放った人間の一原型として定立したかったからだとある。

それにしても、では本文にどんな風にフランチェスコが出てくるのかとパラパラと繰ってみたけれどそう簡単にはもう目に入ってこなかった。

さらに、40年前に出版されたこの本を書いたときの著者は今の私と同じ年。

wikipediaで調べると、東大の仏文を出た人だった。息子の北川フラムさんは、私の好きな直島の地中美術館の総合ディレクターで、娘婿がフランスのラ・ヴィレットの設計コンペにも入賞した原広司さん(京都駅ビルの設計者でもある)だった。

キリスト教における聖フランチェスコ、仏教における良寛、確かに似ている。

もっと言うと、良寛はナザレのイエスにも似ている。

すごい。いろいろなイメージがわいてきた。

北川省一さんは復員後共産党に入り離脱した人のようで、フラムさんは藝大全共闘で孤軍奮闘して中退したそうだ。宗教、戦争、革命の関係を書いている最中の私の琴線に触れる予感がする。

北川省一さんはもう亡くなっている。イエスもフランチェスコも良寛ももちろんもういない。


でも人は本によって、言葉によって、自分の人生よりずっと広く長く、自分の世界よりずっと大きく広く生きることができる。


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by mariastella | 2017-08-25 01:41 |

勝本華蓮『尼さんはつらいよ』新潮新書

『尼さんはつらいよ』

いやあ、面白い本だった。タイトルもそうだが、

「知られざるオンナの世界。渡る尼寺は鬼ばかり」

などの帯の文句がいかにも下世話な興味を引くようにできているが、私がこの本に出あったのは東京ウィメンズプラザの図書資料室で、その後で注文して最近読み終えたが、長年もやもやしていたものが氷解した。

思えば、私にとっての日本の仏教といえば、物心ついてから父の義祖母に当たる人の月命日のお参りに来るお坊さんとのかかわりから始まって、母との鞍馬寺参りや祖父母の真言宗、曹洞宗とのかかわりの深かった父、そして父母の他界から母の七回忌まで、いろいろなご縁があり、そのほかにもちろん、これも子供の頃からの神社仏閣巡りや仏教美術鑑賞の長いご縁がある。

尼さんと言えば、今から40数年前に、当時パリ大学で仏教の尼僧の生活について修士論文を書こうとしていた女性から東大の宗教学研究室に資料を求めてきた手紙が、当時修士課程にいた中沢新一くんの手に渡り、彼が仲介してくれたその女性と私は今もごく親しい関係にある。

彼女はその後フランス仏教者連合の会長にもなり、そのつてで、私のトリオはヴァンセンヌのパゴダで演奏会もした。このブログでも書いてきたが、ずっとフランスの仏教者と付き合いがあるので釈迦の真骨追っかけにも参加したし、数々の行事にも参加している。
チベットの高僧らとの個人的な付き合いも長い。
上座仏教でいえばミャンマーで「修行」したフランス人沙弥尼は私の親友でもある。
ベトナムの仏教者とも親しい。

その中で、フランスにおけるカトリックと仏教との関係や、チベット仏教と真言密教の関係などもいろいろ考えてきたけれど、カトリックについて持っている歴史的文化的地政学的な視座と視野が、仏教については持てていなかった。
日本仏教が特殊な形になっていて、僧侶の生活形態においてチベット仏教などとまったく違うことも、それをどうまとめるべきか分からなかった。
少女時代から臨済宗系の本(碧巌録講話など)をよく読んでいたけれど、父母の死以来真宗のお坊さんと話したり行事に参加したり本をいろいろ読んだりする機会ができた。

築地本願寺でコンサートもさせていただいた。
それでも、「全体像」はよく分からないままだった。
子供のころから、「お寺の子」の友達は何人かいて、そのおうちであるお寺に招かれたことはある。
お寺の息子が父の後を継いだのも見聞きしたし、大学教授になった人も知っている。

40数年前にはちょうど瀬戸内晴美さんが出家していたけれど、その他に比叡山での行院での生活を書いた尼僧の本は数冊あった。中沢君が神保町を回って数冊見つけてくれたのだ。
それは興味深く読み、フランスに来てからはカトリックの観想型女子修道院(禁域に暮らし外に出ない)の記録を読み漁った。
社会活動型の女子修道会や、地域の一大勢力となった大修道会(女性がトップで、敷地内に男子修道院も内包する)の記録も読んだし、今も続く関係者とも付き合いができた。

その中で、少なくともカトリック型の修道会というものについては理解が深まった。
ローマ・カトリックの首長がいるので比較的分かりやすいし、司祭団とそれ以外のステイタスや役割りの差もはっきりしているので、これも比較的わかりやすい、何が「異端」とされたのかも分かりやすい。
ミサや告解のシステムも分かりやすいしチェックしやすい。

けれども、中国経由の日本の仏教は何度も習合を繰り返したり、途中の碩学が立てた宗派が独立したりしているので分かりにくい上、近世には廃仏毀釈もあったり檀家制度が崩壊したりしてますます分かりにくい。
資格やヒエラルキーと言うのもよく分からない。

そういうもやもやしたものが、この本は、「尼さんとは何か」という、ますますもやもやとしたテーマから切り込んでいるので、逆に霧が晴れるように分かってくる。
いや、日本の仏教の各宗各派の複雑さが具体的に解説されて分かってくるという意味ではなく、その分かりにくさの正体が分かってくるのだ。

修行の本質が職業訓練であることや、僧階が上がると毎年納める宗費の金額も上がるとか、信者寺と檀那寺、肉寺、骨寺とか、日本の家元制度とかそもそもの「家」制度との関係とか、なるほどと思うことが多い。
仏教の教説についての本はたくさん読んできたけれど、この本を読んで宗教におけるインカルチュレーションの実態がよく分かるので、たとえば、カトリックにおける「諸宗教対話」の部門に関わっている人には必読書だと思う。
仏典や仏教の理論書を万巻読破しても見えてこないものが見えてくる。

この勝本さんのような求道タイプの宗教者にとっては、カトリックの修道院の方が居場所がありそうだなあ、と思う。

特に「老後」に関しては、もともと修道会は病院や救貧院や学校などとセットになっているから、老いたメンバーの世話は想定済みだし、修道女の質の年老いた親を引き取るところも多い。

そのうちフォントヴロー修道院の歴史の本を書きたいと思って準備しているのだけれど、この本のおかげで、なんだか考えに陰影が加わった。
ありがたいことだ。
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by mariastella | 2017-07-10 06:48 |

ラッカでただひとり

シリアで「イスラム国」が「首都」として占領したラッカに住んでいた若い女性ニサン・イブライムさんという人が、2011から2015 年にかけて、日常をFacebookに綴っていた。

それを知ったISは激怒して2016年1月に彼女を「処刑」したと発表した。
ニサンさんは30歳だった。

その彼女の日記を編集したものがフランス語で出版されて話題になっている。

「アンネの日記」に匹敵する貴重な証言文学だという。
現代のアンティゴネだとも形容される。

また、これを読むと、ISだけでなく、アサド大統領の強権のひどさも自明のものとなるという。

けれども、そこには若い女性らしいユーモアも夢も希望も綴られているのだそうだ。

ユーモアも夢も希望も、ISが切り捨てたいものだろう。

アンネ・フランクも、もし今の時代ならFBで日常を綴っていたかもしれない。
当時多くのユダヤ人が情報を発していたら、その拡散力はすごかっただろうけれど、ナチスにチェックされてまたたくまに逮捕されていたかもしれない。
そうなるとSNSによる情報発信というのは両刃の剣だ。

でも、一度発信されたものはコピーされれば永遠に残る。


どんなジャーナリストの現場からの情報発信よりもすごい。

彼女の家族はこのFBの存在を知っていたのだろうか。

この本はぜひ読んでみるつもりだ。



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by mariastella | 2017-06-18 00:55 |

無限遠点と神

同年輩の知人が、「現代数学への招待--多様体とは何か」(志賀浩二、ちくま学芸文庫)というのを読んで興奮するほどおもしろかったと教えてくれたので私も手に入れて早速読んで見た。
まだ第2章だけど、なるほど、刺激的だ。

何より、ほとんど神学理論だと思った。

前に、新書で、ゲーデルの不確定理論からの神の存在証明というのを読んだことがあるが、これはそういうベタなものではなく、数学者が数学の「意味」を語ろうとするものだ。

でも、私が日頃考えていることとぴったりする。

たとえば、私は人と人との繋がりははかないもので、ほんとうに共生するには人同士の関係を超えた何かを拠り所にしなければならないと思っている。

すると、この本には、点がたくさんあるだけではどの点も勝手な方向にどんどん進んで、止まっては方向を変えるという動きを繰り返すしかないが、そこに「無限遠点」を導入すると、その空間は そこを集積点として「コンパクト化」する、しかも、点の動きはずっと自由になるというと書いてある。

また、数学は、目に見えない高次元のものを対象にする時に、手探りしながら座標を選ぶというのも、神や超越をどう語るかという問題に似ている。

神だとか奇跡だとか死後の世界だとかは、実証的な科学と正反対の絵空事だと切り捨てられた時代もあったわけだけれど、考えてみれば、目で見てすぐに理解できるような事象などほんの僅かに過ぎない。

放送大学でも、リモートセンシングによる可視化の話を聞いた。たとえば環境や地球の内部のような目に見えないものをいかに可視化して、可視化したものをどう表現するかといった話だ。

すべての本質的なものは目に見えないのだなあと思うし、だからこそそれを表現する営為はいつも刺激的なのだろう。
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by mariastella | 2017-04-10 00:55 |

「感動」の文化史

11月後半から新しい仕事に専念するつもりで、少しの間、テーマとは別の本を読む贅沢を味わった。この本はシリーズで、いつも最高に面白い。

なんでもネットで検索できる時代でも、圧倒的に豊かで整理された上質の情報が編集されているこのような本を読むのは至福の時だ。

“Hisoire des émotions” (Seuil) の1巻2巻だ。

情動、感動というものの文化史という感じで、ヨーロッパにおいて人間の感動表現がいつどうして生まれて受容され展開されて行ったかが豊富な図版と共に紹介される。
ぱらぱらと読んでいるだけでも発見の連続で楽しいが、私が真っ先に読んだのは、もちろん、第一巻で、Gilles Cantagrel というバッハ研究者でバロック音楽学者の受け持つ項目『L'émotion musicale à l'âge baroque』(バロック時代の音楽的情動)というやつだ。

16世紀までは、神へ捧げる賛歌は中世の神学と同じで完璧な秩序によって高みへ上ろうとしたポリフォニーで、そこには人間的な「情動」がなかったが、ギリシャ演劇の復活の試みと共に「人間の情動の演出」が生まれていった経緯が語られる。

音楽がディスクールになること、作曲者と演奏家のレトリックとロゴスが聴衆のパトスを喚起することなど、これまでに何度も読み、弾き、聴いてきたことではあるが、非常に明快にまとめられていて分かりやすい。

音楽がディスクールになることと、ダンスがディスクールになることの関係をもっとパラレルに考えてみたい。
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by mariastella | 2016-11-19 03:07 |

『<近代の超克>論』など

フランスでこの頃本を読んでいる暇がなかったので日本で読もうと思って持ってきた本を3冊ようやく読み始めた。

ここのところ『ナポレオンと神』を仕上げるのに忙しかったので、読書を封印していた。
本を読むと、関連書ではなくても頭の中で勝手につながってどんどん広がって手がつけられなくなるからだ。
むしろアウトプットする方がすっきりするので、ブログを毎日更新していた。

で、フランスではそろそろ秋休みが終わるのでもうすぐ戻るのだけれど少し時間が取れたので、持ってきた本に目を通す。

日本語は廣松渉の『〈近代の超克〉論--昭和思想史への一視覚』(講談社学術文庫)

日本の戦前戦後の思想の流れがよく分かって大いに役に立つ。
自分の若かった頃の状況や今の日本の政治状況も含めていろいろなことがクリアに見えてくる。

でも、西谷啓二が、近代で、宗教と科学と人文、つまり、文化、歴史、倫理等との間が橋渡しのない分裂に陥った、世界観的無統一の時代、などと言っているのは、「???」だし、個人主義対世界主義という時、その個人とはプロテスタント的な個人で、共和国主義的個人とは違うし、なんだか今の私から見ると突っ込みどころが多すぎる議論ばかりだ。

でも、私がこれから新しい議論を展開するにあたって何が問題点なのかが整理できるありがたくも貴重な本になりそうだ。

フランス語の本はClaude Tresmontant という哲学者が1993年に出した『Saint Paul』(seuil)で、パウロに向けられた反ユダヤ的キリスト教などの批判を検証するものと、

人気歴史作家Max Galloの新刊『Henri IV』(XO EDITIONS)。

アンリ四世はフランス史のキイ・パーソンの一人で、この人をじっくり観察するとフランスの宗教戦争の意味が見えてくる。
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by mariastella | 2016-11-03 23:20 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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