L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:本( 43 )

楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

久しぶりに小説、しかも日本語の小説を読んだ。

最近手に入れて、日本の文庫本「読み待ち」の棚(ここには加賀乙彦さんの『宣告』やら、東野圭吾、殊能将之のミステリーなどがもうずっと置いてある)に並べる前にパラパラと目を通したら面白くてつい全部読んでしまった。

小説は仕事が一段落した時にゆっくり読もうなどと思ってとってあるのについたまってしまう。日本語の文庫はノンフィクションや科学読み物の方を先に読んでしまうからだ。後は膨大な「読みかけ本」があって、その他、仕事に必要な本を読んだり資料を作っているうちに日が経つ。

最近は、10月のコンサートのために練習も毎日しているのでますます一日が短い。

それなのに…。

本の名は楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

なぜ引き込まれたかというと、

最近日本の記事を読んでいて気になっていたことの空気がすごくよく分かったからだ。

知事と都議会の関係(この本では町長と町議会の関係)とか、
公有地の無償貸与の話とか、
地元への「見返り」とか、
高齢者問題とか、

いずれも、ユニヴァーサルであるようで、すごく日本的な部分がある。

フランスもいくらでもスキャンダルなどあるのだけれど、日本とは突っ込みどころが違う。
議員の「不倫」疑惑などがフランスでは歯牙にもかけられないことなどは日本人にも想像できると思うけれど。

私は友人も家族も近い人には商社マンや政治家がいないので、日本のそういう世界についてはこれまでも企業小説や政治小説で知識を仕入れてきた。

でもこの『プラチナタウン』は、小説としての強度はないのだけれど、あらゆる意味で、ちょうどいいサイズで、町の財政再建のストーリーが進んでいく。明快だし後味もいい。

日本経済において総合商社が占めていた位置についてもノスタルジーと共に考えさせられる。

文庫の解説にもあるように、舞台となるのが宮城県であり、この小説の最初の刊行が東日本大震災以前だったことには感慨を覚える。

考えてみると風光明媚な場所の多くは、火山帯だったり海辺だったりするので、噴火、地震、津波、台風などのリスクが常にある。

折から、裕福なリタイアカップルが老後を過ごすパラダイスのようなイメージのカリブ海だとかマイアミ・ビーチなどがハリケーンによって大きな被害を受けた。

「対話」や外交努力が不可能な自然リスクがたくさんあるのだから、その上に人間同士がわざわざ武器開発をエスカレートしないでほしい、とつくづく思う。

日本の中の「都市」と「田舎」の抱える問題や、知識としては知っていたけれど日本では一戸建てでも50年経てば資産としては土地の値段しか残らず、マンションは古くなると資産価値がなくなるというのもあらためて驚かされる。
この小説でもアメリカでは築100年のビルも立地が良ければ資産価値が上がることもある、ということが紹介されている。パリ市内など一戸建ては例外だからなおさらだ。

日本で快適に年取るのにはお金がかかる、というのはなんとなく感じていた。
でも、お金さえあれば快適さや安全を変えるところだなあとも。
フランスでは大金持ちは知らないが、お金を払ってもなかなか快適さが買えない。
でも、リタイアした人が普通に暮らしていたらあまりお金もかからない。
サルコジが「ぶっ壊す」としたものをマクロンがさらに推し進めているから、これからどうなるかは分からないけれど。

ともかくこの本を読むとリバースモゲージだとか介護の話、公共事業神話、地方再生と福祉、ネットで読む日本の雑誌でもよく取り上げられることがリアリティを持って語られるので、知識が整理できる。
もちろん思いは「国家戦略特区」の今治市の議会のことにまで飛んでいくのだが。

私が日本に行く頃に解散総選挙になるのだろうか。






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by mariastella | 2017-09-19 02:19 |

良寛とアッシジの聖フランチェスコのシンクロニシティ

とても不思議なことがあった。

私は「シンクロニシティ」というのをあまり信じない。

「偶然」に意味をこじつけているような場合が多いからだ。

うまく使うと「おおこれは神のお導き」、「あなたはやっぱりこうなる運命だったのです」のようにいわゆるマインド・コントロールに悪用されそうな気がする。

でも、夕べはあまりにも意外なことがあったので、つい書き留めておきたくなった。

いわゆる共時性という意味のシンクロニシティとは少し違うけれど。

それは、ちょうど、読売日本交響楽団のプログラム誌「月刊オーケストラ」のためにアッシジの聖フランチェスコについての原稿を書き終えた時のことだ。メシアンの同名のオペラのコンサート・ヴァージョンが秋に演奏されるにあたっての企画だそうだ。メシアンについても言いたいことはいくらでもあるけれど私の担当はとりあえず聖フランチェスコの今日性ということで、参加させていただいた。

朝もキリスト教関係のことを読んだり書いたりしていたので、ちょっと気分を変えたくて、わりと近くにあった日本語の本を手に取った。

北川省一著『良寛游戯』(アディン書房刊)という本。

厚紙のケースから取り出して、本体を机の上において、なんとなく、フランス語の本の癖で、右から左に開いてしまった。すると、漢字がたくさん並ぶページの中ですぐ目に飛び込んできたのがそこだけカタカナが目立つ

「聖フランチェスコ」

の文字。

いやあ、目を疑った。

結びの部分であり、聖フランチェスコの晩年と良寛の晩年を重ねている。

さらに読んでみると、「終わりに」の部分に、この本は良寛を、荘子とニーチェを通して解釈したもので、エピクロスや聖フランチェスコも引き合いに出したのは著者が西欧文学を学んだ人だからで、良寛を宗門や郷土史の枠から解き放った人間の一原型として定立したかったからだとある。

それにしても、では本文にどんな風にフランチェスコが出てくるのかとパラパラと繰ってみたけれどそう簡単にはもう目に入ってこなかった。

さらに、40年前に出版されたこの本を書いたときの著者は今の私と同じ年。

wikipediaで調べると、東大の仏文を出た人だった。息子の北川フラムさんは、私の好きな直島の地中美術館の総合ディレクターで、娘婿がフランスのラ・ヴィレットの設計コンペにも入賞した原広司さん(京都駅ビルの設計者でもある)だった。

キリスト教における聖フランチェスコ、仏教における良寛、確かに似ている。

もっと言うと、良寛はナザレのイエスにも似ている。

すごい。いろいろなイメージがわいてきた。

北川省一さんは復員後共産党に入り離脱した人のようで、フラムさんは藝大全共闘で孤軍奮闘して中退したそうだ。宗教、戦争、革命の関係を書いている最中の私の琴線に触れる予感がする。

北川省一さんはもう亡くなっている。イエスもフランチェスコも良寛ももちろんもういない。


でも人は本によって、言葉によって、自分の人生よりずっと広く長く、自分の世界よりずっと大きく広く生きることができる。


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by mariastella | 2017-08-25 01:41 |

勝本華蓮『尼さんはつらいよ』新潮新書

『尼さんはつらいよ』

いやあ、面白い本だった。タイトルもそうだが、

「知られざるオンナの世界。渡る尼寺は鬼ばかり」

などの帯の文句がいかにも下世話な興味を引くようにできているが、私がこの本に出あったのは東京ウィメンズプラザの図書資料室で、その後で注文して最近読み終えたが、長年もやもやしていたものが氷解した。

思えば、私にとっての日本の仏教といえば、物心ついてから父の義祖母に当たる人の月命日のお参りに来るお坊さんとのかかわりから始まって、母との鞍馬寺参りや祖父母の真言宗、曹洞宗とのかかわりの深かった父、そして父母の他界から母の七回忌まで、いろいろなご縁があり、そのほかにもちろん、これも子供の頃からの神社仏閣巡りや仏教美術鑑賞の長いご縁がある。

尼さんと言えば、今から40数年前に、当時パリ大学で仏教の尼僧の生活について修士論文を書こうとしていた女性から東大の宗教学研究室に資料を求めてきた手紙が、当時修士課程にいた中沢新一くんの手に渡り、彼が仲介してくれたその女性と私は今もごく親しい関係にある。

彼女はその後フランス仏教者連合の会長にもなり、そのつてで、私のトリオはヴァンセンヌのパゴダで演奏会もした。このブログでも書いてきたが、ずっとフランスの仏教者と付き合いがあるので釈迦の真骨追っかけにも参加したし、数々の行事にも参加している。
チベットの高僧らとの個人的な付き合いも長い。
上座仏教でいえばミャンマーで「修行」したフランス人沙弥尼は私の親友でもある。
ベトナムの仏教者とも親しい。

その中で、フランスにおけるカトリックと仏教との関係や、チベット仏教と真言密教の関係などもいろいろ考えてきたけれど、カトリックについて持っている歴史的文化的地政学的な視座と視野が、仏教については持てていなかった。
日本仏教が特殊な形になっていて、僧侶の生活形態においてチベット仏教などとまったく違うことも、それをどうまとめるべきか分からなかった。
少女時代から臨済宗系の本(碧巌録講話など)をよく読んでいたけれど、父母の死以来真宗のお坊さんと話したり行事に参加したり本をいろいろ読んだりする機会ができた。

築地本願寺でコンサートもさせていただいた。
それでも、「全体像」はよく分からないままだった。
子供のころから、「お寺の子」の友達は何人かいて、そのおうちであるお寺に招かれたことはある。
お寺の息子が父の後を継いだのも見聞きしたし、大学教授になった人も知っている。

40数年前にはちょうど瀬戸内晴美さんが出家していたけれど、その他に比叡山での行院での生活を書いた尼僧の本は数冊あった。中沢君が神保町を回って数冊見つけてくれたのだ。
それは興味深く読み、フランスに来てからはカトリックの観想型女子修道院(禁域に暮らし外に出ない)の記録を読み漁った。
社会活動型の女子修道会や、地域の一大勢力となった大修道会(女性がトップで、敷地内に男子修道院も内包する)の記録も読んだし、今も続く関係者とも付き合いができた。

その中で、少なくともカトリック型の修道会というものについては理解が深まった。
ローマ・カトリックの首長がいるので比較的分かりやすいし、司祭団とそれ以外のステイタスや役割りの差もはっきりしているので、これも比較的わかりやすい、何が「異端」とされたのかも分かりやすい。
ミサや告解のシステムも分かりやすいしチェックしやすい。

けれども、中国経由の日本の仏教は何度も習合を繰り返したり、途中の碩学が立てた宗派が独立したりしているので分かりにくい上、近世には廃仏毀釈もあったり檀家制度が崩壊したりしてますます分かりにくい。
資格やヒエラルキーと言うのもよく分からない。

そういうもやもやしたものが、この本は、「尼さんとは何か」という、ますますもやもやとしたテーマから切り込んでいるので、逆に霧が晴れるように分かってくる。
いや、日本の仏教の各宗各派の複雑さが具体的に解説されて分かってくるという意味ではなく、その分かりにくさの正体が分かってくるのだ。

修行の本質が職業訓練であることや、僧階が上がると毎年納める宗費の金額も上がるとか、信者寺と檀那寺、肉寺、骨寺とか、日本の家元制度とかそもそもの「家」制度との関係とか、なるほどと思うことが多い。
仏教の教説についての本はたくさん読んできたけれど、この本を読んで宗教におけるインカルチュレーションの実態がよく分かるので、たとえば、カトリックにおける「諸宗教対話」の部門に関わっている人には必読書だと思う。
仏典や仏教の理論書を万巻読破しても見えてこないものが見えてくる。

この勝本さんのような求道タイプの宗教者にとっては、カトリックの修道院の方が居場所がありそうだなあ、と思う。

特に「老後」に関しては、もともと修道会は病院や救貧院や学校などとセットになっているから、老いたメンバーの世話は想定済みだし、修道女の質の年老いた親を引き取るところも多い。

そのうちフォントヴロー修道院の歴史の本を書きたいと思って準備しているのだけれど、この本のおかげで、なんだか考えに陰影が加わった。
ありがたいことだ。
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by mariastella | 2017-07-10 06:48 |

ラッカでただひとり

シリアで「イスラム国」が「首都」として占領したラッカに住んでいた若い女性ニサン・イブライムさんという人が、2011から2015 年にかけて、日常をFacebookに綴っていた。

それを知ったISは激怒して2016年1月に彼女を「処刑」したと発表した。
ニサンさんは30歳だった。

その彼女の日記を編集したものがフランス語で出版されて話題になっている。

「アンネの日記」に匹敵する貴重な証言文学だという。
現代のアンティゴネだとも形容される。

また、これを読むと、ISだけでなく、アサド大統領の強権のひどさも自明のものとなるという。

けれども、そこには若い女性らしいユーモアも夢も希望も綴られているのだそうだ。

ユーモアも夢も希望も、ISが切り捨てたいものだろう。

アンネ・フランクも、もし今の時代ならFBで日常を綴っていたかもしれない。
当時多くのユダヤ人が情報を発していたら、その拡散力はすごかっただろうけれど、ナチスにチェックされてまたたくまに逮捕されていたかもしれない。
そうなるとSNSによる情報発信というのは両刃の剣だ。

でも、一度発信されたものはコピーされれば永遠に残る。


どんなジャーナリストの現場からの情報発信よりもすごい。

彼女の家族はこのFBの存在を知っていたのだろうか。

この本はぜひ読んでみるつもりだ。



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by mariastella | 2017-06-18 00:55 |

無限遠点と神

同年輩の知人が、「現代数学への招待--多様体とは何か」(志賀浩二、ちくま学芸文庫)というのを読んで興奮するほどおもしろかったと教えてくれたので私も手に入れて早速読んで見た。
まだ第2章だけど、なるほど、刺激的だ。

何より、ほとんど神学理論だと思った。

前に、新書で、ゲーデルの不確定理論からの神の存在証明というのを読んだことがあるが、これはそういうベタなものではなく、数学者が数学の「意味」を語ろうとするものだ。

でも、私が日頃考えていることとぴったりする。

たとえば、私は人と人との繋がりははかないもので、ほんとうに共生するには人同士の関係を超えた何かを拠り所にしなければならないと思っている。

すると、この本には、点がたくさんあるだけではどの点も勝手な方向にどんどん進んで、止まっては方向を変えるという動きを繰り返すしかないが、そこに「無限遠点」を導入すると、その空間は そこを集積点として「コンパクト化」する、しかも、点の動きはずっと自由になるというと書いてある。

また、数学は、目に見えない高次元のものを対象にする時に、手探りしながら座標を選ぶというのも、神や超越をどう語るかという問題に似ている。

神だとか奇跡だとか死後の世界だとかは、実証的な科学と正反対の絵空事だと切り捨てられた時代もあったわけだけれど、考えてみれば、目で見てすぐに理解できるような事象などほんの僅かに過ぎない。

放送大学でも、リモートセンシングによる可視化の話を聞いた。たとえば環境や地球の内部のような目に見えないものをいかに可視化して、可視化したものをどう表現するかといった話だ。

すべての本質的なものは目に見えないのだなあと思うし、だからこそそれを表現する営為はいつも刺激的なのだろう。
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by mariastella | 2017-04-10 00:55 |

「感動」の文化史

11月後半から新しい仕事に専念するつもりで、少しの間、テーマとは別の本を読む贅沢を味わった。この本はシリーズで、いつも最高に面白い。

なんでもネットで検索できる時代でも、圧倒的に豊かで整理された上質の情報が編集されているこのような本を読むのは至福の時だ。

“Hisoire des émotions” (Seuil) の1巻2巻だ。

情動、感動というものの文化史という感じで、ヨーロッパにおいて人間の感動表現がいつどうして生まれて受容され展開されて行ったかが豊富な図版と共に紹介される。
ぱらぱらと読んでいるだけでも発見の連続で楽しいが、私が真っ先に読んだのは、もちろん、第一巻で、Gilles Cantagrel というバッハ研究者でバロック音楽学者の受け持つ項目『L'émotion musicale à l'âge baroque』(バロック時代の音楽的情動)というやつだ。

16世紀までは、神へ捧げる賛歌は中世の神学と同じで完璧な秩序によって高みへ上ろうとしたポリフォニーで、そこには人間的な「情動」がなかったが、ギリシャ演劇の復活の試みと共に「人間の情動の演出」が生まれていった経緯が語られる。

音楽がディスクールになること、作曲者と演奏家のレトリックとロゴスが聴衆のパトスを喚起することなど、これまでに何度も読み、弾き、聴いてきたことではあるが、非常に明快にまとめられていて分かりやすい。

音楽がディスクールになることと、ダンスがディスクールになることの関係をもっとパラレルに考えてみたい。
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by mariastella | 2016-11-19 03:07 |

『<近代の超克>論』など

フランスでこの頃本を読んでいる暇がなかったので日本で読もうと思って持ってきた本を3冊ようやく読み始めた。

ここのところ『ナポレオンと神』を仕上げるのに忙しかったので、読書を封印していた。
本を読むと、関連書ではなくても頭の中で勝手につながってどんどん広がって手がつけられなくなるからだ。
むしろアウトプットする方がすっきりするので、ブログを毎日更新していた。

で、フランスではそろそろ秋休みが終わるのでもうすぐ戻るのだけれど少し時間が取れたので、持ってきた本に目を通す。

日本語は廣松渉の『〈近代の超克〉論--昭和思想史への一視覚』(講談社学術文庫)

日本の戦前戦後の思想の流れがよく分かって大いに役に立つ。
自分の若かった頃の状況や今の日本の政治状況も含めていろいろなことがクリアに見えてくる。

でも、西谷啓二が、近代で、宗教と科学と人文、つまり、文化、歴史、倫理等との間が橋渡しのない分裂に陥った、世界観的無統一の時代、などと言っているのは、「???」だし、個人主義対世界主義という時、その個人とはプロテスタント的な個人で、共和国主義的個人とは違うし、なんだか今の私から見ると突っ込みどころが多すぎる議論ばかりだ。

でも、私がこれから新しい議論を展開するにあたって何が問題点なのかが整理できるありがたくも貴重な本になりそうだ。

フランス語の本はClaude Tresmontant という哲学者が1993年に出した『Saint Paul』(seuil)で、パウロに向けられた反ユダヤ的キリスト教などの批判を検証するものと、

人気歴史作家Max Galloの新刊『Henri IV』(XO EDITIONS)。

アンリ四世はフランス史のキイ・パーソンの一人で、この人をじっくり観察するとフランスの宗教戦争の意味が見えてくる。
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by mariastella | 2016-11-03 23:20 |

石黒耀『死都日本』、ベルトラン・ピカールの「グリーンからクリーンへ」、

石黒耀『死都日本』(講談社文庫)を読んだ。まだ東日本大震災やフクシマ事故も起こっていなかった2002年に最初に出た本だそうだが、今、いかにもタイムリーだ。

最近箱根の噴火の兆候とか桜島の噴火だとか、私にとってなじみ深い火山の不穏な動きのニュースを聞いて気になっていた。

特に桜島は川内原発の再稼働のニュースを聞いていったいどうするつもりだろうと思っていた。


この小説でも霧島火山の破局的噴火の兆候が出た時点で政府が川内原発を廃炉にしていて使用済み核燃料をそばにおいていなかったからよかったけれどそうでなければ天災よりも取り返しのつかない放射能災害になっていたはずだとあった。


でも、逆に、廃炉にさえしていれば、その他の核廃棄物などはコンクリートより細かい火山灰によって埋め尽くされるのだから、ある意味では最強の「処理」になるのかもしれない。その意味では、「人災」の一部は運よく免れたことになる。


全編に神話や旧約聖書や黙示録がちりばめられていて人間と文化を創造したのは火山活動だったのだという話になる。ローラシア神話が火山活動の記憶を伝えているということだろうか。興味深い。


ここに出てくる「共和党」の首相「菅原」は、民主党の菅と前原の合成だとかいうのを目にしたことがあるけれど、絶対に今の日本で想像もできないほどなかなかすばらしい政治家だ。


難民対策のことは驚いた。劣化ウラン製の徹甲弾をいざという時はイギリスの原子炉に打ち込んで大量の難民を発生させることで日本難民を相対化させてアメリカに受け入れさせるというひどい戦略だが、「やろうと思えばやれますよ」という抑止力の一種を準備しているらしく、それくらいの発想があるから「神の手」作戦も可能だったのかもしれない。


古来、自分たちの土地で食べられなくなれば人は土地を捨てて移動してきた。


それは動物の集団移動と同じ当然のサヴァイヴァル活動で、資源や嗜好品を求めて異郷を侵略するのとは別物だ。それを思うと、シリアやイラクから毎日何千人とヨーロッパへ命がけで逃げてくる難民を受け入れるとか入れないとか言っているのはいかにも狭量な国家主義だと今のヨーロッパのことを考える。


いや、日本など、何代も日本に住んでいる同じアジア人でさえ日本人ではないからといって差別している人もいるのだから、その昔はアフリカから大陸移動して来たりオセアニアから流れてきた人々が各地で「ここは代々僕んちだから」などと優越性を信じたり、移民国家のアメリカなどが、新たな移民を制限したりするのは、「食べて行ける見込みがあるうちだけのはかない縄張り意識」に過ぎないのだなあ、と思う。


今大きい顔をしている北ヨーロッパだって、他民族に追われたり気候変動で暖を求めたりで南下したゲルマン民族達が陣取ってできたのだし。


帝国主義的侵略を弾劾する今時の歴史観とごっちゃになって、「侵入者よりも先住民族の生存権が優先」みたいに考えられがちだけれど、イラクやシリア、アフリカからのような「戦時遊民」「経済難民」などは地球史レベルで考えたら「国境」で食い止めるなどと言える問題ではないと痛感させられる。

小説では、結局、よその国の原子炉攻撃などという物騒な手を使わずに、菅原首相は世界の経済とテクノジーの発想を変える「神の手」作戦を発表する。これが本当にこんなにうまくいくのかはさすがに疑問ではあるが、このような「大国の崩壊」でもなければ人間による地球破壊の推進を食い止めることはできないのかもしれない。

思えば第二次大戦での二度にわたる日本の原爆被害はヨーロッパの指導層にとってすごいインパクトで、トラウマになった出来事だったから、それに続く憲法の軍隊の放棄は、たとえその目的が最初はアメリカによる日本の戦力解体なのだったとしても、うまくやれば「死都日本」のように災厄に居直って世界で日本を特殊化してしまうツールになっていたかもしれない。

残念ながら思考停止のまま朝鮮戦争や冷戦であっという間になし崩しになって、今や日本を「戦争のできる普通の国にする」というのが政策らしいが、この小説を読むと、火山の脅威だけを考えても日本は全然普通の国ではない。いくら軍備しても自然災害にはまったく抵抗できないと分かっているのだから、原発などのリスクを減らして、世界の「成長神話」や「力による覇権主義」の逆を行くテクノロジーを開発した方がいいのではないか。エコロジーへの関心の高まる今ならまだ遅くないかもしれない。

 

などと思っていたら、今朝のラジオで、スイスの精神科医で太陽エネルギー飛行機で有名なベルトラン・ピカールが同じようなことを言っていた。熱気球でノンストップの20日間世界一周をした人でもあり、先祖代々の冒険家でもある。この人が、今や、世界の気候予測が不可能になっている、気候変化というより大不順なので、今や問題の指摘やガス排出規制の目標の設定などを悠長に言っている場合ではない。環境破壊について罪悪感を助長するのではなくもっと積極的にテクノロジーの方向を変えていけばそれは十分地球規模のビジネスにもなるのだ、と力説していた。


菅原首相の「神の手」演説と通じる。


緑の党はイデオロギー化してしまって何も望めない。


今必要なのは「グリーン」ではなくて「クリーン」なのだ、とも。


「死都日本」を読んだ後だけに共感できた。


周りのフランス人にもこの本のことを話した。

訳されて広く読まれればいいのに。


私は臆病なのでカタストロフィものは小説でも映画でも原則として避けることにしているのでこの著者の別の本を読むかどうかは迷っているところだけれど。
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by mariastella | 2015-08-28 06:59 |

新年を迎えて手元に並ぶ3冊の本

「お正月休み」らしい贅沢は、数時間だけれど楽しみのための読書の時間をつくるというものだ。

書かなければいけないものはたくさんあるし、書くために読むものや、調べ物や、いま世界や日本で起こっていることを知るために読んでおきたいオピニオン雑誌や情報雑誌もたまっている。それでも、今すぐに読みたい本を3冊選んでザッピングすることにした。

至福の時。

翻訳もの(露文仏訳と英文和訳)ふたつとフランス語の本ひとつ。

もとがロシア語のは

Hilarion Alfeyev の『Le chantre de la Lumière』(cerf)

訳したのは私のお気に入り(見た目まで好き)のアレクサンドル・シニアコフ。

この本によって今までほとんど字面だけの存在に近かった「ナジアンゾスのグレゴリオス」がすぐそばにいるくらいに身近になった。

アテネのプラトン・アカデミーというのが4世紀にもいろいろな出会いの場になっていたことも実感できるし、背教者ユリアヌスのことも親しく感じられる。

なんか、すごく分かりやすくて親近感も持てる「光の詩人」。

これもアレクサンドル・シニアコフ経由だからそう感じられるのだと思う。

これから先、キリスト教について何か書くとき、今までとは違った意味で、このグレオリオスがいつも強い味方になってくれそうだ。

和訳の本は

スザンヌ・コーキン『ぼくは物覚えが悪い ― 健忘症患者H.Mの生涯』(早川書房)。

超私好みの本。
科学ものは基本的に日本語で読むことにしているので、翻訳が充実していて嬉しい。

記憶とは何か、医学の発展とは何か、人間とは何か、

自意識とは、希望とは、個性とは、生き甲斐とは何か。

ある大切なものを失うことによってはじめて多くの問いに光が投げかけられるような、そんな喪失があるのだ。

この中の、「短期記憶」は他の情報の介入によって簡単にとんでしまうという話を読んでほっとした。
私は3階の書斎から1階のリビングやキッチンに下りていく度に、いったい何を取りに行ったのかをしばしば忘れる。それは階段を下りている最中に、その目的を頭の中で繰り返すことなく、他のいろいろなことを考え続けるからで、別に不思議なことではないらしい。
著者は飛行機の搭乗ゲートのナンバーの例を挙げているので納得できた。たとえばCの14番、というのを見たら、そこに着くまではそれを無意識に何度も繰り返して短期記憶にしてとっておく。でも、そこにたどり着いたらもう必要ないので、搭乗後にはもう忘れているし、次の日にはもちろん完全に忘れている。長期記憶に変換する処理はないわけだ。

(そのことでこの訳本には「リハーサル」という言葉が使われていたのが違和感があった。rehearsalには、、フランス語のrépétitionと同じで、反復、復唱の他に下稽古とかの意味がある。でも日本語でリハーサルと書くと舞台の予行演習に使うのでこのこの本のコンテキストに合わない。私はカルテットとトリオのrépétitionを週2回やっているのだが、こういうのは日本の音楽をやっている人は「合わせ」というらしい。オーディションも日本語と違って「発表会」という時に一番普通に使われている。)

最後のフランス語の本は、わくわくするほど楽しい、アートにおける贋作の話。

Jean-Jacques Breton『Le Faux dans l’Art』 Hugo/Image

この世には贋作を所有していない美術館などない、とは、ベルリンのエジプト博物館の管長の言葉だそうだが、スキャンダルになった有名贋作から、由緒ある模写、今も真偽の分からない聖遺物系の聖なる怪しい画像まで、図版もたくさんあって飽きない。

アートといえば

Darush Shayegan の『La conscience métisse』( Albin Michel)の中で、イラン出身の著者(スーフィズムとヒンドゥイズムの比較論を読んだことがある)が非-西洋型のアートのコンセプトについて論じているのも読んでいるのだが、西洋において伝統や宗教と「美学」とが分けられたということの不思議とそれがもたらしたものについて改めて考えさせられる。

では皆様、よいお年を。
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by mariastella | 2015-01-01 00:40 |

星の王子さまはイエス ? サン・テグジュペリの福音書

Pierre Lassus の『La sagesse du Petit Prince(星の王子さまの智慧)』を読んで驚いた。

イラスト入りの本では世界で最も読まれている本だとも言われる『星の王子さま』(今は全編がWEBで見ることができる)を、子供の心理療法家ピエール・ラシュが分析した本だ。

著者は、4歳で父親を亡くし母親に溺愛されて育ったサン・テグジュペリが、6歳の時に好きな絵をあきらめ、パイロットになったのに何度も事故を起こし、怪我もして、普通ならもう無理なのにコネを使って自由フランス軍のパイロットになり、最終的には飛行機で遭難するという経歴から、子供時代のトラウマと星の王子さまの関係を探ろうとする。
けれども、星の王子さまの誕生の秘密には触れた気がしても、それが大ヒットした理由は納得できない。

で、プロテスタント出身の著者は、聖書と照合し始めて、星の王子さまから、旧約と新約の中で問われていることについてのメッセージを受け取るのだ。

荒れ野(砂漠と荒野はフランス語で同じ言葉)で(神の)「声」を聞く。

天から降りてきた子供が、荒野で遭難した大人の心を開く。

「羊を描いて」、というメッセージ。(羊はユダヤ神殿の捧げもので子羊はイエスのシンボル)

心の目で見ることができて大人よりも智慧のある子供。(神殿で学者を論破する少年イエス。または子供たちが先に天の国に行くというイエスのメッセージ)

いつも風にたなびいているように見える金色の襟巻は天使の翼 ?

すべての星は、渇いた者を潤す井戸。

「王子さま」とは「王」の息子。イエスは父なる神の息子。「子なる神」である。

話のラストで星の王子さまは蛇(アダムとイヴに原罪を与えた悪魔)に噛まれて命を落とすが、砂に倒れたはずのその体は翌朝消えていた。

「ぼくは死んだみたいに見えるかもしれないけれど、違うんだ。」と言っていたように、

王子さまは自分の星に帰ったのだ。(イエスの死、復活、昇天)

でも、星の王子さまはいつかまた、そっと誰かのそばに現れるかもしれない。(再臨)

それまで、満点の星に花が咲き開いているのかを見よう。星たちが笑っていれば、一緒に笑おう。

で、実際サハラ砂漠で遭難してトゥアレグ族に命を助けられた体験のあるサン・テグジュペリは、その後も、飛行機に乗り続けた。

少しでも星に近づくために、

星の王子さまの星が笑っているのを見るために。


うーん、こう言われると、、確かに、キリスト教文化圏の人にとってはスピリチュアルなサブリミナル・メッセージ満載だ。

著者はサン・テグジュペリ自身がそれを意識したのではなくて、無意識のものだっただろうと言う(サン・テグジュペリはイエズス会やマリア会系の学校の寮に入っていたのでカトリックの教養があったことは間違いない)。

だから、キリスト教文化圏でヒットしたのは大いに理解できる。

でも、たとえば日本のような非キリスト教文化圏でもこれほどの人気を博している理由はなんだろう。
それとも「聖書」のメッセージが日本人にもサブリミナルに届いているのだろうか。
だとしたら、「星の王子さま」は福音書のすぐれたヴァリエーションなのかもしれない。

今はクリスマス前の「降誕節」の時期だけれど、天の星のお告げのもとに生まれてくる赤ん坊がいて、その赤ん坊が、後に、荒野の真ん中で絶望して進めなくなった大人のもとに現れ、心をいやしてくれた後で天に戻っていつまでも「きらきら」笑っている、という結末まで視野に入れたら、イメージが変わってくる。

その光をキャッチするには空を眺めなくてはならない。

そして、星の王子さまは、私たちが星といっしょに「きらきら」笑うことを、望んでいる。
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by mariastella | 2014-12-12 00:19 |



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