L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:本( 39 )

無限遠点と神

同年輩の知人が、「現代数学への招待--多様体とは何か」(志賀浩二、ちくま学芸文庫)というのを読んで興奮するほどおもしろかったと教えてくれたので私も手に入れて早速読んで見た。
まだ第2章だけど、なるほど、刺激的だ。

何より、ほとんど神学理論だと思った。

前に、新書で、ゲーデルの不確定理論からの神の存在証明というのを読んだことがあるが、これはそういうベタなものではなく、数学者が数学の「意味」を語ろうとするものだ。

でも、私が日頃考えていることとぴったりする。

たとえば、私は人と人との繋がりははかないもので、ほんとうに共生するには人同士の関係を超えた何かを拠り所にしなければならないと思っている。

すると、この本には、点がたくさんあるだけではどの点も勝手な方向にどんどん進んで、止まっては方向を変えるという動きを繰り返すしかないが、そこに「無限遠点」を導入すると、その空間は そこを集積点として「コンパクト化」する、しかも、点の動きはずっと自由になるというと書いてある。

また、数学は、目に見えない高次元のものを対象にする時に、手探りしながら座標を選ぶというのも、神や超越をどう語るかという問題に似ている。

神だとか奇跡だとか死後の世界だとかは、実証的な科学と正反対の絵空事だと切り捨てられた時代もあったわけだけれど、考えてみれば、目で見てすぐに理解できるような事象などほんの僅かに過ぎない。

放送大学でも、リモートセンシングによる可視化の話を聞いた。たとえば環境や地球の内部のような目に見えないものをいかに可視化して、可視化したものをどう表現するかといった話だ。

すべての本質的なものは目に見えないのだなあと思うし、だからこそそれを表現する営為はいつも刺激的なのだろう。
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by mariastella | 2017-04-10 00:55 |

「感動」の文化史

11月後半から新しい仕事に専念するつもりで、少しの間、テーマとは別の本を読む贅沢を味わった。この本はシリーズで、いつも最高に面白い。

なんでもネットで検索できる時代でも、圧倒的に豊かで整理された上質の情報が編集されているこのような本を読むのは至福の時だ。

“Hisoire des émotions” (Seuil) の1巻2巻だ。

情動、感動というものの文化史という感じで、ヨーロッパにおいて人間の感動表現がいつどうして生まれて受容され展開されて行ったかが豊富な図版と共に紹介される。
ぱらぱらと読んでいるだけでも発見の連続で楽しいが、私が真っ先に読んだのは、もちろん、第一巻で、Gilles Cantagrel というバッハ研究者でバロック音楽学者の受け持つ項目『L'émotion musicale à l'âge baroque』(バロック時代の音楽的情動)というやつだ。

16世紀までは、神へ捧げる賛歌は中世の神学と同じで完璧な秩序によって高みへ上ろうとしたポリフォニーで、そこには人間的な「情動」がなかったが、ギリシャ演劇の復活の試みと共に「人間の情動の演出」が生まれていった経緯が語られる。

音楽がディスクールになること、作曲者と演奏家のレトリックとロゴスが聴衆のパトスを喚起することなど、これまでに何度も読み、弾き、聴いてきたことではあるが、非常に明快にまとめられていて分かりやすい。

音楽がディスクールになることと、ダンスがディスクールになることの関係をもっとパラレルに考えてみたい。
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by mariastella | 2016-11-19 03:07 |

『<近代の超克>論』など

フランスでこの頃本を読んでいる暇がなかったので日本で読もうと思って持ってきた本を3冊ようやく読み始めた。

ここのところ『ナポレオンと神』を仕上げるのに忙しかったので、読書を封印していた。
本を読むと、関連書ではなくても頭の中で勝手につながってどんどん広がって手がつけられなくなるからだ。
むしろアウトプットする方がすっきりするので、ブログを毎日更新していた。

で、フランスではそろそろ秋休みが終わるのでもうすぐ戻るのだけれど少し時間が取れたので、持ってきた本に目を通す。

日本語は廣松渉の『〈近代の超克〉論--昭和思想史への一視覚』(講談社学術文庫)

日本の戦前戦後の思想の流れがよく分かって大いに役に立つ。
自分の若かった頃の状況や今の日本の政治状況も含めていろいろなことがクリアに見えてくる。

でも、西谷啓二が、近代で、宗教と科学と人文、つまり、文化、歴史、倫理等との間が橋渡しのない分裂に陥った、世界観的無統一の時代、などと言っているのは、「???」だし、個人主義対世界主義という時、その個人とはプロテスタント的な個人で、共和国主義的個人とは違うし、なんだか今の私から見ると突っ込みどころが多すぎる議論ばかりだ。

でも、私がこれから新しい議論を展開するにあたって何が問題点なのかが整理できるありがたくも貴重な本になりそうだ。

フランス語の本はClaude Tresmontant という哲学者が1993年に出した『Saint Paul』(seuil)で、パウロに向けられた反ユダヤ的キリスト教などの批判を検証するものと、

人気歴史作家Max Galloの新刊『Henri IV』(XO EDITIONS)。

アンリ四世はフランス史のキイ・パーソンの一人で、この人をじっくり観察するとフランスの宗教戦争の意味が見えてくる。
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by mariastella | 2016-11-03 23:20 |

石黒耀『死都日本』、ベルトラン・ピカールの「グリーンからクリーンへ」、

石黒耀『死都日本』(講談社文庫)を読んだ。まだ東日本大震災やフクシマ事故も起こっていなかった2002年に最初に出た本だそうだが、今、いかにもタイムリーだ。

最近箱根の噴火の兆候とか桜島の噴火だとか、私にとってなじみ深い火山の不穏な動きのニュースを聞いて気になっていた。

特に桜島は川内原発の再稼働のニュースを聞いていったいどうするつもりだろうと思っていた。


この小説でも霧島火山の破局的噴火の兆候が出た時点で政府が川内原発を廃炉にしていて使用済み核燃料をそばにおいていなかったからよかったけれどそうでなければ天災よりも取り返しのつかない放射能災害になっていたはずだとあった。


でも、逆に、廃炉にさえしていれば、その他の核廃棄物などはコンクリートより細かい火山灰によって埋め尽くされるのだから、ある意味では最強の「処理」になるのかもしれない。その意味では、「人災」の一部は運よく免れたことになる。


全編に神話や旧約聖書や黙示録がちりばめられていて人間と文化を創造したのは火山活動だったのだという話になる。ローラシア神話が火山活動の記憶を伝えているということだろうか。興味深い。


ここに出てくる「共和党」の首相「菅原」は、民主党の菅と前原の合成だとかいうのを目にしたことがあるけれど、絶対に今の日本で想像もできないほどなかなかすばらしい政治家だ。


難民対策のことは驚いた。劣化ウラン製の徹甲弾をいざという時はイギリスの原子炉に打ち込んで大量の難民を発生させることで日本難民を相対化させてアメリカに受け入れさせるというひどい戦略だが、「やろうと思えばやれますよ」という抑止力の一種を準備しているらしく、それくらいの発想があるから「神の手」作戦も可能だったのかもしれない。


古来、自分たちの土地で食べられなくなれば人は土地を捨てて移動してきた。


それは動物の集団移動と同じ当然のサヴァイヴァル活動で、資源や嗜好品を求めて異郷を侵略するのとは別物だ。それを思うと、シリアやイラクから毎日何千人とヨーロッパへ命がけで逃げてくる難民を受け入れるとか入れないとか言っているのはいかにも狭量な国家主義だと今のヨーロッパのことを考える。


いや、日本など、何代も日本に住んでいる同じアジア人でさえ日本人ではないからといって差別している人もいるのだから、その昔はアフリカから大陸移動して来たりオセアニアから流れてきた人々が各地で「ここは代々僕んちだから」などと優越性を信じたり、移民国家のアメリカなどが、新たな移民を制限したりするのは、「食べて行ける見込みがあるうちだけのはかない縄張り意識」に過ぎないのだなあ、と思う。


今大きい顔をしている北ヨーロッパだって、他民族に追われたり気候変動で暖を求めたりで南下したゲルマン民族達が陣取ってできたのだし。


帝国主義的侵略を弾劾する今時の歴史観とごっちゃになって、「侵入者よりも先住民族の生存権が優先」みたいに考えられがちだけれど、イラクやシリア、アフリカからのような「戦時遊民」「経済難民」などは地球史レベルで考えたら「国境」で食い止めるなどと言える問題ではないと痛感させられる。

小説では、結局、よその国の原子炉攻撃などという物騒な手を使わずに、菅原首相は世界の経済とテクノジーの発想を変える「神の手」作戦を発表する。これが本当にこんなにうまくいくのかはさすがに疑問ではあるが、このような「大国の崩壊」でもなければ人間による地球破壊の推進を食い止めることはできないのかもしれない。

思えば第二次大戦での二度にわたる日本の原爆被害はヨーロッパの指導層にとってすごいインパクトで、トラウマになった出来事だったから、それに続く憲法の軍隊の放棄は、たとえその目的が最初はアメリカによる日本の戦力解体なのだったとしても、うまくやれば「死都日本」のように災厄に居直って世界で日本を特殊化してしまうツールになっていたかもしれない。

残念ながら思考停止のまま朝鮮戦争や冷戦であっという間になし崩しになって、今や日本を「戦争のできる普通の国にする」というのが政策らしいが、この小説を読むと、火山の脅威だけを考えても日本は全然普通の国ではない。いくら軍備しても自然災害にはまったく抵抗できないと分かっているのだから、原発などのリスクを減らして、世界の「成長神話」や「力による覇権主義」の逆を行くテクノロジーを開発した方がいいのではないか。エコロジーへの関心の高まる今ならまだ遅くないかもしれない。

 

などと思っていたら、今朝のラジオで、スイスの精神科医で太陽エネルギー飛行機で有名なベルトラン・ピカールが同じようなことを言っていた。熱気球でノンストップの20日間世界一周をした人でもあり、先祖代々の冒険家でもある。この人が、今や、世界の気候予測が不可能になっている、気候変化というより大不順なので、今や問題の指摘やガス排出規制の目標の設定などを悠長に言っている場合ではない。環境破壊について罪悪感を助長するのではなくもっと積極的にテクノロジーの方向を変えていけばそれは十分地球規模のビジネスにもなるのだ、と力説していた。


菅原首相の「神の手」演説と通じる。


緑の党はイデオロギー化してしまって何も望めない。


今必要なのは「グリーン」ではなくて「クリーン」なのだ、とも。


「死都日本」を読んだ後だけに共感できた。


周りのフランス人にもこの本のことを話した。

訳されて広く読まれればいいのに。


私は臆病なのでカタストロフィものは小説でも映画でも原則として避けることにしているのでこの著者の別の本を読むかどうかは迷っているところだけれど。
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by mariastella | 2015-08-28 06:59 |

新年を迎えて手元に並ぶ3冊の本

「お正月休み」らしい贅沢は、数時間だけれど楽しみのための読書の時間をつくるというものだ。

書かなければいけないものはたくさんあるし、書くために読むものや、調べ物や、いま世界や日本で起こっていることを知るために読んでおきたいオピニオン雑誌や情報雑誌もたまっている。それでも、今すぐに読みたい本を3冊選んでザッピングすることにした。

至福の時。

翻訳もの(露文仏訳と英文和訳)ふたつとフランス語の本ひとつ。

もとがロシア語のは

Hilarion Alfeyev の『Le chantre de la Lumière』(cerf)

訳したのは私のお気に入り(見た目まで好き)のアレクサンドル・シニアコフ。

この本によって今までほとんど字面だけの存在に近かった「ナジアンゾスのグレゴリオス」がすぐそばにいるくらいに身近になった。

アテネのプラトン・アカデミーというのが4世紀にもいろいろな出会いの場になっていたことも実感できるし、背教者ユリアヌスのことも親しく感じられる。

なんか、すごく分かりやすくて親近感も持てる「光の詩人」。

これもアレクサンドル・シニアコフ経由だからそう感じられるのだと思う。

これから先、キリスト教について何か書くとき、今までとは違った意味で、このグレオリオスがいつも強い味方になってくれそうだ。

和訳の本は

スザンヌ・コーキン『ぼくは物覚えが悪い ― 健忘症患者H.Mの生涯』(早川書房)。

超私好みの本。
科学ものは基本的に日本語で読むことにしているので、翻訳が充実していて嬉しい。

記憶とは何か、医学の発展とは何か、人間とは何か、

自意識とは、希望とは、個性とは、生き甲斐とは何か。

ある大切なものを失うことによってはじめて多くの問いに光が投げかけられるような、そんな喪失があるのだ。

この中の、「短期記憶」は他の情報の介入によって簡単にとんでしまうという話を読んでほっとした。
私は3階の書斎から1階のリビングやキッチンに下りていく度に、いったい何を取りに行ったのかをしばしば忘れる。それは階段を下りている最中に、その目的を頭の中で繰り返すことなく、他のいろいろなことを考え続けるからで、別に不思議なことではないらしい。
著者は飛行機の搭乗ゲートのナンバーの例を挙げているので納得できた。たとえばCの14番、というのを見たら、そこに着くまではそれを無意識に何度も繰り返して短期記憶にしてとっておく。でも、そこにたどり着いたらもう必要ないので、搭乗後にはもう忘れているし、次の日にはもちろん完全に忘れている。長期記憶に変換する処理はないわけだ。

(そのことでこの訳本には「リハーサル」という言葉が使われていたのが違和感があった。rehearsalには、、フランス語のrépétitionと同じで、反復、復唱の他に下稽古とかの意味がある。でも日本語でリハーサルと書くと舞台の予行演習に使うのでこのこの本のコンテキストに合わない。私はカルテットとトリオのrépétitionを週2回やっているのだが、こういうのは日本の音楽をやっている人は「合わせ」というらしい。オーディションも日本語と違って「発表会」という時に一番普通に使われている。)

最後のフランス語の本は、わくわくするほど楽しい、アートにおける贋作の話。

Jean-Jacques Breton『Le Faux dans l’Art』 Hugo/Image

この世には贋作を所有していない美術館などない、とは、ベルリンのエジプト博物館の管長の言葉だそうだが、スキャンダルになった有名贋作から、由緒ある模写、今も真偽の分からない聖遺物系の聖なる怪しい画像まで、図版もたくさんあって飽きない。

アートといえば

Darush Shayegan の『La conscience métisse』( Albin Michel)の中で、イラン出身の著者(スーフィズムとヒンドゥイズムの比較論を読んだことがある)が非-西洋型のアートのコンセプトについて論じているのも読んでいるのだが、西洋において伝統や宗教と「美学」とが分けられたということの不思議とそれがもたらしたものについて改めて考えさせられる。

では皆様、よいお年を。
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by mariastella | 2015-01-01 00:40 |

星の王子さまはイエス ? サン・テグジュペリの福音書

Pierre Lassus の『La sagesse du Petit Prince(星の王子さまの智慧)』を読んで驚いた。

イラスト入りの本では世界で最も読まれている本だとも言われる『星の王子さま』(今は全編がWEBで見ることができる)を、子供の心理療法家ピエール・ラシュが分析した本だ。

著者は、4歳で父親を亡くし母親に溺愛されて育ったサン・テグジュペリが、6歳の時に好きな絵をあきらめ、パイロットになったのに何度も事故を起こし、怪我もして、普通ならもう無理なのにコネを使って自由フランス軍のパイロットになり、最終的には飛行機で遭難するという経歴から、子供時代のトラウマと星の王子さまの関係を探ろうとする。
けれども、星の王子さまの誕生の秘密には触れた気がしても、それが大ヒットした理由は納得できない。

で、プロテスタント出身の著者は、聖書と照合し始めて、星の王子さまから、旧約と新約の中で問われていることについてのメッセージを受け取るのだ。

荒れ野(砂漠と荒野はフランス語で同じ言葉)で(神の)「声」を聞く。

天から降りてきた子供が、荒野で遭難した大人の心を開く。

「羊を描いて」、というメッセージ。(羊はユダヤ神殿の捧げもので子羊はイエスのシンボル)

心の目で見ることができて大人よりも智慧のある子供。(神殿で学者を論破する少年イエス。または子供たちが先に天の国に行くというイエスのメッセージ)

いつも風にたなびいているように見える金色の襟巻は天使の翼 ?

すべての星は、渇いた者を潤す井戸。

「王子さま」とは「王」の息子。イエスは父なる神の息子。「子なる神」である。

話のラストで星の王子さまは蛇(アダムとイヴに原罪を与えた悪魔)に噛まれて命を落とすが、砂に倒れたはずのその体は翌朝消えていた。

「ぼくは死んだみたいに見えるかもしれないけれど、違うんだ。」と言っていたように、

王子さまは自分の星に帰ったのだ。(イエスの死、復活、昇天)

でも、星の王子さまはいつかまた、そっと誰かのそばに現れるかもしれない。(再臨)

それまで、満点の星に花が咲き開いているのかを見よう。星たちが笑っていれば、一緒に笑おう。

で、実際サハラ砂漠で遭難してトゥアレグ族に命を助けられた体験のあるサン・テグジュペリは、その後も、飛行機に乗り続けた。

少しでも星に近づくために、

星の王子さまの星が笑っているのを見るために。


うーん、こう言われると、、確かに、キリスト教文化圏の人にとってはスピリチュアルなサブリミナル・メッセージ満載だ。

著者はサン・テグジュペリ自身がそれを意識したのではなくて、無意識のものだっただろうと言う(サン・テグジュペリはイエズス会やマリア会系の学校の寮に入っていたのでカトリックの教養があったことは間違いない)。

だから、キリスト教文化圏でヒットしたのは大いに理解できる。

でも、たとえば日本のような非キリスト教文化圏でもこれほどの人気を博している理由はなんだろう。
それとも「聖書」のメッセージが日本人にもサブリミナルに届いているのだろうか。
だとしたら、「星の王子さま」は福音書のすぐれたヴァリエーションなのかもしれない。

今はクリスマス前の「降誕節」の時期だけれど、天の星のお告げのもとに生まれてくる赤ん坊がいて、その赤ん坊が、後に、荒野の真ん中で絶望して進めなくなった大人のもとに現れ、心をいやしてくれた後で天に戻っていつまでも「きらきら」笑っている、という結末まで視野に入れたら、イメージが変わってくる。

その光をキャッチするには空を眺めなくてはならない。

そして、星の王子さまは、私たちが星といっしょに「きらきら」笑うことを、望んでいる。
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by mariastella | 2014-12-12 00:19 |

吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』(アルテスパブリッシング)

比較文化の社会学をこういう切り口で分析してみるなど考えたこともなかったので、非常に新鮮だった。

当事者を含めて皆が薄々感じていながらもあえて意識に上らせないような微妙な覗き見感もある。
はっきり言って、この研究をWASPの男性社会学者が企てたなら逆に偏見を持って見られそうだ。

NY生まれ東京育ちでピアノを本格的に勉強してアメリカで文化批評のスペシャリストとなった著者でないと分け入ることのできなかった世界かもしれない。

私自身、著者が取り上げるアジア人女性でありフランスの音楽師範学校に通ったこともあり、複数のアンサンブルでいろいろなところで演奏する活動をもう30年も続けていて、生徒に個人レッスンをするのもかれこれ30年近く、またアーティストを支援するアソシエーションを立ち上げてパリに来るさまざまな音楽家に演奏の機会を提供するようになってからも20年経つ。二軒長屋の自宅の片側には日本人女性のピアニスト、フルーティスト、サクソフォニストらに住んでもらって自由に練習してもらってきた。その間、日本からの音楽留学生の直面するいろいろな問題や進路の変更を含めて、さまざまなことを見てきた。

それなのに、それらの経験をこの本の著者のような形で考察して言語化するということは、ありそうでなかった。

なるほどと思える興味深いフィールドワークがたっぷり報告されている。

けれども、これを読んで個人的にあらためて気づかされたのは、

1. アメリカとヨーロッパってまったく違うなあ、

2. ヨーロッパの中でもフランスってまったくユニークだなあ、

3. クラシック音楽界とバロック音楽界のメンタリティはまったく違うなあ、

の3点だった。

2 と3は、『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)に書いたことを追認した形でもある。

一つだけ、この本を読んでから、今までの感じ方が180度変わったことがある。フランスの音楽教育の評価についてだ。

これまでは、フランスの幼稚園はもちろん小学校に音楽の時間がないせいで、音楽の教養のまったくない多くの大人を生むので嘆かわしいとずっと思っていた。

私のところに来る大人の生徒も、子供のころから楽器演奏にあこがれていたのにその機会がなくコンプレックスを持ち続けたという人が多い。

その点日本では、今のことは知らないが、私の育った時期には、幼稚園のどのクラスにもオルガンがあって休み時間には自由にさわれたので全員が「猫ふんじゃった」が弾けたし、小中学校の音楽の授業では誰でもドレミが読めるどころか階名が移動ドなので、ドレミで歌う時はたとえばヘ長調ならハ長調のファをドと読まなければならなかった。4、5 種類の読み方が自動的に頭に入っていた。

縦笛もハーモニカも習ったし、クラス対抗の合唱コンクールや合奏コンクールがあった。

全員が無理矢理9年間もそんなことを続けていれば少なくとも、自分に適性があるか、音楽や楽器が好きか嫌いかははっきりしてくる。

ところがフランスの小学校(5年間)には音楽の時間がないので、音楽をやりたい子供は幼稚園の頃から公立のコンセルヴァトワールに通って楽典、コーラス、楽器を習うことになる。毎年進級試験があるし、二度落第すると残れないから、レベルはかなり上がる。中級の試験の聴音などは、日本なら音大の入試レベルですよ、と驚かれたこともあった。だから、中学では音楽の授業が始まるのだけれど、その頃には、コンセルヴァトワールに通っている子とそうでない子(ドレミも読めない)との間に差があり過ぎて、教師は音楽の基礎を教えることが不可能だ。縦笛が少し手ほどきされることはあるけれど、基本的にはみんなで歌を斉唱したりいろいろな曲を聴いたりというレベルにおさまってしまう。

私は、こういうシステムは不公平だな、音楽教育の機会平等がないなあ、とこれまでずっと思っていたのだ。
日本の音楽教育の方が民主的だと。

しかし、よく考えてみると…

吉原真里の言うように、楽器の勉強は膨大なコストがかかるので中産階級以上の家庭の子供にしか不可能だとか、クラシック音楽の技能を磨くことで社会的な階層の上昇を見込める、というような言説が、フランスには相当しない。

なぜなら、小学校に音楽の授業がない代わりに、どんな町にも必ず公立のコンセルヴァトワールがあって、住民であれば、家庭の収入に応じた授業料で通えるからだ。

「教育社会主義」のような国だから、はっきり言ってその額は、低収入家庭に対しては限りなくゼロに近くなる。

弦楽器はみな貸してもらえるからコストゼロなので低収入家庭の子供が集まる。ピアノはさすがに家に楽器があるのが条件となるが、レンタル業者も普通にあるし、そこはフランスだから、100年も前の古いピアノならあちこちの家庭に眠っていたりする。

で、何が起こるかというと、親が子どもに音楽をさせようとしさえすれば、低収入家庭の子供でも、アラブやアフリカ移民の子供でも、楽典のクラスと楽器の個人授業と(これは必修)、室内楽のクラスと、合唱のクラスをほぼ無料で受けることができ、試験に通れば、そのレベルが全国で通用する。

引っ越し先のコンセルヴァトワールで同じレベルのクラスに編入できるのだ。
一定のレベルの免状があれば、国立大学のオーケストラに入ることも許可される。

コンセルヴァトワールから離れても、独学やプライヴェート・レッスンで用意した曲をバカロレアの楽器演奏オプションに登録して通過すると、最低の国家認定になる。

大学は基本的に国立の低料金で奨学金も出るし、音楽学を専攻して免状をとることもできるし、大学教授資格(アグレガシオン)もとることができる。そうすれば、最低でも、よい条件で公立リセの音楽教師として、数学教師と同じレベルの収入を得られる。楽器教授の国家資格もあり、それがあると公立のコンセルヴァトワールに職を得られる。

これがどういうことかというと、フランスでは親の意向があり、子供にやる気や才能があれば、最下層の出身でも、コストをかけずに音楽で食べていけるキャリアを築くことが可能だということだ。
移民だろうが外国人であろうが区別はされない。
出自にかかわらず均等な機会が与えられているということは、ある意味で民主主義が完全に機能しているということではないだろうか。
で、その音楽の基礎教育課程において、ジェンダーだの民族差が問題とされることはまったくない。そして共和国の免状さえ獲得すれば、後はそれがものをいうのだ。

だから、フランスではクラシック音楽で生計を立てている人の民族的階層的な先入観というのはあまりない。

フランスでも共和国の建前と社会の実態が乖離している場面はたくさんあるのだけれど、少なくともこの部分は機能している。

そしてアファーマティヴ・アクションも人種別統計も公的には禁止されているから、偏見は生まれにくい。

私自身についても、フランスのしかるべき免状がないので公立機関の音楽教師にはもちろんなれないのだけれどアーティスト支援のNPOを主催してその資金作りのためにピアノやギターの個人レッスンを口コミだけで、時には親子二代や三代の生徒まで抱えながら続けている。曲の理解と教える技術への信頼について、ジェンダー的にも民族的にもいかなる違和感も表明されたことがない。
民族楽器をコレクションするのも趣味なので、生徒にいろいろな音階を説明したりして、音楽の中で何が文化依存しているものか何が普遍的なものなのかの区別を教えることはあるし、ダンスとの関係に関しても延々と語るので、私のレッスンは面白い人にはものすごく面白いと思う。

擦弦楽器もやっているから、装飾音やスタカートなどの意味やニュアンスも、ピアノやギターしか弾かない教師には実感できないいろいろなヒントを与えられる。そして、究極的にはコミュニケーションとしての音楽の普遍性を伝えたいということを明確にしている。音楽の伝達はパッションなのだ。

でも、考えてみたら、私がこういう信念を掲げて生徒に喋りまくるということ自体、フランス語だからできるのかもしれない。

これが、日本語で日本人にレッスンするなら、「音大も出ていないのに」、「偉そうに自信満々で」話すということが、すでに自主規制で違和感を感じて気がひけると思う。

思えば、『バロック音楽はなぜ癒すのか』を出した時も、私にとって一番大事だったのは、それが一般出版社ではなくて「音楽之友社」から出してもらえることだった。

この本はユニヴァーサリズムを擁護する思想書でもあるのだけれど、音楽の部分について「アマチュアの繰り言」だと思われるリスクは減らしたかった。そのためには音楽専門の出版社のステイタスが必要だったのだ。

実際、この本を通じて、バロック音楽演奏者やダンサーと知り合うことができた。

クラシック音楽とバロック音楽(フランス・バロック)の違いも大きい。

吉場さんの本に出てくる、西欧人のクラシック音楽家がアジア人やアジアの音楽に抱く異国性を表明するようなケースは、単に彼らにフランス・バロックの教養がないせいじゃないかと思うことがある。

吉原真里さんの言うように、一番の問題は、クラシック音楽も経済的なフィールドでの市場論理に従うコストパフォーマンスの文脈で営為されているという現実だ。
生産と伝播が国際社会の経済構造に見合っているものが優れているとか意味があるかのように思われる。

「フランスの外に出なかったラモーの音楽よりも世界中で弾かれているバッハの音楽の方が普遍性があって優れている」と最近ある人が言われたことがあるが、世界中で弾かれていることは市場性の問題、流通や情報の問題であって、普遍性の問題ではない。手作りの職人業の料理を出す小規模の店がその料理人や伝統のあるところを出られないからと言ってマクドナルドよりも普遍性がないとか劣っているとかとは言えないのと同じだ。

アメリカという社会での音楽業界を観察すると、当然、「商品」としての音楽、音楽家に焦点を当てざるを得なくなる。

このことについて、実際に音楽で生計を立てられる人は一握りであるから、その反動として、金に魂を売らない純粋な音楽だけが優れているのだと孤高や清貧を称揚するアーティストの例も紹介されている。

これは、ある意味で本当だ。

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。

音楽はミューズのものだからミューズに。

市場原理で動くものはまったく別物で、偶像崇拝が起こる。

私たちのアンサンブルは「音楽にとって無償性は本質的なものである」と近頃ますます考えるようになっている。

無償性とはフランス語でgratuité であり、それはgrâce と同じルーツを持つ。grâce とは、恩寵であり、恵み、感謝、魅力、優美だ。
gratuitは「理由なき」という意味で純粋という名という使われ方もする。たとえば「理由なき反抗」のように。
意味がない、少なくとも、人間社会のロジックの中では意味がない。
コストパフォーマンス的にも意味がない。

英語で「無料」のfreeが自由という言葉を当てているのと同様に、神学的にはgratuité(無償性)とは、神によって与えられる恵みと救済の持つ自由で全的な属性を意味する。

つまり「無償性」には自分が金を稼げないとか、アートを売り物にしないとかいう以上に、音楽は神からすでに無償で与えられた恵みであって、それに感謝することまで含まれる。

そして、音楽の本質にそれがあるというのは、恵みとはすべての人と分け合えるし、分け合っても減らないし、それどころか分け合った時にこそ本当に「感謝の意味」を持つということだ。

作曲家やその生きた文化や時代の理解が「真正性」を担保するのではなくて、「恵み」の理解が音楽の真正性なのである。

私たちは、ラモーを弾く度に「神さま、ありがとう」と言いたくなる。もちろん、演奏をマーケットに乗せて生計を立てる必要にかられない自分たちの立場にも感謝する。

この吉原さんの本に触発されて、フランス・バロックの社会学的フィールドワークの論文が書けるくらいだ。

もちろん、フランスに勉強に来る日本人クラシック音楽家のいろいろなケースを見てみるとこの本に通じる部分はたくさんある。

この著者にはフィールドワークの機会がなかったらしい音楽家におけるホモセクシュアリティについても、私は本質的なものを感じている。

音楽におけるアイデンティティとか「真正性」についてもいろいろなことを考えている。

でも、もう十分長く書き連ねてしまったので、ここではいったんストップして、この本を出してくれたアルテスパブリッシングにとりあえず感謝の気持ちだけ伝えたい。
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by mariastella | 2014-05-31 01:47 |

森達也『A3』(集英社文庫)

いつものことながら、フランスに読む本がたまっているのに日本から帰ってきたらつい日本で手に入れた日本語の本を読んでしまう。

すぐに並行して読み始めたのは

岡崎乾二郎『ルネサンス経験の条件』(文春学藝ライブラリー)

山田廣成 『量子力学が明らかにする、存在、意志、生命の意味』(光子研出版)

吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』(アルテスパブリッシング)

森達也『A3』(集英社文庫)

の 4 冊。

その他日本で行ったコンサート、芝居、バレエ、機内で観た映画多数、フランスに帰ってから観た映画2本に演劇など、書き留めておきたいことはたくさんあるのだけれど、それらは追々書くとして、ここではまず、並行して読みながら最初に読み終えた『A3』について。

私はAもA2も知らなかった。オウム真理教のノンフィクションで単行本として読んだのは、林郁夫の『オウムと私』だけだ。

オウム真理教が私に与えた影響の一つは、それまではスルーしていた「自殺してもお花畑は見えるのでしょうか?」系の「読者の手紙」にきっちり答えることにしたことだ。

「オウムの信者たちはいろいろな悩みや疑問を抱えていたのに忙しい大人たちはそれに答えてくれなかった、麻原だけがそれに明快に答えていた」としみじみ述懐する人に出会ったからだ。

私に答えがあるわけではないけれど、一緒に考えるというリアクションを得ることもその人たちにとってある種の答えになるかもしれないと思ったからだ。

もう一つはマインドコントロールなどに対する問題意識から、文春新書で『カルトか宗教か』を出したことだ。
オウム以来、カルトと宗教が無自覚に混同されていた状況に理解のための補助線をひくことができるといいと思った。

そこでは、カルトにはまった人を糾弾するようなことは書いていない。その頃、オウムの信者で麻原の公判を傍聴した人が、最初は被告席の尊師がエネルギーを送ってくれるように感じていたが、私の本を読んでから不思議なことにそれが消えてしまった、「竹下節子おそるべし」というコメントを残しているのをウェブ上で発見したことがある。

元信者やまた別の新宗教の信者同志の掲示板などで「なんだか目が醒めたような感じ」だと書かれたこともある。

もうずいぶん前だから消えてしまっただろうけれど、その時に、必要な人に必要なメッセージが届いていることを嬉しく思い、インターネットのおかげでそれを知ることができる僥倖にも感謝した。

で、その後の麻原の言動がおかしくなったというのはあちこちで耳にし目にしていたし、死刑判決が確定したのももちろん知っていた。

その後、今回はじめて「その後の麻原」と、『A3』で出会ったのだ。

問題意識と正論に対するこだわりに妥協がないのに、自分の心情を絡めることによって、上から決めつけるような言い方を避けているし、、「当事者意識」で武装する人々に対してもできるだけコミュニケートしようという誠実かつ周到な構成と語り口には感心した。

しかも、この本の中には、私が昨年出した本のタイトルにある「ジャンヌ・ダルク」も言及されているし、最近出した本のタイトルである「ユダ」についてのエピソードもあるし(刺殺された村井秀夫が「ユダにやられた」という言葉を残したとか「ユダヤたたき」をやろうとしていたなどの話ははじめて知った)、今書いている最中の「フリーメイスン」もしっかりと出てくる。最近の三作のタイトルに私のアンテナが反応したのはもちろんだ。

でも、一番ショックだったのは、オウム事件以来日本の危機意識がはっきりと変化して、人権よりもセキュリティを重んじるようになったということ、監視カメラの数がイギリスを抜いて世界一だとか、市民運動とか人権派と言われる人々は「いい人」とか「弱い人」にしかつかない、テロリストの周辺(未成年の家族を含む)のためには動かないということ、などだ。

そういえばその後の日本の厳罰化だとか、ヘイトスピーチの垂れ流しとか、ウェブ空間における陰謀論の跋扈とか、在日認定だのネトウヨ認定だのという言葉とか、共謀罪の動きとか、九条の解釈改憲まで、不穏な感じはすべてオウムの事件によって日本社会が深いところで変質した流れにあると言われているようで驚いた。

軽犯罪からテロリズムに至るまで、セキュリティの不安が常にあるフランスで暮らしていると、たまに行く日本はやはりのどかでのんびりリラックスしていて安心できるなあと今でも思っていたからだ。

著者のいろいろな分析や解釈にはほとんど共感するけれど、宗教一般について、その役割が人間の「死への不安や恐怖を軽減する」ために生まれたという機能ゆえに、「人を殺すことへのハードルを下げる」から、すべての宗教は戦争や虐殺と親和性が高い、としているのはいかがなものかと思う。

宗教の登場の最初においては「死への不安や恐怖の軽減」ではなくて、死者との別れ、つまり「喪失」とどう折り合うかの方が先行しているのではないかと考えているからだ。

戦争や虐殺や他者の排除に宗教が利用されているのはまた別の文脈であって、純粋に「宗教的なこと」ではないような気がする。
エピクロスではないが、死ぬまでは活きているのだし、死んだらもういないのだから、人は自分の死のことよりも、身近な人の死による喪失をどう生きるかという「喪」の儀式としてまず宗教を必要としたのだと思う。

もちろんオウムがポアの理論によって殺人を正当化するという部分だけを見るとそれで殺人のハードルが下がったのは間違いないだろうが、一般化するのは無理がある。

しかし、このオウムの論理の中で、新実智光が法廷で語った「一殺多生。(事件の被害者は)最大多数の幸福のためのやむを得ない犠牲者である」というのには、胸を締めつけられる思いがした。

4月に国立能楽堂で鑑賞した『鵜飼』の台詞を思い出したからだ。
殺生禁止ということで魚を取ることが禁じられている場所で夜な夜な松明を灯して鵜を連れて漁にくる鵜飼の老人が、待ち伏せしていた村人たちにつかまって、簀巻きにされて生きたまま川に沈められる。「殺生禁断の所とは知らなかった、助けてくれ」と手を合わせて嘆く老人に、「一殺多生の理に任せ、彼を殺せ、と言い合」ってリンチしたのだ。

大乗経典の『瑜伽師地論』に出てくる言葉(能の解説では報恩経とある)でわかりやすいと言えばわかりやすいが、『鵜飼』では、殺生禁断は、領主の許可を得た特権のある鵜飼だけが漁を許されていたのだから政治的だし恣意的だ。

また、「生類憐れみの令」や、支配者の領内の動物を殺したら死罪になるなど、歴史上でも人の命と動物の命を同等に扱えるのかを考えさせられることがいろいろあるし、現代のディープ・エコロジーの狂信的な人たちの言動も想起してしまう。

『鵜飼』を鑑賞していた時も私はこの展開にぞっとした。

『A3』でも、死刑とは、殺人犯は誰かを殺したから罰せられるのではなくて、共同体の法を破ったから抹殺されるのだというハンナ・アーレントの言葉を引いている。日本のように「残虐この上なく」とか「更生の可能性もなく」などではないと。

しかし、共同体の法というのは共同体が変われば変わるのだし、「更生の可能性」の有無も主観的なものでしかない。

いつ誰でも、共通善や法の名のもとに『鵜飼』の村人のように集団でよそ者をそれこそ「残虐この上なく」抹殺してしまうことがあるかもしれない。

それを抑止するには、「ペルソナ(人格)としての個の価値は共同体の共通善に優先する」と銘記するしかない。

それは当然、死刑も戦争も否定することにつながるだろう。

共同体主義から少しずつ脱却したりあるいは共同体の概念を拡張したりしてきた今の世界には「死刑廃止」を決意した国が多いが、戦争や武力を放棄した国はない。

神の名を唱えて戦う国もあれば宗教もあるし、「正義の戦争」や「自衛戦争」の権利を手放す国はない。絶対非暴力の宗派はあっても共同体主義の壁を超えることはなかなかできない。

それにしても、『A3』によると今でも治療すれば精神機能の回復の可能性があるかもしれないという麻原彰晃にその治療のチャンスが与えられないのでは、歴史的事件についての証言を聞きたい、人間の弱さや人間性の罠と社会の関係などについての洞察の材料を得たいという思いを否定される。

せっかくこのような本が世に出て、評価されているのに、このまま、まるで鵜飼を簀巻きにして水底に葬るような形でオウム事件を終わらせてしまうのなら、成仏できずに奈落に沈む悪鬼となってさまよう鵜飼の老人のように、オウム事件で処刑される人々もまたいつまでも人々の心に疑心を振りまき続けるかもしれない。

「魔道に沈む群類を救う」(『鵜飼』より)のは、「世俗の法」で裁くのが悪の問題の到達点では決してないということなのだろう。

悪人と言えども結縁に引かれつつ、仏果菩提に至るべし、往来の利益こそ、他を助くべき力なれ、という『鵜飼』の最後の言葉をじっくり考えてみる必要がありそうだ。
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by mariastella | 2014-05-23 07:55 |

アセディア、脱宗教社会の宗教史、従軍司祭・・・

1/4、今年初めて書店に行ってきた。

何冊か買ったのだけれど、絶対におもしろそうなのは次の3冊。特にこれ。

Jean-Charles Nault《Le démon de midi 》L’Echelle de Jacob

人生における「中年の危機」を示す『デモン・ド・ミィディ(南の悪魔)』というタイトルの本は、精神分析からの考察とかニーチェに絡めてとか、たくさん出ているのだけれど、これは、修道生活におけるacédie (acedia )についての研究をもとに考察を巡らせるユニークなものだ。

アセディアは単に怠惰の罪というようなものではなく、祈りも贖罪の行も何もかもいやになってしまう典型的なうつ症状だ。退屈、憂鬱、無気力、無関心など、悲しみの罪とも言われる。

この「症状」は、キリスト教初期の荒野の隠遁修道士などが体験して書き残しているし、神学上の議論から、その解決法まで、いろいろな歴史がある。

十字架のヨハネからマザー・テレサまで、聖人たちが人生の中途で神を見失う「信仰の夜」という信仰の危機もよく知られているけれど、アセディアという霊的鬱は、それと戦う気力も、神に救いを求める気力もすべてなくなる本格的なうつ症状なのだ。

しかしそういう鬱は人間性に深く根を下ろしたどこかから来ているので、古来の修行者たちは隠すことができず正面からその対策を練ってきた。またその意味を探ろうとしてきた。

第一、隠せるくらいなら鬱とは言わない。「信仰の闇」や懐疑や孤独は、それを抱えていて内面で苦しんでいても表向きは普通の活動を続けることができる。自分に対しても他人に対しても、どうとりつくろうこともできないような完全なブラックアウトがアセディアなのだ。

次の本。
Faire de l'histoire religieuse dans une société sortie de la religion(脱宗教社会における宗教史)》Guillaume Cuchet/Publication de la Sorbonne

これも非常に興味深い。宗教色というものが極端に薄まっていく社会で、それでも「霊的なもの」がどのように市場を形成するのかとか、それが政治や社会に及ぼす影響など、フランスと似た状況にある日本を考える時にも役に立つ。私が1980年代に読みあさったJean Delumeauについての考察は特に興味を引かれる。

次に、ジャーナリストが従軍司祭と共に書いた『戦場の一司祭』は、ノンフィクションとしてもおもしろさ抜群だし、アフガニスタンで戦死した兵士への追悼説教なども収録されているので、第一次大戦以来の戦争と従軍司祭の関係についていろいろ考えさせられる。

Un prêtre à la guerre : Le témoignage d'un aumônier parachutiste
Christian Venard, Guillaume Zeller/ Tallandier

この他に買ってその日に読んでしまったTahar Ben Jellounの小説もあるのだけれど、私の頭の中にしっくりくるおさめどころがまだ見つからないので、また別のところでコメントすることになるだろう。
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by mariastella | 2014-01-06 20:31 |

『生理用品の社会史-タブーから一大ビジネスへ』田中ひかる/ミネルヴァ書房

秋にご本をいただいてすぐに興味深く読ましてもらったのだがなかなかコメントできなかった。

すると、田中さんのサイトに次々と書評が紹介されていたので、さすがにこのテーマのユニークさで正当に注目されていることが分かって安心した。

私はこの本に出てくる「アンネ」の誕生にまつわるエピソードをまだ日本に住んでいた頃、かなり昔にノンフィクションのアンソロジーの中で読んだことがある。田中さんにそれがどんな本なのか聞かれたので探してみたのだけれど見つからなかった。

けれどもその時も、そのテーマが新鮮で印象的だったので、しっかり脳裏に刻まれたのだ。

田中さんの本もその意味で、画期的な一冊になるだろう。

巻末に広告コピーの変遷などがまとめられているのも貴重だ。

生理用品だけではなく、それにまつわる女性観や国家の方針まで変遷がよく分かる。

第一次大戦時は優生主義みたいなものがあって、上流階級だけが健全で優秀な子を生むのがいい、「濫りに生殖を営み種族を劣悪ならしむるがごとき」「粗製濫造の弊」に陥るなとか、「子は三界の首枷」(!!)の真理などと、医師たちが説いていたのは驚きだ。

それから第二次大戦時代の「産めよ増やせよ」になり、戦後はアメリカのホームドラマ風に男女の子供二人と犬一匹の家庭が広告のスタンダードになり、今や少子化で国が滅びるからと、子供手当をばらまいたり、女性手帳を配って女性に子供を早く産むようにと呼びかけたりしかねない勢いになっている。

生殖にまつわる言説はいつも政治的であり、時に経済的なものなのだ。

生理や生理用品にまつわる言説はもちろん生殖にまつわる言説の裏側にある。

この本には、差別が自己卑下になっていく心理についても語られている。

また、たとえ他国の社会において生理現象を不浄視したリ差別したりするのが、「文化」だとか「伝統」であると言われても、それは是正しなくてはならない、生理現象によって人をタブー視することが許されるなら、他のあらゆる偏見・差別も許されてしまう、と主張されている。

ここのところはすごく重要だ。

確かに、生理現象への偏見や差別を「伝統」だなどと許容していたら、他のあらゆる心身の障碍や、病気や、老いや、衰えに対する偏見や差別を許容することになる。

「汚物」処理に関することに偏見や差別が生まれるか生まれないかということは全く社会的なものだ。

すべての人が毎日排泄する排泄物も放置すると重大問題になる「汚物」だけれど、今や、ほとんどの人が自分の排泄物を見ないで済むくらいの素早さでクリアされてしまう。トイレに行く度に不浄視される人などはもちろんいない(私はトイレに行く度にほとんど毎回、この水洗のシステムってすごいなあと感動する)。

まあ、私の年代になると、生理の処理どころか、加齢による失禁だの前立腺肥大や摘出手術による失禁だとか、大腸がんの手術の後の排泄の処理だとか、社会的には差別されていなくとも本人にとっては生活の質を落とす深刻な苦痛についての話題が周囲のあちこちから聞こえてくる。

その深刻さから比べると、生理用品がタブーから一大ビジネスへと発展したのは、当然の健全な展開だったと思う。

しかも、他の消費財なら、購買意欲を無理やりそそるだけのために不必要なものを提供したり無駄な付加価値をつけたりモデルチェンジしたり、市場主義が肥大し歪んでいると思うけれど、生理用品の進化には「より快適なものを提供しようとする努力」というまっとうなものがメーカーにあるらしい。

ただ、この本を読むと、日本における進化の形は、こんなところでもいわゆるガラパゴス化しているのかもしれないと思う。日本から来る留学生がよく生理用品を日本から送ってもらっているのを見て、あのようにどこにでもあってしょっちゅう使うものを現地で調達しないのは不思議だと思っていたのだがそれほどに違いがあるのだろう。それゆえに内装式のものが発展しなかったというのもおもしろい。

(もう一つ、世界の宗教に月経禁忌があるとして、キリスト教、イスラム教、仏教の例を挙げてキリスト教からは旧約聖書が、イスラム教からはコーランが引かれているけれど、旧約聖書の部分はむしろユダヤ教のいわゆる律法部分なので、キリスト教の例としてとり上げるのに違和感があった。ではどうかというと、キリスト教の成立によって、律法は一応「成就」したということて゛禁忌はなくなったわけなのだが、実際のレベルでは生理中の女性に聖体を授けないなどの差別がされていた時代や地域もあるので、それは宗教の戒律というより、もっとプリミティヴな社会差別なのだと思う。)

田中ひかるさんの著書については前にもこのブログで書いたことがある。

それ以来、日本で何度かお目にかかり、「なぜフランスにはオバサンはいないのか」というテーマで往復メールを交換しながらいろいろなことを模索している。それがいい形で田中さんの活動に役に立つ日が来ればいいのだけれど・・・
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by mariastella | 2014-01-04 09:28 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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