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L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 126 )

ウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』(2007)

おしゃれな映画だという評判だったが、ちょっと違うかもしれない。

3人兄弟の造形がユニークなのは確かだ。包帯だらけの兄、いつもアイマスクはつけるがズボンなしで寝る長身の弟、小柄で濃い感じの末弟。アングロサクソンっぽいオーウェン・ウィルソン、東欧系ユダヤ人っぽいエイドリアン・ブロディ、ラテンっぽいジェイソン・シュワルツマン(名はドイツ風だけど。この人は私の昔のピアノの生徒そっくりだ)、とても父母を同じくする血のつながった兄弟には見えなさすぎる。

兄が、インドの長距離鉄道に乗るスピリチュアルな旅を弟たちに提案し、「a,b,c」と項目を並べながらするべきことを指示するのだが、最後の方で、ヒマラヤの修道院で孤児を世話しているエキセントリックな母親が、同じように「a,b,c...」と数え立てるので、ああ、この長男は、スピリチュアル好き(クジャクの羽を使った儀式など)も、こういう話し方も母親譲りなんだなあと分かる。

死んだ父親は、車だとか、サングラスだとか、ベルトだとか、多くのトランク(ルイ・ヴィトン)などの小道具を通して息子たちに影のようにつきまとっている。撮影の年のこの3人は、40、35、27歳くらいでかなり年が離れている。

ダージリン鉄道の汽車の小宇宙もおもしろいし、広がるインドの風景ももちろん興味深い。

寓話か不条理劇みたいで、大きくは、イニシエーションがテーマなのだろう。

それぞれエゴイスティックに生きていた兄弟たちが、長距離列車の客室に閉じこめられて、いろいろな感情の対立やすれ違いがある中で、共に列車から降ろされたり、川に落ちた少年たちを助けたり、助けられなかった一人の葬儀に参加したり、母親と再会したりするうちに、3人の絆と信頼感は深まる、という話なのだけれど、「いい年をした男たちが…」とつい思ってしまう。
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by mariastella | 2017-02-18 05:53 | 映画

『沈黙』をめぐって  その10

映画『沈黙』の話に戻る。フランス語での「批評」で印象に残ったものを少し。

「日本に何年も済んだことがある」と称するフランス人が、この映画を見てショックだったというコメントを残しているのを見た。

「日本という国は全くこの通りで、信じられないような暗黒面を自然の美しさが隠している」というのだ。(日本で何があったんだ、このフランス人…)

リベラシオンだかの映画評では、

「この映画ではの信仰は、それを否定する相手に対してどれだけ抵抗できるか、ということに集約されていて、棄教するくらいなら他の人たちが殺されるのを受け入れる方がましだという、今なら〈狂信的〉と形容される態度に近い。日本人が、おびえて司祭にすがりつく者たちとサディックな審問官のどちらかに単純化されているのは弁証法的な視点が全くないひどいものだ。スコルセッシは17世紀の日本と同じように古臭い」

という趣旨のものがあった。

あるカトリックメディアのレビューではバチカンで教皇も含むイエズス会士のために特別上映した時のエピソードが伝えられる。

上映後に、日本人の残虐さと暴力についての話題になった。

その時に、フィリピンのイエズス会士の一人が立ち上がってこう発言したという。

「ええ、確かにこの時代の日本人は残酷にふるまいました。でも、当時、別の種類の暴力がアジア人に対して犯されていたのです。それは西洋が『真理』をもってきて、アジアの文化はよくないと言ったことです」

日本人はもしキリスト教を食い止めなければ政府も領土も彼らの本質も失うだろうと考え、自衛のために国境を200年閉ざしたのだ、とレビューは締めくくられている。

こういう時に、「カトリック大国」のフィリピン人でもやはりアジア同士の視点を持つのかな。
ということは彼らも「西洋」主導のカトリックの上から目線や、植民地とセットになってきた歴史を消化しきれていないのかもしれない、などと思ってしまう。

そういえば、『沈黙』の時代とちょうど同じころ、確かクロムウェルのアイルランド侵略があって、カトリックが半端でない殺され方をした。
それは一応「キリスト教」文化圏同士の内戦でもあり、民族的にも文化的にも、ヨーロッパと日本のような差がない。要するに、「宗教」はどこでも口実に過ぎなくて、覇権争いであり、政治の問題だということだ。
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by mariastella | 2017-02-16 06:16 | 映画

『沈黙』をめぐって  その9

スコセッシのインタビューの続き。(カトリック雑誌より)

--- 『沈黙』の最期にロドリゴの棺の中に小さな木の十字架がある意味は?

これは原作にはない。私は何年も、エピローグを読んでいなかった。エピローグに東インド会社のオランダ人によって、ロドリゴが何度も棄教の宣言をさせられたとある。つまり、彼は何度もキリスト教に戻ったのだ。遠藤は彼が信仰を持ち続けていたと言いたかったのだろう。遠藤は別のところで、第二次大戦後にイエズス会を去った還俗司祭を1950年代初めにあるレストランで見かけたことを書いている。食事が出された時、その人が十字を切って食膳の祈りをするのを見たという。それもヒントになった。信仰は何かとてもパーソナルなものになったのだ。

(これは今のフランスでは決して珍しくない妻帯司祭の例にもある。彼らの多くは教会法上、司祭職を続けることはできないけれど、信仰はまったく変わらないと言っている。制度としての宗教のさまざまな制約に抵触することで帰属を放棄せざるを得ないことと、キリストの愛に生き、弱い立場の者に寄り添い続けることは別だ。それこそパウロが割礼の有無についての議論の中で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(ガラテヤ5)」と言っているように、キリスト教は「軛としての律法」から人々を自由にするために出発した。しかし、典礼や規則の体系を伴う宗教という社会的な表現なしには「信仰」は形にならない。
人間は社会的存在だから、生まれた瞬間から、時代や場所、所属社会の文化や伝統を背負っている。「宗教」は長い間そのような逃れられない属性の一つだった(サウジアラビアのような国に生まれれば今でもそうだ)。今の「先進諸国」では信仰の有無も、宗教の有無も強制されない。「棄教」の形も進化し続ける)

---信仰とは、共同体で分かち合うことがなく心の奥で生きる親密なものであり得ると思いますか?

全くそう思う。信仰は日常の行動を通して生きることができる。宣教師の役割は変わった。助け合いの次元はもう布教の中にない。「国境なき医師団」のような様々な団体は天使の働きをしている。信仰のあるなしにかかわらず義となるやり方で働いている。

(特定の共同体への帰属意識がなくて決められた典礼に従わないで生きることは難しくないが、宗教行為を通して表現しない信仰は、やはり他者との関係の中で生きられなければ意味がない。一人で自分の「無病息災」を祈っているようなものは信仰ではなく別の次元の原始的な「神頼み」に過ぎないのだろう。「宗教」としてのカトリック教会でさえ、今の教皇は教会の外へ出ていきなさい、野戦病院であれ、などと言っている)
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by mariastella | 2017-02-13 04:32 | 映画

『沈黙』をめぐって その7

『沈黙』のテーマについての考察を続ける前に寄り道。
笈田ヨシさんが、雑誌『日経回廊』で「映画『沈黙』に出演して僕が考えたこと。」という記事を書かれていたのを見せてくださった。
そこで初めて、笈田さんが、ジョアン・マリオ・グリロ監督『アジアの瞳』(1996)という日本とポルトガルの合作映画で、なんと中浦ジュリアンの役で出演なさっていたことを知った。

中浦ジュリアンというのは有名な4人の「天正の遣欧少年使節」の一人で、日本人で初めてポルトガル、スペイン、イタリアなどを訪れ、司祭に叙階された人たちだ。有馬の神学校に通っていた14、5歳の将来有望な少年たちが選ばれて、初の日本人司祭 を養成するために1582年に出発した。本能寺の変のあった年だ。

8 年後の1590年に帰ってきて、翌年会った豊臣秀吉にも好意的に迎えられた。その後天草やマカオで修練して1608年に司祭叙階される。博多で宣教していたが1613年にキリシタン弾圧が始まり、長崎に移り、翌年の江戸幕府によるキリシタン追放令が出た時に潜伏して20年も信者を支えた。1632年に逮捕され、翌年『沈黙』でフェレイラ神父が「転んだ」穴吊るしの刑にフェレイラや他のイエズス会司祭や修道士らとともに処せられた。

苦しさのあまり棄教したのはフェレイラ1人で、65歳の中浦ジュリアンは4日目に最初に息絶えた。ローマに旅立った日からちょうど半世紀が経っていた。毅然として「ローマに赴いた中浦ジュリアン神父」だと役人に言った。「ローマに行って教皇と会った」のは彼のアイデンティティの核にあったのだ。

けれどもローマに行った4人の少年のうち他の3人伊東マンショ、千々石ミゲル、原マチルノは殉教しなかった。ミゲルは神学の勉強を続けず棄教してイエズス会を去った。彼らはみなキリシタン領主の息子たちであり、政局の変化と共に棄教しても、生活の安定は保証されていた。リーダー格であったマンショは絶望して病死、学にすぐれたマルチノは1614年マカオに戻って出版や翻訳などの活動を続け1629年に死んでマカオの大聖堂に埋葬された。マルチノも大村領の名家の出だから、拷問されずに亡命という選択肢があったのだろう。高山右近が棄教せず追放されてマニラに渡ったのと同時代だ。

晩年のジュリアンは拷問のため失明していて、この映画でも目を隠している。彼に棄教を勧めるかつての仲間ミゲルの家で、座敷の隅に熱を出しているという赤ん坊(ミゲルの孫)をおいてミゲルが席を外した(ふりをした?)時に、そばにある盥からそっと水を汲んで洗礼を授けたシーンがあるそうだ。(親の正式な同意と依頼なしに洗礼を授けてもいいのか?とつっこんではいけない。別に割礼するわけじゃないからね。ここは以心伝心というわけだ。宗教の形は捨てても信仰は捨てていない、というのでなく、司祭を前にしてやはり形を求めずにはおれない、というのは『沈黙』の告解と通じる)

ネットで少し試聴できるが、やはり、笈田さんの存在感はすごい。



笈田さんの目力はすごいが、目を覆っていても同じオーラを発揮している。

それにしても穴吊りの刑に耐えて殉教した聖人である中浦ジュリアンを演じた笈田さんが、20年後に、杭に縛られて海水を浴びせられて死んだキリシタンの村の長老イチゾウを演じるなんて、なんというめぐりあわせだろう。

笈田さんには、迫害する側の役人をやれないのかなあ、とふと考えるけれど、彼が迫害者を演じたらそれはそれですごく迫力のある迫害者になるだろう。

笈田さんは今日本で、今月18日に東京芸術劇場シアターオペラでの『蝶々夫人』の演出をしている。

この紹介を見つけた。すごく刺激的な試みだ。観たかった。東京にいる方はぜひどうぞ。


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by mariastella | 2017-02-11 04:32 | 映画

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その5)

映画『沈黙』、フランス公開初日の最初の回に観に行った。

もうさんざん映画評やら、感想やら、スコセッシの言葉などを読んだり予告編をネットで観たりしていたので、なんだかもう見る前に食傷気味かなあと思っていたのだけれど、「百聞は一見に如かず」、アカデミー賞の撮影賞のノミネートというのはすごく妥当だと思うくらいカメラワーク、アングル、素敵だ。音とそして無音の部分も魅力的。

拷問だとか処刑シーンは見たくないのでいやだなあと思っていたけれど、意外に我慢できた。
リアルの知人笈田ヨシさん(村長のジイサマ)が磔られているのはショックだったけれど。
彼にも書いたのだけれど、普通なら彼のリアルさが作品への没頭を邪魔するかもしれないと思ったけれど逆で、彼がリアルの彼のままなので、作品世界全部が彼にくっついてきてリアルに見えた。

このジイサマとモキチの信仰がすごく説得力がある。
塚本晋也の相貌と表情には誰でもキャッチできる誠実さのシグナルがある。
この2人の組み合わせ、そして、若いイエズス会士二人の描き分け、演じ分けが秀逸なので、物語としてのメリハリがある。

フェレイラの描き方はとても日本的だと思った。
私は『無神論』の「一七世紀の無神論」という項で、フェレイラにも触れている。イエズス会のガラス神父の著作にも触れて、当時のカトリック神学者の状況について書いた。当時のヨーロッパでは「一般信者は何も理解しないでただ信じているだけ、それでOK」というスタンスだったのだが、一六世紀後半からの日本人の信者はほとんど「知的に理解」して賛同する人々だった。高山右近もその一人だ。
一方で、当時の仏教僧は信徒に何かを理解させ説得するという必要はまったくない主流秩序の構成要素だった。だから宣教師とまともにディベートをすればひとたまりもなかった。
不立文字の禅宗が盛んな頃だったが、日本人がすべて「以心伝心」でやっていたなどと思うのは幻想で、多くの人は、「真理の言語化」というものに出会って驚倒し魅惑された。

『沈黙』の時代の迫害は、もう完全に政治的なものだから、理性の次元も宗教の次元も超えている。

もう一つの次元に「愛」というものがあるのだが、これは驚くべきもので、これを「信仰」と呼ぶのなら、それは「愛の対象に出会った人」にしかわからない。

そういうこともこれから少しずつ書いていくつもりだし、今書いている本の流れとも関係している。

だから『沈黙』もそういう全体の文脈でしか私には見られないのだけれど、せっかくだから、スコセッシの話の続きもふくめて、まだ続けていくことにしよう。

今日のところは、私には意外だったある「フランス人の感想」を紹介。

1. キリシタンの一人が突然首を切り落とされるシーン。その男が1人だけ残されるのに、恐怖の様子が見られなかったのは不自然だと思った。(えっ、そんなこと言われても、もう一度見てみないと私には分からない。ほんとにそうだとしたら何か意味があるのだろうか?)

2. 通辞役が日本人には見えない。不自然すぎる。
(不自然、不自然って自然主義的なことばかり言ってどうする? でも私が通辞役の浅野忠信って北欧系アメリカ人のクォーターなんだよ、って言ったら、なるほど、と言われた。そんな微妙なことってあるのかなあ。井上筑後守役のイッセー尾形とのコントラストが絶妙だと思うけど。)

3. で、肝心の、踏み絵を踏んで棄教するということと信仰の問題はどう思う? と質問。そしたら、

「拷問や強迫によって強要された自白は無効だから」って。

うーん、ある意味すごく明快。

こういういろいろな迫害の歴史を経て、少しは暴力制御装置が働くようになった時代に生きててよかった。

(続く)
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by mariastella | 2017-02-09 03:22 | 映画

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その3)

映画『沈黙』の公開がいよいよ来週水曜に迫ったので<スコセッシ監督もフランスにプロモーションに来てあちこちでインタビューを受けていたのだが、なかには「へえー」っと思ったものもあった。
いろいろ考えさせられたので少しずつ紹介していこう。

それにしてもスコセッシの知名度は高いから話題にはなるけれど、フランスでの上映館はかなり少ないようだ。
観客動員を見こめそうにない映画という市場原理の方が監督の知名度に勝つということだろう。

今発売中のパリ・マッチ誌なんて、『ムーンライト』(これはわたしも観にいくつもり)を絶賛しているページの片すみに★2つの『沈黙』評がほんの少し。しかも、

「(宣教師が)天皇の審問官によって迫害」

なんていう事実誤認はまあいいとして、

「偉大なスコセッシは的外れで、私たちに、役柄に説得力を与えられなかったスターを使った長すぎる映画をおしつける。拷問の積み重ねもなんの感動ももたらさない。ラストはグロテスクだ。まあ、しょうがない、ZEN(冷静を保つこと)で行こう。」(評者Alain Spira)

という言われようだ。

アメリカでもなんだか「色モノ」という目で観られたり、イエスの言葉が聞えるシーンで観客から失笑が漏れたという話も聞いたけれど、フランスでの一般の反応はどうなるだろう。

スコセッシが、この映画をバチカンに持っていって教皇と会見し、イエズス会士らと共に試写を見てもらったこともよく知られているが、では、教皇と会ってどんな話をしたかというと、

質疑応答はただ一つ、

スコセッシが教皇に

「長崎に行ったことがありますか」と聞き、

教皇が

「ありません」と答えた。

教皇が日本に行ったことがないのはネットで調べたりイエズス会の誰かに聞いたりすればわかるでしょ。

(私なら、せっかくだから、「もし教皇がロドリゴの立場ならどうなさいますか?」と聞いちゃうかも。)

で、教皇からは、映画の成功を祈ってます、good luck、って言葉をいただいたそうで。

でも、スコセッシは大満足。

なぜなら、家族を引き連れてバチカン入りしたスコセッシの目的は多分、教皇からの「祝福」を受けること。
実際、家族全員を「祝福」してもらった。

カトリックの祝福というのは、神父が、物や人に大して神の恵みが働くよう願い求める行為だ。

教皇による祝福も、一司祭による祝福も、「神の救いの業」を想起するのだから「効き目」は変わらない。
でも、代々カトリックであるシチリア系のスコセッシにとっては、NYのリトル・イタリーのゲットーで育った自分が、なんと、バチカンで、ローマ教皇からの祝福を家族と共に受けられるなんて…。と、これがメインになっていたとしても全然不思議ではない。

特に『最後の誘惑』ではスキャンダルになったし、『クンドゥン』ではダライ・ラマに共感する映画を作ってるし、さあ、この辺で、名誉挽回、だと思ったのかどうか…。

(続く)
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by mariastella | 2017-02-05 00:33 | 映画

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その2)

(これは前の記事の続きです)

スコセッシはシチリアのイタリア系で司祭になりたくて神学校に通ったこともあるというほどのカトリック信者だ。

14歳で神学校に入ったが、若すぎる、規則を守らない、ということで1年後に退学させられた過去がある。

1988年の『最後の誘惑』を見たニューヨークの聖公会の大司教ポール・ムーアから原作を与えられて、「この話は真実の信仰についてのものだ、魅力的なテーマだから読んで考えてください」と言われたそうだ。
その後スコセッシは黒澤明の『夢』にゴッホ役で出演するために日本に行き、この本を持参したという。

『最後の誘惑』のスキャンダルはまだ記憶に新しかったから、スコセッシがロドリゴ役に声をかけた役者質の中には、スコセッシとならどんな映画でもやりたいがこれだけはだめだ、宗教ものは自分のスタイルではない、と断られたこともあったと言う。

『最後の誘惑』は、上映中止になった国もあったと覚えているけれど、フランスでは普通に上映されていた。私も観に行った。問題視されたイエスとマグダラのマリアのラブシーンみたいなのは「人間イエスの頭の中の誘惑」という試練の映像化という設定なのだから、別に何でもありだと思った。

その時に、実は多くの人にショックだったのは、ラブシーンではなくて、むしろそれまでの欧米系のイエスの伝記映画の十字架上の受難シーンで初めてイエスが全裸で磔になっていたからではないかと思ったことを覚えている。

といっても、中世の受難の絵には、全裸のイエスのものが普通にあった。
それをフランスで最初に観た時は私も驚いたけれど。
それまで知っていたのは、腰に布を巻いたものばかりだったからだ。

アダムとイヴは禁断の実を食べてから裸でいることを恥じるようになった。イエスは、原罪のない無垢の存在を十字架に捧げたのだから、全裸で問題はない。それに、多分史実的には、イエスでなくともこの種の十字架刑は全裸で執行されたと考えた方が自然だ。で、画像だけでなく全裸のイエスの十字架像は今も残っている。

それが宗教改革後のトリエンテの公会議で禁止された。

イエスは原罪がなくても、見ている信者たちは罪深いのだから誤解を招く、教育によくない、というわけで、教会にある全裸の十字架像は廃棄、もしも芸術的に価値ある作品ならば腰布を巻くようにと通達された。検閲みたいに黒い色を塗られただけのものもある。

絵で有名なのはシスティナ礼拝堂のミケランジェロの『最後の審判』の中央のキリストで、後に腰布が描き足された。

でも、十字架のキリストが全裸であるのが自然だという議論は何度も蒸し返された。

聖フランソワ・ド・サル(サレジオ)は、1614年3月28日の説教で、「われらの主はなぜ十字架上で裸でいることを望んだのか」と語っている。

プロテスタントの多くは、キリストの姿そのものを十字架から消して、シンボルだけを残した。
裸問題は解決する。

そんなわけだから、スコセッシが『最後の誘惑』で十字架のイエスを全裸にしたのは、いわゆる教義や神学には直接関係のない部分であり、伝統的な表現の一つでもあったのだから、そのシーンを見ても、そのことだけを批判することは誰にもできない。
でも、それについて何も言えない、というフラストレーションが、イエスの想像上のラブシーンへの怒りに向けられた。けれども、スキャンダルの火元は、実はラブシーンではなく、全裸の方だったのだ、というコメントを当時書いた。

それから時が経ち、メル・ギブソンの『パッション』だの、ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』だの、いろんな「過激」な説や表現が世間に広がった。

『最後の誘惑』を見た聖公会の大司教が、スコセッシに『沈黙』を渡して、「真実の信仰についてのもの」だと言い、スコセッシが30年近くかけて完成した今回の映画は是非見てみたい。
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by mariastella | 2017-01-25 00:27 | 映画

マイク・ジャッジ『26世紀青年』とトランプ大統領

16日の夜、arteでとんでもない映画を見た。

21日のトランプ大統領就任がなければ絶対に企画されなかった放映だと思うし、私も見なかったと思う。時間が22h50から始まる深夜番組というのもかなり頷けるほど危うい映画だ。

『Idiocracy』邦題は『26世紀青年』。

2006年のアメリカでの上映はわずか130館ですぐに引っ込められたという。
フランスでも翌年Planet Stupid (バカの惑星?)というタイトルで公開されたが話題にならずに終わった(一部のマニアには支持され続けてカルトムービー化している)。

日本では劇場未公開でDVDのみだが、邦題を見ただけでも、多分アメリカやフランスでの一般の受け取られ方とニュアンスがだいぶ違って最初からマニアックな感じだ。

話はアメリカ陸軍の実験で一年の予定で冷却をされた兵士ジョーと娼婦リタが、エラーで放置され、500年後の2505年に目覚めるというもの。

冒頭で、アメリカではIQの高い夫婦は子供をつくらず、IQの平均より低い夫婦はどんどん子孫が増えていくという構図が紹介される。
IQの低い夫婦は粗野で下品で衝動的で、欲望のまま生きるという構図。

で、500年後には、アメリカはイディオクラシーつまり、デモクラシーではなく愚者支配の国になっている。

テレビの周りはCM専用スクリーンが取り囲んでいる。警察も裁判所も病院もあるがみな、言葉もろくに解せない人仕様にアイコンばかりでできている。腕には身元確認のタトゥが入れられている。大統領は元ポルノ映画のアクターの黒人で、閣議などもパロディのようだ。
環境保全の意識がないのでゴミの山が堆積し、都市に崩れ落ち、トイレの水洗以外に水はなく、あとはすべて緑色の健康ドリンクの独占となり、農業用にもそれを使うので、作物は育たず荒地が広がっている。
IQテストで「世界一IQの高い男」と認定されたジョーは大臣になるが、水を農地の灌漑に使って健康飲料の独占企業を敵に回したので捕らえられる。ローマの闘技場のように、スタジアムに引っ張り出されてショーのように殺されかけるのだが…云々。

「諷刺コメディ」なのだけれど、これでは上映する方も見る方も思わず「自主規制」したくなるような突っ込みどころが満載だ。

まず、愚者idiotをIQで図ること。

主人公の2人(21世紀では平均的IQ)以外のすべての人が、IQの低さを表現するように、視点の定まらない「知的障碍者」のような演技をしている。そしてその属性として、粗野で下品で本能のままに、というのがついてくるのだ。

これはひどい。
知的障碍者の家族や支援者が見たら驚倒するだろう。

しかも、オバマ大統領誕生の数年前の制作とはいえ、愚者クラシーの大統領が黒人という設定。

まあ、完全なジョークのB級映画扱いだったともいえる。
アメリカ以外の世界はいったいどうなっているのだろうというような視線はないし、リアルに考えたら破綻しまくる設定だから、まともに批判してみる方がおかしいというところだろう。

ところが今は、トランプ登場で、あれは「予言的作品だった」ということになっている。

すでに昨年3月の「スーパーチューズディ」でトランプが共和党予備選を制した時に、この映画のシナリオをマイク・ジャッジと書いたEtan Cohentが、この映画がドキュメンタリーになるだろうとは思っていなかった、と発言している。

しかし、言うまでもなく、トランプが「自分は教育のない民衆に支持された」などと言ったけれど、教育があるかないかはIQよりもはるかに社会的要因に左右されるだろう。

そして、トランプだろうがヒトラーだろうが、ムッソリーニだろうが、決してIQが低いとは思えない。
一代で独裁者になるような人はむしろ非常に頭の良い人であるはずだ。
頭がいい人の悪意の方がはるかに危険だ。

ポピュリズムの流れを作るのは、IQの低さなどではなく、エゴや支配欲や恐怖や社会不安が利用されているだけだ。他者排除と思考停止の誘惑はすべての人にある。

いろいろな気まずさを別にすれば映画としては、決して悪いできではない。

主演のジョーを演じるルーク・ウィルソンがほんとに「普通の平凡で善良なアメリカ人」という感じで、ヒスパニック系のリタも「普通の人の知恵や良識」を持っている感じが説得力がある。

つまり、エリートでなくともIQが高くなくとも、「平均的なアメリカ人」は根が善良で、困難にも立ち向かえ、どんな状況でも新たな道を開く勇気を持っている、というアメリカンな希望のメッセージはちゃんとある。

一見全く似ていないけれど、『ズートピア』みたいな発想はある。
動物の世界にしてしまえば違和感はなかったかもしれない。

だから、トランプ大統領の登場とこの映画を短絡に結びつけて、トランプやトランプの支持層を「教育のない愚者」と決めつけるのが生産的なこととはどうにも思えない。

好みでもない映画にもかかわらずこれだけいろいろ考えさせてくれたのだから、一見の価値はあったと思う。
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by mariastella | 2017-01-18 00:10 | 映画

「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド

少し前に観た映画。

その前に見た『インフェルノ』に続いてトム・ハンクスが主演だった。

ここの映画でも、ヒーローなのに、悪夢から覚める最初のシーンから、トラウマを背負って情けない感じで、インフェルノの冒頭が幻覚から覚めるのとかぶって、なんだか、トム・ハンクスって哀れをそそるなあと思ってしまった。

しかし、短いスパンの出来事をうまくフラッシュバックさせてよくできている。
乗客の扱いはミニマムで、母子と親切な隣席の人、ぎりぎりで乗り込めた父子など、少ないのに効果的に配されている。
結末を知っているのにどきどきする。

でも水温が2度で、体感温度は零下20度のNYなんて、私ならあの状況で、低体温で死ぬんじゃないかと思う。まあみなストレスでアドレナリン全開だからもったのかもしれないが。

鳥に突っ込まれてエンジン停止、左旋回して見えたハドソン川への不時着水を試みる機長。

「ラガーディアに行くにはマンハッタンを横断しなければいけない。そこは人口密集エリアだ。もし地上に被害を及ぼすことになったら…」。と、リスクを見積もったと報告書にあるそうだ。

いやでも、沖縄のオスプレイの「不時着水」を思い出す。
あちらは翼も折れて明らかに墜落だと言われているけれど、ニコルソン調整官という人が、住民に被害がなかったのだから感謝しろと言ったとか言わないとか批判されていた。

実際の会見では「私たちは副知事と話し、遺憾だと伝えた。この事故は遺憾なものである。しかし、私たちは沖縄の人々を危険から救おうとした若いパイロットの偉大なる行動については、全く遺憾だとは思わない。」と、言ったそうだ。

オスプレイのパイロットは負傷して入院した。
ハドソン川の「サリー」は無傷だった。

「ハドソン川の奇跡」の事件は、アメリカではものすごいインパクトのあるものだった。
日本でも、「アメリカ通」の人事関係者は、それ以来、「望むべき人材のプロフィール」として「ハドソン川」を引き合いにするそうだ。

確かに、9・11で飛行機に突っ込まれるテロを経験したニューヨーカーのトラウマは半端なものではなかったろう、と今更ながらに思う。

その上に2008年の金融危機の直後の2009年1月だったから、事故で「犠牲者ゼロ」という結果は人々の心をどんなに癒したことだろう。

でも、如何せん、ニューヨーカー、アメリカ人という「当事者」でない場合、メディアは、「心温まる話」や「勇気を与えてくれる話」などよりも、これでもかこれでもかと世界の悲惨を語ったり、来るべき不安を煽ったりすることの方がはるかに多い。
「世界の終り」の方が「売れる」のだろうし、人々が無意識に「怖いもの」に惹きつけられるのかもしれない。悪い予想が外れても誰も文句を言わないけれど、いい予想が外れると責任をとれと言われるかもしれない。

だからフランスにいると、「ハドソン川の奇跡」は普通の「ちょっとしたいいニュース」くらいですぐ忘れられるものだったけれど、アメリカにとっては救世主のような事件だったのだろう。
だから沖縄のオスプレイを「不時着水」とした強弁の裏にも本物の思い入れがあり、「沖縄の市民を救ったヒーロー」という発想は、「植民地に対する傲慢な態度」というより実感だったのかもしれない。

事故の場合のチェックリストは3ページもあって、アナログで、実用的ではない。
飛行歴42年の機長は豊富な経験をもとに、ほとんど直感で行動した。

ほんとうにこの機長はアメリカン・ヒーローの要素をそなえている。

「勇気と忠誠心と善良さ」。

こういうシーンだとフランスの「自由・平等・博愛」のスローガンなど唱えても何の役にも立たないだろう。

実際のサリー機長の写真を見ると、トム・ハンクスよりずっとかっこいい人だった。

自分も航空安全委員会の公聴会の調査側に立った経験があったので、エンジンが止まった時、

「これから自分の言う言葉も行動もすべてが今後10年先まで厳しくチェックされるだろう」

と瞬時に意識したそうだ。

けれどもそれが判断を惑わせることにはならなかったという。
人間の脳って、いざとなればコンピューターよりも早く複数のことを同時に高速で考える。

今読んでいる『あなたの人生の科学』ディヴィッド・ブルックス(ハヤカワ文庫NF)に、人間の脳は同時に1100
万個もの情報を扱えるが、意識しているのはせいぜい40個くらいだという説が紹介されていた。全ての情報処理は無意識によって行われていると。
(この頃自分でもそれを実感するようになった。いろいろなものをインプットして寝かせておくと、ざわざわと何か動いて、すっきり言語化されて出てくることがある)

それにしても、2009年初めのNY、テロと金融危機でニューヨーカーが「恐れと不信」の中にいた時期だからこそ、サリーはヒーローになった。
「奇跡」だけでは必ずしもヒーローは生まれない。
乗客を救うというより、自分の生存本能をプロとしての判断力に投入した。
生きるために全員を救った。

フランス国内でドイツ系の航空機の副機長が心中のようにわざと墜落させた事件とつい比べてしまう。
フランスではこちらの方が当然記憶に残って、定期的に飛行機を使う身としてはトラウマになりそうな事件だった。

それと比べたらえらい違いで、プロフェッショナルが危機を前にして平常心を失わず最適の判断を下す、ということのありがたさと難しさをあらためて感じる。
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by mariastella | 2016-12-28 01:30 | 映画

ジェームズ・グレイ『エヴァの告白』The immigrant

年末、忙しくて、もう映画など見ている暇がないのに、12/14の夜、Arteで『エヴァの告白』を見てしまった。

パリ市長がアレップの攻撃に抗議してエッフェル党の灯を消した夜だ。

実際、毎日毎日、アレップの爆撃シーン、脱出を試みる住民らの絶望的な様子をなすすべもなく見せられて、前にアップしたシャルリー・エブド別冊でフランスにいる難民の困窮ぶりを知るにつけ、町のクリスマス気分よりも、『移民』というタイトルのこの映画にひきつけられたのだ。

フランス人のマリオン・コティヤールが主演でカンヌでも評価されたので、2013年に公開された時にフランスでも話題だったけれど、その時は、1921年のアメリカの移民の話にあまり食指が動かなかったので見ていなかった。

ポーランドの戦争で両親を失ってアメリカにいるおば夫婦を頼りに行くポーランドの姉妹。
NYは日本から考えると遠いけれど、ヨーロッパからの移民の入り口だ。
彼らを一時隔離して移民を認めるかどうかを審査するエリス島を経由してアメリカ市民となった人は膨大な人数に上る。そこから強制送還される人にとっては悪夢の場所だ。

後でヒロインのエヴァに恋するようになるマジシャン、イリュージョニストのオーランドは、彼らのための慰問舞台で、信じられないような空中浮揚を見せますよ、と言い、皆さんもこの国に来るのに未来を信じたでしょう、私も、信じます、と言って手を合わせてから「浮揚」する。

「信じる」ことが映画自体の通奏低音になっている科のようにシンボリックだ。

でも、結局、だれでもみんな移民局で、審査され、裁かれて、たどり着いた場所で生きる許可をもらえるかどうか、なんていうスタートアップって、多かれ少なかれトラウマになるような気がする。

メイフラワー号で着いたような最初の植民者たちは、先住民の「審査」も「許可」もなく好きなように「開拓」したから別だったろうけれど。

しかも初期の移民はピューリタン的な「神の国」建設の熱意があったかもしれないけれど、後からやってきたカトリック国のイタリアやポーランドからの移民には風当たりが強かった。

エヴァもそのポーランド移民で、ポーランドにいた頃は、カトリックがデフォルトで意識していなかったろうし、過酷な戦争や家族の死などを前に、「神を頼る」なんていうことは頭から吹っ飛んで、ただただ、何とかして生き延びるという本能にだけ導かれていたに違いない。

けれども結核の疑いのある妹が移民局で隔離された。
最後の肉親である妹とは自己意識がフュージョンしているので、エヴァの「生き延びる」本能は「妹と生き延びる」に上書きされてしまった。

そんな中で、女衒でもある興行師のブルーノに頼って、妹を助け出すために必要なコネと金を求めることになる。

しかし、どんな形であれ一応衣食住が保証されると、1920年のポーランドのカトリックだったら骨にしみこんでいるような「売春の罪」を犯しているわけだから、エヴァは恐ろしくなった。
また、窮地に陥る度に、口をついて出てくるのは、やはり生まれた時から身についている聖母マリアの加護を願う祈りだから、自分が「罪」びとであることと、聖母や神の慈悲を願うことの齟齬が意識される。
それを解消するためにポーランド人ご用達のカトリック教会に出かける。

必死に祈るが、告解する必要を感じる。告解して免償してもらえば安心して聖母に頼ることができるからだ。

ポーランド語で告解し始めると、司祭から

「英語で。私はポーランド系だけどアメリカ人だから」

と言われる。
ポーランド系二世なのだろう。そこですでにエヴァの中で、「故郷の聖母」が遠ざかっていく。(典礼は当時どこでもラテン語なので違和感がなかったのだ。)

エヴァは、移民船の中でも性暴力の犠牲になり、その後、道を外した男と出会って、金が必要なので、盗みもすれば、体も売っていると告解する。
自分は地獄に堕ちるような罪びとだと口にすると、あらためて、カトリック教育の成果が意識に上り、怖く悲しく恐ろしくなる。

「生き延びるために何でもするのは、罪ですか?」

と絶望するエヴァに、

司祭は、

「天国はすべての人に開かれています」

と即座に答える。

思いがけない、一瞬の、希望。

しかし、それにはもちろん、悔い改めが必要で、司祭は言う。

「その男から離れなさい」

エヴァはすぐに、

「では、私は、地獄に堕ちます」

と言ってその場を離れる。

彼女のぎりぎりの生き方は、選択の余地のないものだからだ。

地獄堕ちよりも、何とか妹を救い出して二人で逃げることに優先するものなどない。

告解室の外から、ブルーノがこれを聞いていた。

彼は実はエヴァを愛しているのだ。

酒、ギャンブル、女に溺れるタイプのオーランド(実はブルーノの従兄弟)が一見童顔で情がありそうな外観なのに対して、ブルーノは、いかにも酷薄そうで怖い顔。

ラスト近くでは警察にぼこぼこにされて鼻も顎もつぶれてさらに凄惨な顔になる。

このシーンも、今もアメリカでは警察の暴力スキャンダルが絶えないので、リアルで嫌になる。

ブルーノは屈折した男で、アメリカの底辺でのサバイバル能力は優れている。
実はエヴァに最初から目をつけていて、彼女が移民登録できないように手を回していた悪いやつであり、絶対にエヴァに愛されないことは自分で分かっているので、エヴァを残酷に扱ったりするのが自虐になるような救われない男だ。

ブルーノは、結局、ボロボロになりながら、エヴァを連れて小舟でエリス島に行き、エヴァの妹を逃がす交渉をして、カリフォルニア行の切符を渡して二人を出発させる。

つまり、エヴァは、自分を罪の状態に落とすブルーノから離れるよりもまよわず地獄行きを選んだが、それを盗み聞いていたブルーノは、耐えられず、自分から彼女を解放した。
彼女が地獄に堕ちると苦しんでいたのを救ったともいえるが、このことでブルーノは自分が救われたのだ。

実際、エヴァに自分の罪(彼女が自分の手に堕ちるように工作したこと)を「告白」した時に、エヴァに赦される。
免償されるのだ。

彼にとって天国の門よりも大切なのはエヴァからの赦しだった。
そのことでエヴァも、赦しを求めて苦しむ立場から、自分を支配していた男を赦してやるという立場に立てた。

つまり、「自分の敵と和解し、赦す」という、キリスト教的にいうと「罪」と対極の「愛」を実践できたのだ。
ブルーノを赦すことでエヴァは天国に行ける。

女性が庇護者(この場合は病気の妹)を内包する生存本能に駆られた時は、宗教の脅しなど怖くない。

けれども恋をしてしまった男は、弱くなる。
愛する女のためなら自分がぼろぼろになっても、たとえ命を奪われてもいいという一線を越えてしまう。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 (ヨハネ15-13)」というキリスト教最大の愛に向かっていく。ブルーノのそれは屈折していて、そのカリカチュアのようだ。

「エヴァの告白」というのは「ブルーノの告白」とセットになっていて、

「強い女と、女の罪を赦さない司祭」、
「弱い男と、男の罪を赦す女」

というを逆説的な世界を描いているのだ。 

原題は「移民」でフランス語タイトルもそのままだから、もっと政治的メッセージを伝える映画かと思ったら、男と女の支配被支配の関係が男の一方的な崩壊で覆る話だった。

マリオン・コティヤールは確かに、男たちをすぐに魅了するくらいにオーラのある美しさを発している。
でも、船の中で彼女を襲った男たちのように、ただ欲望にかられた男なら暴力で支配するだけだ。
それに対して、「恋心」を抱いてしまった男たちは、弱く、情けなくなる。

恋に慣れていないブルーノのような男は、だんだんと「悪の平常心」を失っていくのだ。

ホアキン・フェニックスにぴったりの役だ。
全然共感できないし、最後は見るのも気の毒な姿になるが、なぜだか、彼を見ていると、エヴァが彼を赦した気持ちが分かるのは不思議だ。

それでも、「移民」というタイトルが表すものは、「移民というルーツ」、「移民の子孫」のかかえる記憶やアイデンティティの独特の思い入れをよく表している。

日本に暮らすマジョリティの日本人やフランスに暮らすマジョリティのフランス人が千年以上もずっと「そこにいた」みたいな感覚からは、想像しにくい。
移民や難民に対する視線も思いも、アメリカとは全く違っているのだろうな、と改めて思う。

で、アレップ。 
アレップは、15日にアサド軍の手に渡った。
避難する住民や反政府軍を乗せたバスをロシア軍が警護している。

朝のラジオで、フランスのロシア大使館のアドバイザーが、

「ロシアがアサド政権に対して持っている力を過小評価しないでもらいたい」、

などと言っていた。

「ロシアはちゃんと対話している。

アメリカとはイラン問題について話し合い、

イランとはシリア問題について話し合い、

中国とはあらゆる問題について話し合っている。」

とも言った。

この発言は、プーチンが日本に向かっていたのとちょうど同時刻のものだった。

日本と話し合っている、とは、言っていなかった。
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by mariastella | 2016-12-16 07:39 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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