L'art de croire             竹下節子ブログ

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『Tout nous sépare (すべてが私たちを分かつ)』カトリーヌ・ドヌーヴとラッパー

最近見たフランス映画2本を紹介。

まず、ラップ界の大スターでアイドルであるという27歳のネクフーと、大御所カトリーヌ・ドヌーヴが、すべての差を乗り越えて心を通わせる話だという『Tout nous sépare (すべてが私たちを分かつ)』というスリラー。



ドヌーヴは未亡人で夫の後を継ぎぐ港湾の工場の経営者、その娘のダイアン・クルーガー(41歳)は、事故のせいでケロイドや障害が残り母の家に住みながらドラッグ中毒になり売人ルドルフと付き合っているが彼に暴力を振るわれた時にパニックで彼を殴って殺してしまう。

ルドルフはベン(ネクフー)ともう一人の三人組で麻薬のディーラーやら、夜中に犬を盗み出して闘犬の試合に出すなどの軽犯罪を繰り返しているが、元締めにあたるギャングから大金を払うよう脅されていた。

この3人組の描き方が、短いのにその関係性がよく分かってうまい。

よくできている。

ベンは犬が戦いに負けて噛まれて死んだことに涙するセンシブルな男だ。


ベンを演じるのが27歳のネクフー。ギリシァ人の父とスコットランド人の母の間にフランスで生まれたという国際派だ。ダイアン・クルーガーもドイツ出身の国際派。

で、クルーガー演ずる娘が愛人を殺してしまったことを聞いて俄然母性本能に突き動かされて隠蔽を試みるドヌーヴ。

真相を知って恐喝にやってくるベン。

ドヌーヴがベンに金を少しずつ渡す間に奇妙な心の通い合いが生まれる。


ギャングに襲われるベンを匿って猟銃を構えるドヌーヴ。

すでにベンも、彼女のアドレナリンで肥大した母性本能に守られる存在となっている。

ベンは、それに、どうやって答えるのだろうか…。


という話で、一応スリラー映画とあるが、世代を超えた人間模様という映画かと思って観に行ったら、先日の『アウトレイジ』でも見ないですんだような暴力シーンが満載で、まいった。闘犬のシーンも目を覆ってしまう。


それにしてもドヌーヴ、若い時もポランスキーの『反撥』なんていうのに出た時点からただものではないという感じだったけれど、それでも70代になっても次々と難しい役に挑戦するのには脱帽する。

実はこの人とは昔プライヴェートでやや不快なことがあって、個人的にはあまり好きではなかったのだけれど、そして、今となっては昔の氷の美貌の面影がなく体型もぶ厚く重くなった姿に、なんとなく哀れもそそられていたのだけれど、この映画の彼女、なんだかめちゃくちゃで現実感がないけれどすごくかっこいい。


彼女より若い登場人物たちが軒並みに、卑怯、悪徳、堕落、強がり、鬱、自暴自棄、などの弱さの中であがいているのに、彼女だけが、強い。

恐ろしさのあまりに吐いたりしているのだけれど、もちろん暴力も振るわないのだけれど、とにかく、強くて、カタルシスを覚える。

これを母性本能で説明してしまうのは安易なシナリオだと思うが、ドヌーヴがそれを演じるからこそ爽快感が出ている。

テーマとしては、「それがどうした」みたいでインパクトのない映画だったのだけれど、今更ドヌーヴのファンになってしまいそうな不思議な一作だった。


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by mariastella | 2017-11-19 00:05 | 映画

機内で見た映画 その4  『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』ニコラ・ブナム

『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』ニコラ・ブナム

JAL便なのでフランス映画は一本しかなかった。


好みではなかったけれどジョゼ・ガルシアやアンドレ・デュソリエという芸達者が出ていることだしと思って観た。


原題が「A fond」と言って、アクセルをいっぱいに踏んでとまらない、というのを表したタイトルだけど、それをボン・ボヤージュ、って変な表記のフランス語(英語読みなのかもしれない)。

これはどう考えてもボン・ヴォワイヤージュだと思うけれど、例の「既視感」のデジャ・ヴュを日本語表記デジャブとするのも定着しているようだし耳にもするのでこんなもんだろうか。もっとも、たとえ「デジャブ」の代わりに「デジャ・ヴュ」と言っても、ジャの発音も、ヴュの発音もフランス語と違うので通じるかどうかわからないけど。

で、整形美容医療で金持ちになった夫と、三人目の子を妊娠中で精神科の勤務医の妻が、2人の子供と夫の父親との5人で、スピード制御機能などの充実した新車でバカンスに出かける。途中のサービスエリアで、夫の父親がヌーディストクラブに向かう若い娘をそっと便乗させてやり、次に車のブレーキが利かなくなって時速160キロで拘束道路を暴走、どうサバイバルを果たすか、というドタバタコメディだ。

ばかばかしいのだけれど、シチュエーションがあまりにも極限的なので、あり得ないとはわかっていても、フランスの高速道路という身近な場所が舞台なのでつい恐ろしい事故の可能性が頭にちらついて、結局目が離せなくなってしまった。


そういうぎりぎりの状況で、険悪だった家族が互いの愛を確認するというシーンも、ハリウッド映画ならそれなりの感動があるように作られるのかもしれないが、この映画では全体があまりにも不条理でナンセンスなのでジョークのようにひびく。夫婦のどちらもが浮気をしていて、独身の父親もあいかわらずガールフレンドを求めては分かれを繰り返すなどの状況がフランス的と言えば言える。


交通警察のカップルを含めたアクロバティックな特殊撮影?がよくできているので、中途半端にリアルなせいで全部を笑い飛ばせずにハラハラさせられてしまうという匙加減が、うまいといえばうまい。


映画はちょっと休んで、来週からはまた芝居を観に出かけることにしよう。


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by mariastella | 2017-11-10 00:10 | 映画

機内で見た映画 その3 『僕のワンダフルライフ』『ヘッドハンター・コーリング』

アメリカ映画2本

『僕のワンダフルライフ』(ラッセ・ハルストレム)

は、犬と飼い主の絆ストーリー。

1950年代からのアメリカの情景が変化してくるのを見るのも楽しく、飼い主との間の愛情やかけがえのない感じもぐっとくる。過去に飼っていた犬との思い出も重なる。

少年イーサンが青年になり、父親が失業してアル中になり、青年は恋もして、アメリカンフットボールの選手として大学入学が内定し、恋人と同じ都会に出ていくことが決まっている矢先に、家が放火されて窓から飛び降りて足をやられ夢は潰える。母の実家の農場を継ぐために農業を学びに旅立ち、老いた愛犬ベイリーはイーサンの祖父母の家で死を迎える。

その後でシェパードとして生まれ変わって飼い主となる警官の孤独を癒し、警察犬として活躍して殉死、次にコーギー犬として黒人の女子学生のペットとなり幸せな生活をまっとうする。さらににミックス犬として虐待されるが逃げだして年老いたイーサンと再会。自分がベイリーの生まれ変わりだと気づいてもらおうと努力して…


泣かせるエピソードが満載で、でも、犬に託して、


生きることとは愛すること、

愛する人のために尽くすこと、


など、わかりやすいモラルのメッセージ性がかえってむなしい気もする。

こういう公正でまっとうなモラルをハリウッド映画などが繰り返し称揚しているのに、どうしてアメリカの人種差別はなくならず、銃社会が続くのだろう、などとつい思いいたってしまうからだ。

市井のアメリカ人と犬との交流を見ると心を通わせることができるのに、どうして、力の誇示しかしないようなトランプ大統領のような男がトップに立っているのだろう。

『ヘッドハンター・コーリング』(マーク・ウィリアムス)

も、わかりやすい家族愛もの。


ジェラルド・バトラーという主演俳優がいい味を出している。

建築家になるのを夢見る10歳の長男が白血病になり、仕事人間の父親が出世競争から脱落してまでも子供と妻に寄り添う。

シーク教徒の医師の姿もすごくアメリカ風だ。

弱いものを救うために最大の力を尽くすのがシーク教の教えだ、というのも、とてもいい。

けれども、58歳の男の再就職の難しさや、嘘をつくなど汚い手を使ってでも自分の業績を稼ぐという実態や、金がすべての社会を見ていると怖くなる。


もちろん映画ではそこから主人公が人間性に目覚めることで目先の成功は失うがもっと大切なものを救いそれが結果的には次につながる、というハッピーエンドになる。

とはいっても、その陰には、消費され、消耗してバーンアウトしていく人たちや崩壊する家庭が累々としているのだと思うと気が重い。


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by mariastella | 2017-11-09 05:02 | 映画

機内で見た映画 その2 『君の膵臓を食べたい』『アウトレイジ 最終章』

日本映画を2本。

『君の膵臓を食べたい』はベストセラー小説の映画化だそうだ。

タイトルが衝撃的で、膵臓の病で死を宣告されている少女とその秘密を偶然知ったことで無理やり「なかよし君」認定されてしまう少年のストーリーで、その少年の12年後に母校の国語教師となった姿も違和感がなくていい。

二人の高校生の演技がいい。

自分の世界に閉じこもっている少年と、クラスの人気者の明るい少女。

この少女の方が実は死を間近にしてある意味で「老成」しているのだけれど、無邪気にふるまって少年を翻弄する。

高校時代である2005年の時点で学校内で自由に携帯電話が使えているんだなあ、という驚きがあった。

この少女の、一見無邪気風の深刻さと残酷さ、それを見抜けないまま意のままにあやつられる少年の孤独と困惑とのコントラストが最も印象的だった。

このタイプの男を、自覚しないままに思うがままに操るタイプの女は確実にいる。

かってに「なかよし君」認定してしまう力関係、それは、青春時代の男女だけではなく、何歳になっても、ある種の制約の中にある男女の仲に倒錯的に存在する。


映画の感想よりも、そっちの感慨の方がだんだんと大きくなってしまった。

『アウトレイジ 最終章』

悪夢のもとになるバイオレンス映画はこれからの余生でできるだけ避けようという方針からこの映画もスルーしようと思っていたけれど、機内の小画面なのでなんとなく見始めた。

バイオレンスよりもホラー映画の方が避けるべきで、バイオレンスはそのシチュエーションによるということが分かった。

この「やくざ映画」には、指詰めや拷問などの残酷なバイオレンスはなく、拳銃乱射などの抽象的なもので、東映やくざ映画のように、打たれてもなかなか死ねないという生々しさがない。

それに、まさに、ジャッキー・チェンの香港映画と同じく1970 年代によく観た「仁義なき戦い」シリーズだの「県警と組織暴力」などの懐かしい東映映画との同窓会のような気もする。つまり、バイオレンスと言っても、やくざという特殊社会の様式内の表現なので、あまり怖くないのだ。日本人は兵隊とやくざを演じればだれでも名優になる、というのを昔読んだことがあるけれど、上意下達、親兄弟の義理などの日本社会を縛る原風景的拘束感と、大声、凄み、脅し、恫喝、罵詈雑言などが醸し出すカタルシス感がセットになっているので、だれでも隠れた本音みたいなのを感じるのかもしれない。

花菱会若頭でクーデターを起こしてしまう西田敏行の悪人面がすごい。

これが『釣りバカ日誌』の浜ちゃんを演じられる俳優とは。

浜ちゃんがやくざになれるならフーテンの寅さんのやくざ姿だって想像してしまう。

ビートたけしの演じる大友の舎弟である若者が、他のチンピラとは違う人懐こさ、兄貴分への愛着によって一種のさわやかさを発している。その役を演じる大森南朋は麿赤兒の息子だそうで、それも懐かしい。


アウトレイジのシリーズを見るのは初めてだけれど、北野武の暴力団映画はフランスで『ソナチネ』を観ている。それでもなお印象が過去の東映映画の枠組みへ収められてしまうというのは、「やくざ映画」の枠組みというのが独特の「文化圏」内にあるからなのだろう。

ストーリーは変化があって分かり易く、役柄はみなキャラが立っていて、その上韓国の済州島のシーンも興味深かった。

こういう国際的なフィクサーってホントにいるんだろうなあ。


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by mariastella | 2017-11-08 00:33 | 映画

機内で見た映画 その1 『クンフー・ヨガ』

今回の日本への往復の機内で見た映画。

中国・インド映画1

邦画 2

アメリカ映画 3

フランス映画 1 (これ1本しかなかった。)

日本に行く時は夜間飛行だった。映画をたくさん観て徹夜してしまうこともあるが、今回は演奏旅行なので体力温存が優先、ちゃんと寝ることにして、往きは一本だけしか見なかった。


なぜか中国インドの共同制作の、その名も『カンフー・ヨガ』。


60歳を超えてなおアクションをこなすというジャッキー・チェンへのなつかしさに突き動かされた。

彼の主演のハリウッド映画も少しは見たが、なんといっても、1970年代の日本で見た酔拳などの香港映画の鮮烈な思い出が東京の映画館の空気と共に浸みこんでいる。

いわば同窓会的な気分。


60代のジャッキー・チェンって想像できない。

しかも、考古学者の役。

無理に若作りしているわけでもなく、一見普通のおじさんに見えないでもないが、なかなかいい感じで、贅沢なロードムービーで楽しめる。

お宝発見の最後が全員の踊りとなるのはインド映画のお約束だが、そのお約束ぶりにちょっとくらくらする。

ジャッキー・チェンの踊りの切れ味も悪くない。

でも、私にはこれまでのジャッキー・チェンの映画との関係の中でしか見られないので、この映画ではじめて彼を見る若い人などにとってどう見えるのだろう、と思ってしまった。


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by mariastella | 2017-11-06 00:33 | 映画

クリスチャン・カリオン監督/ギヨーム・カネ主演 『Mon garçon(息子)』

ギヨーム・カネが熱演する『Mon garçon』(クリスチャン・カリオン監督)を観に行った。



先日、映画2本を続けて観に行ってしまったところだったが、付き合いでもう一本。

いそがしいのに「毒食わば皿まで」の心境。

話題にはなっていた。主人公役がシナリオを知らされていないで、6日間の撮影の間ホテルも他のスタッフとは別で過ごした。「なりきってくれ」ということで、リテイクなしの一発勝負だという。だから話の流れが破綻しているところもある、というコメントもあったけれど、悪くはなかった。

主人公を演じるギヨーム・カネも嫌いじゃないし、元妻役のメラニー・ローランが好みの女優だというのもあった。


地質学者でアフリカなど世界中を飛び回って家にいない夫ジュリアンに嫌気がさして分かれ、七歳になった子供マティスを連れて別の男と暮らしているマリー。そのマリーが泣きながら、伝言して雪山のクラスに参加したマティスがテントから姿を消したとジュリアンに告げる。

まずマティスが自分の意思で失踪したのではないかという疑いが持たれた。

マリーが数か月前に妊娠を告げてから関係がうまくいっていなかったからだ。


新しいパートナーであるグレゴワールの発案で、マリーがゆっくり休めるように、マティスを、子供たちを対象にした何日かの山でのグループ活動に登録する。行きたがらないマティスを説得して。


ジュリアンはマリーが流産していたことを知る。


ジュリアンの前で、マリーとの子供を望んでいると夢を語るグレゴワールの様子を見てジュリアンは、この男がマティスの反抗によるストレスのせいでマリーが自分の子を流産したのだと思って復讐したのだ、と思いついた。

その瞬間から、何かが切れてしまったように、ジュリアンは「手負いの獣」に変身してしまう。暴力の嵐。

しかし、グレゴワールはただのエゴイストだった。


ジュリアンは息子がうつっているビデオカメラを何度も見て、手掛かりを見つけようとする。追跡がはじまる。

暴力が結構激しいので(多分最終的に3人は殺した ? 殺すシーンはないが)、まったくシナリオを知らないとは信じられない。セリフなどは書かれていないかもしれないが、「これこれこうなったら暴力をふるう演技をしろ」というガイドラインはあるんじゃないかと思う。

セリフは主人公になり切ってアドリブでいうにしても、暴力シーンは実際に暴力をふるっていいわけではないから、きっちりとした演出が必要になるだろう。。

「父が息子を救い出す」というテーマなのだから、いくら何でもハッピーエンドだろうと思ったので心の余裕は持って観ることができた。

すごくまともな「ドキドキハラハラ」のエンターテインメントで、普通に面白かった。

時間の無駄を後悔するような映画でもないし、世界が変わって見えるような映画でもない。

母親役のメラニー・ローランの悲痛な演技がうまいので、「子育て」についていろいろ考えさせられる。

フランスでは子供のいる二組に一組のカップルが別れ、ステップファミリーも多い。他の男や女にはれたほれた、とか、連れ合いへの愚痴や不満や嫉妬のレベルで懊悩しているのは何とでもなるが、子供が行方不明になった、誘拐されたなどとなると、もうすべて吹き飛んで、親の罪悪感はマックスだ。


子供のそばにいるべきだった、

両親が愛し合い、子供に信頼感を与える安定した平和な環境を与えるべきだった、

など、もう、人生の目的は、「自分の子を失わないこと」だけになってしまう。


その動物的感覚が、映画の中で子供をさがす主人公を「獣」化させたのかもしれない。

フランスで最近、結婚式の野外パーティで8歳の女の子が姿を消して見つからないという事件が起きた。容疑者は見つかったのだが、黙秘を続けているという。両親がメディアを通して容疑者に何とか話してほしい、と訴えていた。

マルセイユでテロリストに斬殺された女子学生の葬儀も映されていた。

子供を持つ人が、子供をなんとか無事に育てあげて送り出し、子供に先立たれないですむ、という「普通のこと」は、そんなに普通ではないのかもしれない。


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by mariastella | 2017-10-06 07:21 | 映画

アンドレ・テシネ『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』

先週はこの映画を見損ねて、趣味ではない『Un beau soleil intérieur 内なる美しい太陽』を見てしまったけれど、気を取り直して頑張ってアンドレ・テシネーの『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』に挑戦。期待にたがわず途方もない映画だった。

途方もないというのは人間性の途方のなさだ。

しかも、実話がベースだ。



第一次大戦は、形こそフランスはドイツに勝利しているが、フランスにとって勝利体験よりも悲惨体験としてトラウマを残した戦争だった。

この映画の一番の効果は、主人公夫婦の倒錯的な関係よりも、まさに、フランスにとっての第一次大戦大戦の傷を別の形でまた再現しているところだろう。

反戦映画というより、厭戦映画だ。

兵士として戦争に駆り出されるのは誰にとってもトラウマになるだろうけれど、フランスに住み、フランス人の気質を知れば知るほど、彼らほど戦争に向いてない国民はないと思う。(革命には向いているみたいだが…)

愛する妻と幸せに暮らすポール・グラップという、ごく普通の男が招集されて前線に駆り出されるが、戦死する気はさらさらない。

それでも二年間を前線で戦わされたポールは耐えられなくて自分の右手親指を切り落として病院に運ばれた後で、さらに逃亡する。

欠席裁判で死刑判決が下される。

戻ってきた彼を隠すために、妻のルイーズがポールに女装させてシュザンヌと名を変えさせる。電気脱毛もさせ、ゆっくりと男を女に仕立て上げる細やかさ。

憲兵たちがやってくる。そこにはポールはもういない。ルイーズの愛人シュザンヌが編み物をしていた。(映画ではそのシーンはない。地下に隠れたポールを見つけられないという場面だけだ)

きっかけは、ポールが地下での逼塞に耐えられずうつ状態になったことだ。

ルイーズは彼が外に出られるように女装させようとしたのだ。

はじめは、ポールは大いに抵抗した。

しかし、外に出たい。

最初の外出が深夜のブーローニュの森だった。

というか、昼間に普通の場所には行けないから、娼婦がたむろするブーローニュの森に行くしかなかったのだ。

そこは何でもありで、女装だろうが、男装だろうが、同性愛者であろうが、無礼講の世界だ。

戦場の反動であるかのように、自由で極端な享楽しかそこにはない。

第一次大戦の時代は、その前線の悲惨さとは別に、「銃後」には不思議な「解放」の空気が生まれていた。女性の力が増し、男装の女性、同性愛者たちがパリのダンスホールで踊っていた。一方、ジャンヌ・ダルクよろしく、兵士の服を着て前線に赴く女性たちさえいた。

その享楽的なパリとは別の、労働者の住む貧しい界隈のアパルトマンで、一人の男が「レズビアン」に変身したのだ。夜のブーローニュでは階級差は消滅する。


ポールはもともとバイセクシュアルだったのか ?

あるいは単に「女装が好き」な男になったのか ?


(あるいは、ひょっとして、人は、性別にかかわらず、「見た目」の部分を偏執的に手入れしてきれいにすること、飾ることに「はまる」動物なのかもしれない。戦場の兵士には絶対に許されない贅沢だが、「女装」という形で「開き直る」なら、その道を究められて、ポールはそれに「はまった」だけなのかもしれない)

ともかく、その後、二人とも、この不思議な関係自体に「はまって」しまう。

夫婦はレズビアンの関係になるのだ。ポール(シュザンヌ)はキャバレーの舞台にも立ち、ルイーズも彼を手伝う。

第一次大戦が終わって二人はスペインに逃げる。スペインから戻ると住所を変え、「すてきなシュズィ」という名で女性パラシュート家としてデビュー。ブーローニュの森で客をひく娼婦としても、「ギャルソンヌの女王」と呼ばれるほどの人気者となる。夫婦のそれぞれの愛人が入れ替わることもあった。

1925年、ようやく脱走兵の恩赦が認められてシュザンヌはポールに戻れるのだけれど、それはなかなか難しい。ポールにはもう自分のアイデンティティが分からない。

酒におぼれ、妻を殴る。口紅を塗り、セーヌの河辺で見知らぬ相手に声をかける。

2人にはポポルという子供が生まれる。新生児を殺すと脅迫してこぶしを振り上げたポールを、ルイーズは引き出しから取り上げた拳銃で撃ち殺した。


ルイーズは赤ん坊を守ったということで免罪される。当時の裁判記録の中には「猥褻写真」というファイルがあるが抜き取られている。

赤ん坊はほどなく髄膜炎で死に、ルイーズは、1981年まで生きた。


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実際のシュザンヌとポールの写真。1925年のもの。

以上が「実話」なのだけれど、映画で描かれているので興味深いのは、ルイーズが「お針子」として働いている女性ばかりのアトリエの責任者が女性で、レズビアンで、シュザンヌという女と暮らし始めたけれど誰にも紹介しないルイーズに関心を示すシーンだ。

映画のポールは別に女性的な体でなく、がっしりして背も高い。ルイーズも大柄で、胸が薄く、彼女が男装してもさまになると思える。

映画は夫婦の「現在」と「過去」が交互に配される。その「現在」というのは、ポールが、戦争中の「シュザンヌ」としての自分を演じることで収入を得ていて、ルイーズは戦争以来需要が増えた「鉛の兵隊」に着色する内職仕事をしている。

2人は相変わらず男と女として愛し合っていて、ルイーズは妊娠するのだが、妊娠することで「母」となり子供の「父」を必要とするので葛藤してそれを隠している。妊娠を知ったポールは女装や過去を引きずるようなキャバレーの仕事をやめるのだが、仕事が見つからない。子供が生まれ、子供第一の「母」になったルイーズ、彼らを養えないことで「父」としての自己肯定のできないポール、彼のこれまでの「栄光」は」すべて女装の女王「シュザンヌ」としてのものだった。

すべての依存症、アディクションと同じで、そうなると、女装によってのみ脳内麻薬が分泌される。

これは、「性倒錯」の物語ではなく、アディクションの物語でもあるのだろう。

その意味では、有名人である「シュザンヌ」のパートナーという暮らしぶりはルイーズにもアディクションをもたらしていた。

でも、ルイーズのきっかけは、何としてでも愛する男を戦争によって殺させない、という決意だった。

この映画で流されるアカペラの『Auprès de ma blonde』という歌がある。

私でも何十年もなじみの子供の歌で、童謡、民謡のイメージだった。「ぼくのブロンドちゃんのそばで寝るっていいなあ」という感じで、ブロンドの女性が現れると気軽に口ずさまれたりする。でも、父親のうちの庭には花が咲いて鳥がいて、という牧歌的な歌詞の部分ばかり耳にしてきたので、この映画でその先の部分を聴いて驚いた。


検索すると、17世紀の軍隊行進曲だなどとあった。

1966年になんとエルビス・プレスリーが英語版を歌ったほどポピュラーだとも知らなかった。

17世紀の終わりにルイ14世の戦争に駆り出されてオランダで捕虜となった王立海軍士官が獄中で妻のことを思って作った歌だそうだ。18世紀初めにルイ14世に身代金を支払われて自由の身になったので、感謝の念をこめて1704年に発表されたという。

確かに、

ブロンドちゃん、君の旦那はどうしたの?

オランダにつかまってるの。彼を取り戻すためなら

ヴェルサイユもパリもサンドニ(歴代国王の墓所のあるカテドラル)も、

ノートルダムの鐘だって、地元の教区の鐘だって、なんでもあげるわ。

という歌詞がある。

ノートルダムの部分は、「父と母の王国の全部をあげるわ」というヴァリエーションもあるという。

つまり、愛する男を戦争から取り戻すためなら、国も国王も何もかもいらないわ、

という愛情表現であり、ルイーズがポールに捧げた思いと確かにリンクしている。

そして、絶対王政の太陽王ルイ14世は、一士官を解放するために身代金を払った。

思えば、フランスの民謡には、もっと古い「脱走兵の歌」もある。

日本の軍歌はポピュラーなものが多いけれど、厭戦的な歌が童謡にまで昇華したものがある記憶はない。出征した兵士を思う女性の心で連想するのは、シベリア抑留の子を待つ「岸壁の母」とか「君死に給うことなかれ」など、母や姉の視線であり、演歌にはなっても童謡に変身する感じではない。

映画としてなんといっても絵になるのはミシェル・フォーの演じるキャバレーの興業主だ。彼について前にこの記事でも書いた。

映画『偉大なるマルグリット』では、マルグリットの声楽教師として雇われるオペラ歌手役を演じていた。ほとんど「色物」しかできないんじゃないかというほど個性的な外見だが、本格的俳優で名役者だ。海千山千のしたたかさで狡猾な中にどこか人間味もある興業主役にぴったりだった。

名演にかかわらず外見としては正統派の美男美女によって演じられるポールとルイーズの物語、それににコクを与えるミシェル・フォーなしにはこの映画は成り立たなかっただろう。

第一次大戦がフランスのカトリックの立場に大きな変化をもたらしたことは以前にも少し解説した。(この記事を読んでみてください

同時に、女性の地位も大きく変わった。女性の活躍が半端ではなかったからだ。

死者や傷病兵が山のように出る戦争では、彼らの精神的肉体的ケアをする宗教者や女性たちの役割が増大する。

この映画でも、移動中の兵士が墓地の十字架を見かけて思わず隊列を離れて駆け寄ってその前にひざまずいてロザリオの祈りを唱えるシーンがあるし、傷病兵に聖体パンを授けに回る司祭の姿も映し出される。ある兵士は意識がないし口も開かない。そこで司祭がナイフを差し入れて口を開かせて聖体パンを差し入れるのだ。兵士のやむにやまれぬ神頼みと、とにかく義務を果たす司祭のプラグマティズムが対照的だ。

さらに、この映画を見て「そうか」と納得できたのが、カトリックと女性の関係だ。

フランスはフランス革命の国なのに、女性の参政権が認められたのは1944年でしかない。イギリスでは、やはり第一次大戦の影響で、1928年に女性の参政権が認められた。

フランスで遅れたのは不思議だと思っていたが、この映画で女性たちが、第一次大戦での「銃後の守り」のために外に出て働いた活躍で地位向上した女性たちに参政権を与えないことについて、それはカトリックに票が行くのを阻止するためだと話しているのを見て理解できた。

フランスで男性の普通投票(21歳以上で同じ場所に6ヶ月以上住んでいるのが条件)が成立したのは1848年だが、兵士、外国滞在者、そして聖職者には選挙権がなかった。

フランス革命以来のカトリック教会との対立の根は深い。

それでもナポレオンがカトリック教会と和解したのは、社会の秩序のため、要するに、「婦女子」のために宗教が必要だという認識からだった。「女子供」は教会に通い、男の子は「大人」になれば「共和国」的無神論者あるいは不可知論者としての通過儀礼を経て「市民=男」になるという図式が用意されたのだ。

だからこそ、女性は21歳を過ぎても、「カトリックの良い信者」であるから、女性に選挙権を与えたら、第一次大戦で復権したカトリック教会の眼鏡にかなう保守政治家に投票する可能性が大きい、司祭の言うことに従うからだ、それは避けたい、という事情だったらしい。(聖職者については、1905年の政教分離法によって一般市民との権利の差が解消されている)。

国王が同時に国教会の首長であるイギリスなどとは事情が違う。

なるほど。

この映画はテーマ的にも私の好みのツボにはまるものだが、いろいろなことを気づかせてくれた。


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by mariastella | 2017-10-05 03:13 | 映画

ジュリエット・ビノシュの『Un beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)

今日はすべての調子がなんとなく狂った日だった。


ほんとうは、『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』という映画に行くはずだった。

監督がアンドレ・テシネーで、テーマが前のローラ・パテールと同じく性倒錯に近いものとあっては、絶対見逃せないので忙しいのに無理に観に行ったのだ。

そうしたら、今日はスクリーンを変える(?)都合で、その映画の昼の上映がないという。その代わりに、同じ時間帯にある クレール・ドゥニ監督のUn beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)はいかがですか、いい映画ですよ、と切符売り場で勧められた。そこは私のよく行く映画館で、午後の初めはすいている。シニア料金があるのでシニアの姿ばかりで落ち着く。ロビーには、本棚があって、みんなが自由に本を持ってきたり持ち帰っていいシステムになっている。

だから、ま、いいか、と思って観ることにした。


主演のジュリエット・ビノシュがTVのニュース番組でインタビューされていたのも見ていたし。カンヌの出品作でもある。ジョジアンヌ・バラスコ、ジェラール・ドゥパルデュー、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキなどと言うすごい顔ぶれがちょい役で出ているというのもすごいし。


ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。




ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。

一人の女性の裏も表も丹念に表現する名演なので、彼女をめぐる男たちとの会話でいろいろな人間模様が描ける。でもほとんどは会話の妙味だ。

しかも、フランスの、パリの、アートや画廊経営者らの世界で、みながスノッブであることは、ビノシュが、それら「お友達の輪」を外れた男と付き合っていると分かるや否や、「その男はRSAで暮らしているのか」(つまり失業者の支援金で暮らす)とか「学歴はなんだ」「BACG」(これはつまり、今の技術系バカロレア、つまり普通高校からではなく技術系高校からのバカロレアで一段下だと差別しているわけだ)とか、嫉妬や当てこすりや偽善的な言葉が渦巻くことでよく分かる。

孤独や寂しさ、愛の渇き、欲望などが普遍的なテーマなのだとしても、あまりにも、「お仲間うち」の話で、微妙な感情がいくら巧妙に描かれていても、ひいてしまう。

芸術的な悩みとかないのか、君たちは。


私は暴力やホラーシーンのある映画はもうできるだけ見ないようにしようと思っていたけれど、こういう熟年男女の色事のかけひきの映画もこれからは時間がもったいないからもう見ないようにしようと思った。


しかも、最初にビノシュと愛人の意味なくリアルなベッドシーンが延々と続き、どういうわけか途中で館内の照明がついた。がらがらの館内で客の大半を占める70代くらいの連れだった女性同士の姿が目に入り、これをどう見ているのかなあなどと気まずい感じがしていると、誰かがクレームをつけに行ったので、照明が消されて、五十がらみの熟年男女のベッドシーンがやっと終わったところだったのに、映画があらためて冒頭から始まったので、また見るはめになった。男はでっぷりとした銀行家で、ビノシュも疲れ、たるんだ体だ。

手や指も何度か大写しになったのだが、その指や爪の美しくないことにも驚いた。ローラ・パテールのファニー・アルダンはさすがにすみずみまで人工的に美しかったのに。金を払ってまで映画館で「等身大」の疲れた同時代人を見たくない。


最後に出てくるドゥパルデューの異様な存在感も、みな、末梢神経をくすぐるような「濃さ」で、あっけにとられた。


映画館を出てオペラ座の方に歩いていくと、マクロンの経済政策に抗議するリタイア組のデモ行進が長々と続いていた。(年金から自動的に引かれる福祉税が増税される)


昼間からベッドシーンを見ている70歳もいれば、粛々とデモ行進をする70歳もいる。


その後でバロック・バレーのクラスに行くと、今年71歳のクリスティーヌが、相変わらずドイツ・バロックにはまって夢中でドイツ・ステップのクーラントを教える。

なかなか不思議な日となった。

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by mariastella | 2017-09-29 07:52 | 映画

ロバン・カンピヨのカンヌグランプリ映画『120 battements par minute』


昨日観たBonne Pomme に失望したので、確実に評判の高いものをと思って、今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞したロバン・カンピヨの『一分間120拍動』(120BPM)を観に行った。

BPM120というテンポは、この映画で使うハウスミュージックのテンポであり、心臓がドキドキする鼓動の数でもあるという。


1990年代初めに、アメリカのACT UPに続いてパリで立ち上がったエイズ患者たちによる社会活動団体のドキュメンタリー映画のような作りだ。

監督のロバン・カンピヨの実体験をもとにしている。


雄弁なリーダーのチボーは実在のディディエ・レストラードがモデルで、レストラードは今も健在だから、HIV陽性でも、抗エイズ薬が間に合ったのだろう。

カンピヨは多分陰性で活動に参加していたと思われるので、この映画のナタンの立ち位置ではないかと思う。死者への追悼だけではなく、生き抜いた仲間たちへの生の賛歌のメッセージでもあると語っていた。

90年代初め。隔世の感がある。


ネットや携帯のない時代で、紙を輪にして無限ファックス抗議を送ろうという提案があったり、薬品会社に抗議行動に侵入するシーンも、今なら、ガードマンがいたり監視カメラがあったり、すぐに携帯で上の階にも連絡がいくだろうな、などと思った。そもそもこの手の草の根活動は、今なら、多くのSNSでわっと広がったりつながったりするだろう。

それがない時代に、彼らは、ただ単にデモをする以上の行動に踏み切った。

デモをすること自体はフランスでは日常茶飯事なのでメディアに取り上げられない。挑発しなくてはならない。アメリカのACT UPが死者の遺灰をホワイトハウスに巻いたことを参考にして主人公の1人ショーンの遺灰を製薬会社のパーティのテーブルにばらまく。エイズと血による感染の恐怖を利用して、偽の血を関係者や製薬会社に浴びせかける、などもした。

週一回のミーティングの実況がすごくリアルだ。


ACT UPの特徴は、患者の互助団体などではなく、リセの授業に飛び込んで生徒たちに感染予防を教えたり、娼婦や薬物中毒者や囚人など、自分たち(同性愛者や血友病の薬害エイズ患者)よりもさらにマイノリティの人々のリスク管理や権利擁護についても積極的に戦ったりすることだ。

ゲイプライドの行進を、暗いものでなく明るく、同時に政治的メッセージを持たせるためにいろいろな演出やスローガンを考える。

本来ヒエラルキーのない直接民主主義のミーティングで自然な権威を発揮する複数のリーダー格の若者たちが、秩序とバランスを絶妙に維持していく。

議論の仕方がいかにもフランス人とフランス語の世界だ。

68年の五月革命の時もこんな感じだったのだろうなと想像する。

彼らの戦いにはいろいろな位相がある。

同性愛者、HIVキャリアに対する差別を是正しようとする社会的なもの、

治療薬の認可を遅らせたり、実験結果を公表しなかったり、予防のための広報動をしない製薬会社や政府の不正や偽善を告発する政治的なもの、

20代で訪れる死を前にした実存的、哲学的なもの、

病をかかえ、痛みに耐えるフィジカルなもの、

などだ。


それらをすり合わせ、統合し、立場を異にする者の怒りの表現と行動と、被害者や潜在的被害者を守ろうとする使命感とを両立させていく明晰さとそれを支える言論文化の成熟ぶりはすばらしい。言論がクリエイトに結びつくことの高まりも感動的だ。

日本では薬害エイズが大きな問題になったが、もともと町で声を上げるとか挑発することに消極的な日本ではACT UP的なものはなかったようだ。

同性愛はサブカルチャーの中でのみ受容され、後はひたすら「世間様に迷惑をかけない」範囲でのみ受容される。家父長制社会の中では同性愛は本質的に逸脱であり「悪」なのだ。

それは「欧米」でも同じで、その「悪」を襲うウィルスは「神罰」という分かりやすいシェーマにとり込まれるので、ますます放置された結果、80年代にすでに十万人以上が犠牲になった。アフリカを含めると、今やすでに百万人規模の犠牲者を数える人類最大の伝染病だと言われている。

81年のミッテラン政権で同性愛が刑法から姿を消したのに、82年に最初のエイズの報告がアメリカで現れて、同性愛者は再び、というか、前よりもひどく差別され恐れられるようになった。

監督がモデルではないかと思われるナタンは、十代で数学教師と関係を持ったりした後、アメリカのエイズ患者の写真を見たショックで5年間、同性愛のあらゆる付き合いを断ってしまったと言う。「同性愛者は死ぬ」という定式がとつぜん登場したのだ。

ナタンと愛し合う活動家のショーンは母一人子一人の移民二世という設定で、「バロックな俳優」を探していた監督に白羽の矢を立てられたのが、バスク系アルゼンチン人のナウエル・ペレズ・ビスカヤールだ。踊るのが好きで、過激なこのキャラクターにぴったりだ。

ナタンとショーンが最初に寝るシーンは延々と続くので正直辟易した(というか、この映画、社会派フランス映画としては異例の長さの2h20で疲れる。削れるシーンはもう少し削ってほしい)。けれども、ラストにナタンがいとも自然に、ショーンが嫌っていたチボーに、「戻って僕と夜を過ごしてくれ」と申し出て、二人のからむシーンでナタンが嗚咽する部分に呼応すると思えば理解できる。

徹底的にドキュメンタリー風のミーティングや挑発行動のシーン、セーヌ河が暗紅色に染まったり、1848年革命のナレーションが入ったりする幻想的なシーン、そしてHIV陽性と陰性という溝を乗り越えるが死によって隔てられる若い恋人たちの親密な空間、と、いろいろなスタイルが畳みかけられていくので、冗長さや重さは軽減されてはいる。

不思議なのは、この映画がカンヌ映画祭の2ホールで上映された後、2000人の観客が涙を流したとかいう話だ。他の感想にも、涙なしには見られない、というのが少なからずあった。

それって「死によって引き裂かれる若いカップル」誘う涙?

監督は、死と隣り合わせのロマンスを確かに描いたけれど、感傷的にならないように気を付けたと述べているし、実際それに成功していると思う。

「お涙頂戴」の感涙ヒストリーに分かりやすく涙腺が緩む私だが、実はまったく泣けなかった。

情報量が多すぎ、考えさせられることが多すぎて、このカップルの魅力的な組み合わせや、最後に母親まで登場することも、「涙」につながらない。


若者が「死ぬまでは生きる」ことのしたたかさ、みたいなものには感心したけれど。

ともかく、彼らの運動は無駄ではなく、多くの若者が新薬に救われることになったし、予防概念も広まったし、感染者への偏見も減った。今はHIV陽性となってもしかるべき処置を続けていれば普通に寿命を全うできるところまでいっている。

私はミッテラン政権以前のパリのゲイ・コミュニティと接触があった。彼らの多くはエイズでこの世を去ったと思う。

ACT UPの少し後の世代とも仲良しだ。HIV検査の結果に恐れおののく友人たちの恐怖も共有した。

不思議なことに、ACT UPの中心の世代のゲイ・コミュニティ(私より10歳ほど下)にはほとんど知り合いがいない。この世代の知り合いはレズビアンであるせいか当時も今もエイズの恐怖について耳にしたことがない。


ただ、90年代半ばに、パリの市バスに注射器を持った男が侵入してきて、エイズの血液を注入してやる、と騒いだ時に、親しい人がちょうどい合わせた。これも今ならスマートフォンで通報されたり写真を撮られたりしているだろう。今の感覚で言えば、テロリストに遭遇したようなもので恐ろしかった。

エイズの情報が耳に入った80年代初めには確かに、陽性風の人に対して疑心暗になった記憶もある。狂牛病の実態が公開された時もショックだった。

今の時代も、フランスならテロ、日本なら地震警報にミサイル警報、と、恐怖心があおられて生きることを楽しめないような事項がたくさんある。


環境破壊、公害、異常気象、そしてそれらを全部ないことにしても個人的に確実におそってくる老いやら病気やら、減っていく持ち時間。

あれやこれやのリスク情報や警報を前にして心は揺らぐ。

それを防ぐのは容易ではない。


90年代の若者たちが生きて、生きて、生き抜いたACT UPの世界に2時間入り込むことは、恐怖や悲観との適切な距離の取り方、希望の持続方法を学ぶ貴重な体験である。


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by mariastella | 2017-09-06 02:08 | 映画

ドヌーヴとドゥパルデューの Bonne pomme


カトリーヌ・ドヌーヴとジェラール・ドゥパルデューの10度目だかの共演ということで、これは面白いかなあと思ってつい観に行った映画。

ウェスタン・ダンスに入れあげている妻とその母親から馬鹿にされるのに嫌気がさして出ていった整備工が、田舎の自動車整備工場を買って独立しようとして、工場の向かいにあるレストラン・ホテルの女主人バルバラ(ドヌーヴ)と出会う。


タイトルのpommeというのはリンゴのことだが、同時に馬鹿、間抜け、お人よしという時にも使われる。大金を持って出てきたドゥパルデューは、ドヌーヴから金を巻き上げられるのだが、なぜかいつも親切にピンチを救ってやる。

妻の母親が仕切っている工場ではただのpommeのように扱われるのだけれど、ドヌーヴや彼女に振り回され迷惑をかけられている町の人や旅人に気前よく手助けしてしまう人の好さはまさにbonne pommeで善良な馬鹿、お人好し、というわけだ。

完全に肥満体になっているドゥパルデューのどっかり丸い体が動き回る。

非現実的なシチュエーションなのに説得力があるのはさすがの演技力だ。

「日本人のカップル」というのもホテルの客として出てくるが、へらへら笑って自撮り棒を振り回しているカリカチュアで笑えない。

笑えないと言えば、ギャグのすべてがほとんど笑えない。

『人生は長く静かな河』や『ダニエルばあちゃん』のシナリオ作家のフロランス・カンタンがシナリオと監督だから話もうまくできているに違いないと思ったのだけれど…。

市長役のギヨーム・ド・トンケデックがせっかくいい味を出しているのに、それもうまく生かされていない。

ドヌーヴとドゥパルデューを使うのがもったいないような平凡な映画だ。

ドヌーヴも随分どっしりとしているが、脚はきれいだ。

年配になっても、コミックな味や自虐的な味を出したりして、なかなかしたたかな活躍ぶりだがそれでもどこかにエレガンスを残していた。

この映画ではそのエレガンスがなくほとんど下品だ。プロとしてすごいと思うが、この映画の出来栄えの悪さに釣り合っていない。

このフランスの小さな町、いかにもありそうな町の人間模様だ。


でも、ドヌーヴとドゥパルデューが、例えば30年前の「終電車」の自分たちの姿と役柄と、子の映画での姿と役柄の差をどんな風に受けとめられるのか知りたい気がする。

テレビのニュース番組で二人がインタビューされていたのを見たが、リラックスして、和気藹々と楽しそうだった。

見ているこちらの方が、来し方を振り返って感傷的になる。


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by mariastella | 2017-09-05 06:11 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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