L'art de croire             竹下節子ブログ

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ファニー・アルダンが M to F を演ずるすごい映画『Lola Pater』


30代の青年が、母親の急死のショックの中で、幼い時に別れた父親をはるばる訪ねて行ったら、父親はオリエンタル・ダンサーの熟年レズビアンだった!


ファニー・アルダンは好みのタイプから程遠いけれど文句なしの名女優だ。

一時は拒食症とかいう噂でがりがりに痩せていたが、68歳の今、ある程度肉がついて、肩、手足の骨太さが「性同一性障害の元男」という役をやっても、なんとなく納得できる。

監督は1965年生まれのフランスとアルジェリア二重国籍のいわゆる移民の子弟であるNadir Moknècheナディール・モクネシュ。パリで生まれたが3歳で父を亡くし母とアルジェに戻り、キリスト教系の学校の寮で暮らす。16歳でパリに戻ってバカロレアのと2年の法学部を経て演劇に転向した。

アメリカにも留学し、現代のモロッコやアルジェリアのシーンを描く映画を監督するが、この映画も、カリカチュアではなく、宗教の問題にも触れていない。

とはいっても、厳格なイスラム法では禁じられている酒、タバコ、音楽、踊りなど、何でもやっているローラを揶揄するコメントがあったり、主人公ズィノの子供の頃の割礼記念のビデオが出てきたり、葬儀やパリの墓地のムスリム区画での埋葬、フランスに来たんだから犬を飼っても平気(犬はムハンマドを噛んだということでイスラムでは不浄とされ嫌われている)というズィノの叔母のことばなど、今のフランスで暮らす「普通のムスリム」のリアルな生活感が見える。

ズィノはオーステルリッツ駅近くのマンションの高層階に母親と猫と住んでいたが、母は動脈瘤破裂で突然死する。飲みかけのコーヒーだかティーだかのカップがテーブルに置かれたままで、テーブルにのぼった猫がカップを倒すシーンでその死による人々のパニックが伝わる。

ネコはその後もあやうい、シンボリックな役割を果たしている。

ピアノ調律師で作曲もする30代のズィノは、遺産相続の手続きで、公証人から、父のファリッドが離婚していないばかりか南フランスのカマルグに住んでいると知らされる。それまでは、父のファリッドはある日「蒸発」し、は妻子を捨ててアルジェリアに戻ったと聞いていたのだ。

オートバイをとばして南仏に向かうズィノ。

町で最初にすれ違うのはフランシスカンの修道服を来た修道者らしい人。


で、訪ねた住所はなんとレッスン中のオリエンタルダンスの教室だった。

女性たちがたっぷりした腹を見せてベリーダンスをしている。(ああ、グラナドス!

教師をしているのは妖艶な熟女ローラ。

ファリッドの息子が来たと伝えられたローラは動揺する。

同姓同名の人違いだと言ったが、ズィノは彼女が父の妻なのだと思った。

自分や父と同じ姓だからだ。では、父は重婚していたのだろうか。


公証人から書留を受け取ってパリへ出ていくローラ。


ローラは、女性と暮らしている。相手の女性はどちらかというと「いかにもレズビアン風の」中性っぽい人だ。このカップルはもう若くないわけだが、この人の愛(パリでローラが自殺未遂で入院した時に駆けつけてくるシーンにはほんとうに泣かされる)がすばらしい。

彼女にも励まされてローラはパリで息子に自分が父だと告白する。

衝撃と拒絶。

ズィノの怒り、ローラの絶望、どちらも説得力がある。

ローラはもと、クラシック・バレエの男性ダンサーだった。息子も音楽の世界に生きるアーティスト。政治的にはトランスジェンダーを差別などしていない。

しかし、理論や建前と、それが「親子」の間に起こる場合の感情の齟齬というのは別だ。

事情を知っていた母親にも騙されていたことになる。

何を赦していいのか受容していいのかも分からない。

叔母からは、実は母親のマリカはファリッド(ローラ)が性同一性障害だということを知っていて結婚したと聞かされる。叔母も女性の姿となった義兄に再会して驚くが、昔は彼のことをゲイだと思っていた、という。

ローラは、「自分はいつも女性を愛している。レズビアンになった異性愛者なのだ」という。

性同一性障害と言っても、ジェンダーのアイデンティティと肉体的な性のアイデンティティは別のものだ。

ファリッドとマリカは愛し合っていた。けれどもファリッドは男の姿で男としてふるまうことにもう耐えられなくなったのだ。女になってレズビアンのカップルとして息子を育てられたならよかったのだろう。けれどもマリカは、女になるファリッドが耐えられないのではなく、そうなったら世間の目に耐えられないのだ。

性別と見た目に関しては、生きていくうえであまりにもジェンダーの縛りと圧力が大きいので、第一の苦しみはそこから来るのかもしれない。

マジョリティの人たちから見ればみなひとからげに性倒錯だと思われるかもしれないが、どの性を性的対象と見るのか、と、自分の生物学的な性別を認めるのかはまったく関係がない。


私など自分でも、「性別」としての女性は違和感がないが、アイデンティティの底にあるのは「兄のいる妹」という枠内での性別だ。脳内では女性も猫も子供も、柔らかくてかわいいものは大好きで触りたいし見ていたいが性的対象ではない。細かく見ていくと、性的には「女友達が大好きなゲイの男」と一番親和性がある気がする。妹タイプなので男っぽい感じのレズビアンから声をかけられることもよくあったが、私の好きなのは女っぽい猫っぽい柔らかい女性で、しかも性的興味は全くないのでスルーしていた。


兄のいる妹として生まれて家庭内で妹ジェンダーというアイデンティを課された女性でも、まったくそれが自分に「あっていない」と苦しむ人もいくらでもあるだろう。それは最初は反抗や反発になり、やがては家族から離れるという形で解消できるかもしれない。「嫁」だの「母」などという後発のアイデンティティなどはもっと不安定なものとなる。

人間とは、肉体の性別アンディティティと社会から押し付けられるジェンダーと誰に何に性的欲望を覚えるかという性的アイデンティティが複合的にあるだけではなく、実は生まれた時の周囲(大抵は家族)との関係性から来るアイデンティティとの齟齬もあり得るわけで、「カテゴリー分け」だのロビー活動などには絶対に納まりきれない複雑なものなのだ。

それでもこの映画でファニー・アルダンという大女優を起用したことの倒錯にはくらくらする。


映画界にはAlexis Arquetteのような真正のトランスジェンダーの女優たちもいるのだから、彼女らを起用すべきではなかったのかという意見もあった。

ファニー・アルダンは男でもなく、アルジェリア人でも、アラブ系でも、トランスジェンダーでもない。


実は、トランスセクシュアルの友人たちがいる監督がこの映画の構想を自分の母親に話した時に、母親がその役はファニー・アルダンに頼むべきだ、と言ったのがきっかけだったという。

低いしわがれ声と、エレガントな長身、の迫力に加えて奇抜な衣装。

バロックとマニエリズムの境界。

アルモドバルの映画の世界ですか、といいたくなるが、実は、とても抑制が効いていて登場人物全員が非現実的な「上品」さをたたえている。


ズィノは、結局、性別は関係なく「父親」を求めている。

ファリッドも息子を愛していた。罪悪感にとらわれた。

でも彼にとっては、自分の意識に合致する体を手に入れること、女性のオリエンタル・ダンサーになれるかどうかは、生きるか死ぬかの問題だったのだ。

ズィノ役のTEWFIK JALLAB35歳で、パリの近郊でモロッコ人の母とアルジェリア-チュニジア人の父の間に生まれたこれも典型的な「移民の子弟」だ。

「父と息子」の関係を突き詰めることで、何世紀にもわたる「父系制」社会に挑戦している映画だともいえる。

性別や見た目や世間の目などと関係なく、「それでも愛している」という心を封じていた二人は、揺らぎながら互いに相手をかばおうともする。けれども、愛を口にして、もし向こうから同じ言葉が返ってこなかったらどうしようという恐怖が愛にまさる。

これは普遍的な映画なのか、ニッチな映画なのか、評価もかなり分かれている。

私の好みにははまり過ぎなのだけれど。

ライオンキングでも猿の惑星でも、当然のように与えられるテンプレートに「父が息子」へ「力」を継承させるという者がある。この映画がそれを大きく揺るがすものであるということにセンシティヴであるかどうかが評価の分け目になるのだろう。

日本ではいわゆる「オネエ」キャラが一見市民権を得ているように見えるが、普通の人には性的マイノリティの中での性的アイデンティティと性的欲望との組み合わせの区別などつかないことだろう。

日本のM to F で私の知っているのは(直接知っているわけではない)、性転換手術の前後から細かくレポートしてくれたブログを愛読していた能町みね子さんくらいだ。(今もネットの週刊誌で連載を読んでいるが、オリンピックを盛り上げるために都知事がラジオ体操奨励したことへの記事など、同感で笑えた。)

深刻なのはやはり、「子供」がいる場合で、「子供との関係」における性別の刷り込みや世間の目こそ、「父系性社会」の基盤だから、「基準を離れる」のは大きな試練となる。


日本でも、2014年から、性同一性障害のため女性から男性に性別変更した夫とその妻が第三者との人工授精でもうけた子について、戸籍に嫡出子として記載できるようになったという。

同じケースでも、男性から女性に性別変更した人への偏見の方が実際は厳しいのではないだろうか。「女が男になる」のは上昇であり、理解できるが、「男が女」になるのは下降であり理解できない、としないと男性優位のシステムを揺るがすからだろう。女が男の服を着て活発に動くのは、子供が大人の真似をするように「ほほえましい」。でも男が女装をしてしなをつくるのは男優位社会の侵犯とみなされる。あるいは完全に「枠外」の異種動物のように容認される。

この映画の登場人物の苦しみに共感できて、それでも人間性と愛の光の中で物語を観ることができてラッキーだったと感謝する。


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by mariastella | 2017-08-13 05:17 | 映画

『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』とエコロジー

『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』を見た。


『ダンケルク』に続いて戦争映画を観るなんてどうかしている。

このシリーズの前二作は観ていない。20世紀にあった最初のシリーズも見ていない。

これまで食指を動かされなかったのだ。猿に感情移入もできないと思った。

今回は予告編で「猿」の表情が人間より人間らしく見え、テーマも地球の未来と異種共存について考える私の心の琴線に触れるものがあったのだ。

(日本ではまだ未公開のようなのでネタバレが心配な人は読まないでください)

原作のSFがアメリカものではなくフランス人のピエール・ブールのものだということは知っていたので、前にも調べたことはあった。(ジュール・ヴェルヌといいフランスってけっこうSF先進国なのだ)


ブールが『戦場にかける橋』の原作者でもあり、アジアでの生活が長いということも知っていた。

アジアでの異文化体験と「猿」との戦いというイメージが重なるなら、なんだ気分が悪いという感じがあった。日本軍の捕虜になったという話もあるし。


でも彼はイギリス軍ではないし、フランスは1940年にはドイツと協定を結んでいたのだからベトナムなどではフランス軍と日本軍が仲良く映画を観ていた、という話を当時子供だったベトナム人から聞いたこともある。

今度の映画を観て、つくづく思ったのは、もろキリスト教文化圏のお話だなあということだ。

でもこの最終話ではそれがカタリ派的善悪二元論の残念な方向に行きそうになっている。

悪いのはもちろん人間で、でも、悪いというより「愚か」というしかないのだけれど。

ピエール・ブールはアヴィニヨン生まれで高校までアヴィニヨンで育っている。

フランスのアヴィニヨンというと旧教皇領で、法王庁もあったばりばりのカトリック文化圏で、ブールの母(弁護士だった父が演劇評を書いていた新聞のディレクターの娘)は、毎週教会に通う熱心なカトリックだったという。子供は当然母親の影響を受けるから、ブールも少なくとも子供時代はカトリック教育を吸収したに違いない。

その後パリ近郊の理系のグランゼコールに入学した。日本の訳を見たら「エンジニアの学校」などとあったけれど、これまで何度も書いたが、日本語や英語のエンジニアはフランス語ではテクニシャン(技術者)であり、フランス語のエンジニアとはエリート管理職候補者用の公式の資格である。

ブールの行ったグランゼコールは私も縁があって何度も通ったことのある全寮制のエリート校だ。

アヴィニヨンでは読書や狩りを楽しむ生活だったのが、父親の突然の死で、母親を助けるために中央に出てエリート・コースに進んだのだという。

彼の小説の中で興味深いのは、1963年の『猿の惑星』の19年後に発表された『鏡の輝き』という近未来小説だ。フランスはすでに原子力発電依存率が世界的に高い国だったが、ある研究者が、南フランスのラングドック、プロヴァンス、コルシカ島の1%の土地を鏡で覆うと、フランスに必要なエネルギーの10 %を得られると言った。ということは、10%を覆えば全フランスのエネルギーをまかなえることになる、と、緑の党の大統領ジャン・ブロンド―と大臣たちは考えた。

大統領夫人ベアトリスは太陽信仰を持っていたので、神秘熱に駆られてこの太陽光発電を宗教的使命感で成し遂げるよう夫を説得し、太陽神殿ヘリオス発電所が生まれる。その鏡の反射光は公害のないきらめくエネルギーの到来を示すかのようだった。

ところが、意図がすばらしくても、結果は思いがけないもので、巨大な反射光は次から次へと、周囲の環境をパニックに陥れることになる。

良かれと思う意図も、突き進むと不条理にまで達することがある。

「地獄」とは「よき意図」という敷石が敷き詰められてできているのではないだろうか?


…という話。

で、ピエール・ブール亡き後に作られた新『猿の惑星』ものテーマも、普遍的であるとともにすごく今日的でもある。冷戦後なので核戦争からエコロジーにシフトしている。


猿たちのリーダーであるシーザーは、「エイプ(猿)はエイプを殺さない」という掟をつくって平和な共同体を作っていた。有能で道徳的な哲学王がいれば、民主主義なんか必要ない。

異種とかかわらなければそれですむ。


ところが「造反者」はいつも現れる。

憎悪に負ける者もいる。

仲間に銃を向けるような造反者はもはや「エイプではない」としてシーザーは粛清した。

あれあれ。

さらに、異種である人間たちの窮地を救うために迎え入れれば裏切られたり、エイプの「種の存続」のためにはと最終戦争を決意したり、捕虜に温情を見せて裏切られて人間に家族を殺されて復讐を誓ったり、ある意味で「楽園」状態だったエイプたちが最初の罪なき状態から「戦い」のロジックへと転落していった。賢王だったシーザーも自分は憎しみのとりこになったと認めるのだ。(それも結局は贖われる構成になっているが)

人間のところで育てられ、後で仲間を救い出して人間の住処から隔離された「約束の地」に共同体をつくって「殺すなかれ」の掟を申し渡すシーザーの姿は、エジプト王に育てられたユダヤ人のモーセがやがて奴隷だったユダヤ人を引き連れてパレスティナへ向かう旧約聖書と完全に重なる。

しかも名前がシーザーだから、イスラエルとローマの統合というカトリック的ビジョンもある。

第三部で猿たちが強制労働を強いられたり、反抗したらX型十字架につけられたり、鞭打たれたりするのも、ホロコーストの強制収容所やキリストの受難や殉教者伝などのイメージとしっかり重ねている。十字架上で悪魔の姿を見るイメージも、復活するイメージもそうだ。

大きな使命や共同体を救うための犠牲の精神なども、キリスト教世界の騎士道などに通じる。

それでも結局は大自然の力によって壊滅したり奇跡的に助かったりするのだけれど、それも大洪水とノアの箱舟や「神の摂理」を連想させるし、「言葉」の持つシンボリックな意味も「啓示の宗教」の伝統を思わせる。(まあ、最終的には人間と猿の動物としてのスキルの差が運命を分けるのだが…)

王と王の息子の絆や地位の継承という単純なところは、キリスト教というよりライオン・キングっぽい分かりやすさだが。父系制社会のモデルは揺らがない。

前世紀のシリーズや1963年の原作で人類を破滅させるのは核戦争だったが、このシリーズでは、武器ではなく、人を救うための医療技術の追求の思い上がりによるものだというのは、むしろ、前述したブールの『鏡の輝き』の方にシフトした感じがある。

たとえ、病気を治すためでも、エコロジー技術の追求でも、人間が勝手に思い上がって暴走すると地獄に堕ちるということだ。

しかし、たとえ娯楽映画という手段を駆使してその「人間の愚かさ」をこれほどよく表現しても、世間では映画のテクニックの向上が称えられたり、興行収入の増大が第一の優先事だったりするのは自明だ。

経済「成長」を善として成り立つ社会像の内部ではなく何かもっと根本的に表現のベースを変えていかなくては、人類自滅のリスクは高まっていくばかりかもしれない。

憎しみによってはもちろん、どんな大義名分があろうと、「正当防衛」だとか「共同体の利益」のためでさえ、たったひとりの他者でも排除したり自由や命を奪ったりすることを拒否する、という方向にしか真の平和はない。

なんと難しいことだろう。


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by mariastella | 2017-08-10 00:50 | 映画

クリストファー・ノーラン『ダンケルク』

ここのところ、フランス映画2本、ドイツ映画1本を観たのだけれど、うーん、なかなか末梢神経をくすぐられるところはあったけれど、真剣に映画評を書く気になれなかった。

結局、一番印象的だったのが、国籍も米仏英蘭とマルチなブロックバスター映画で、クリストファー・ノーランの『ダンケルク』だった。

そのスケールはまさにハリウッド映画だが、そのエスプリは完全にイギリス映画。

戦争映画など大嫌いな私が行こうと思ったくらいだから、まず、音や迫力はすごいけれど、いわゆる手足が吹っ飛ぶ的な残虐映像はない。

もちろん多くの戦死者が出ているのだが、殺されて死ぬときは、多分攻撃する方も、「無名」、「匿名」性が高くて、モノのようにコトが過ぎる。

けれども、救う時、救われる時は、ヒトであり、命であり、「関り」が生まれる。

この映画の死の中でただひとつ人や思いや関係性のもとに描かれるのは、軍服でなくセーターを着た17歳の少年の死だ。

敵によってはでなく父親の船の中での小競り合いで打ちどころが悪くて死んだ。

最後にこの少年の「死」が「英雄」として地元紙に掲載されるのも皮肉だ。

全部が、戦争の不条理につながっていて、よくできた戦争映画というのはすべて反戦映画になっているなあと思う。

といっても、フランス人からは、イギリスのナショナリズムに不快を感じたり、このダンケルク救出作戦「ダイナモ」で、フランス軍が果たした役割を無視しているという不満も出た。

7/17のル・モンド紙で4万人のフランス人に失礼だというコメントがあったのがイギリスでも掲載されて、イギリスの歴史学者マックス・ヘイスティングスという人が、ノーランは自分の解釈で自分の描き方をする権利がある、スピルバーグの映画がアメリカ的であるようにこの映画はイギリス的であるだけだ、と言ったそうだ。

といっても、スピルバーグ映画の方が、アメリカ的というより、インタナショナルなマーケットを意識して政治的公正が加味されているようにも思えるのに対して、このノーランの映画は、フランス市場なんて気にしていないのがよく分かるのだけれど。

「敵」であるドイツ軍は「飛行機」の姿以外ほとんど現れない。最後に英軍パイロットが多分捕虜になる時に現れるだけだ。この戦いで実際に捕虜になった英軍兵士はポーランドの強制収容所に連れていかれて働かされたという。

でも「敵」がドイツ、という単純な二元論でなく、ひとりひとりが果たしてサバイバルできるかどうかという運命と向かい合っているように描かれているところがエレガントと言えばいえる。

映画の「国籍」に入っているオランダ人もフランス人も一人ずつ登場する。でもオランダ人はドイツ人と間違われて、必死に自分はオランダ人だといい仲間に入れてもらい、フランス人の方もドイツ人のなりすましだと疑われて、イギリス人から「ギブソン(だったか?)と発音して見ろ、ドイツ人ならなまりがある」と迫られて窮し、結局はフロッグ・イーターのフランス人だと白状させられる。

でも、生きるか死ぬかの仕分けではスコットランド人でも微妙に差別されているので、同盟国同士でも差別があったのは当然なのかもしれない。

ここに出てくるイギリス人兵士はまったくアングロサクソンの若者たちという感じだ。イギリス軍は共同体社会だから、インド系はインド系の部隊というようにはっきり分かれていたようだ。

でも、実際は、フランス人かドイツ人かオランダ人かは外見では確実に判別できないわけで、話させて訛りでテストされるなど、なんだか日本でもあったような話で気分が悪くなる。こういう局面においては、「母語」がナショナリズムの判定になるのだなあ。

私は実はダンケルクにちょっとした縁があるのでそれもこの映画を観に行った理由の一つだけれど、それにしても、1940年の5/26-6/4に展開されたというこのダイナモ作戦が、イギリス側で「ダンケルクの奇跡」と呼ばれ、「英雄」物語になっているのは、政治的判断とはいえ確かに不自然な部分はある。


ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍にはもう戦うことも勝つことも不可能だった。前が海で退却も不可能だった。けれどもチャーチルには「降伏」という文字はなかったので、「救出」しかなかったのだ。

でも軍を回す余裕はなかった。

で、民間の船に呼びかけて、市井の人々が自分たちの船で英仏海峡を渡ったのだ。奇跡的だったのはむしろ好天に恵まれたことの方だったらしい。

40万人近くが追いつめられていたのを、イギリス軍が救えるのはせいぜい3,4万人の見通しだったのだけれど、結果として、民間の何百艘という船が応えたこともあって、338226人が救出された。

イギリスについて列車に乗ると、兵士たちはブラボーと歓呼の声で迎えられ、英雄扱いされる。「おれは生きのびただけだ」と、彼らは思うのだが、この「帰還」を作戦が成功した「凱旋」のように報道するのはもちろん政府の判断だった。


確かに、すごい犠牲を払って救出することが「勝利」なのだったら、最初から戦地へ送らなければ ? などと思われるとまずいから、「英雄譚」を創ることが必要だったのだろう。

戦争映画が苦手な私でもストーリーを追えるのは、陸・海・空からの話の展開を細切れにしてつなげているサスペンスがよくできているからだ。しかも、同じ割合で挿入される陸・海・空の時間の流れが、浜で救出を待つ疲弊した兵士の大群の一週間、海を渡ってダンケルクに向かう初老の男(長男は参戦して三週間で戦死した)と二人の若者の一日、そして戦闘機で勇敢に戦うパイロットの一時間、と三通りの密度で組み合わせるというテクニックがほどこされている。

空からの映像がすばらしく、息をのむほど美しい。実際にコックピットにIMAXカメラを取りつけたそうだ。船底で溺れそうになったりする映像とのコントラストが強烈だ。

浜で列を作る軍服の大群の後で、ネクタイさえしめて自分の船を操縦する男の姿が新鮮だし、たった一人で戦うパイロットの孤独も胸を打つ。(6月末のパーティで、制服姿の空軍のパイロットと話をしたばかりだったので、あらためて、今ここにある戦争のことも考えさせられた。)

この映画を観た97歳のイギリス人元兵士は、当時20歳で、まったくこの通りだった、と語った。そしてその夜、泣いたと言った。77年経っても、地球に平和が来ていない、人が人を殺し合う愚かさから脱していないことが悲しい、という。

確かに、この映画では、爆弾や銃弾の命中率がそんなに高くない。

今の高性能ミサイルだの無人爆撃機だのの時代の戦争ならもっと容赦ない非人間的なものになっているのだろう。

そして、攻撃すること、殺すことの効率や技術は高まっても、「救う」ことの技術は今も昔も、「人間的」でしかないのだろうなあと思う。

このダイナモ作戦の「成功」は、19406月4日

映画の終わりに司令官は、自分はダンケルクに残る、まだフランス人を助けなくてはならないから、とかっこいいことをいう。

でも、6月22日に独仏休戦協定が結ばれて、ダンケルクもパリも、ドイツ占領下に置かれることになった。

連合軍のノルマンディ上陸作戦は、それから4年後のことだった。

ダンケルクはノルマンディではない。

日本人の目から見ると、やはりイギリスって島国だから、もちろんドイツ軍の絨毯爆撃を受けたにせよ、ある意味で「大陸」の戦争からは「要塞」のような位置にあるなあと思った。そして、日本が南洋などで取り残された日本軍を救出に行かなかったのか行けなかったかに比べたら、やはり、「救出」するというのは「殺す」という戦争のベクトルと逆であって推奨すべきことであり、生き延びたことは「ブラボー」に値するのだなあとすなおに思う。

そして、何よりも、この二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパが、EUとなって互いの間の戦争を放棄したことの貴重な意味を考える。Brexitとか言っても、もう独仏英が殺し合うことは考えられない。

この「殺し合うことがもう考えられない」ということが、つい80年前には考えられなかったのだ。


この映画を観たら、やはり日本は今のままの「憲法九条」を掲げるのが最良の道だと思えてくる。互いに顔も見えない相手と殺し合うなんて、いったいどうしてそんな事態に陥ってしまうのか、そしていったん歴史がそちらの方に傾いたら、大きな車輪が回り始めてすべてを押しつぶしていく。

兵士たちはみな、若い。

若者を戦場に送ってはいけない、

それがたとえ「聖戦」と呼ばれていても。


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by mariastella | 2017-07-27 02:58 | 映画

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

少し前の話になるが、映画『ロダン』に不全感が残ったので「口直し」にコメディを観に行こうと思って見た映画についての覚書。

ヴァレリー・ルメルシエは役者としても好きだし、双子の姉妹役をやるというのもおもしろいし、母親役がエレーヌ・ヴァンサンというのも楽しみだった。

舞台がパリ16区のなじみの通りなので親近感もある。

でも、それ以外は何だか非現実的でカリカチュラルな設定だ。建物の住み込みの管理人室に住むポルトガル人の両親のうちに転がりこんだ55歳の料理人と、ブルジョワの両親のところに転がり込んだ50歳の生物学研究職の女性の間に繰り広げられるロマンティック・コメディだから。

大柄なマリー=フランシーヌ(177cm)に対していかにもパリのアパルトマンの管理人をしているポルトガルの移民の子というステレオタイプのずんぐりむっくりのミゲルは、最初から彼女を好きになって、彼女の食生活の貧しさを気にして昼においしい食事を用意してやる。ハート型を添えたりと初々しいし、いつもにこにこしているのも印象的だ。2人はどちらも一応自分のシチュエーションについて嘘を付き合っているのだけれど、全体としてはなんの幻想もなくただひかえめな優しさがある。

それに対してマリー=フランシーヌの両親はそのブルジョワ的偽善性においてもなかなか過激だ。母親はただのプルジョワ夫人ではなく力強くエゴイズムを謳歌している。ルメルシエの他の作品と同様、風刺、フェミニズム、社会批判などがちりばめられてはいるが、中心になる ラブストーリー自体はえらく穏やかに貫徹しているので、他のスパイスのすべてが薄まったという感じだ。

マリー=フランシーヌの夫が若い女と浮気して捨てられてまた妻とよりを戻そうとすることや2人の娘との関係など、ある意味すごくパリの家庭事情のリアリティはある。
ヒロインが50歳というのを強調するのも、「50歳のクライシス」と言って、50歳前後の女性がカップルを解消して再出発するというケースがとても多いことに対応している。

軽くて楽しめる映画は当たり外れが多い。
次はあきらめてシリアスな映画を観ることにしよう。


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by mariastella | 2017-07-11 00:29 | 映画

『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)2017

先日のカンヌ映画祭でも上演された映画『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)。


ロダン死後100周年でグラン・パレでもexpoをやっている。

ロダンの作品はいわゆる「好み」ではないのだけれど、アートとは何かを考えさせられる圧倒的なオーラがある。昔はよく、ブールデル美術館(ブールデルは好み)に行った後でそのままロダン美術館に行くことでロダンの秘密を探ろうとした。

ロダンの天才は音楽で言えばラモー型だと思っていた。

それ以外では私が最も影響を受けたのはリルケによるロダン論だった。


で、この映画の切り口にも期待していたのだけれど、なんだか『アマデウス』の映画でモーツアルトがはしゃぐ姿を見た時に似た「こんな男がこんな作品を…」と肩をすくめる気分になった。


40代ではじめて国から「地獄の門」の注文を受け、カミーユ・クローデルとも出会い、スキャンダラスなバルザック像を完成するまでの10年間のエピソードの積み重ね。いわゆる伝記映画ではない。


ロダンとカミーユ・クローデルと言えば、1988年のブリュノ・ニュイッテンの『カミーユ・クローデル』がイザベル・アジャーニとジェラール・ドパルデューという濃い人たちの主演で鬼気迫っていた映画を思い出す。


アジャーニはすごいけれど、「演じている」というより憑依しているという感じの人だから、他と比べようがない。劇場で芝居を観た時にはもっとそれを見せつけられた。


今回はポスト・ヌーヴェルバーグのジャック・ドワイヨンの作品でロダン役がヴァンサン・ランドンだからずっと地味で「創作の秘密」を掘り下げるようなものかと期待していたら、カミーユはもちろんヌードモデルとのからみなどが多くてなんだか引いてしまった。


でも、「土」をヒエラルキーの上に置こうとして粘土をこねまわし執拗にディティールを付け加えるやり方は意外だったし、モデルを見据える目の演技も印象的で、愛人のカミーユも妻のローズも、ナチュラルでナチュラルゆえの絶望の深さ、傷の深さがかえって際立つ。カミーユとの「契約書」やローズとの追いかけあいのシーンも独特の雰囲気だ。


仕事一筋、天才、アーティストの孤独という面よりも、それらを成り立たせている肥大したエゴイズムの強靭さというものを感じてしまう。


なんというか、エゴイスティックで卑しいささいなことの積み重ねによる疲労と喪失とフラストレーションの末に、それでも生まれる天上的な作品、愛がなくても美は生まれる、地獄の門を通っても天国には行ける、という話だ。


映像や音楽(チェロが美しい)はすばらしいけれど。


アトリエの助手の中にブールデルがいるはずだけれど、と思ってみていた。


バルザック像のモデルが妊婦だったり、ガウンは、本当のガウンを石膏に浸して張り付けたものであるというエピソードも印象的だ。


ラストに近い場面で、変な着物を来た日本人女性のモデルが裸になれと言われたのに「すみません、おっしゃっていることが分かりません」と日本語で答え、ローズが入ってきて「中国人が…」なんとか言って「全部脱ぐのよ!」と叫ぶシーンがある。


で、ラストシーンだが、ロダンの死後のパリでようやくバルザック像が設置された後、突然2017年、日本、箱根彫刻の森美術館というキャプションが出て、ブロンズのバルザック像に小学生の子供たちが駆けよって「だるまさんがころんだ」と言って遊んでいるシーンに切り替わる。

この着地は、夢から覚めたように鮮やかではあるのだけれど、日本人にとっては、その前の不自然な着物の日本人モデルのシーンでの日本語も聞えているので、妙につながってしまって、効果が薄れた気がする。


ロダンの創作という興味あるテーマでこれだけいろいろ工夫しながらこの程度の結果しか出せなかったのは残念だ。



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by mariastella | 2017-06-01 17:31 | 映画

『禁じられた歌声(ティンブクトゥ)』アブデラマン・シサコ監督

2014年から15年にかけていろいろな映画賞を獲得したフランスとモリタニアの合作映画。
シサコ監督はモリタニア生まれマリ育ち、モスクワで映画を学びフランス在住という国際派。
見た目もトゥアレグと黒人の混血っぽいコスモポリタン風。

アフリカのマリ共和国北部のティンブクトゥという世界文化遺産にも登録されている町が2012年からアルカイダ系イスラム過激派に占領された様子をドキュメンタリー風に描いたものだ。
2013年の初めにオランド大統領が単独で介入して過激派から町や住民を「解放」した。フランス軍は救世主のように歓迎された(その後フランス軍の兵士による現地の少年への性的虐待などのスキャンダルが発覚したが)。
周りが広大な砂漠なので過激派を追いやったと言っても、どこかに「追い詰める」わけではないので、今もフランス軍は駐留中で真理の「政府軍」を訓練したり援助したり、新大統領のマクロンの最初の訪問地(ベルリンの次)もこのマリの駐屯地だった。そのくらいフランスにとって政治的な意味の大きい場所なので、この映画も政治的な思惑から逃れられない。

2012年に羽田からパリに戻った時、驚いたことを思い出す。普通なら、空いている時間帯だ。JAL便から降り立つ日本人に対する警戒はとても低く、入国審査でもほとんど機械的に通してくれる。けれどもその時は、圧倒的に黒人が多かった。日本人が隠れてしまうほどで、審査窓口には長い長い列で全く進まない。窓口でもめた後どこかへ連れていかれる人も多い。周りの人を見ると、マリのパスポートだと分かった。後から、彼らは過激派支配から逃れてきたのだと納得した。出口のホールも、到着した親類や知人を迎え入れる人たちでいっぱいだった。どこの国へ来たのかと思った。ああいう状況だったからフランスが慌てて侵攻したのかなあと後で納得がいった
とはいえ、フランスがマリのガオやティンブクトゥーを「解放」しても、ジハディストたちは移動するだけだ。
最近のマンチェスターのテロの実行犯の父親や弟はリビアにいてISとつながっていると言われる。イラクやシリアを追われたISがリビアに拠点を移すという予測はもう実現しているのかもしれない。

映画に戻ると、アルカイダの専制への抵抗としてボールなしでサッカーをする少年たちの詩的な映像などが予告編でいたるところに出回り、本編を見る必要がないほどだ、などと言われもした。
シャリア法では女性は髪も手も足も隠すべきだとか、音楽も禁止、酒もタバコも集団をつくるのも禁止、サッカーも禁止、石打ちの死刑や、手の切断刑や、斬首や鞭打ちなどの実態が、すぐ後に続いたISのプロパガンダよりも先に、この映画によって「イスラム過激派のひどさ」として広く知られるようになった。
けれども、「白いIS」と言われるサウジアラビアのワッハーブ派がもう何十年も公然とやっていることもほぼ同じだ。
ただ、サウジではタバコとサッカーはお目こぼしだった。既得権益と関係があるからだ。
街中で10人以上集まるのが禁止だしサッカー以外は音楽会も他の娯楽も、人が集まること自体が禁止。公開処刑は「普通」だった。

9・11のテロリストを輩出しながらも、冷戦時代からのアメリカとの同盟関係や「共通の敵」イランへの牽制などでなぜか「自由陣営」っぽい姿を容認されているサウジは今も「国連女性の地位委員会」のメンバーになったり人権理事会議長国になったりしている。
自由とは金で買えるものだ」という金の支配の方が「神の支配」より実効性があるということなのかもしれない。

で、この映画。特に女性たちが抵抗の姿勢を見せたり、「過激派」たちがイマムとじっくり話したり、プロパガンダ映画にならないように「人間」を描こうとしているわけだけれど、そのことが中途半端にヌルい、という評価も受けている。
画面が美しく、暴力的なシーンが少ないことは個人的にはほっとするけれど、確かに、どこか強度が足りない。

シサコはマリで非婚のカップルが石打ちで殺されたことにショックを受けてこの映画を作ると決めたそうだけれど、石打ち刑自体はすごく古くからある。
新約聖書で「汝のうち罪なき者が石もて打て」とイエスが言ったことで有名なように、シャリアでなくてもユダヤの律法でも普通だったし、最初の殉教者ステファノも石打ちで殺された。イエスは個々の人間の事情を無視した原理主義的「律法遵守主義」を徹底して批判し否定した。
イエスに足場を置いたキリスト教文化圏が最終的に死刑廃止に向かったのは論理的に整合性があるし、私もあらゆる形の死刑に反対の立場だけれど、2012年のマリの「石打ち」刑だけが突出してシサコに大ショックを与えたというのは興味深い。彼はアフリカのチャイナタウンやカラオケ、中国も舞台にして中国人男性と黒人女性のラブストーリーも撮影している。もともと感覚が国際派なので、この映画も本来、政治的なイデオロギーを伝えるようなものではないのだろう。

でも、ともかくドキュメンタリータッチなので、リアルだ。過激派が乗り回す軽トラックみたいなものが全編に出てくるのだけれど、その後ろの大きなTOYOTAの文字にどきっとする。
最も印象的なシーンは、「鶏の女」だ。
女たちは徹底的に服装を統制されるのになぜか一人の初老の女性だけが、派手な格好で鶏を肩にのせたりして長い裾を引きずって闊歩している。これも、マリでの実際のモデルに基づいているそうだ。1960年代にパリのキャバレー「クレイジーホース」のダンサーだった女性で、フランス語を話し、ティンブクトゥーでなくやはりアルカイダに占領されたガオの町で、この女性だけが、髪も覆わず、歌って踊って煙草を吸って、ジハディストたちを平気で罵倒していたのだという。

一見、王宮の道化というか、トリックスターというか、そこだけカーニバルのガス抜きというか、「狂気」と「聖性」のアンタッチャブルが交わるところというか、社会学的なことを連想してしまう。
宗教者が自由に生きるために突飛な生き方をする「佯狂」(狂を装う)というのは日本の『発心集』などにも出てくるある意味古典的なサバイバル戦略だ。
為政者が自らの権威を知らしめるには、「普通の人」「一般人」を取り締まってこそ意味があるので、最初から社会の「枠外」に突出している者を取り締まっても意味がない。そういう人たちは「社会」がすでに制裁、排除している形で存在を許されているからだ。

で、この「鶏の女」がリラックスして横たわっている前で、一人のジハディストが「踊る」。
腕を広げ恍惚として踊る。
自由のあるところにはインスピレーションが降りてくるかのように

イスラム原理主義の「音楽の禁止」についても改めていろいろ考える。フランスのブレストのモスクでサラフィストのイマムが子供たちに「音楽を聴くだけでサルになる、豚になる」と教えているビデオを見て、さらに、コンサートホールでのテロの後、戸外を含む集団の音楽イヴェントに参加を決めたことも思い出す。
もう20年以上前になるけれど、私の主催するパリのアソシエーションで亡命チベット人の音楽コンサートをしたことも思い出した。中国植民政府の方針でチベットの楽器も内も禁止され、夜にうちの中でひっそりと弾いていたのだという話だった。

シサコの映画の邦題が『禁じられた歌声』とされたことを的外れだというコメントも目にしたけれど、歌や踊りや音楽が自由のシンボルであることを思うと、含蓄がある。


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by mariastella | 2017-05-27 00:45 | 映画

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

今開催中のカンヌ映画祭で審査員長を務めるスペインのペドロ・アルモドバル監督の1988年の作品だ。

赤が印象的。真っ赤なトマトをザクザク切ってつくるガスパーチョが睡眠薬になる。

映像と音楽をたどるだけでも楽しい。ポップアートの美術館にいるようだ。

ヒロインのアパルトマンが凄い。テラスに植物が茂っていて、ウサギやアヒルがいる。

「明日は家政婦さんが来る日だから」と言っている。

マドリードのブルジョワの暮らし、けれども上流階級というのではなくてテレビコマーシャルにも出て人に顔を知られている芸能人の暮らしなのだ。

シリア人のシーア派のテロリストと関わってしまった、と助けを求めに来るヒロインの友人の話など、30年前とは思えない今こそリアルな話だ。

マンションの管理人の女性が「私はエホバの証人だから嘘をつけない、」と何度も言って、エホバの賛歌を口ずさんでいるのも注目。


出産してからずっと精神病院にいた女性がピンクのスーツに派手な付けまつげという新婚旅行のような格好でピストルを両手に男への復讐に向かうのもグロテスクで怖い。

コクトーの戯曲『人の声』にインスパイアされたというだけあって、電話でのやりとりがシンボリックな意味を持っているのだけれど、それはいつも留守電のメッセージとなる。声優のアフレコ収録シーンも出てくる。「対話が成り立たない」ということ自体が鍵になっている。


大きな電話機が何度も出てきて、電話の修理屋も出てくる。

こんな風な男女の別れやすれ違いも、今の携帯の世の中なら全く様変わりしただろう。

といっても、今でも、「会話」を拒否しようとしたら、SMSやLINEでのみ別れを告げることもできるし、それらに返事しなかったり未読にしたりスルーしたり削除したりなどもできるので、「留守電に入れる」「留守電を待つ」というオプションだけの時代よりも当事者はもっと「神経衰弱」になるかもしれない。


「通信手段」に焦点を当てると、1930年のコクトーの戯曲は半世紀以上経ったアルモドバルの映画に応用され得たのに、その後20年も経っていない今は、様相が決定的に変化したということだ。

人間関係は深いところで確実に変わっている。




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by mariastella | 2017-05-26 00:10 | 映画

『海よりもまだ深く』(是枝祐和)

海よりもまだ深く』(是枝祐和)


去年のカンヌ映画祭に出品されたもの。

フランスは是枝作品やドラン作品が好きだ。

家族の間の微妙な関係、特に母と息子の愛憎の葛藤とか、とても特殊で個人的なものをクローズアップしてそこに普遍性というか家族のアーキタイプを見る満足が好きなのかもしれない。

主人公が、別れた妻の新しい男に向ける視線は、ドランの『マミー』の中で、主人公が母親の新しい男へ向けるそれとかぶる。

これは東京郊外の話なので、『マミー』のモントリオール郊外よりも身近かなはずだけれど、そして、多くの人(日本人)が「実家」映画と言っているように、日本の家庭で「あるある」的な原風景が丁寧に描写されているのだけれど、私にはそういう風には感情移入できなかった。

是枝監督が実際育った団地だそうで、マンモス団地ってこういうものなのかと知った。

子供の時に「団地」らしきところに足を踏み入れたことはあるけれど、木造一軒家にばかり住んでいたので「鉄筋のおうちってこういう感じなんだ」と思ったくらいで、この映画で初めて、ハイパーリアルに団地体験ができた。団地でも分譲区域があって格差があるというのも知った。

それを言うなら競輪場もはじめて見た。

ダメ男である主人公の阿部寛と彼を捨てた元妻の二人が美男と美女なのがある意味かえってリアルだ。

いかにもダメそうな男と必死でサバイバルしている元妻という感じのキャラを無理にあてはめているわけではない。美男と美女でもうまくいくとは限らない、という実感がこもる。

デジタル時代の今時あまり問題にもされない「字の上手さ」というのが伏線になっているのがおもしろい。

夫の急死で未亡人となって「解放された」気分の母は、長男にバイオリンをずっと習わせていた母であり、長女の娘のフィギュアスケートのレッスン代を払ってやろうとする母であり、団地内のカルチャースクールみたいなところでクラシック音楽の鑑賞教室に通っているシニア女性でもある。その混ざり具合が絶妙だ。

姉弟間の微妙な嫉妬、息子の見栄、父との確執、それらは「普遍的」とは言えなくても国を越えて多くの人に共通するテーマであるというのは分かる。

探偵事務所の後輩である若者とのコンビがとてもいい。

自分も両親の離婚によりトラウマを蒙ったというこの若者が、なぜかよく分からなかったけれど主人公に借りがある、と感じていること、彼のすべての逸脱に付き合うこと、それらをなぜか自然にやってしまうことが、映画全体のアクセントになっている。

「小説家」とか「探偵」とかいう息子の特殊な職業と、年金で団地に一人暮らす未亡人という普通さのコントラストに台風という外的なインパクトを絡ませているのもうまいし、飽きさせない。

「なりたいものになれなかった」大人が

それでもあがくのか、

自分を偽るのか、

あるいは諦念の境地で今ここのささやかな幸せを見つめることにするのか、

プラグマティックに最善の道を探るのか、

ろいろなケースが描かれていているのはいい。

でも、それらに囲まれた11歳の少年が、ホームランよりフォアボールを、野球選手より公務員になる将来を望む、芽生えた唯一の希望らしきものは宝くじに当たって両親といっしょにまた暮らせるようになるというのは、やりきれない。子供に夢を持たせる社会的な契機がここには何もない。

樹木希林の口から出る賢者の人生訓みたいなものも、正直言ってなんだかなあと思う。死んだ夫とは違って息子にも元嫁にも孫息子にも一目置かれていたり尊敬されているのだから、私が彼女の立場だったらもっとポジティヴなことを言ってやれるのに…(って、自分を重ね合わせるのがおばあちゃん役ということが少し悲しいが)。


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by mariastella | 2017-05-25 00:16 | 映画

『ゲット・アウト』(ジョーダン・ピール)

『ゲット・アウト』

前の映画の反省(?)に基づいて、久しぶりに、「ホラーでもいいや、カタルシスを得られるなら」と思って今話題のアメリカ映画の『ゲット・アウト』に行ってみた。

ジョーダン・ピール監督脚本、主演はダニエル・カルーヤとアリソン・ ウィリアムズ。

ピールは人種差別をネタにして笑いをとりながら抗議するというスタイルの黒人のコメディアンのコンビの一人だそうでこれが監督第一作。

人種差別というと、トランプ大統領の支持層となったような南部のプアホワイト、のようなイメージがあるが、実は、「オバマは最高の大統領だ」と言っているような民主党支持の一見リベラルなブルジョワ白人の偽善者による差別の方がずっと始末が悪い。

白人の彼女ローズの実家にはじめて行く写真家の黒人青年クリスが、ローズの実家の屋敷で、脳神経外科の父や精神医の母、医学生とかいう弟、黒人の庭師やメイドたちに紹介されるが、みな不自然で、奇妙なことばかりが起こる。

クリスのパラノイアかとも思われるのだが、次の日のガーデンパーティではまた不思議な光景が繰り広げられる。

ここに集まる白人たちはいわば秘密結社のメンバーのようなものなのだけれど、その中で私の目を引いたのは、そこに「タナカ・ヒロキ」という日本人が混ざっていて、クリスに「今のアメリカでアフロアメリカンであることの意味」を訪ねることだ。
そのしゃべり方からいっても日系アメリカ人というより日本人だ。

この白人たちとビジネス上の関係でもあるのだろう。

つまり、ここでは日本人は昔のアパルトヘイト国でのように「名誉白人」のような立ち位置にあるわけだ。
それは、偽善的な白人ブルジョワのエゴイストたちと同じ価値観を共有していることを意味している。タナカはやけに色白の男でもある。

フランスのブルジョワのレイシストの中にも堂々と「日本人は優秀な民族だ」という人がいる。これも一種の逆レイシズムだということが分からないのだ。

最初にクリスの煙草を車の窓から捨てるローズや、喫煙習慣を催眠術で治すというローズの両親のこだわりも、この映画を通して見ると、「禁煙ファシズム」という言葉をはじめて実感として思い出した。
こんなところに引き合いに出されてオバマ大統領も迷惑だろうな、と思ったが、実際、こういうタイプの「リベラル白人」の存在がリアルに感じられて、やはりアメリカの「黒人差別」の根は深いと感じる。

フランスとはだいぶ違う。歴史も違うが、「コミュニタリアニズムを排しユニヴァ―サリズムを掲げる」というのはフランスでは絶対の「政治的公正」でアイデンティティに組み込まれている。
マクロンだろうとル・ペンだろうと、本音は知らないが、その点では一致するし、「習い、性と成る」という部分は確かにあるなあと思う。

ローズの母親役のキャサリン・キーナーという人がマリーヌ・ル・ペンに似ているのでどきっとした。顔立ちというより、雰囲気で、タイプは違うのに、何かこわい。それをいうなら、ローズの顔のアップがマクロンに似ている、と言う人もいた。ここのところフランスでは嫌と言うほどこの2人の顔のアップばかり見せられていたからかもしれない。(これを観に行ったのは大統領選の直後だった)

後は、主人公クリスの大きな目ばかりが印象に残る。

シナリオもホラーというよりサスペンスで、よくできていて、飽きはしなかった。
ヴァイオレンスがあるのは分かっていたので目を閉じることにしたのに、音や音楽の効果からは逃れることができない。
生活感もかけ離れているし、直接私の悪夢に出てきそうなタイプの怖さのものではないからまあいいかと思って好奇心に駆られて観た映画だ。
ぬるいコメディよりはましかと思ったし、社会派映画を観る元気もないので一種の「逃避」だったのだけれど、実はこの映画を観る前に、個人的にショックなことがあって頭がいっぱいだったので強制的に気分転換を図ったのだ。

こんなことなら読みかけのエピクテトスを読み進めていた方がよかったかもと思ったが、「アメリカ」を通して「フランス」を考える時に、映画はとても便利なツールだと改めて感じた。


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by mariastella | 2017-05-23 00:26 | 映画

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

(映画コメント続き)

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

評判が悪くなかったので観に行った。
近頃はシニア人口のマーケットが大きいからか、シニア俳優が主人公の映画が少なくないので、何がターゲットにされているのか観察するのに興味がある。

主人校の79歳のやもめは、ベテラン・コメディアンのピエール・リシャール(もう82歳だそうだ)で、いつも愉快なので楽しめるかと思った。最後にマーシャ・メリルというなつかしい人も顔を見せる。
妻を亡くして2年、引きこもり状態の父を心配した娘が、自分の娘ジュリエットの恋人アレックスを父の住むベルヴィルのアパルトマンに送り込んでインターネットの使い方を教えさせる。アレックスは駆け出しのシナリオライターで、このアルバイトを引き受ける。
すると、このピエールが偶然出てきた出会いサイトを開いて、ベルギーに住むフローラという31歳の女性とメールをかわすようになる。でも最初にプロフィールとして載せた写真はアレックスのものだった。

というところから、実際に出会うことになってアレックスに代役を頼んだり、自分がアレックスの祖父役を演じたりするかなり無理な設定でのブリュクセルやパリの観光シーンが美しい。アレックス役のヤニス・レペールという青年は、その辺にいそうな普通感と、暖かさと弱さの混じり具合に好感が持てる。フローラ役のファニー・ヴァレットの美しさも印象的だ。

で、おもしろかったかというと、
つまらなかった。
いくら重い映画よりもコメディで気分転換したかったにしても、これほどつまらないとは思わなかった。

でも評判がわりとよかったのは、ピエール・リシャールへのリスペクトと、シラノ・ド・ベルジュラックの国ならではの「現代のシラノ」の悲哀が受けたからだ。
恋人を棄ててパリよりも上海でのビジネスを選んだ若者とか、
ベルヴィルの中華街の様子とか、
今時の親子三世代の関係とか、
もちろんインターネットを通した出会いなど、今のパリや郊外の普通の生活を切り取った親近感もよかったのかもしれない。

私の身近にいるバツ2のシニア男性でネットでの出会いを繰り返している人も知っているし、別の知人は、やはり出会い系ネットを通して知り合ったブリュクセルに住むジャーナリストと時々パリやベルギーで会っている。そういうことが普通にある世界なのだなあとあらためて思う。

「嘘」がばれた時のフローラの反応は意外だし、最後の「オチ」は楽しい。

シナリオは悪くないのだけれど、せめて心から笑えるとか、感動して泣けるとかの「気晴らし」を与えてほしかった。

暇もないのにこんな映画を観るくらいなら、多少ヴァイオレントでも怖いシーンがあっても、心に刺さる映画を観るべきだなあと反省した。

で、次に観に行ったのは….



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by mariastella | 2017-05-22 00:49 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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