L'art de croire             竹下節子ブログ

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まさかのジョニー・アリディ

「全フランスが泣いている」式のジョニー・アリディの死にまつわる狂騒を冷ややかに見ていた私が、いやでもいろいろ目に入るので考えさせられたことがある。

まず、彼の葬列と葬儀。


下は、マドレーヌ寺院での葬儀。離婚歴のあるピアフが教会での葬儀を断られたのとは隔世の感がある。

事実婚も含めて5人の伴侶がいたジョニーの葬儀を司式したのはパリの補佐司教、事実上のトップ。

ジョニーがちゃんと洗礼を受けていた、つまり神に愛されていたことを強調し、ジョニーがジャーナリストのインタビューに答えて「どう思われてもいいけれど僕はキリスト教徒のままだろう。イエスが僕にはらをたてたりしないのは確かだと思う」と言っていたことを紹介した。外の大スクリーンでミサの様子を見ていた群衆も微動もしないで真剣に聞いていたそうだ。



これ等の画像を見ていて、ショックだったのは、圧倒的に「白人のフランス」だということだ。


もちろんニュースなどでは「全フランスが泣く」のにふさわしく黒人やアラブ人やアジア人の姿も映されてはいたけれど、ジョニーの死を嘆いて実際に集まる人のほとんどは白人だ。


ほとんど、トランプ大統領の就任式の中継を連想した。


トランプ大統領を英雄視する人たちとジョニーを英雄視する人たちは、「白人」が多いということだ。

パリのように普段はとても国際的でいろいろな人種が混在している場所で、圧倒的に白人が集まり、地方からもわざわざ出てきているのだ。


それを思うと、今さらだけれど、2015年の初めにあったシャルリー・エブド事件の後の「表現の自由」を掲げる共和国デモ行進の「白人率」に思い当たる。

あの時は、ねらわれたのがカリカチュアを掲げる週刊新聞の編集会議で、人気のカリカチュア作家たちが特定宗教の「冒涜者」だとされて殺されたのだから、政教分離と信教の自由と表現の自由を国是とするフランスの共和国主義が大反発したのは理解できる。


世界各国の首脳がやってきてオランド大統領と共に行進した。そこにはアラブ諸国の首脳もブラック・アフリカ諸国の首脳も並んでいた。だから、特に「白人」という意識はなかった。「全フランスが思想テロを糾弾する」という言い方は自然だった。


でも、確かにあの時も、移民の子弟の多いリセなどで黙禱を拒否したり、SNSでイスラム過激派を擁護したりするような生徒がいたこともニュースになり批判されていた。

信者数でフランス第二の宗教となっているイスラムの信者のコミュニティは、自分たちもフランスの共和主義を是とし、過激派を弾劾する、と言っていたけれど、それでも、デモ行進に積極的に参加することの心理的ハードルの高さを語った人もいた。


その時は、テロにも屈することのない表現の自由の国フランス、というのに満足していたし一種の高揚感も覚えていたので、全体主義的な同調圧力は感じていなかった。


それから、10ヶ月後に、無差別多発テロが起こり、次の年にはニースのテロがあり、どちらも多くの外国人がいて、ムスリムも犠牲者になった。

それはもはや「表現の自由」ではなくて、サッカーの試合を見たり、音楽を聴いたり、カフェで談笑したり、海岸で花火を見たりという「楽しんで生きる自由」への挑戦だったので、非常事態宣言がなされたせいもあるが、もう1月の大規模デモ行進のようなものはなく、犠牲者への追悼も、災害の犠牲者への追悼のようになった。

テロも、フランスの共和国イデオロギーへの挑戦というよりは、中東のISを掃討しようとする「有志連合」への報復だという文脈で語られるようになったからだ。

「楽しんで生きる自由」を謳歌できるのは新自由主義経済の諸国だから、実は、その弱肉強食のシステムの中で疎外されていく人々の怒りや絶望をどうするかというアプローチももちろんなかったわけではない。けれども、「一般人の無差別殺傷」が絶対悪だという事実と、強化される「安全対策」による縛りとが、論点を見えにくくしてしまった。

その後で、まさかのトランプ大統領の登場。

「アメリカ・ファースト」に熱狂するプア・ホワイトとか中西部のラストベルトの人々の姿。

黒人スポーツ選手たちのレジスタンス。


あれに比べたら、フランスはずっとましだよなあ、共和国ユニヴァーサリズム支持が行き渡っている、と思えた若いマクロン大統領の登場。


で、今回、ジョニー・アリディの死に慟哭し彼を崇める「全フランス」。


その人たちの映像が、すごく「白人」率が高くて、地方から駆け付ける人も多くて、トランプ支持派のイメージと重なった。

ジョニーがサルコジを応援したように政治的に「保守」シンパであることはもちろん誰でも知っていることだけれど。


彼の死とそれについての言説の中で、今まで見えてこなかった何かが見えてくる。

 

もう一つは、特別番組として2005年制作のローラン・チュエル監督の『 Jean-Philippeジャン=フィリップ』という映画がTVで放映されたのを観たことだ。

ジョニーが俳優として悪くないのを知っているし、共演のファブリス・ルキーニが名優だからなんとなく見てしまった。


ジャン=フィリップというのはジョニーの本名だ。(ラモーと同じ名前 !



ストーリーはファブリスという男がジョニーの歌を外でやかましく歌っていて殴られて気を失うことから展開する。

ファブリスは、ジョニーの大ファンで膨大なグッズを持っているコレクターだ。でも、病院で目を覚ましたら、そこはジョニーの存在しないパラレルワールドだった。

他のすべては妻子も含めて同じなのに、ジョニーがいない。ジョニーのいない世界には耐えられない。

で、本名から検索し、ようやく、ボーリング場を経営している60歳のジャン=フィリップを探し当てる。

妻に去られかけていて、息子と二人暮らしの、疲れの見える初老の男だ。

ファブリスは仕事もやめてジャン=フィリップをジョニー・アリディに育て上げる決心をする。

ジョニーの歌は歌詞もメロディもコードも全部覚えている。

ジャン=フィリップは若い時に書いた歌詞をファブリスがすらすらと書くことに驚く。

ジャン=フィリップはジョニーとしてデビューしようとした時に交通事故に遭って、歌手になる人生を40年前にあきらめてすべてを封印していたのだ。

それから、筋トレも含めて、ファブリスが必死にジャン=フィリップをサポートする。

しかしそううまくはいかない。絶望した時にわざと殴られてこの世を終わらせようとするけれど、気を失っても元の世界に戻れない。

でもジャン=フィリップが斃れているファブリスを助けてくれた。二人の間にはいつか友情と信頼が生まれていたのだ。

で、いろいろあって、最終的に、ジャン=フィリップはサッカーの大スタジアムで突然歌って観衆の心をつかむのだけれど、ファブリスは殴られて気を失う。

気が付いたら自分のうちのベッドの上。

会社に行かなくては、と慌てて出社するが、みんなにじろじろと見られる。

おそるおそる、「ファブリス・ルキーニさんですよね」と言われてサインを求められる。

また別のパラレル・ワールドに来てしまったのだ。

携帯が鳴る。

ジョニーからだった。

実際に友人同士である歌手のジョニー・アリディと俳優のファブリス・ルキーニが生きる世界に降り立ったというわけだ。

二人はデュオで歌う。

現実と虚構が重なったり移ろったりとかなり芸の細かい脚本だ。


若い頃の夢を封印した60歳の男に、そのポテンシャルを信じさせて、彼がなるはずだった者に短期間に仕たてあげることができるのかか、自信と自信喪失と信頼と懐疑、情熱と希望と夢。


ファブリス・ルキーニの演技がうまいのは知っているが、若い頃の事故という偶然で人生を棒に振った男の哀愁と尊厳を演じるジョニーはなかなかのものだ。


そうか、この、破天荒な生活を続けたロックンローラーの秘める、ある種の無防備な弱さというものに人々は惹きつけられるのかもしれない。

夢見ていた人生を送ることがかなわずに初老の域に入ったジゃン・フィリップと同年配の「白人」たちに、夢を見続けさせる何かをジョニーは持っているのだ。


ジョニーは最初、この作品を拒否したそうで、ルキーニも断ったという。

でも、友人同士である2人は、互いに、互いの共演ならということで最終的に引き受けたという。

大いなるお遊び、贅沢な遊びといえる映画だが、ジョニー・アリディがフランスの国民的歌手であるという前提を共有していなければ分からない。

ジョニーのファンは確実に動員できるということでフランスでは商業的に成り立ったのだろう。

これからDVDなども売れるだろうな。

やぼなことを言えば、一卵性双生児だって40年も別の環境で別の暮らし方をしていたら外見も含めて違いが出てくるものだから、パラレルワールドで無名の男だったジャン=フィリップが、60歳になって、いきなりロックスターのジョニー・アリディに変身できるのか、あるいはそれをファブリスに確信させる要素を持ち続けているかというのは、説得力が少ない。

ジョニーはジョニーのままだ。

それでも、ジャン=フィリップの悲哀と底に秘める尊厳とやさしさとをにじませる演技はなかなかのものだった。


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by mariastella | 2017-12-16 00:05 | 映画

『外国人』The Foreigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

『外国人』TheForeigner マーティン・カンベル監督/ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナン

ジャッキー・チェンが政策に加わった英中合作映画。



60代に入ったジャッキー・チェンがまだアクションで活躍する映画は最近『カンフー・ヨガ』を観てそれなりに楽しかったが、こちらは娯楽映画というよりかなり深刻だ。

ジャッキー・チェンの演技がすばらしい。こんなにいい役者だったのだなあと今更発見した感じ。それに、彼のようなアクションスターでいつリタイアしても優雅に暮らしていける財産もあるだろうに、いろいろな作品へのチャレンジが続くのはすごい。このような人が活躍を続けられる「国境のない映画界」は捨てたものではない。


ロンドンのチャイナタウンのレストランの経営者のジャッキーは、高校生の一人娘のショッピングに付き合って、車から降ろして待つことにしたが、店に入った娘は爆弾テロに巻き込まれて死ぬ。「真のIRA」による犯行宣言が出された。

IRA(アイルランド共和軍)はイングランドに対して「武装闘争」を繰り返してきた。その過激だった時代をテーマにした映画に『父の祈りを』があり、前に数回にわたってコメントした

1998年のベルファスト合意以来、IRAのテロは一応終わり、元のメンバーが首相になっているという設定だ。19年も平和を保ってきたというのに、分派した過激派「真のIRA」の無差別テロによって政治的危機に陥るのは過去の闘士であるリアム・ヘネシーで、その役を演じるのが元007役者のピアース・ブロスナンだ。

彼は本当にアイルランド出身だそうだ。そういえば初代007のショーン・コネリーもスコットランド人アイデンティティを掲げているし、「英国紳士」なんてとてもひとくくりにできない。

ともかく、往年の007と往年のクンフーのヒーローが対決するこの映画は、ロンドンという国際都市で、1984年に移民してきた初老の男(だから何の危険もないと最初は見逃されるが実はベトナム戦争でUSに特殊訓練を受けたゲリラだった)と、一見「立派な英国紳士」だがやはり過去にはIRAのゲリラでテロ攻撃にもかかわった歴史的マイノリティの立場にある男、という、国籍があっても「外国人」であり続ける二人を「対決」させた。

亡命の途中でタイの「海賊」に襲われて娘二人を失うというつらい過去を乗り越えた男が、最後に恵まれた末娘、産後に妻も亡くし、たった一人残った家族である末娘の「復讐」を誓う。

IRAのメンバーや旧ゲリラたちも、多くの家族を失ってきた。


それら「過去の闘士」たちの抱く歴史の痛み、運命への怒り、が並び、重なり、うねりとなる。

ふたつのストーリーを同時に見ていると、ジャッキー・チェンがブロスナンに「あんたたちはカトリックなのに」と言うシーンがあるのだけれど、不正や悲しみや恨みや復讐の意志などは、宗教も人種とは実は関係がないと分かる。

宗教や人種や国籍などは排除や憎悪や攻撃の口実だったり、契機であったりしても、本当の理由ではない。ロンドンでのテロと言うと、近頃はもちろんイスラム過激派のテロを思い浮かべてしまうが、この映画でISではなくIRAを使ったのは、その意味で大いに意味がある。

テロの後のシーン、暴力シーン、撃ち合い、殺人など、ヴァイオレンス満載で、プロの警備員たちが復讐劇に巻き込まれていくのは不当だとしか言えないけれど、最後は、一応のカタルシスと一応のハッピーエンドとなる。

黒人の警察リーダーと中国人の移民と政治家という3人の中心人物が、最終的に互いの苦しみや立場の中で「絶望」の淵には落ちていかないし落とさない強さがありそうなのが救いと言えば救いだ。


この映画の上映には不思議な噂があって、その中には宣伝を自粛させているというものがある。

フランスの緊急事態宣言下、カタルーニャの独立騒ぎ、イスラム過激派のテロや、一匹狼のテロリストなどのいろいろな問題があるところに何かピンポイントで「不都合な」部分があるのだろうか、と勘繰ってしまう。警察の特殊部隊が生き残ったテロリストに自白させた後でその場で撃ち殺すシーンも「不都合」だろう。007も「殺しのライセンス」だけれど、軍隊も特殊警察も諜報員も、結局は国家による「司法抜きの殺人装置」として機能しているのが現実なのだ。


考えてみると、私のごく近くにはチベット、中国、ベトナム、イラン、スペイン、アルゼンチンなどからフランスに来た人たちがいる。中国人の友人はカンボジアでクメール・ルージュに銃を突き付けられた、と言っていた。他の人たちもみな大変な目にあってきただろう。アルジェリア戦争後に成人したフランス人や戦後生まれの日本人は、なんだかんだと言っても「戦争」を直接体験しないで生きることができた。

こういう映画を見ると、その僥倖をあらためて感じるし、残された時間で何をすべきかという自問に別の方向から光が差してくる。






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by mariastella | 2017-12-03 00:05 | 映画

『Le Brio』イヴァン・アタル監督

最近のフランス映画をもう少し。まず、 

Le Brio』イヴァン・アタルIvan Attal 監督 .

ダニエル・オトゥイユ Daniel Auteuil, カメリア・ジョルダナCamélia Jordana



これは、いわば、先日の『メロディ』のような環境の子供たちが10年後にどうなるか、そして音楽の先生でなく法学部の教授と出会うとどうなるか、というもう一つのカルチャー・ショックのストーリー。


パリ南郊外で育った「アラブ系」のネイラがアサスのパリ大学法学部へ。

ブルジョワ子弟風が多い学生たちといっしょにネイラが建物に入ろうとすると黒人の警備員が学生証の提示を求める。

ユニークなのは、『メロディ』のように、二つの別々の世界、別々の世代が出会って、才能にほれ込んでメンターになる、というのではなく、ピエール・マザール教授が最初から差別主義者で、講義に遅れてきたネイラに差別的発言をしたことだ。それが問題になり、懲罰委員会にかけられる前に、「多様性を尊重」する証明としてネイラを弁論大会に出すために訓練しなければいけない羽目になる。

つまり、出発点にルサンチマンや相互の憎悪があるわけだ。

大学の講堂で学生たちがすぐに、教授の言葉に反応して「差別だ差別だ」と騒ぐこと自体がフランス的ではあるけれど、それは「偽善」でもあることも分かる。


今の学生たちがほとんどノートパソコンを持って講義を聴いていること、教授の差別的言辞などはスマートフォンで録画され、facebookに上げられることなどは、どこの大学でもそうかもしれないけれど、今の私から見たら、こんなところで講義もしたくないし、講義も受けたくない、という感じがした。

バカロレアに合格すれば原則的には誰でも講義に出ることができるので、昔のアサスも一年目は学生の私語などがもっと多かった、今はもっとひどいんじゃないか、という人もいる。私はソルボンヌの大講堂で受けた講義などもう40年前だけれど、普通に静かだったような気がする。1年生用ではなかったけれど。

でも、学生が多すぎて、教授が遠すぎて、集中もできずにすぐ眠たくなったので途中でやめた記憶がある。日本の大学でも最初の2年くらいは大教室での講義に出たことがあり、全共闘がやってきて中止させるということがたまにあったけれど、まあ、普通だったし、眠らないために大抵は前の席に座ることにしていた。

アサスもよく知っているのでなんとなく懐かしい。


で、弁論大会(大学対抗であり、アサスは最近優勝者を出していない)の準備をさせるための個人授業が始まる。ネイラは自分が教授のアリバイ作りに加担させられているとは知らない。

ネイラは少しずつ地元の幼友達たちと別の世界に生きていることに気づくようになる。

シングルマザーと暮らしている。

教授は独身で、老いた母ともうまくいっていない。

大学教授で教養もあるが実は孤独で気難しく誰ともいい関係を築けない。

ネイラも教授も、ある意味で典型的でカリカチュラルなシチュエーションだ。

社会寓話という感じになっている。

この2人は互いの偏見を乗り越えることはできるのか ? 

そして、古典や哲学の知識とか弁論術のスキルなどの高度な教養はどのように教えたり学んだりして継承するのか ?

教授はネイラにメトロの中でテキストを大声で読ませたり、高齢者に話しかけさせたりと、さまざまな方法で訓練する。ネイラと一緒にフランス各地の大学(フランスは基本的には国立大学しかない)を回って予選を勝ち抜いていく。決勝はもちろんパリだ。

これが子供たちの成功と満場の拍手というような『メロディ』風の予定調和なら、当然、最後に優勝してハッピーエンドとなっても不思議ではないが、実は思いがけない息をのむラストになっている。

ネイラ役のカメリア・ジョルダナはいわゆるアラブ系と言われるアルジェリア人の両親を持つが両親ともに歌手でのブルジョワ家庭に育っているので、この映画での「役」とは重ならない。監督のイヴァン・アタルはアルジェリアから引き揚げてきたユダヤ人家庭の子供で、映画の舞台であるパリ南の郊外の町で実際に育った。

ショーペンハウエルの『争論弁証法』(必ず言い負かす技術)にある「戦略」を徹底的に叩き込まれる。真実などはどうでもいい、論理や分析や哲学も関係なく、ただ、論争に勝つための実用的技術、手練手管というものだ。ポスト・トゥルースの走り。

それを軸にして、ラブレー、ニーチェなども援用される。

この本は日本で何と訳されているのだろうかと検索してみたら、岩波文庫の『知性について』の中で「論理学と弁証法の余論」として収録されているようだ。日本語の要約がないかと探してみたら、ある感想文の中に一部があった。こういうものだ。

>>>第七戦術…拡張解釈の手。論敵の主張を――その当然の限度以上に押し広げ――彼が意図しあるいは明言した範囲以上に広い意味に受取り、このように拡大解釈されたテーゼをわけもなく反駁する手。
 対策…「反論を受けた場合は、自分が言明した主張を、用いた言葉遣いやそれに当然含ませられる意味だけに、はじめから厳しく限定すること」
 
 第八戦術…「理屈詰めの手。論敵のテーゼに、それと主語や述語の点で似ている第二のテーゼを、それもたいていは無断で付け加える。そしてこの二つを前提として、そこから真ならざる――たいていは悪意的な――結論を引き出してきて、その責任を論敵に負わす。
 例…「フランス国民がシャルル十世を追放したことを甲が賞賛する。すると直ちに乙が『ではあなたは我々が我々の国王を追放することをお望みなのですね』と言い返す」
 
 第九戦術…「方向転換の手。討論中に、どうもうまくゆかぬ、論破されそうだと気づくと、論点変更によって――すなわち議論を第二次的な別の対象の方へそらせ、必要とあればそういう題目へ一気に飛び移って、いちはやく敗北の厄を防ごうと努める。〜彼らが窮地に陥ると、必ずといってもよいほど出現してくるものなのである」<<<

etc,etc…

なんだか国会答弁で「野党からの追及のかわし方」として、使われているごとくだ。
 
もっともショーペンハウエルはこれを学べと言っているのではなく、これを使う相手とは即座に話を打ち切るべきであると推奨しているのだから、要するに、真理を問題にしないこういう土俵にはひき出されるな、ということだろう。
 

映画の弁論のシーンは、なかなかいい。戦略だけでなく、ネイラの恋愛なども反映されていて説得力がある。弁論スキルの中にネイラにはどこか「真実」があるのだ。

ダニエル・オトゥイユは名優だが、なんだかファブリス・ルキーニとキャラがかぶるイメージだった。ルキーニ・ヴァージョンも見てみたくなる。

スケールはささやかだが私好みで気にいった映画だけれど、弁論シーンをはじめ、「フランス語」のおもしろさが際立っている映画だから、例えば日本で字幕上映されたりしたらどの程度伝わるのだろう。

特筆すべきはネイラの幼馴染の青年で、大学生になったネイラからメールでも綴りを訂正されたり、しゃべり方や語彙についても注意を受けたりするなど、ネイラが自然に「上から目線」になったことも感じながら、その愛情は変わらないし、クライマックスシーンに大きな役割を果たす。

その前にネイラは彼のことを評して「まっすぐで、曲がらなく、恐れもなく、刃物のような人」のようないろいろな形容をする。それを聞いているだけで、彼女が、彼の環境や教養や学歴や仕事などと関係なく、人間として最も大切な部分を把握していて、それがどんなに稀で、すばらしいことかということを理解していることが分かる。

幼い時からのつきあいで、見抜いていたのだ。

こういう「絶対にぶれない信頼のおける男」というのは、少数だけれどどの世界にもいる。ネイラがそれを見抜く力があってよかった。

この映画の設定だったら、メンターとなる教授とネイラの間に疑似恋愛が成立するというシナリオでも不思議ではなかったのに、短いシーンで若い恋人たちの心の機微をきっちりと描いて、愛するとはどういうことなのかを見せているのはすばらしい。カメラワークによる表現力もすぐれていて満足。


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by mariastella | 2017-12-01 00:05 | 映画

『メロディー』ラシド・アミ監督、カド・メラッド主演

最近観たフランス映画の続き。

『メロディーLa Mélodie 』ラシド・アミRachid Hami 監督、カド・メラッドKad Merad主演


これは暴力シーンも絶対にない精神衛生にいい映画。

50がらみのバイオリニストのシモンがパリの下町の中学1年のクラスでバイオリンを教えることになる。フランスで中1というと日本の6年生の年頃で、反抗期の一歩手前。フランスの小学校には音楽の授業がないから、親に地域の音楽院に登録してもらえなかった子供たちはドレミも読めない。

この映画はいわゆるfeel good movieで、社会的に恵まれない階層の子供が教育者に出会って人生に、未来に、意味と希望が生まれるというもの。その意味では予定調和の世界だ。

カド・メラッドというコメディのイメージが強い性格俳優が、バイオリニストのシモンを演じる。彼もまた、子供たちとの交流から人生の喜び、音楽のすばらしさを再発見するというストーリー。

音楽によって恵まれない子供たちを助けるという試みはいろいろな国にある。ベネズエラが有名で前にも少し書いた

フランスでも、この映画のモデルになったのは2010年から試みられているDémosという政策で、移民の子弟らの学区で3000人の子供たちに楽器を与え、教えて、オーケストラに参加して一流のホール弾かせるというものだ。この映画では、リムスキーコルサコフのシェヘラザードをフィルハーモニーで演奏する、という目標がたてられる。


去年の6月に、フィルハーモニーで200人のバイオリン(とビオラ)演奏に参加するために暗譜に励んだ私としては親近感あり過ぎ。私の場合はすでに音楽院の中級以上の生徒という条件付きでフランス中から小学生から85歳までが参加というむしろ「贅沢」な冒険だったのだけれど、大勢で、大ホールで、一つの音楽を創るというわくわく感は同じだ。

上演の後で監督のラシド・アミとの質疑応答があった。8歳以上の子供の参加がOKで、子供たちの質問がかわいかった。小学生に、どうして小学生でなくて中学生を使ったんですか ? と聞かれた監督は、12歳未満は一日に2時間までしか拘束できないこと、12歳からは4時間拘束できるので撮影が可能だった、と答えた。

パリとパリの近郊から、一度もバイオリンを弾いたことのない子供たちのオーディションをして15人選んだ。移民の子供(才能を見出されてソリストになる子供はセネガルから来た母子家庭という設定)などが中心なので、映画に出すためには両親の承諾が必要で、シングルマザーの子供のうち4人の父親を探し出してサインしてもらったが、父親に会ったこともない子供たちにはそのことを話せなかった、と言っていた。

映画には、途中で電線のショートで火災になり音楽室が使えなくなるというハプニングがあるのだが、それを心配した子供には、実はこの音楽室だけは、撮影のために特別に作ったもので、それを燃やしたのだという裏話も教えてくれた。

撮影にかけた三ヶ月のうちに、実際に、演技もさせ、バイオリン(鈴木メソード)も習わせてオーケストラと弾かせるという冒険に成功した。全員が、将来も役者になりたいと言い、5人がバイオリンを続ける、ソリスト役の少年はバイオリンの道に進むと言っているそうだ。


映画の中で、子供も、親たちも、実際にシモンが弾くバイオリンの音色に魅せられる。クラシック音楽の敷居が高いとかいうよりも、今の子供たちはイヤホンなどを通しての再生音楽以外はなかなか耳にする機会がないから、生の音楽に涙を流すほど感動するのだ。この辺の実感は分かる。

監督は、ゲットーの子供がバイオリンというノーブルな楽器を持っている姿にドラマを感じたので、管楽器ではなく敢えてバイオリンにした、と言う。

私はいつもは、こういう上映会の後の監督とのディスカッションには積極的に発言するタイプなのだけれど、今回は終始聞くだけにした。

ビオラ弾きでカルテットもやるし、フィルハーモニーでのオーケストラとの共演もし、生徒との交流も仲間とのコンサートもある私にとっては、この映画はいろいろツボにはまりすぎているからこそ満足したのだけれど、それだけに「普通の観客」の視点を持てない。

よけいな突っ込みどころが多すぎるのだ。

映画の中で、カルテットの一員として演奏旅行が決まったシモンが中学校での仕事を途中でやめる、というのだけれど、パリでのコンサートの後で、演奏旅行をキャンセルして子供たちの指導を続けることになる。その理由は、聖堂でのコンサートの後で、喜びを感じられなかった、子供たちと音楽をやっている時の方が喜びを感じられることが分かったから、というものだ。

シナリオとしては納得がいくけれど、演奏家としてはまったく信じられない。

あのような場所でモーツアルトのディベルティメントをあのようなパート(第二バイオリン)で弾いた後で「喜びを感じられない」なんてあり得ない。

責任感から子供たちの指導を続けるとしても、カルテットでの演奏旅行の方が絶対にいい。演奏者としてのクオリティ・オブ・ライフとしては比較にならない。

ラストのフィルハーモニーでのシーンも、本番でソリストの少年のうまさに指揮者が驚いたような顔をするのが信じられない。これもシナリオ的には、最初の合わせでひどいレベルだと絶望したシーンがあるので、本番での「奇跡」に指揮者がうなる、という筋書きは分かるけれど、本番の前にもう何度もリハーサルがあったはずで、フィルハーモニーのリハーサル室や、舞台でもすでに合わせているはずだから、そんな意外性があるわけがない。

バイオリンがノーブルな楽器というのも実は今のフランスの下町の公立音楽院では逆だ。ピアノは自宅にピアノを個人でレンタルするか購入するかが必要だけれど、バイオリンやビオラは、子供用のサイズのものが音楽院から貸し出される。だからシューズやレオタードなどが必要なバレエなどと比べても、バイオリンの方が気楽で子供を通わせることが多い(親の所得が少なければレッスン料も限りなく安くなる)。だから、ピアノのクラスに比べてバイオリンのクラスの方が明らかに外国人の子供や移民の子供が多い。ただし、親がフォローしないので、その多くは途中でやめていくし、学年末の試験で振り落とされる。

他にも不満はある。この映画でシモンが弾いて子供たちや親を感動させるソロ曲はメンデルスゾーンのコンチェルトにバッハのパルティータだ。生徒二人を招いたコンサートで弾いたのはモーツアルト、クライマックスの課題曲がリムスキーコルサコフという選曲。

まあ、リムスキーコルサコフはかなりフランス的な色彩はあるけれど、そして、ソリストの少年を際立たせる効果のために選んだそうだけれど、実際にこの種のプロジェクトの課題曲としては向いていないので不自然だ。

バッハのパルティータのシャコンヌもフランス舞曲風とは程遠い弾かれ方だし…。フランスが舞台の音楽ストーリーなのにフランス音楽が一つもなく、「クラシック音楽=ノーブル=バイオリン=ドイツ音楽」のような先入観に立つのはいかがなものか…

などと、小さな違和感が積み重なる。

もちろん私が知らない世界がテーマの映画なら、ディティールにおいてどんな不自然な場面や考証のエラーやご都合主義があったとしても、それに気づかないだろうし、気にもしないし、それが映画のフィクション世界を妨げることもない。

あまりにも身近なので気になるのだ。

自分もアルジェリア生まれでパリ近郊の貧しい町で育ったという32歳の監督は、中学校で働いたこともあるが6ヶ月しか続かなかったという。小学生の子供が「どうして映画の中の生徒たちは悪い言葉ばかり使うのですか?」と質問したら、「子供に見せるためにもっと上品な言葉を使うことしたらそれは現実とは違うことになる、ぼくもこういう言葉を使っていたし、今も子供たちはこういう風にしゃべっている、ありのままを撮っただけだ」と答えた。

19ヶ国の上映が決まっているそうで、イタリア、アンダルシア、韓国での上映に出席したそうだ。生徒たちの大半が黒人やアラブ系などであることはフランスのサッカーチームと同じで違和感は持たれない、などとも言っていた。

こうなると、この映画の社会的背景はある意味で私と遠いところにあるわけで、弦楽器、フィルハーモニー、生徒に教える、などという共通点がある分、かえって断絶も感じる。

シモンのセリフの中で実感があると思ったのは、「どこにでも才能のある子とまるでダメな子とがいる」と言い切るところだ。

才能のある子もゼロの子もいっしょにグループとして何かを作り上げていくことは難しい。バイオリンがダメでも、スポーツやダンスの才能があったり、絵の才能があったりする子、数学の才能がある子などはいるだろう。でもそんな子供たちはこのプロジェクトにとってはお荷物であり、本人にも苦痛かもしれない。教える方にとっても喜びがない。こういう自明な多様性があるはずなのに、貧しい子供にもバイオリンとクラシック音楽を与えると人生の道が開ける、みたいなオプティミズムにも違和感がある。

今の日本は知らないけれど、私の小中学校の頃は、全員がなんでもかんでもやらされた。嫌いな科目、不得手な科目に苦しんだ者も多かったかもしれないけれど、少なくとも、自分は何が嫌いなのか、不得手なのかを自覚する役にはたったかもしれない。

小学生の頃から私がピアノを教えている生徒が今は高校三年になり、来年のバカロレアで、理系バカロレアのオプションとして音楽も受けるというので、自由曲を準備させている。最初は、フランスであまり知られていないドイツ・ロマン派の曲を練習させていたのだけれど、今年のテーマがかなり現代的なものだということが分かって、サティに切り替えたところだ。ラヴェルの左手のためのコンチェルトなど10曲の課題曲から二つをくじで引いて、当たった曲の作曲者や時代背景や音楽の構成などを審査員の前で発表し、質問に答え、それから自由曲の実技を披露する。その曲の背景の説明や、課題曲との関係も話さなければならない。

私のトリオのメンバーのHは音楽バカロレアの審査員も毎年しているので、アドバイスをもらうつもりだけれど、私の生徒のリセでは、専任の担当のがいない。私が全部、準備を助ける。

オプションなので、自分の平均点を下回る点数である場合は計算に入れられないので、失敗してバカロレアの平均点の足を引っ張ることにはならないが、受験準備だけでも結構時間は取られる。でも、ここでこの10曲についてしっかり学べば、これからの人生の「教養資産」になると思うよ、と私は彼女に言った。

彼女も私の個人レッスンをずっと受けているのだし、クラシック・バレーもずっとやっていて、私立の進学校に通ってエリートコースを目指しているのだから、「貧しい家庭の子供たちに楽器を教える」冒険などとは程遠い。でも、楽器演奏という純粋にテクニックの習得とそれを超える音と音の間に出現する「音楽」と、曲を通しての作曲家との出会い、時代との出会い、人間性の普遍との出会い、などから生まれる錬金術のようなマジックの瞬間を共有する体験は、何物にも代えがたい。彼女にとっても、私にとっても。

ある曲の演奏について彼女の感性と私の感性がぴったり一致したような時は、その部分でとても特別な関係性が生まれる。


一対一(正確には作曲家も合わせて三人だけれど)の贅沢というのが私にはちょうどいいサイズなのかもしれない。


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by mariastella | 2017-11-28 00:05 | 映画

『Tout nous sépare (すべてが私たちを分かつ)』カトリーヌ・ドヌーヴとラッパー

最近見たフランス映画2本を紹介。

まず、ラップ界の大スターでアイドルであるという27歳のネクフーと、大御所カトリーヌ・ドヌーヴが、すべての差を乗り越えて心を通わせる話だという『Tout nous sépare (すべてが私たちを分かつ)』というスリラー。



ドヌーヴは未亡人で夫の後を継ぎぐ港湾の工場の経営者、その娘のダイアン・クルーガー(41歳)は、事故のせいでケロイドや障害が残り母の家に住みながらドラッグ中毒になり売人ルドルフと付き合っているが彼に暴力を振るわれた時にパニックで彼を殴って殺してしまう。

ルドルフはベン(ネクフー)ともう一人の三人組で麻薬のディーラーやら、夜中に犬を盗み出して闘犬の試合に出すなどの軽犯罪を繰り返しているが、元締めにあたるギャングから大金を払うよう脅されていた。

この3人組の描き方が、短いのにその関係性がよく分かってうまい。

よくできている。

ベンは犬が戦いに負けて噛まれて死んだことに涙するセンシブルな男だ。


ベンを演じるのが27歳のネクフー。ギリシァ人の父とスコットランド人の母の間にフランスで生まれたという国際派だ。ダイアン・クルーガーもドイツ出身の国際派。

で、クルーガー演ずる娘が愛人を殺してしまったことを聞いて俄然母性本能に突き動かされて隠蔽を試みるドヌーヴ。

真相を知って恐喝にやってくるベン。

ドヌーヴがベンに金を少しずつ渡す間に奇妙な心の通い合いが生まれる。


ギャングに襲われるベンを匿って猟銃を構えるドヌーヴ。

すでにベンも、彼女のアドレナリンで肥大した母性本能に守られる存在となっている。

ベンは、それに、どうやって答えるのだろうか…。


という話で、一応スリラー映画とあるが、世代を超えた人間模様という映画かと思って観に行ったら、先日の『アウトレイジ』でも見ないですんだような暴力シーンが満載で、まいった。闘犬のシーンも目を覆ってしまう。


それにしてもドヌーヴ、若い時もポランスキーの『反撥』なんていうのに出た時点からただものではないという感じだったけれど、それでも70代になっても次々と難しい役に挑戦するのには脱帽する。

実はこの人とは昔プライヴェートでやや不快なことがあって、個人的にはあまり好きではなかったのだけれど、そして、今となっては昔の氷の美貌の面影がなく体型もぶ厚く重くなった姿に、なんとなく哀れもそそられていたのだけれど、この映画の彼女、なんだかめちゃくちゃで現実感がないけれどすごくかっこいい。


彼女より若い登場人物たちが軒並みに、卑怯、悪徳、堕落、強がり、鬱、自暴自棄、などの弱さの中であがいているのに、彼女だけが、強い。

恐ろしさのあまりに吐いたりしているのだけれど、もちろん暴力も振るわないのだけれど、とにかく、強くて、カタルシスを覚える。

これを母性本能で説明してしまうのは安易なシナリオだと思うが、ドヌーヴがそれを演じるからこそ爽快感が出ている。

テーマとしては、「それがどうした」みたいでインパクトのない映画だったのだけれど、今更ドヌーヴのファンになってしまいそうな不思議な一作だった。


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by mariastella | 2017-11-19 00:05 | 映画

機内で見た映画 その4  『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』ニコラ・ブナム

『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』ニコラ・ブナム

JAL便なのでフランス映画は一本しかなかった。


好みではなかったけれどジョゼ・ガルシアやアンドレ・デュソリエという芸達者が出ていることだしと思って観た。


原題が「A fond」と言って、アクセルをいっぱいに踏んでとまらない、というのを表したタイトルだけど、それをボン・ボヤージュ、って変な表記のフランス語(英語読みなのかもしれない)。

これはどう考えてもボン・ヴォワイヤージュだと思うけれど、例の「既視感」のデジャ・ヴュを日本語表記デジャブとするのも定着しているようだし耳にもするのでこんなもんだろうか。もっとも、たとえ「デジャブ」の代わりに「デジャ・ヴュ」と言っても、ジャの発音も、ヴュの発音もフランス語と違うので通じるかどうかわからないけど。

で、整形美容医療で金持ちになった夫と、三人目の子を妊娠中で精神科の勤務医の妻が、2人の子供と夫の父親との5人で、スピード制御機能などの充実した新車でバカンスに出かける。途中のサービスエリアで、夫の父親がヌーディストクラブに向かう若い娘をそっと便乗させてやり、次に車のブレーキが利かなくなって時速160キロで拘束道路を暴走、どうサバイバルを果たすか、というドタバタコメディだ。

ばかばかしいのだけれど、シチュエーションがあまりにも極限的なので、あり得ないとはわかっていても、フランスの高速道路という身近な場所が舞台なのでつい恐ろしい事故の可能性が頭にちらついて、結局目が離せなくなってしまった。


そういうぎりぎりの状況で、険悪だった家族が互いの愛を確認するというシーンも、ハリウッド映画ならそれなりの感動があるように作られるのかもしれないが、この映画では全体があまりにも不条理でナンセンスなのでジョークのようにひびく。夫婦のどちらもが浮気をしていて、独身の父親もあいかわらずガールフレンドを求めては分かれを繰り返すなどの状況がフランス的と言えば言える。


交通警察のカップルを含めたアクロバティックな特殊撮影?がよくできているので、中途半端にリアルなせいで全部を笑い飛ばせずにハラハラさせられてしまうという匙加減が、うまいといえばうまい。


映画はちょっと休んで、来週からはまた芝居を観に出かけることにしよう。


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by mariastella | 2017-11-10 00:10 | 映画

機内で見た映画 その3 『僕のワンダフルライフ』『ヘッドハンター・コーリング』

アメリカ映画2本

『僕のワンダフルライフ』(ラッセ・ハルストレム)

は、犬と飼い主の絆ストーリー。

1950年代からのアメリカの情景が変化してくるのを見るのも楽しく、飼い主との間の愛情やかけがえのない感じもぐっとくる。過去に飼っていた犬との思い出も重なる。

少年イーサンが青年になり、父親が失業してアル中になり、青年は恋もして、アメリカンフットボールの選手として大学入学が内定し、恋人と同じ都会に出ていくことが決まっている矢先に、家が放火されて窓から飛び降りて足をやられ夢は潰える。母の実家の農場を継ぐために農業を学びに旅立ち、老いた愛犬ベイリーはイーサンの祖父母の家で死を迎える。

その後でシェパードとして生まれ変わって飼い主となる警官の孤独を癒し、警察犬として活躍して殉死、次にコーギー犬として黒人の女子学生のペットとなり幸せな生活をまっとうする。さらににミックス犬として虐待されるが逃げだして年老いたイーサンと再会。自分がベイリーの生まれ変わりだと気づいてもらおうと努力して…


泣かせるエピソードが満載で、でも、犬に託して、


生きることとは愛すること、

愛する人のために尽くすこと、


など、わかりやすいモラルのメッセージ性がかえってむなしい気もする。

こういう公正でまっとうなモラルをハリウッド映画などが繰り返し称揚しているのに、どうしてアメリカの人種差別はなくならず、銃社会が続くのだろう、などとつい思いいたってしまうからだ。

市井のアメリカ人と犬との交流を見ると心を通わせることができるのに、どうして、力の誇示しかしないようなトランプ大統領のような男がトップに立っているのだろう。

『ヘッドハンター・コーリング』(マーク・ウィリアムス)

も、わかりやすい家族愛もの。


ジェラルド・バトラーという主演俳優がいい味を出している。

建築家になるのを夢見る10歳の長男が白血病になり、仕事人間の父親が出世競争から脱落してまでも子供と妻に寄り添う。

シーク教徒の医師の姿もすごくアメリカ風だ。

弱いものを救うために最大の力を尽くすのがシーク教の教えだ、というのも、とてもいい。

けれども、58歳の男の再就職の難しさや、嘘をつくなど汚い手を使ってでも自分の業績を稼ぐという実態や、金がすべての社会を見ていると怖くなる。


もちろん映画ではそこから主人公が人間性に目覚めることで目先の成功は失うがもっと大切なものを救いそれが結果的には次につながる、というハッピーエンドになる。

とはいっても、その陰には、消費され、消耗してバーンアウトしていく人たちや崩壊する家庭が累々としているのだと思うと気が重い。


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by mariastella | 2017-11-09 05:02 | 映画

機内で見た映画 その2 『君の膵臓を食べたい』『アウトレイジ 最終章』

日本映画を2本。

『君の膵臓を食べたい』はベストセラー小説の映画化だそうだ。

タイトルが衝撃的で、膵臓の病で死を宣告されている少女とその秘密を偶然知ったことで無理やり「なかよし君」認定されてしまう少年のストーリーで、その少年の12年後に母校の国語教師となった姿も違和感がなくていい。

二人の高校生の演技がいい。

自分の世界に閉じこもっている少年と、クラスの人気者の明るい少女。

この少女の方が実は死を間近にしてある意味で「老成」しているのだけれど、無邪気にふるまって少年を翻弄する。

高校時代である2005年の時点で学校内で自由に携帯電話が使えているんだなあ、という驚きがあった。

この少女の、一見無邪気風の深刻さと残酷さ、それを見抜けないまま意のままにあやつられる少年の孤独と困惑とのコントラストが最も印象的だった。

このタイプの男を、自覚しないままに思うがままに操るタイプの女は確実にいる。

かってに「なかよし君」認定してしまう力関係、それは、青春時代の男女だけではなく、何歳になっても、ある種の制約の中にある男女の仲に倒錯的に存在する。


映画の感想よりも、そっちの感慨の方がだんだんと大きくなってしまった。

『アウトレイジ 最終章』

悪夢のもとになるバイオレンス映画はこれからの余生でできるだけ避けようという方針からこの映画もスルーしようと思っていたけれど、機内の小画面なのでなんとなく見始めた。

バイオレンスよりもホラー映画の方が避けるべきで、バイオレンスはそのシチュエーションによるということが分かった。

この「やくざ映画」には、指詰めや拷問などの残酷なバイオレンスはなく、拳銃乱射などの抽象的なもので、東映やくざ映画のように、打たれてもなかなか死ねないという生々しさがない。

それに、まさに、ジャッキー・チェンの香港映画と同じく1970 年代によく観た「仁義なき戦い」シリーズだの「県警と組織暴力」などの懐かしい東映映画との同窓会のような気もする。つまり、バイオレンスと言っても、やくざという特殊社会の様式内の表現なので、あまり怖くないのだ。日本人は兵隊とやくざを演じればだれでも名優になる、というのを昔読んだことがあるけれど、上意下達、親兄弟の義理などの日本社会を縛る原風景的拘束感と、大声、凄み、脅し、恫喝、罵詈雑言などが醸し出すカタルシス感がセットになっているので、だれでも隠れた本音みたいなのを感じるのかもしれない。

花菱会若頭でクーデターを起こしてしまう西田敏行の悪人面がすごい。

これが『釣りバカ日誌』の浜ちゃんを演じられる俳優とは。

浜ちゃんがやくざになれるならフーテンの寅さんのやくざ姿だって想像してしまう。

ビートたけしの演じる大友の舎弟である若者が、他のチンピラとは違う人懐こさ、兄貴分への愛着によって一種のさわやかさを発している。その役を演じる大森南朋は麿赤兒の息子だそうで、それも懐かしい。


アウトレイジのシリーズを見るのは初めてだけれど、北野武の暴力団映画はフランスで『ソナチネ』を観ている。それでもなお印象が過去の東映映画の枠組みへ収められてしまうというのは、「やくざ映画」の枠組みというのが独特の「文化圏」内にあるからなのだろう。

ストーリーは変化があって分かり易く、役柄はみなキャラが立っていて、その上韓国の済州島のシーンも興味深かった。

こういう国際的なフィクサーってホントにいるんだろうなあ。


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by mariastella | 2017-11-08 00:33 | 映画

機内で見た映画 その1 『カンフー・ヨガ』

今回の日本への往復の機内で見た映画。

中国・インド映画1

邦画 2

アメリカ映画 3

フランス映画 1 (これ1本しかなかった。)

日本に行く時は夜間飛行だった。映画をたくさん観て徹夜してしまうこともあるが、今回は演奏旅行なので体力温存が優先、ちゃんと寝ることにして、往きは一本だけしか見なかった。


なぜか中国インドの共同制作の、その名も『カンフー・ヨガ』。


60歳を超えてなおアクションをこなすというジャッキー・チェンへのなつかしさに突き動かされた。

彼の主演のハリウッド映画も少しは見たが、なんといっても、1970年代の日本で見た酔拳などの香港映画の鮮烈な思い出が東京の映画館の空気と共に浸みこんでいる。

いわば同窓会的な気分。


60代のジャッキー・チェンって想像できない。

しかも、考古学者の役。

無理に若作りしているわけでもなく、一見普通のおじさんに見えないでもないが、なかなかいい感じで、贅沢なロードムービーで楽しめる。

お宝発見の最後が全員の踊りとなるのはインド映画のお約束だが、そのお約束ぶりにちょっとくらくらする。

ジャッキー・チェンの踊りの切れ味も悪くない。

でも、私にはこれまでのジャッキー・チェンの映画との関係の中でしか見られないので、この映画ではじめて彼を見る若い人などにとってどう見えるのだろう、と思ってしまった。


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by mariastella | 2017-11-06 00:33 | 映画

クリスチャン・カリオン監督/ギヨーム・カネ主演 『Mon garçon(息子)』

ギヨーム・カネが熱演する『Mon garçon』(クリスチャン・カリオン監督)を観に行った。



先日、映画2本を続けて観に行ってしまったところだったが、付き合いでもう一本。

いそがしいのに「毒食わば皿まで」の心境。

話題にはなっていた。主人公役がシナリオを知らされていないで、6日間の撮影の間ホテルも他のスタッフとは別で過ごした。「なりきってくれ」ということで、リテイクなしの一発勝負だという。だから話の流れが破綻しているところもある、というコメントもあったけれど、悪くはなかった。

主人公を演じるギヨーム・カネも嫌いじゃないし、元妻役のメラニー・ローランが好みの女優だというのもあった。


地質学者でアフリカなど世界中を飛び回って家にいない夫ジュリアンに嫌気がさして分かれ、七歳になった子供マティスを連れて別の男と暮らしているマリー。そのマリーが泣きながら、伝言して雪山のクラスに参加したマティスがテントから姿を消したとジュリアンに告げる。

まずマティスが自分の意思で失踪したのではないかという疑いが持たれた。

マリーが数か月前に妊娠を告げてから関係がうまくいっていなかったからだ。


新しいパートナーであるグレゴワールの発案で、マリーがゆっくり休めるように、マティスを、子供たちを対象にした何日かの山でのグループ活動に登録する。行きたがらないマティスを説得して。


ジュリアンはマリーが流産していたことを知る。


ジュリアンの前で、マリーとの子供を望んでいると夢を語るグレゴワールの様子を見てジュリアンは、この男がマティスの反抗によるストレスのせいでマリーが自分の子を流産したのだと思って復讐したのだ、と思いついた。

その瞬間から、何かが切れてしまったように、ジュリアンは「手負いの獣」に変身してしまう。暴力の嵐。

しかし、グレゴワールはただのエゴイストだった。


ジュリアンは息子がうつっているビデオカメラを何度も見て、手掛かりを見つけようとする。追跡がはじまる。

暴力が結構激しいので(多分最終的に3人は殺した ? 殺すシーンはないが)、まったくシナリオを知らないとは信じられない。セリフなどは書かれていないかもしれないが、「これこれこうなったら暴力をふるう演技をしろ」というガイドラインはあるんじゃないかと思う。

セリフは主人公になり切ってアドリブでいうにしても、暴力シーンは実際に暴力をふるっていいわけではないから、きっちりとした演出が必要になるだろう。。

「父が息子を救い出す」というテーマなのだから、いくら何でもハッピーエンドだろうと思ったので心の余裕は持って観ることができた。

すごくまともな「ドキドキハラハラ」のエンターテインメントで、普通に面白かった。

時間の無駄を後悔するような映画でもないし、世界が変わって見えるような映画でもない。

母親役のメラニー・ローランの悲痛な演技がうまいので、「子育て」についていろいろ考えさせられる。

フランスでは子供のいる二組に一組のカップルが別れ、ステップファミリーも多い。他の男や女にはれたほれた、とか、連れ合いへの愚痴や不満や嫉妬のレベルで懊悩しているのは何とでもなるが、子供が行方不明になった、誘拐されたなどとなると、もうすべて吹き飛んで、親の罪悪感はマックスだ。


子供のそばにいるべきだった、

両親が愛し合い、子供に信頼感を与える安定した平和な環境を与えるべきだった、

など、もう、人生の目的は、「自分の子を失わないこと」だけになってしまう。


その動物的感覚が、映画の中で子供をさがす主人公を「獣」化させたのかもしれない。

フランスで最近、結婚式の野外パーティで8歳の女の子が姿を消して見つからないという事件が起きた。容疑者は見つかったのだが、黙秘を続けているという。両親がメディアを通して容疑者に何とか話してほしい、と訴えていた。

マルセイユでテロリストに斬殺された女子学生の葬儀も映されていた。

子供を持つ人が、子供をなんとか無事に育てあげて送り出し、子供に先立たれないですむ、という「普通のこと」は、そんなに普通ではないのかもしれない。


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by mariastella | 2017-10-06 07:21 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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