L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 139 )

Habemus Papam

Habemus Papam

監督Manni Moretti/ 主演Michel Piccoli

カンヌではわりと評判がよかった。

でも、中途半端でがっかりした。

ヴァティカン、スイス衛兵、緋色のマントの枢機卿群、システィナ礼拝堂でのコンクラ―ヴェなど、フォトジェニックで壮大な装置だけなら、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』のような荒唐無稽の話の映画でもじゅうぶん楽しめるのだが、この映画は、「ローマ法王もやはり人間」とか「何歳になっても自由を選択できる」というような妙にヒューマンな筋立てになっているので、かえって説得力がない。

コメディだと割り切って笑うには、ミシェル・ピコリがあまりにもうまいので、実存的なシリアスな感じもする。

法王がお忍びで巷の精神分析医の所に行くのは、なんだか、『キングス・スピーチ』を思わせる。

いまどきのローマ法王は、みな超インテリだし、そこまで上り詰める人たちはさぞ精神的にも強靭だと思うので、老齢で選出されたからといって突然動揺して鬱になったりするという設定が、正直言って非現実的だ。

懐疑にとらわれた法王、というテーマだとは知っていたが、まさか、バルコニーに姿を出す時点で拒否反応が出た設定だったとはね。

フランスの大統領が「心配だ」と声明を出したり、ブラジルの大統領がバチカンに向けてやってくると決めたり、笑えるところもある。

この映画では舞台役者も、ジャーナリストも、テレビの解説者も、みな、突然自分のしていることに自信を失うシーンがいろいろ出てくるので、「自信喪失」が一つのテーマなんだろう。

それでも人々が無邪気に新法王を祝福するのが心温まり、それなら、それに力づけられて何とか不安を克服した、というエンディングにしておけばいいのに、なまじ「自由の宣言」のような終わらせ方をするから、おとぎ話として後味が悪い。

この映画を見たパリの大司教が、選出されてすぐ後のスピーチでイエス・キリストに触れない法王なんて考えられないから、そこのところが一番不自然だった、と言っていた。イエスのいない教会、永遠の生を信じない信仰はカリカチュアでしかない、とも。

監督はカトリック雑誌のインタビューを受けて、「枢機卿たちが祈っているシーンも撮影したのだが最終的にカットした、彼らが祈ることは誰でも知っているから」と弁解していた。

私はミシェル・ピコリやベネディクト16世と同じ年くらいのカトリックの神父さんたちとも親しいけれど、みんな驚くほど気持ちが若々しくて生き生きしている。

仲良しの90代のシスターも元気いっぱいだ。「老後の生活が一生保証されているのだから安心して、倒れるまで働き続ける」という感じだ。

老人性の鬱になったりパニック障害になったりするようなタイプの人はもうずっと前になっているんじゃないだろうか。

「カトリックの偉い人」はできるだけ「機嫌よく生きる」ことが肝腎だ。

「福音」

を、宣べ伝えるのだから。
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by mariastella | 2011-09-26 02:00 | 映画

Hereafter

昨日久しぶりに映画のことを書いたのでもう一つメモ。

Clint Eastwood の 『ヒアアフター Hereafter 』
/Matt Damon, Cécile de France, Thierry Neuvic,

この興味深い題材とうまい俳優と大きな予算を使って、よくこれだけ残念な結果を出せるなあ。

私がシナリオを書いたら100倍くらいおもしろくできたのに・・・

何気ない出来事を積み上げていってクライマックスで盛り上げるのとは反対に冒頭の津波シーンや事故のシーンが最も迫力があって、結局それ以上には、感動の面でも謎の面でも、まったく進展しないで尻すぼみ。

また、フランスでのこの映画の評に、「パリでのシーンの会話が非現実的だ」というのがあったが、まったく同感だ。ジャーナリズムと出版界の描写や、業界の男と女の様子が、あまりにもアメリカ的なのだ。

セシル・ドゥ・フランスは若い頃のMiouMiouをより繊細にした感じで、もともと気にいっていたが、ますます魅力的になった。映画の中でやつれていく彼女をながめるだけで楽しめる。

それにしても、繰り返し垣間見せられる「死後の世界」はあまりにもつまらない。映画なんだからせめてもう少しマニアックな仮説を立ててもいいのに。
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by mariastella | 2011-02-18 18:42 | 映画

The King's Speech

Tom Hooper監督でColin Firth主演の

The King's Speech

を観た。

日本でのタイトルは『英国王のスピーチ』?

英国王にあたる部分が

原題が大文字の「The King・・・」で、

フランス語タイトルは

『Le Discours d'un roi  』

と、小文字の「a king」

に相当するもので、

王一般や英国王やこの映画に対する言語別、文化別の微妙な視線の違いが感じられる。

皇室の皇位継承問題についていろいろ話題になっている日本での受け止められ方はまた独特のものがあるのだろう。

高貴な身分の者の苦しみやら努力やら友情やら家族愛に加えて第二次世界大戦というドラマティックな背景という要素を並べるだけでリスクの少ない感動ものに仕上がる。

私の注意を引いたのは、

ジョージ5世の次男であったアルバートが兄の退位にともなって急遽即位することになった時、

「アルバートの名ではドイツっぽいから、ジョージ5世との継続性を強調したジョージ6世でいきましょう」

とアドヴァイスをうけたことだ。

兄さんはディヴッドと呼ばれていたのにエドワード8世だった。調べてみると、正式の名は

「エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド・ウィンザー」で、

「名前のうち、エドワードは伯父クラレンス公アルバート・ヴィクター、クリスチャンは曾祖父のデンマーク国王クリスチャン9世にそれぞれ因んだもので、アルバートは曾祖母ヴィクトリア女王の強要によって含まれたものだった。また、洗礼名のジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッドは、いずれもイングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズの守護聖人に因んだものだった。ちなみに、家族と友人からは終生、最後の洗礼名である“デイヴィッド”の名で呼ばれ続けていた。」(Wikipedia)

とある。では、やはり最初のいわゆるファーストネームを王の名にしていたわけだ。
セカンドネームの「アルバート」は「曾祖母ヴィクトリア女王の強要によって含まれた」とあり、次男の時にはこれが晴れてファーストネームに昇格したわけだ。

そのアルバートというのは、曾祖母ヴィクトリア女王がこだわったという通り、ヴィクトリア女王の夫アルバート公の名だ。で、そのアルバート公は、ドイツのザクセン公子で、やはりザクセン公国出身のヴィクトリア女王の母方の従兄にたる。もともと今のハノーヴァー朝はドイツ系で、第1次大戦の時にすでに敵国ドイツのイメージを避けるためにウィンザーと改名した。

で、第二次大戦に参戦する重大な局面においてアルバート王というのはまずい。ここはイングランドの守護聖人であるジョージ(洗礼名には含まれている)で行こう、ということになったわけである。

このことは、1978年にヨハネ=パウロ1世が在位33日目に急死した後で選出されたカトリック初のポーランド人教皇のことを思い出させる。
彼がポーランドの聖人であるスタニスラスという名で即位したいというのを、それではあまりにもポーランド色が強いのでヨハネ=パウロ2世にしろとアドヴァイスされたという話だ。

フランス語ではアルベールという名はベルギー王とかモナコの大公とか王の名としてもなじみだし、もとになった聖人はフランスも込みのフランク王国系ルーツなので、いわゆる「ドイツ色」があるわけではない。

映画の中でもその雄弁ぶりがジョージ6世と比較されているのはヒトラーだが、ドイツ人は名前をずらずらとつけないのだろうか。アドルフというのはゲルマン系の名で、聖人もいないわけではないが、近代以後のイギリスやフランスではごく少ない名だ。

ヒトラーのすぐ下の弟(夭逝)はEdmundという。もしヒトラーのファーストネームがEdmundだったりしたら、エドワード8世も別の名前で即位していたかもしれないな。
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by mariastella | 2011-02-17 19:36 | 映画

父と息子モノと母と娘モノなど

最近見に行ったフランス映画のうち、いくつか。

1.父と息子テーマが

 
Dernier étage, gauche, gauche

監督Angelo Cianci

Hippolyte Girardot, Mohamed Fellag, Aymen Saïdi


2.母と娘テーマが

vrais mensonges

監督Pierre Salvadori

Audrey Tautou et Nathalie Baye


3.友達群像をテーマにしたものが


Les Petits mouchoirs

監督Guillaume Canet

François Cluzet, Marion Cotillard, Benoît Magimel


いずれもコメディで、観客は結構笑っていたが私にはあまり笑えなかった。

父と息子テーマがバイオレンスで、母と娘テーマがラブコメでというのはいいとして、どれも今のフランスものなので、距離感が近すぎてリアルで、それが他の観客を笑わせているのだが、私を微妙な気分にさせるのだ。

1は、カビルの移民の父子で、父はまじめに働いてきて、息子にベルベル族の尊厳など説くのだが、実はアルジェリア独立戦争時のトラウマがある。

息子はドラッグの密売の手先をしているチンピラで、どうしようもないバカだ。

この2人が住んでいる公団住宅を差し押さえに来た執行吏を人質に取ってしまうことになり、奇妙な関係が生まれる。

カメラワークは無駄にうまい。いや、無駄ではなく、この映画に厚みを与えている。

この父親の方が、全く同じ世代の同じような境遇の知人にそっくりなのだ。

息子の方は似ても似つかないのだが、北アフリカ旧植民地出身の移民がフランスで暮らすと、次の世代には恐るべき格差が生まれる。

その差は何が作るのだろう。

などということをつくづく考えさせられた。

移民の第二世代では息子は父親にではなく社会によってフォーマットされることの方が多い。娘の方は少し違う。

2は、フランスらしい演劇を見ているようなラブコメディなのだが、ここで、娘の方に恋する男がまさに北アフリカ系移民二世の中の「勝ち組」である。最初は経歴を隠して美容サロンの下働きをしているのだが、実はグランゼコール出身のエリートだと分かり、学歴コンプレックスのあるらしい娘(オードレー・タトゥ。美容室の共同経営者であるキャリアウーマン)は、口が聞けないほどものおじしてしまう。

こういうところにリアリティがあるのは、フランスでは見た目とか移民出身とかではなく、やはり学歴、免状がものをいうエリート社会なのだなあと思う。

男はエリートで文学的教養がある。

娘の方はない。

だから彼から匿名でもらったラブレターの良さが分からない。どこかの年よりが書いたのだろうと思う。これを、別れた父(画家)を忘れられないで鬱になっている母親に転用するところからいろいろな食い違いが始まる。

ところが、この母親の方は、学歴インテリかどうかは知らないが、文学が分かり、芸術が分かるのである。

娘は実はそこにもコンプレックスがある。

フランスには学歴エリートの他に別枠の芸術家エリートがあり、彼らと「一般人」との垣根には、独特の文化的なわだかまりがある。普通は言語化されないが、恋愛やら家族関係の中にそれが出てくると、明らかになる。

そういうことがあらためて確認できて、単純に楽しめなかった。

勘違いして舞い上がった母親が長いラブレターの返事の代わりに簡単なメモを男のポケットに入れる。

そこには

「Je sais qui vous êtes, j'aime qui vous êtes.」

と書いてある。

これを読んだ男は、それが娘のものだと思って、そのシンプルさに感動する。

日本語訳するとそのうまさが全然分からなくなる。

「あなたが誰なのか知ってます。あなたをそのまま好きです。」

とでも言おうか。

男の長文のラブレターに現れる教養と、母親の短いメモの中に現れる感性が対照的だ。

ま、男はインテリなので、芸術家を求めているわけではなく、散文的な娘の方が好きなままなのだけれど。

3は、父と息子でもなく母と娘でもない、フランスの典型的な友人グループのバカンスでの行動観察である。

はっきり言って、みんな少しずつ不幸で、不満で、皮肉屋で、嫉妬深くもあり、手軽な欲望も隠さず、でも、グループで楽しむのは好きで、バカにもなれて、その中で少し個性を強調するのも忘れない。

こっちはみんな franco-français で、そのいいところも悪いところもみんな出ていて、彼らのような人たちも、行動のパターンも、ほんとうに大半のフランス人があてはまりそうだ。だからこそ、観客もまた、自分たちのことを見ているようで泣いたり笑ったりするんだと思う。

しかし私は全く感情移入できなかった。

よくできた映画には見知らぬ国の違う時代の群像を描写したもので観ている人とは何の接点がなくても、特殊が普遍に通じるというか、しみじみと理解でき、共感できるものがある。

でも、この映画に出てくる人たちの行動パターンはあまりにも私の周りに普通にあって、しかも私が忌避しているものなので、距離をおいてしまう。

同じような普通のフランス人のバカンス先での行動パターンをエリック・ロメールなどが描くと、関係性の一つ奥にある普遍的な生き難さへの視線がきっちり見えて別の味わいがあるのだけれど。

フランスのコメディで私がもっと笑えるのは、もっとリアリティがなくて、不条理を再構成したものかもしれない。

こんなものを見るならもっとお涙ちょうだいものの方がカタルシスを得られるかもしれない。

そういえば、日本か帰仏する時に機内で観た日本映画で、『おにいちゃんのハナビ』というのがあった。(監督 国本雅広 / 高良健吾 谷村美月)

兄がひきこもりで妹が白血病なんて、分かりやすい感動ストーリーが想像できて観る気がしなかったのだが、隣にいるトリオの仲間のMが見て泣いていたのに驚いて私も見ることにした。その後でHも見はじめて、彼の方は声を上げて泣いた。

私とHはもしこういう共同体に暮らしていて「みんなと一緒」に何かをしなくてはならないというシチュエーションではすごく不幸になるタイプだ。性格はもちろん、状況も暮らしも何の共通点もないし、そういう意味ではローリング・タイプの感情移入が不可能なのに、とにかくすごく泣けた。その後で1時間くらい私たちはなんで泣いたのか、について3人で話しあった。

その結果、かなりクリアになったのだが、そのことはまたいつか書くことにしよう。
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by mariastella | 2010-12-29 05:39 | 映画

『神々と男たち』Des hommes et des dieux

Des hommes et des dieux
Xavier Beauvois

Lambert Wilson, Michael Lonsdale, Philippe Laudenbach
 
今年のカンヌ映画祭で放映された後で8分間も拍手が鳴りやまなかったという「感動」作で、批評家賞も獲得したこの映画。モデルになった事件は1996年にアルジェリアで7人のフランス人トラピスト修道士がテロリストに誘拐されて惨殺されたというもので、つい最近もそれが実はアルジェリア正規軍による誤殺だったのではないかという疑いが話題にもなり、フランスでは強烈な事件だった。
修道院長であったクリスチャン・ド・シェルジェがテロリストに殺されることを予測して残した手紙が発表されて、それが単純な悲劇や英雄行為でないことが明らかになった。彼は、悪や弱さに対する洞察の中から、自分の命を奪う者と自分のどちらもが、イエスの両脇で処刑された2人の罪人と見なし、共に神に救われる希望を捨てなかったのだ。

 で、この映画だが、三つの観点から興味深かった。

 一つはまさに修道士たちのその生き方という「内容」であり、映画という形で見せられて気づくことも多く、非常に啓発的だった。特に「自由」とは何かについて。それは別のところに書くことにする。

二つ目は、この映画に対するフランス人の反応のおもしろさである。フランスと言えば、『無神論』でも紹介したように、カトリック・アレルギーや戦闘的ライシテ守護者の勢力を多く出してきた国だ。反教権主義がこの国の近代の牽引となったといってもいい。

しかし今となっては、この映画の監督もそうだが、もはや戦闘的だったライシテの時代も知らず、伝統や教育によって叩きこまれた宗教のくびきや罪悪感から逃れるために必死に苦労した一昔前の知識人の葛藤もない世代がたくさんいる。機械的にアンチカトリックを名乗っていても、何がどうアンチだったのかも分かっていない。
「チベット仏教がおもしろそうじゃないんじゃない?」というのと同じノリで、「カトリックの修道生活ってエコロジーで今風じゃない?」と思ったりする人ももはや少なくないのだ。

そういう人たちは、カトリックシンパだと見なされて蒙昧なやつだと思われるんじゃないかと、もはやびくびくしていないから、この映画の霊性を素直にほめたりする。

まあ、単純に言って、地元の人への奉仕活動に専念していた善意の丸腰の年輩の男たちを武器を持った暴力集団が拉致して惨殺ということで、「善悪」の対照は明らかだから、犠牲者側を批判するようなことは誰も言えない。

「カトリックを扱っているからもっとbondieuserie(神さま仏さま)かと思って警戒していたら、押しつけがましくなくて好感が持てた」と言ったりする。

でも、長年の反カトリックの反応パターンから抜けきれない人もいる。

だから、批評や感想にバイアスがかかりまくりだ。

それを観察するのがおもしろい。

たとえば、「長すぎる」とか「隣で観ていた私の妻は涙を流していた」「基本的に女性向けじゃないか」という批評家もいた。

これは、「宗教とは女子供用のものである」という、これもフランス史の中にずっとあった欺瞞の表現なのだ。

反応のバイアスは、それだけではない。フランス内部の宗教的なものとは別のもう一つの歴史によるバイアスだ。映画の中でもアルジェリアの当局が、自分たちの国がこういう状況にあるのは、過去におけるフランスによる組織的奪略の結果による遅れである、という嫌味を言うシーンがある。

アルジェリアがフランス領であった頃から活動してきたトラピストたちの存在そのものが、政治的に不公正というのである。これに加えて、映画はこの修道士惨殺事件の真相を探ろうとしていないという批判もある。

これには、昨今のフランスにおける旧植民地出身の移民の二世三世世代をめぐる経済格差や差別、イスラムを視野に入れた新たなライシテ問題などが背景にある。

けっこう「タブー」な場所に首を突っ込んだ映画なのだ。

それを「感動もの」に仕立てるには、「女性向き」な「感動巨編」で、そのために大の男たちが次々と涙を流す。

まさにそこが、三つ目の、映画としての観点における問題だ。

映画の文法としては非の打ちどころがない。

美しい景色、地元の人々との生き生きした自然な交流のシーン、『12人の怒れる男』顔負けの『8人の悩める男』たちの迫力あるクローズアップ、そして暴力が登場するシーンの臨場感、繰り返し挿入される典礼の静的な美しさ(日に五時間もかかるこの典礼をこなす暇がないから、リュックという医者は、その義務のない平修道士の地位に留まることを選んでいる)。

そして、この映画のためにほんとうにトラピストの修道院に滞在して歌も覚えたという俳優たちの本気の一体感。

そこがなあ。

ロマン派過ぎる。

役を構築して表現しているというより、「なりきっている」。

ロマン派的名演だ。

バロック的でない。

バロック奏者の私が違和感を持つのは自然すぎる。

あまつさえ、最後の晩餐にあたるシーンでは、彼らの一体感、信頼感、高揚と、最後まで残る不安や懐疑などが、『白鳥の湖』の音楽にぴったりとのって、ドラマティックに展開するのだ。

ここが、まさに、「妻が泣いた」という「泣かせどころ」なのである。

典礼の音楽は典礼が本来持つ「演出」という枠の中であるから、どんなに情念が漂っても、マキシマムに出さない抑制があり、それが、深いところにある情緒の根に触れる。最初にテロリストに踏みこまれて追い返すことができた後のクリスマス・イヴの典礼の喜びや優しさは胸をうつ。

しかし、最後は、「白鳥の湖」だよ。

女子供、19世紀センチメンタリズムと言われてもしょうがない。

こういう着地のされ方をすると、困る。
驚きのない予定調和の世界だ。

「やり過ぎ」のさじ加減が、フレンチ・エレガンス好きの私には合わない。

この映画が、映画としての観点から私にとってもっとも意味があったのは、そのタイトルかもしれない。

『Des hommes et des dieux』(神々と男たち)

直訳すると人間と神、どちらも複数である。

「人々と神々」

一神教なのに複数なんて変じゃないかと思われるかもしれない。

修道士たちがみんな神さまと言っているが実はみんなそれぞれ思いこみのマイ神さまなんだ、という意地悪な意味ではない。

イスラムのテロリストも神の名のもとに「聖戦」を唱えて殺しているし、殺される修道士たちも神に命を捧げているが、人の数だけ、あるいは人の信念の数だけ神はいるんだなあ、という皮肉でもない。

題名の由来は映画の最初にすぐに出てくる。旧約聖書『詩編』82にある

あなたたちは神々なのか
皆、いと高き方の子らなのか

という箇所だ。

ここがまた、厄介な箇所なのだ。

文脈から言うと、神の名において神聖な裁きをするはずの者たちが、不正に裁いていることの批判である。

ヨハネ福音書(10-33~36)で、イエスのことを、「人間なのに自分を神と言って神を冒涜している」と言って、打ち殺そうとする人たちがいた。

イエスはそれに反論して、

「わたしは言う。あなたたちの律法に、あなたたちは神々であると書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」

と答える。

私たちには所詮「神」のことなど分からない。
人間のことですら分からない。

神と人間が一つになれるのかなどが分かるはずがない。

ナザレのイエスが神であるのかどうかが、キリスト教の初期に論議の対象であったように、このことは、なかなか不都合な議論である。

しかし、「正統派」がイエスを「人間であり同時に神である」と言ったので、それ以後は、「人が神になることをうながすために神が人になったのだ」という考えは不都合ながら続いてきた。

 ニッセのグレゴリウスは「人は力において小型の神である」と言ったし、セザレのバジリウスは「人とは神になるようにと呼ばれた動物である」と言った。 
イエスが「人間の神化」の起源でありモデルであるという考えは東方教会に常にあった。

プラグマティックには、イエスが言ったように、人の「神化」は、「善い業」によって信じなければならない。
カルヴァンが「人は神の協働者」だと言い、シュヴァイツァーが「人を救う欲求そのものが神である」と言い、ソロヴィエフは「人は神の自由な協力者であり、それによって『神-人』は『神-人間性』となる」と言った。

だとしたら、この映画の題名は、「人は神においてみな兄弟、一つであって平和を実現しなければいけない」というメッセージをこめているのだろう。
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by mariastella | 2010-09-10 23:21 | 映画

日本映画二つ

 
 忘れないうちにメモっておこう。

 日本映画二つ。

 機内で見たのが

 『ダーリンは外国人』 小栗左多里原作、宇恵和昭監督、井上真央、ジョナサン・シェア

 東京で見たのが、

 『告白』 湊かなえ原作、中島哲也監督、松たか子、岡田将生、木村佳乃

 前者は、原作のコミックは時々見たことがあり、髭面のダーリンって、なんとなくインド人かと思っていた。普通のアメリカ人だと知って意外だった。じゃ、草食系というか、ちょっとニューエイジ入った人?
映画を見て、出会いのこととかいろいろ分り、このジョナサン・シェアというのが、すごく誠実で好感を持てる人なので、すべてに説得力がある。ラストにアメリカの家族の前でひざまずいてプロポースするシーンを見て、アメリカにおける「ひざまずきプロポース」のオブセッションって、ほんとうにいきわたってるんだ、と感心した。あれは、どこの移民がどう行き渡らせた風俗なんだろう。
それが21世紀もしっかり残る理由は? 
それとも、新しいのか?
でも、日本側の親の偏見とか、そういう非典型的カップルでも女性がしっかり家事をするという構図でスタートして破綻しかけるという展開など、いろいろ引っかかる点はある。日本語ぺらぺらで「日本文化だーい好き」という感じの「白人」たちを胡散臭く思ってしまう私自信の偏見は抜きがたい。まあ、この映画の中にはそういう「いかにも」的なアメリカ人も出てきて、それがまたダーリンの誠実さを際立たせるんだけど。

 後者の『告白』は、15歳未満禁止とかこわそうな映画だと思ったのだが、結論としてそんなに怖くなかった。多分、小説で読んだ方が効果的だったと思う。

 しかし、ここに出てくるシチュエーションは、まったくのフィクションで、あり得ない設定なのだろうか。

 それとも、こういうこと、つまり、教師が自分の子を学校に連れてきて保健室においておくとか、罰として生徒にプール掃除させるとか、中学一年生が全員携帯電話をクラスに持ち込んで、いっせいにメールしあっているとか、いじめもそうしてオーガナイズしているとか、先生の話を聞かずに勝手に教室から出て行くとか、とかの事項は、部分的には、日本の現実の中学の実態を多少とも反映しているのだろうか。私には分らない。

 フランスでもいろいろな問題があるけれど、こういう感じのはあり得ない。
 落第もあるからクラスの生徒たちの年齢がまちまちだったり、経済状態に差があったりして、このような形での団結(?)はないし、子供のいる教師の保育の問題もないし、学校の掃除はすべて専門の人が毎日ケアしている。携帯も、普通に、持込禁止。

 もちろんこれはフィクションだから、と思ってみても、もうそれだけで胸が悪くなる。
先日ちょうど、TVで、永山則夫のドキュメンタリーをやっていて、彼が母親に捨てられたトラウマから連続射殺魔になったことや、その後の勉強から、どんな人も教育によって新しい可能性を与えられるということがよく分った。

 しかし、永山時代から何十年経っても、この映画でも、父と別れた「母に捨てられた」トラウマが、人を絶望させ、人生を崩壊させるという設定になっているのは苦しい。これも、フランスでは、たとえ離婚しようと別居しようと、未成年の親は、子供が成人するまでその住所を明らかにして、共同親権者として子供に責任を持たねばならないことが法律で決められている。
 一週間の半分を母と、残りを父と暮らす子供もいる。だから、一方が遠方に引っ越すなど子供の生活に支障をきたすような移動は裁判所の許可がいる。逆に未成年の子供がフランスにいれば、その子供が成人するまでは外国人でも滞在許可証を与えられる。

 両親のどちらかがかなりの異常性格だったり、嫉妬深かったり、いろんなケースがあるので、この「フランス型」が必ずしも子供にとってベストの選択とは言えないのだが、少なくとも、母親に捨てられた、居所も分らない、というようなタイプのトラウマにはなりにくい。

 エイズの扱われ方も、なんだかなあと思う。

 これらが、すごく今風なのか、どろどろした日本の偏見みたいなものが特殊化してるのか、よく分らない。

 どちらの映画にも、ちょっとカルチャーショックを受けた。
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by mariastella | 2010-07-26 20:13 | 映画

ハートブレーカーL'Arnacoeur (パスカル・ショメイユ)

Pascal ChaumeilのL'Arnacoeur というロマンティック・コメディを観た。
先週のコメディがいまいちだったから。

 Romain Duris, Vanessa Paradis, Julie Ferrier, François Damiens

という配役が、ハリウッドのロマンティック・コメディには絶対あり得ないようなタイプなので、親近感がある。

なんで近頃フレンチ・コメディを見たいかというと、目的は、言葉のニュアンスが隅々まで分かる状況で笑いたい、というのに尽きる。時事ネタとかでも笑えるのはあるが、棘があると後をひくし、いろいろ考えたくない。これが日本にいる時ならまよわず寄席に行っているケースだ。

そういう目的なら、この映画は先週の家族モノより笑えた。カップルを別れさせるためのプロ・チームの話で、アシスタントは主人公の姉さん夫婦という設定で、この二人が常軌を逸しているのに妙にあたたかくてほっとさせられる。

このチームは、愛し合っているカップルは壊さない、カップルを壊しても心は壊さない、という原則だったのが、金に困り、難しいケースに手を出して、自分の心が壊れてしまう。

日本で、やはり金をもらってカップルをつぶすという別れさせ屋みたいな商売の人がいるというノンフィクションの記事を読んだことがあるが、それは、要するに、誘惑する、浮気させる、という方法だった。

この映画のチームは、相手の情報を調べつくして、ハイテクやエキストラも駆使した大がかりなもので、誘惑したりもしない。カップルをなしているもののすでに懐疑にとらわれている人を、カップルから解放するひと押しをするとか、ほんとうに求めているものが何なのかを気づかせると言った、なかなか高度な(?)話なのだ。

モナコ周辺が舞台で、同じ場所が舞台の他のコメディの記憶もかぶり、なかなか楽しい。アメリカ映画にありがちな直線的な盛り上げという分かりやすい迎合がない分、疲れなくて済む。一応メモ。
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by mariastella | 2010-03-21 20:32 | 映画

Pièce montée

 先日観た『シャッター・アイランド』があまりにも期待はずれだったんで、全然違うタイプのフレンチ・コメディで気分を変えてみようと思ってDenys Granier-deferreの『Pièce montée』を観た。

 Julie Gayet, Charlotte de Turckheim, Clémence Poesy, Jérémie Renier, Jean-Pierre Marielle, Danielle Darrieux, Christophe Alévêque, Léa Drucker, Julie Depardieu, Hélène Fillières などのうまい俳優がたくさんそろっているので、見ている間は飽きない。群像処理もまあうまい。 

 半世紀も離れていた恋人同士が孫娘の結婚式で司祭と祖母という立場で再開するという話は、すごくステレオタイプなのに、年老いた元恋人同士のくさいセリフをここまで感動的に見せるのは、芸の力なのだなあ、と、ダニエル・ダリューが単にある世代のマドンナを超えて名女優なのだと感心した。

 花婿役のJérémie Renierは、ダルデンヌ兄弟の『L’Enfant』で赤ん坊を売ったりする若い父親役が印象的だったベルギーの男優で、これも、うまいと思った。

 ジュリー・ドゥパルデューとエレーヌ・フィリエールの最後のダンスシーンは、こちらのゲイ雑誌『テチュ』に、このシーンを観るだけでもこの映画に行く価値あり、と書かれていたが、あまり私の琴線に触れなかった。ジュリー・ドゥパルデューがあまりにもエキセントリックで女っぽいからかも。

 この種の女性二人のダンスのからみシーンではやはり、もう古いがベルトリッチの『暗殺の森』のステファニア・サンドレッリとドミニク・サンダの伝説的シーンとつい比べてしまう。
 レズのカップルは私の周りに何組かいるが、両方ともがアンドロギュノスっぽくて、いわば「宝塚の男役」が二人いるようなカップルが一番好みだ。
 「宝塚の男役」二人が女装しているみたい、というのはもっといいなあ。ドミニク・サンダたちってそんな雰囲気だった。

 ダニエル・ダリュー演じる祖母が、結婚した孫娘に、「時々姿を消しなさい、そうしていつも求められるようにするのよ」とアドヴァイスするのも面白かった。彼女は何しろ50年も恋人の手の届かないところにいたことで、ずっと過去の恋人から想われ続けていたと後で分かるので、なかなか説得力がある。

 全体としてヘテロセクシズムと偽善とを揶揄しているのがテーマでもあるのだが、とてもフランス的だ。
 結婚とか結婚式とか子育てとかいうシーンになると、フランスと日本はかなり意識の差が出てくると思う。フランスではブルジョワ階級の偽善者ぶりも半端でないが、その暴き方も伝統的に筋金入りだ。

 聖アガタ教会のアガタ像がショッキングで隠してしまう母親、式を手伝う子供のミスで聖別するための無酵母パンが全部床に落ちたこと、とか、おもしろいディティールもあった。ま、テレビ画面でも楽しめるタイプの映画なので、わざわざ出かけるほどのことはなかったかも。

 
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by mariastella | 2010-03-15 00:52 | 映画

Hadewijch de Bruno Dumont

ブリューノ・デュモンの『ヘドウィッジ』

 ヘドウィッジはフランス語ではアドウィッジに近いが、13世紀のライン=ベギン会神秘主義の系譜の有名な修道女で、ブラバント(フランドル地域)のハデウェイヒという神秘家として、幻視について書いた記録を残している。ビンゲンのヒルデガルトなんかもそうだが、ハデウェイヒもなかなか濃縮で、豊かなイマジネールを展開し、ヒステリーの事例にされたり、エクスタシーを伴う性的ミスティシズムの事例にされたり、宇宙人との遭遇の事例にされたり、キリストへの愛は情熱的であるが、どこかパセティックでもある。

 この映画では、Julie Sokolowski の演じるパリの外交官の娘セリーヌが、神秘熱に駆られて、このハデウェイヒを修道名にして修道女となるべく志願者となる。しかし、多くの神秘家のように、食を断ったり、過激な苦行を自分に課したりするので、修道院から、それは自己愛の一種である、と批判されて、規則を守って共同生活ができないならもとの生活に戻った方がいいと言われて追い出される。

 元の生活とは、サンルイ島の大邸宅で、神学の勉強をし、権力と見栄しか頭にないような父親と、娘に無関心で鬱症状に逃げる母親との愛のない生活である。

 こういう、金や名誉はありそうだが愛のない家庭から、愛に飢えて宗教に倒錯的な愛の対象を見出す娘が出るという図式は何だか安易で嫌だが、このジュリー・ソコロスキー があまりにもうまいので、存在感がある。
 ちょっとぽっちゃりしていて、可愛いのだが、化粧気がなくいかにも修道女志願という無頓着さで、そのくせ、体の線がはっきり出る大胆なデコルテにミニスカートというような、そこらへんの娘と変わらぬ格好をする。その辺のアンバランスも、いかにも、大人になるのを恐れる娘の抑圧された欲望が狂信に向わせるという感じなのだが、丁寧に繊細に描かれているので、成功している。ブルジョワの屋敷も、郊外のアラブ系移民の青年と出会うところも、すべてちょっとシュールでもある。カメラのフレームや動きや色彩がすばらしいので、どのシーンもすべて味わい深く美しい。

 ボーイフレンドの兄さんがイスラムのイマムで、コーランの勉強会に誘われる。シテの中には広いモスクがある。モスクといえば、この週末、スイスで、モスクのミナレ(尖塔)の建設禁止を憲法に書き込むことが国民投票で決定したことが、ヨーロッパの恥、と言われてスキャンダルになっている。
 ルソーの出身地だからなあ。性善説を信じて直接民主主義をやってると、こういうことが起こる。人間はひとりひとり、愚かにもなるし、恐怖や憎悪にとらわれることもあるし、プロパガンダに洗脳されることもあるし、同じ人でも、愛憎や嫉妬や寛容が共存していてめまぐるしく入れ替わることもある。白人の人種差別者たちが黒人をリンチするのも彼らなりの「直接民主制」の多数決だろうし。 
 まあ、フランスでも、モスクはOKだが巨大なミナレはだめというケースもあった。
 それ自体は、それこそケース・バイ・ケースだろう。観光が売り物の歴史都市に景観を損ねるような建物は建ててもらうと困るので条例を作って規制するとか、ヴェルサイユでは城より高い建物が建てられない、とか、建物というのは、私有地に建てても、外から見える環境の一部だから、何でも好き勝手は困る、住民の意見も尊重すべきであるというのは分るし。だからといって、特定の宗教の建物の一律禁止を憲法に入れるというのは明らかに変だ。フランスが、学校のイスラムスカーフを禁止するために、十字架もターバンも特定宗教の目立つシンボルはすべて禁止、として、まとめてライシテを守ったように、本当は「ミナレ」が嫌だとしても、そこは一般化して、何メートル以上の宗教建築の建設はすべて禁止、とかいわなきゃまずいよなあ。スイス銀行の地下金庫にはアラブの富豪の大金もさぞ眠っているだろうに。

 で、セリーヌの話に戻ろう。この勉強会は、目に見えぬものを信じるのが信仰だという話である。「神はその不在のうちに現存する」という。こういう時、語られるのは、神の「非存在」ではなく、「不在」である。聖女たちが「信仰の夜」を語り、神を見失った、という時も、神は存在しないというわけではない。
 まあ、存在していても、自分の前に開示されなければ、関係性がなければ、いないのと同じなのだが。
 イマームは、セリーヌがキリストを愛しているし、愛されているというと、「もし神を愛しているなら神はそこにいるんだ、関係性の中で現れるんだ」と述べる。

 メッカに向って額を床につけて祈る兄弟のそばで跪き、両手を合わせて祈るセリーヌ。キリスト教が両手を合わせて祈るようになったのは仏教と接触して影響を受けたからだというのをどこかで読んだ。そのせいもあって、土下座するより手を合わせて拝む方がなじみがあるなあ。

 その後、セリーヌは、神を信じるなら行動を起こさなくてはだめだ、と煽られて、テロリストのグループに利用され、シャンゼリゼで大爆発を起こす。こういうシーンですら審美的でシュールなのだが。神秘家がいかにしてテロリストになったのかという疑問は、この手の娘ならあり得るよなあという納得に変わる。

 その後で修道院に戻るのだが、警察がやってきて・・・

 宗教の映画でも、神秘家の話でもなく、人が愛したり愛されたりすることが、本当はいかに難しいことなのかという話なんだろう。
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by mariastella | 2009-12-01 09:35 | 映画

2012

 ローランド・エメリッヒ監督の『2012』を結局観にいった。大迫力特撮モノは嫌いじゃない。

 Mが、カリカチュラルだと言っていた。権力者、金持ち、白人とかは「悪」で、有色人種や慎ましい人々が「善」という図式とか、中国やヒマラヤのキャパシティとか、アフリカが最後に残る希望の大陸(無理して象やキリンを運ばなくてもよかったかもしれない)とか、世界の終わりになるとイタリア人はみなカトリックになるのかとか、お決まりのチベットの坊さんの智恵へのファンタスムとか。
 特にMをイライラさせたのは、「実の父親」が最終的に子供を救う、という図式みたいだった。Mは同性のパートナーの子供二人と暮らしてきて、子供たちに不当干渉する実の父親の横暴ぶり、倒錯ぶりにうんざりしているからである。(黒人大統領が殉死すると「白くなる」んだよ、とも言っていたが、雪のせいのあれをそう深読みできるのか?)

 それに、この映画見てると、子供たちを救うには、実の父とステップ・ファーザーと二人が要るなあ。車の運転のプロでSF作家と、飛行機の運転ができる医者との連携が最低必要だ。

 実の親が云々というより、何かこれを見ていたら、やはり世界(あるいは個人の人生)の終わりには、人間としての幸せは、「愛する人とめぐり合って子供を持てること」、みたいなメッセージが挿入されるのが、抵抗があった。まあ、「男女が出会って子供が生まれるのは価値あること」という基本的なインプットがないと、それこそ種が絶滅するのだから、それはいいけど、「わが子を助ける」ことや、「親子が愛してると言い合う」ことばかりが、人間性の発露とか人生の意味みたいなのに矮小化されるのは嫌な気分だ。人生において伴侶を得られなかった人、子供を持たなかった人、子供を守れなかった人なんか、は救われないし、実の親でもほんとうに鬼のような親だっているしね。

 うちはチベットの坊さんたちと関係が深いのでよけい感じるのだが、こういう異文化への憧憬みたいなのも、構造主義人類学以来の西洋人のファンタスムと切り離せられない。
 
 白人文化はもうだめでアマゾンの奥地や遠いヒマラヤに真の智者がいると思う心性と、移民の子孫や不法移民が治安を妨げる悪徳分子だと排除したい心性とは、表裏一体である。

 幸福の青い鳥は、他所に探すが、結局自分のすぐそばにあった、というのはよく言われることだが、悪や不幸も、がんばって不法移民や狂信者などに投影しても、結局、自分の中にあるのだ。

 ほんとうに世界の終わりが来そうなら、私は特に生き延びたくもないし、無理だと思うが、それでもできるだけは生き延びて、終わりの様子を見てみたい、地球の様子だけじゃなく人間の行動も。その「好奇心」が恐怖より強い。

 まあ、この映画は、結局、聖書的な展開をするので、「贖罪による再出発」という「希望」のメッセージになっている。商業映画のお約束でもあるが、大切なことでもあるな。

 つまり、やたらと「世界の終わり」を言いたてて不安を煽り自滅するより、「何かの終わり」はまた「何かの始まり」でもあることを信じることの大切さだ。既得権や良い思い出や失われた健康や若さなどにしがみついて変化についていけずに自分を不幸に追いやるというケースは多いからなあ。

 この映画、10年前の、1999年の「世界の終わり」話を思い出しながら、観た。
 あの時も、何月何日に世界が終わる確率は、それまでに病気や事故で私の終わりが来る確率より小さいだろうなと思っていた。この10年の間に私の両親の世界は終わっている。
 彼らにとって宗教はどうだったろう。生きている時には何かしらの役に立ったかもしれないが、亡くなる時には、別に必要としなかったみたいだ。

 そういえば、「人間を信じる人はみんな神の子」、ってシスター・エマニュエルが言っていたなあ。

 


 
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by mariastella | 2009-11-30 03:24 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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