L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 155 )

『リンカーン』スティーヴン・スピルバーグ

スティーヴン・スピルバーグの『リンカーン』、主演のダニエル・デイ=ルイスは好きな方だからおくればせながら観に行ってきた。

スピルバーグの映画らしくうまくできていて、みている間は充実感があるのだけれど、白人の白人による白人の映画という感じがしないでもない。

ジョン・フォードが昔『The Prisoner of Shark Island(1936)』という映画を撮っていて、そこではリンカーンの暗殺者の負傷を手当てしたために共犯として終身刑になった(後に恩赦された)南軍派の医師Samuel A. Muddに焦点が当たっている。その複雑さに、リンカーンの崇拝者や反対派の確執の根強さや復讐のポピュリズムについても考えさせられてずっと陰影に富む作品だった。

この映画の方は、時代を二ヶ月ほどに絞ったせいか、リンカーンがインディアンを抹殺した話や、アメリカが南北戦争終結から100年経ってもまだ黒人をしっかり差別していた事実や、奴隷制廃止だってイギリスやフランス(革命で廃止したものをナポレオンが途中で再導入したりはしたが)の方が早かったじゃないかとか、いろいろなことがかえって頭に浮かんで、すなおに感動できない。

ひいては第二次大戦中の日系移民の隔離とか原爆のことまでちらりと頭をよぎる。

いや、実態はどうあれ、時々、勇気ある人が理想論を熱く語って万人の自由と平等の理念を掲げることで、本音によってたとえ引き戻されても、少しずつは世界はよくなってきたのだから、こういうお話しに時々感動することは必要なのかもしれない。

まあ、リンカーンの特徴あるなじみのシルエットを見ても、マルファン症候群のことをつい思い出してみたり、アフリカ人の父と白人の母を持つオバマ大統領を何かというと「黒人」とレッテルづけることへの違和感(前にも書いたが彼のようなハーフがケニアで大統領になったら絶対に「白人初の大統領」などとは形容されないだろう)まで想起されたりと、なかなか尊敬の念がわいてこない。

妻とのやりとりや長男かわいさの煩悩が出てしまうなど「人間的なシーン」がうまく挿入されるのだが、その苦悩ぶりも恣意的で紋切り型の演出という気がしないでもない。

でも、リンカーンの名前が「エイブラハム」でつまり、一神教の父アブラハムで、被創造物の平等をきっちり神の前の平等として納得させているところなどは、アメリカと民主主義と神の関係をあらためて考えさせられて興味深かった。
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by mariastella | 2013-03-12 09:35 | 映画

« Une famille respectable »Massoud Bakhshi マスード・バクシの『立派な家族』

« Une famille respectable »Massoud Bakhshi

ドキュメンタリー映画作家だったマスード・バクシのフィクション映画第一作で2012年のカンヌで公開された映画『立派な(尊敬に値する)家族』。

イラン映画はどうしていつもこんなにレベルが高いのかと思っていたら、1972年生まれのバクシがおもしろいことを言っていた。

1979年のイスラム革命の後でアメリカ映画の公開がテレビを含めて全面的に禁止されたので、彼らは黒澤やタルコフスキーなどばかり観て育ったと言うのだ。

この映画について、フラッシュバックの手法などが複雑すぎてシナリオについていけないという観客の評価がちらほらとネットの映画評にあったので心配していたのだが、全然問題なかった。

ある意味で、アメリカ映画ばかり観て育った世代のフランス人にはこのようなひねりは難しいということなのだろうか。

話は、15歳でイランを出てヨーロッパで教育を受けて大学教授になったらしいアラシュという主人公が、故郷の大学の招聘を受けて22年ぶりに半年の予定で国に戻るが、兵役免除の書類がないことからパスポートを取り上げられたり、学生にイラン・イラク戦争の記録映画を見せたりして大学当局から警告を受けたり、汚職によって富を築いた父親の死や、異母兄やその妻や息子との関わりの中で陰謀に巻き込まれたりとさまざまな体験をするというものだ。

学生のデモもあり、若者の多い国での自由への渇望は脈打っている。

バクシ自身もイタリアやフランスで学んだ経験があって、その視線は鋭く妥協がない。

ただし、この映画がイランで公開されるかどうかは、当局の許可がいるので確かではない。

しかし、激しい検閲を受けたり20年間の映画制作禁止処置を受けたりする監督などもいる中で、バクシも非難されたが、2013年度のカンヌ映画祭にも出品が決まっているようなので、希望がある。

確かに、直接当局やらイスラム原理主義などを批判するようなシーンはない。ひたすら家族の軋轢や、拝金主義によるモラルの崩壊などが描かれているのだ。

バクシはこの映画をイランの女性たちに捧げると言っている。

実際この映画の中では、主人公の母のおば、母、初恋の相手で異母兄の妻になった義姉、その娘と、女たちは、体制がどう変わろうと、どんな脅迫を受けようと、命を守り常に全人的であろうとする。

それは監督の希望でもあるのだろうが、楽観的すぎる感もある。

監督自身の抱く、男たちへの不信の反動なのだろう。

「不浄」を毛嫌いして、家中を潔癖に掃除しまくる(キッチンの床が水を流せるタイルになっていて、床に直接水を流して丸洗いできるのには驚いた)主婦の姿は、汚職や陰謀など「悪」に対する嫌悪を象徴しているらしい。

でも私にはそれもストレスからくる強迫神経症の痛々しい姿にしか見えない。

ただ、ヨーロッパのキリスト教国でキリスト教は女子供の生活指針としてのツールとして温存しておくという男たちの目線が長いあいだあったのに対して、中東のイスラム教国では、女たちは教義などからずっと自由で強靱な生命力を発しているような気がする。

男たちの方が利権にとらわれて宗教と共依存の関係に陥っているようにも見える。

それにしても、バクシ自身が言っているように、この映画はフィクションとはいっても、ドキュメンタリーを別の手法で表現しただけで、細部はどれもリアルであるらしい。

挿入されるイラン・イラク戦争の報道映画も、町中の祈りの声も、横暴でヴァイオレントでマッチョな父親の家庭内暴力も、女たちの苦しみも、みな、リアルであっても、私の生活実感からあまりにもかけ離れている。

その事実に改めて愕然としながら、それでも彼らとの同時代性をどう共有して自分の生き方にどう反映していくべきかと考えさせられる。そんなふうに思わせてくれる映画は貴重だ。
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by mariastella | 2012-12-29 07:30 | 映画

『La Vierge, les coptes et moi(聖母とコプトと僕)』

Namir Abdel Messeehの『La Vierge, les coptes et moi(聖母とコプトと僕)』

をうちの近所のレトロ映画館に観に行った。監督との質疑応答があって、その後で館内レストランでも話し合えた。

最高におもしろかったけれど、あらゆる意味で私の関心事とかぶさるテーマだったからだろうか。

私は1968年のカイロでの聖母のご出現や、2000年のAssioutでのご出現のことをくわしくウォッチングしてきたし、去年のエジプトの「革命」の前と後を観察したり、コプトが迫害されている状況をいろんな観点からチェックしていたり、監督で主人公であるメセ-の育ったフランスの状況を同時代的に知っていたりする。

そうではなくてまったくの部外者(たとえば日本に住んでいる平均的日本人)としてこの映画を観たのだとしたらどういう感想を持っただろうかは、想像しにくい。

エジプトのコプト(東方系キリスト教徒)の共同体の日常が文字通り内部から描かれているのを見るのは興味深いものだった。書物で知るのと人々の姿を見るのとでは全く印象が違う。

エジプト人のコプトはムスリムを嫌い、ムスリムはコプトを嫌い、そのどちらもユダヤを憎んでいる、なんていうことがさらりと口にされる。

「でもマリアはユダヤ人では ?」

「いや、ユダヤ人がマリアを聖母と認めないからマリアは我々の母なんだ」

1967年の中東戦争でイスラエルに負けた後で国の連帯を強くするためにナセルがカイロでの「聖母出現」を演出した、または利用したと口にする人もいる。

エジプトはイシス女神の子、エジプトは人類の母、ナイルは血。イスラムには「母神」キャラがないのでイエスの母マリア(ミリアム)をムスリムも愛した。しかし、コプトたちはアラブ人の侵略された時にイスラムに改宗しなかったコプトこそ真のエジプト人であると自負している。

コプトたちの担ぐ聖母子像の「みこし」がやけにカトリックぽいデザインだし、そこかしこにどう見てもルルドの聖母風の聖母像が掲げられているのはなぜかと思ったが、コプトの伝統というより、19世紀にやってきたカトリック系ミッションスクールが流布させた画像らしい。やはり1830年のパリ、1858年のルルドのご出現がなければ、聖家族の亡命先になったエジプトといえども突然イエス抜きの聖母が出現することはなかったのかもしれない。

それに「聖母」というより「聖処女」と呼ばれているので「穢れなき処女神」のイメージがまずある。

で、我らのマリアは最強だ、不可能なことなし、という感じの掛け声というかお囃子のようなものがマリア行列で叫ばれる。

エジプト人でムスリムかコプトかを見分けるのは簡単。コプトは腕に十字架を刺青している。マリアの名や図像を刺青しているものも多い。そこにはあきらかにグアダルーペの聖母の図案もある。

腕にするコプト十字の入れ墨は子供の時に入れるので、泣き叫ぶ子供をおさえて十字架を入れているシーンにはぞっとした。(このシーンについて映画の後で監督とも話し合った。彼にはフランス生まれの妹が一人いてエジプトにも全く足を踏み入れたことがなく、宗教も含めてすべてを嫌悪しているそうだ)

一方のムスリムは、日に五回這いつくばって祈るので、額にこぶというかあざができているので一目で分かるという。

でも、まあ、こうやって「村の生活」の実態を眺めると、はっきりいって、隣り合う村同士のムスリムとコプトの違いよりも、都会と田舎の違いだの、国や世代の違いだのの方が大きいのではと感じた。宗教的熱狂やら祭の様子も、キリスト教がどうとかいうより、民衆信仰のスタンダードな形である気がする。聖母の出現もその文脈にあるわけで、教会の丸屋根に光が現れたら、人々はエクスタシーに陥ってさまざまな病気に「奇跡の治癒」が起こるのだ。

この映画を撮るきっかけになったのは、ナミールが母のうちでクリスマスに、2000年のご出現ビデオ(Assioutで何日間も続き、何十万人もの目撃者がいて撮影もされたものだ)をみんなで観ていて、自分には何も見えなかったのに、普段は教会へも行かない母親が突然自分には見えた、と言ったのに驚いたからだ。

(このご出現のビデオはネット上でもいくらでもあります
またapparition vierge marie assiout egypte でyoutube 検索するとたくさん出てくるし、1968年版の写真も出てきます。私が最初に聖母ご出現について本を書いた時はまだそういう時代ではなかったのでもっと好奇心をそそられました。今ならウェブ上でいろいろな好奇心をそれなりに満たされるのでアウトプットしていなかったかもしれません)

実際は、プロデューサーを見つけたナミールが現場に行ってもこれという証言は得られず、映画製作の資金提供を打ち切られてしまう。ナミールの窮地を知った母がフランスからやってきて金策を担当してくれることになった。(母は、フランスのカタール大使館の会計を担当していて、その関係を使えたのか、この映画はフランス・エジプト・カタール合作ということになっている)

結局、母の出身地のコプトの村でご出現シーンを映画に撮ろうということになり、村人たちに「出演」してもらう。文化祭のようなそのさまはコミックで、みなが非日常を楽しんでいるような、ただ金を欲しがっているような、一種の祭のような独特な高揚感がある。

で、かなりチープな、その「ご出現」とそれを見て叫んだり歓びの声を上げたりする群衆の姿、という「短編映画」が完成して、みんなに見てもらうことになった。

人々はスクリーンの上の自分の姿に笑い、知り合いの姿に笑い、ドタバタの思い出にも笑う。

ところが、教会の屋根に光が輝いて、聖処女役の少女がふわりと降り立ったように見えるシーンになると・・・

笑いがやんで、会場がシーンとなる。

外の犬の鳴き声が聞こえてくる。

子供たちの目も大きく開かれる。

監督のナミ―ル・メセ-は、エジプトとフランスの二重国籍だが、エジプトの身分証明書には宗教を入れる必要があり、20代の頃、自分は信じていないからと言ってキリスト教であるというのを削除したことで故郷から非難されて、この映画のロケまで15年も帰っていなかったのだ。

政治犯だった父と母は、おさないナミールをおいて1973年にフランスに亡命して、ナミールは叔母に育てられていたが、やがてフランスに渡って教育を受け、映画学校を卒業した。

この映画はベルリン映画祭では観客賞ドキュメンタリー部門の第3位になった。同じ頃カイロでも上映されて賞をとり、エジプトの映画評論家が絶賛したので父ははじめて息子の仕事を認めて、その評論に「あなたは分かっている」という賞賛の手紙を出したそうだ。

エジプトでは実は、コプトやムスリムという以上に、社会的な階層の差別意識が強くて、ナミールが故郷で貧しく蒙昧な人をだまして撮影した、という批判がすぐに起きたが、試写会に出ていた彼のいとこ(村の男で映画の中にももちろん登場する)が立って、「そんなことは一切ない、みんな合意で楽しんだ」と反論してくれたのが嬉しかったとナミールは言っていた。

実際のところ、完成作では、まるで突然エジプトに行ったナミールが限られた時間で速攻ででっち上げたドキュメンタリーかのように構成されているが、ほんとうは、試行錯誤を重ねて3年かけて撮影したものだそうだ。

だから現地の人々も、ナミールの意図を理解し作品を共に創り上げていく時間があった。

上映の後で、おさない子供2人を連れて家族でやってきたナミール・メセ―と話すことができて楽しかった。

私の質問したのは両親の反応と、モンタージュ中に起こったムバラク政権の倒壊とそれに続くイスラム過激派によるコプトの迫害やテロについてどう思うか、それはこの映画の仕上げにどういう影響を与えたかということだった。

結局、故郷の村自体では、革命後も、貧しさも変わらないものの、これという「迫害」もない。

迫害だのテロなどは、それなりのメディア効果のある場所で起こるのだ。

宗教の問題ではなくて権力や政治の問題なのだろう。

それでも、その犠牲になって死んだ人や亡命した人は膨大な数に上る。

でも、それは権力や政治の問題、経済的、地政学的な問題から来ているのだから、宗教的な地平で解決できるものではない。

こういうところで宗教的な語彙を繰り出してことをおさめようとすると、ますます対立に拍車がかかることになりかねない。

だから、やはり、ヒューマニズムや自由、平等の普遍主義を盾にして、暴力の衝突なしにさまざまな人が共存するする道を辛抱強く切り開いていくしかないと思う。

「本物」ではないとみなが分かっている「聖母ご出現」のシーンを見ただけで、村人たちは、現実のいろいろなことを一瞬忘れて、「聖なる」次元で結びつく体験をした。

それが意味するのは、、「どっちが正しい」とか「真実はどちらにある」とかの問題ではなく、それを超越して人々が一体化し得る地平が確かに存在し得るということなのだろう。

映画による表現はそれを実現するマジックの一つであり、この映画はその手ごたえを確かに感じさせてくれる。
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by mariastella | 2012-10-15 04:25 | 映画

レオス・カラックスの『ホリー・モーターズ』Holy Motors

今年のカンヌ映画祭でコンペに参加して話題になったのに何の賞ももらえなかったレオス・カラックスの『ホリー・モーターズ』を観た。

少なくとも、ドゥニ・ラヴァンは主演男優賞に値する演技だ。

カラックスは鬼才という言葉がぴったりで、彼の分身のようなドゥニ・ラヴァンがまた鬼才、異才というかあくが強いので、好き嫌いは大いに分かれるだろう。

大衆に対して映画を創るのではなくプライヴェートな映画を創るのだ、と本人が言っている通り、芸術性は高いがナルシシズムと過剰さとキッチュさで息苦しくなる。もう50歳になるドゥニ・ラヴァンの異形の肉体の生々しさにもひいてしまう。

動作の美しさを追求しているとか、マイムで鍛えたしなやかだが野性的な身体表現、などと言うが、ただ圧倒されるだけで、無意識にバリアをはっていたので楽しむところまでいかない。

音と映像が凝っていて工芸的と言えるぐらいだ。

カラックスの本名のアレックスとかオスカーとかが、主人公の名に使われていて、この映画が、カラックス自身の内的世界や想念、映画創りへの執念や期待や失望などをさまざまな形で表現しているのだということは分かる。

オムニバス映画のように次々とキャラクターやシチュエーションが変わり、ビジネスマンと物乞い、娘や姪や前妻との突然のヒューマンなやりとり、墓地、教会、廃墟のデパートを舞台にしたエステティックの過激さが次々と打ちこまれる。

一作でいろんな究極のシーンが見られるのを贅沢と見るか、全体の「意味」が分からないことにフラストレーションを感じるか難しいところだ。

映画創り、特に俳優の演技というもののメタファーだという一応の解釈はあって、今の映画の観客は、ストーリーを追う、起承転結のカタルシスを求めるようにフォーマットされているのでそれに挑戦する、という意味もあるらしい。

物語の整合性のある意味がなくても、それぞれの「瞬間」を驚き、味わうことを奨励しているとも言われる。逆に、人生や日常の「断片」はどれも偶然の集積にも見えるし不条理にも感じられるが、全体をみると、それは謎の絶え間ない脱構築と再構成の連続で、それこそが「生」と「美」の秘密なのだという解釈もある。

私がなんとなく連想してしまったのは、『ユダヤ人とバイブル』という本のことだ。

その中で、旧約聖書というのは、一読すると曖昧、矛盾、支離滅裂の連続だが、一見して欠陥のように見えるこれらの面こそが時代を継いで読まれてきた理由の一つだとある。各世代に、読み直しのための本質的自由が与えられるからだという。

ラビたちにとっては、バイブルとは『オデッセイ(オデュッセイア)』の対極にあるものだ。

バイブルの表面的な不完全さこそが、その真実性を担保している。

なぜなら、神は詩人ではないからだ。

詩人は嘘をつくが、神は真実を語る。

つまり、ホメロスなら完璧な叙事詩を創作できて、人々はそれを完成品として鑑賞できるが、神の言葉を人間がキャッチして書きとめたバイブルには文学作品のような整合性がないのは当たり前だというわけだ。

カラックスの映画は、ここにきて、作品というよりも、ご託宣、神的ビジョンのご開帳になったのかもしれない。
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by mariastella | 2012-07-29 21:02 | 映画

天使の取り分ANGEL'S SHARE

今年のカンヌで審査員賞を受賞したケン・ローチ『天使の取り分ANGEL'S SHARE』を観た。

ケン・ローチは私の好きな監督だ。

犯罪歴があって職のない若い男の恋人に赤ん坊が生まれる。ダルデンヌ兄弟の「L’Enfant」だったら、ここで若い父が赤ん坊を売りとばしたりするのだけれど、ケン・ローチでは父性に目覚めた主人公が、何とか自立しようとする。

そこにウィスキーのテイスティングの蘊蓄や、幻のウィスキーを盗み出す話や、教育指導員とのあたたかい交流などが組み合わさって、ユーモラスでありサスペンスフルでもあり、この監督ならではの人情味にあふれ、後味もいい。

スコットランドをうまく描いている。

社会から完全に落ちこぼれたような若者のグループが、妙な連帯の中で、イニシエーションの旅をする。おとぎ話でもあり、一種のビルドゥングス・ロマンでもある。

でも、去年のロンドンでの暴動騒ぎといい、フランスでも職のない若者は多いし、うちに引きこもるよりも路上に出て暴力沙汰を起こしたりする方が多いので、他人事とは思えない。

この映画を観た同じ日に夜のメトロのホーム(サン・ミシェル駅)で、3人のポリスが一人のアラブ系の若者を囲んで持ち物をすべて出すように命令して、皆が声を荒げていた。尊厳とか尊重というのはかけらもなく、まるでいじめのシーンのようだった。何があったのか分からないが、ああいう風に扱われる若者が前向きに生きていけるとは思えない。

こうしてあちこちでポリスから高圧的に尋問されている若者たちの中には、この映画の主人公のように隠れた才能のある者や知的能力の高い者も一定の割合でいるはずだ。

フランスではゲットー化している移民二世や三世の多い地域の優秀な生徒に奨学金を出してグラン・ゼコールの予備クラス(国立)に引き抜くという試みが広がっていて、そんなもの、きれいごとで、本当の解決にはならないだろうと思っていたが、やはり、手っとりばやいのは、教育によってチャンスを与えるという王道だなあと思う。よい指導者との出会いもそうだが、シンプルに「本を読むこと」が若者の可能性をいかに広げるかというのも痛感する。

ただし、優秀な者だけを一本釣りで引き抜いて援助して成功させたり更生させたりするというのは、政策の正当化にはなるだろうけれど、ケン・ローチの映画が本当に痛快なのは、底辺にいた主人公が責任感やら自分の才能に目覚めて悲惨な境遇から抜け出るというところではない。

主人公の周りにいる、本当にどうにもならない盗癖の女の子や頭の弱そうな男やら、主人公の足を引っ張っているように見える「クズ」のような若者たちも、「一緒に行動する」ことで、居場所があって、チャンスがあって、自分の立ち位置や能力などと、怒りや憎悪や侮蔑などを通してでなくはじめて向かいあえたということだ。

社会的な弱者にとって真のハンディは、能力のなさではなくて、暴力的な憎悪の環境にいることなのだ。暴力や憎悪や侮蔑の視線のある世界で「自助努力」など誰もできない。

もちろん、では彼らを安全なところに囲い込んで個別に隔離すればいいのではない。

みなが「より弱い者」を抱えていく、という環境に投げ込めばいいのだ。それは別にすごく強い人が弱者を守るというような家父長的「憐れみ」の環境ではない。家父長的憐れみの行使には「見下し」が伴いがちで、それは憐れみに感謝しない者を罰するという誘惑と紙一重だからだ。

この映画のように、たとえ全員が社会的弱者でも、みんな、「弱さの個性」は違うのだから、弱い者同士が助けあうという可能性は絶対に存在する。

この映画のくれる希望のメッセージの根本はそこにある。
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by mariastella | 2012-07-13 16:46 | 映画

Adieu Berthe ou l'enterrement de mémé


Bruno Podalydès の新作『さよならベルト、または、おばあちゃんの埋葬』というコメディを観た。といっても、結局火葬にして灰を池に撒いたのだから、厳密には埋葬とは言えない。

墓地に立ってギターの弾き語りで埋葬を演出していたある葬儀屋が、別の客に呼ばれて去る時に、「Bonne éternité ! (よい永遠を !)とあいさつするのがおかしかった。確かに、あの世での永遠の滞在が不具合だったら大変だ。

主演が、監督の弟である演技派Denis Podalydès(サルコジ役の秀逸さが印象的だったコメディ・フランセ―ズ系の俳優)と、これも演技派で絶対おもしろいValérie Lemercierで、認知症の父親に代わって突然祖母の葬儀を采配しなくてはならなくなった薬剤師の悲喜劇なのだから、大いに笑ってしんみりと人生について考えさせられもする良作…

であるはずなのだが、へんに日常的でリアルである分、かえって世代の微妙な差とかが邪魔をして、感情移入できなかった。

認知症の父親の方がむしろ私の世代に近くて、40代半ばの夫婦と夫の愛人が携帯メールでやり取りするシーンは、僅差で私たちの感覚とずれている。

その40代の男女が愛憎の危機を迎えていて、悶々としたり爆発したりする様子も、ゲームに夢中になって父親に返事もしない高校3年らしい息子との関係も、知り合いのあれこれを思い出させてリアルだが、自分とはかけ離れている。

ある映画に感情移入できるかどうかなどはもとより登場人物の設定とリアルの自分が似ているかどうかなどとは関係ない。
それなのに、この映画は明らかに、フランスの今時の家族の等身大の悩みを切り取ってみせているだけに、わずかのずれがむしろ違和感をもたらす方向に働いた。
すごくうまくできているのに。

登場人物たちの心理模様はおそらく多くの人が共通して経験していることで、自分でも直視しない部分を突きつけられて笑いとばされていることが、カタルシスにもなり深刻にもなり得るのだろうが、私は憐憫の気持しか湧かなかった。

昔、「しあわせな人間にはアートは分からない、というか分かる必要がない」と島田謹二さんが言っていたが、その時と同じような居心地の悪さがある。

たかが映画で居心地が悪くなるというのはそれはそれで影響絶大だとも言えるが…
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by mariastella | 2012-07-08 08:06 | 映画

プロメテウス

リドリー・スコットのSF3D映画『プロメテウス』をつき合いで観に行った。

『エイリアン』が怖かった記憶があるので、もう残りの人生でホラーやヴァイオレンス映画をできるだけみないと決めた私は気がすすまなかったのだけれど、地球外で起こるホラーは今やあまり怖くないことが分かった。日常的な舞台で起こるホラーの方がトラウマになる。

で、印象に残ったのはふたつだけで、まず、人間が自らの創造者をさがすわけだが、人が「親を殺す欲望」なんていう言葉が出てくるところ。フロイトなんかの父殺しをイメージしているのだろうが、何かとてもリアルに響いてぎょっとした。

もう一つは、ヒロインが十字架のペンダントを首にかけていて、一度外すのだがまた首にかけて、アンドロイドから「こんな試練の後でもまだ信じているのか」みたいなことばをかけられるところ。

アメリカらしいというか、要するに、自分たちを創造した存在(ここではクリエーターという言葉を避けてエンジニアと通称されているのだが)を探す旅に出るということ自体が、創造神を頂く一神教文化圏の逆説的な希求になっている。

もちろん、そのクリエーターに会って老衰をストップしてもらいたいという人類普遍の「不老不死」の願いにとらわれている老人も出てくるのだけれど、それだって、ふつうなら「若返りの薬」とか「不老長寿の術」などを探求するパターンだろう。

人間を死すべき存在に創った「製造元」のクリエーターに出会ったからといって「死なないようにしてもらう」なんて、発想がやはり、DNAをばらまいて似姿を残してくれた異星人を「全能の神」の代替として想定しているようなものだ。

結局、生き残るのは、十字架をにぎりしめた考古学者だけで、その彼女も結局地球に戻るよりも、人間のルーツのクリエーターの住むところに行きたいというのだから、ほんとうに神と宇宙人って、紙一重だ。

宇宙人は無神論者の神さまで、宇宙開発は無神論を喰らって進んだのかもしれない。で、「親を殺す欲望」というのも、じつは「神を殺す欲望」と連動しているのかもしれない。

十字架でもにぎりしめないと、「宇宙にクリエーター」を探すのは神への冒涜感があって、そこで出会う困難には「神罰」感がともなうんだろう。

で、唯一のカタルシスは、地球人を全滅させようとしている(旧約聖書で大洪水を起こした神みたいな)人間の生みの親である宇宙人の飛行船に、カミカゼみたいに体当たりでぶつかって阻止したヒロイックな自己犠牲のクルーたちの話になる。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15-13)」

というイエスの教えにいきつくわけだ。

彼らはきっと天国へ行くだろう。一方で、彼らを見捨てたリーダーの方は墜落した飛行船の下敷きになってあえなく死ぬ、とちゃんと「天罰」がくだっている。

アメリカのモラル的に「公正」な話にできあがっているなあ。
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by mariastella | 2012-07-06 01:36 | 映画

ファルハディの『別離』

Asghar Farhadiの『Une séparation一つの別れ』

日本でも『別離』というタイトルで上演中らしいイラン映画の傑作。

今のイランのような特殊な状況にある国なのに家族の抱える問題は普遍的だ、というような評が日本には少なくないのだが、フランスではその特殊性というか、政治的イデオロギー的な文脈の中で評されている。

今のイランの国際状況下でのアートの表現だから、それを抜きにしては語れないのだが、日本人から見ると、もっとエキゾティックかと思っていたら中流の家庭の中が意外と日本と似ているなあ、みたいな類似点に目が行くらしい。

もちろん人間性に深く分け入ってゆく普遍性は十分にあって、なんだかベルイマンの映画を見ているような気になった。

特殊な状況(娘を国外に出して教育したいという母の願い)から出発するのに、すごく日常的で家庭的な齟齬があり、悪夢のような展開になって、真実を探るミステリー仕立てになっているので緊張感が持続してストーリーテリングもすばらしい。

想定外の危機が連鎖するのを前にして、みんなが必死にサヴァイヴァルするのだが、その戦略に、自分の理念だとか原則だとか、愛情とか誇りとかをどう折り合いをつけるのかというスリリングな話だ。

政治的にも宗教的にも社会的にもさまざまな矛盾が意識化されている世界だからこそ、それぞれの生き方の選択の苦渋も、より露わに見えてくる。


俳優がみな素晴らしい。

イランやイスラエルのアーティストたちがからめ手から今の状況にどんどん問いを投げかけ続けると、いつかいい方向にブレイク・スルーが起こるかもしれない。

ファルハディの次作は、マリオン・コティヤール主演の社会派スリラーであり、秋にフランスで撮影されるらしい。

楽しみだ。
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by mariastella | 2012-06-06 01:49 | 映画

最近近所で観たフランス映画と日本映画


是枝裕和監督の『奇跡』を観た。

こちらでのタイトルは『I Wish. Nos voeux secrets』、つまり、ぼくらの秘密の願い事、というわけで、「miracle=奇跡」とは言わない。

欧米語だと「奇跡」というのは、願い事が叶えられるというより、こちらの期待を超えて神から一方的に与えられるものだという感覚があるから、都市伝説にのっとって願いを叫ぶというのはそれだけでは奇跡とはならない。

もちろん「奇跡を願う」といういい方はフランス語でも可能だが、奇跡の「起こり方」は、やはり「願い通り」というよりも、予測不可能な神の業に属しているのだから、この映画のタイトルが「奇跡」というのは、たとえ「子供らしい」思い込みという設定だとしても、フランス語としては違和感があり過ぎるのだ。

そういう点にまず考えさせられた。

で、話は、子供たちの一種の通過儀礼、イニシエーションものになっているのだけれど、フランスでのある評には、「現実を受け入れるという東洋的な智恵に到達する」みたいなことが書かれていた。小津マジックが働いているのだろうか。

前半は2人の兄弟の福岡と鹿児島での日常の小さなことの淡々とした積み重ねで交互に積み重ねられるのがとても「映画的」だ。後半はロードムービー風になってスピード感、非日常感が、よくできた音楽で高められる。

美男美女の両親の子供2人(実の兄弟)が全然両親に似ていないのは不自然でなかなか慣れなかったけれど。小学校の先生たちもみんな美男美女過ぎる。

それにしても、桜島の有徴性は突出している。煙を吐くこの火山を毎日目にして育った私の父は、それを、一生刻みつけていた。

先日はEtienne Chatiliez の『L'Oncle Charlesシャルルおじさん』を観た。

Eddy Mitchellは悪くないし、Alexandra Lamyは好きだし、ニュージーランドで大富豪になったフランス人とナントの近くの貧乏家族の出会いというシャティエらしいシチュエーションもおもしろそうなのに、あらゆるところで浴びせられていた酷評に違わず、猥雑で意味のないシーンの連続だ。

それでも、すごく本質的に「フランス的」なのが、日本から戻ったばかりだったせいか、かえって身にしみた。

日本に滞在中は一本だけロードショーを観た。『テルマエ・ロマエ』だ。

原作のコミックを全巻読んでいて気に入ってたからだ。最新刊ではラテン語を話す若い娘が出てきてあり得ないシチュエーションだよな、と思ったが、映画ではそれがもろに採用されて、一週間徹夜でラテン語を勉強したら古代ローマで立派に意思疎通ができるという設定になっていて、無理があり過ぎだがそれなりに「映画版」としてのストーリー展開になっていた。

映画まで見るな、マンガだけにしておけ、と忠告されていたのだが、行って後悔したということはなかった。豪華だしサービス精神にあふれていて気分転換になる。

後は、時間がなかったので、往復の飛行機内で何本もの映画を観た。

フランス映画では、見損ねていた『The Artist』。

想像通りで、モノクロ・サイレントという今となっては珍しさが目新しさに映る表現を使ったアイディアの勝利である。それ以外にはこれという驚きのない予定調和の映画だった。アメリカで受けたというわけはなんとなくわかる。

日本映画は矢口史靖監督の『ロボジー』。「ニュー潮風」というさびれた温泉旅館みたいなネーミングがおじいさんを中に入れたロボットにつけられているのが笑える。

他にもたくさん観たが、続きはまた今度。
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by mariastella | 2012-05-22 21:04 | 映画

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』


メリル・ストリープがアカデミー賞を受賞した『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観た。(この邦題の「涙」って日本的過ぎる・・・まあ、原題のThe Iron Ladyって、今や日本語に直訳したら鉄道マニアの女性と間違われかねないけれど。)

私がわざわざ観にいったわけは、ちょうどジャンヌ・ダルクにおける英仏関係について書いているので、なんとなく、「イギリス側の雰囲気」に浸りたかったからだ。

案の定、サッチャー女史がやはりアンチ・フランスを口にするシーンがあって、カレー(ドーヴァー海峡を隔ててイギリスと40キロしか離れていない。百年戦争の時もすぐに攻防があった。ロダンの『カレーの市民』で有名だ)の名も出てきた。フランスの映画館なので失笑が起こったのもご愛嬌。

サッチャー女史が失脚したのは1990年だ。その時、彼女は、冷戦終結10周年のセレモニーに出席のために体よくパリへと追い払われていた。パリとロンドンをつなぐユーロスター鉄道が開通したのは1994年だった。その頃はまだ頭脳明晰だったサッチャー女史は、どんな感想をもったのだろう。

しかし、この映画を観て、英仏関係だけではなく今私がジャンヌ・ダルクで扱っている三つのテーマがすべて重なることが分かった。

英仏関係のほかに、ジェンダーの問題と、政治と宗教の問題だ。

以前にサッチャー失脚にまつわるドキュメンタリー番組を見て、イギリスはフランスよりもはるかに力のある女性に対して残酷だなあと思ったことがある。ある意味で、15世紀から変わっていない。
また、フォークランド紛争の時にイギリス軍の最高司令官として強硬な決定を下すシーンとそれを取り囲む男たちの姿も、私には百年戦争での女と戦争のパラドクスを想起させるものだった。

サッチャー女史がアッシジのフランチェスコの平和の祈りを引用したり、ダライラマが自由主義神学者に語った言葉を引用したりするシーンも、宗教のカリスマの政治のカリスマへの流用について考えさせられた。

ギボンによると、ローマ帝国時代にあちこちの神々がローマに輸入されていた時、一般大衆はあらゆる宗教をどれも均しく真であると信じ、哲学者たちは均しくみな虚偽であると説き、政治家たちは、いずれも均しく役に立つと見なしたらしいが、そういう基本的な構図というのは、ひょっとして2千年経っても変わっていないのかと思うと、ちょっと愕然とする。
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by mariastella | 2012-03-02 01:43 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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