L'art de croire             竹下節子ブログ

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2012

 ローランド・エメリッヒ監督の『2012』を結局観にいった。大迫力特撮モノは嫌いじゃない。

 Mが、カリカチュラルだと言っていた。権力者、金持ち、白人とかは「悪」で、有色人種や慎ましい人々が「善」という図式とか、中国やヒマラヤのキャパシティとか、アフリカが最後に残る希望の大陸(無理して象やキリンを運ばなくてもよかったかもしれない)とか、世界の終わりになるとイタリア人はみなカトリックになるのかとか、お決まりのチベットの坊さんの智恵へのファンタスムとか。
 特にMをイライラさせたのは、「実の父親」が最終的に子供を救う、という図式みたいだった。Mは同性のパートナーの子供二人と暮らしてきて、子供たちに不当干渉する実の父親の横暴ぶり、倒錯ぶりにうんざりしているからである。(黒人大統領が殉死すると「白くなる」んだよ、とも言っていたが、雪のせいのあれをそう深読みできるのか?)

 それに、この映画見てると、子供たちを救うには、実の父とステップ・ファーザーと二人が要るなあ。車の運転のプロでSF作家と、飛行機の運転ができる医者との連携が最低必要だ。

 実の親が云々というより、何かこれを見ていたら、やはり世界(あるいは個人の人生)の終わりには、人間としての幸せは、「愛する人とめぐり合って子供を持てること」、みたいなメッセージが挿入されるのが、抵抗があった。まあ、「男女が出会って子供が生まれるのは価値あること」という基本的なインプットがないと、それこそ種が絶滅するのだから、それはいいけど、「わが子を助ける」ことや、「親子が愛してると言い合う」ことばかりが、人間性の発露とか人生の意味みたいなのに矮小化されるのは嫌な気分だ。人生において伴侶を得られなかった人、子供を持たなかった人、子供を守れなかった人なんか、は救われないし、実の親でもほんとうに鬼のような親だっているしね。

 うちはチベットの坊さんたちと関係が深いのでよけい感じるのだが、こういう異文化への憧憬みたいなのも、構造主義人類学以来の西洋人のファンタスムと切り離せられない。
 
 白人文化はもうだめでアマゾンの奥地や遠いヒマラヤに真の智者がいると思う心性と、移民の子孫や不法移民が治安を妨げる悪徳分子だと排除したい心性とは、表裏一体である。

 幸福の青い鳥は、他所に探すが、結局自分のすぐそばにあった、というのはよく言われることだが、悪や不幸も、がんばって不法移民や狂信者などに投影しても、結局、自分の中にあるのだ。

 ほんとうに世界の終わりが来そうなら、私は特に生き延びたくもないし、無理だと思うが、それでもできるだけは生き延びて、終わりの様子を見てみたい、地球の様子だけじゃなく人間の行動も。その「好奇心」が恐怖より強い。

 まあ、この映画は、結局、聖書的な展開をするので、「贖罪による再出発」という「希望」のメッセージになっている。商業映画のお約束でもあるが、大切なことでもあるな。

 つまり、やたらと「世界の終わり」を言いたてて不安を煽り自滅するより、「何かの終わり」はまた「何かの始まり」でもあることを信じることの大切さだ。既得権や良い思い出や失われた健康や若さなどにしがみついて変化についていけずに自分を不幸に追いやるというケースは多いからなあ。

 この映画、10年前の、1999年の「世界の終わり」話を思い出しながら、観た。
 あの時も、何月何日に世界が終わる確率は、それまでに病気や事故で私の終わりが来る確率より小さいだろうなと思っていた。この10年の間に私の両親の世界は終わっている。
 彼らにとって宗教はどうだったろう。生きている時には何かしらの役に立ったかもしれないが、亡くなる時には、別に必要としなかったみたいだ。

 そういえば、「人間を信じる人はみんな神の子」、ってシスター・エマニュエルが言っていたなあ。

 


 
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by mariastella | 2009-11-30 03:24 | 映画

日本で見た映画のことなど

 日本から戻ってきた。こちらはもう新学期(新学年)が始まっていて、昨日、トリオの最初の練習を再開、明日からは生徒のレッスンが始まる。生徒を増やしたくないのだが、突然、小学生の時にギターを教えていた生徒の親から電話があり、今は21歳になったその生徒が、また習いに来たいという。今はグループを作って作曲もしてセミプロの音楽活動をしているが、クラシックギターと音楽理論を学びなおしたいそうだ。その他に、やはり昔ピアノを教えていた生徒が自分の息子を教えて欲しいと連れてきたので、これも、何だか感慨深くOKしてしまった。

 やらなければいけない仕事にかからなければならないのだが、忘れないうちに日本で見た映画についてメモっておこう。と言っても、暇がなかったので、映画館で見たのは『火天の城』一本だけで、後は飛行機の中で5本の映画を見ただけ。

 戦国時代モノが2本
  『火天の城』
  『Goemon』

 感動モノ2本 
  『余命一ヶ月の花嫁』
  『60歳のラブレター』

 ロマンチック・コメディー
  『De l'autre côté du lit』(フランス映画)
  『The proposal』(アメリカ映画)

 戦国モノが一番おもしろかった。
 安土桃山時代というのは、反宗教改革のカトリックのバロック・アート華やかなりし頃なので、宣教師を通じて、本格的な芝居や音楽や踊りも紹介されて、バロック・アートと日本文化の接触の刺激的なテーマがたくさんある。映画人の想像力も駆使できて、バロッキーでエキゾチックな華麗な装飾や、メガロマニアックな舞台が展開されるので楽しい。オルゴールなどの小物も彩りを添えている(ちらと見えるメカニックは18世紀っぽい感じだったけど)。火天の城の信長が椎名桔平、Goemonの信長が中村橋之介など、比べるのも楽しい。石川五右衛門が織田信長に拾われた天才忍者でいろいろな陰謀と関わったりする話もおもしろかった。
 どちらにもに寺島進が出ていて、この人は、「ナンバー2」の役どころにぴったりはまっていて、上手いなあと思う。

 『火天の城』の方は、建築そのものが興味深かった。

 今回の日本は忙しかったので、唯一、自分の希望を反映したのがこの映画と、青山のワタリウム美術館の「ルイス・バラガン邸をたずねる」という展示会だ。
 構成が妹島和世+西沢立衛のチームというところに興味を持った。バラガン邸のダイニング・ルームでお茶によばれて説明を受けるという趣向で、定員10名だが、最初にこの中で建築家はいますかと聞かれ、2人が手を挙げ、庭の十字架型の窓枠の強度やエアコンについて質問していた。私の質問したのは、寝室にあった十字架で、ある意味すごくモダンなデザイン性のあるグロテスクな一品だが、16世紀の「ウルトラ・バロック」ばりばりのもので、メキシコ国外に出すのに許可が必要だったそうだ。
 バラガン邸の色使いは、ブーゲンビリアの花だとか、メキシコの自然に依拠しているという解説だったが、あの十字架を見ても、ウルトラバロックの感性と共通しているのは確かだと思う。確か当時のスペイン系イエズス会文化はメキシコ・バロックを通過してアカプルコを経て日本に来たと、メキシコの音楽学者が言っていたから、バラガンと安土桃山の建築も、どこかで共鳴しているような気がする。実際、信長は、カテドラルのような吹き抜けの城を造りたいと最初に言ったことになっているし、メキシコ・バロックの意匠と安土桃山時代の建築や意匠の比較は面白いかもしれない。

 感動モノは、「お涙ちょうだい」モノでもあり、『余命一ヶ月の・・・』は『ある愛の詩』とか『愛と死をみつめて』とかと同じ、不治の病に侵された若い娘のラブストーリーで、何だか安易なお約束でずるいなあ、と思いながら、お約束どおりたっぷり泣いてしまった。カップルのそれぞれの親たちの方に感情移入してしまうのが昔と違う。
 『60歳の・・』の方は、逆に私とほぼ同世代のツボにはまるような設定が目白押しで、セックスレス夫婦の定年退職離婚とか、夫の糖尿病(低カロリー食で禁酒、ひたすらウォーキングという固定観念にはまいったけれど)を厳しく管理していた妻の方が脳腫瘍で大手術とか、もとグループサウンズとか、自由業キャリアウーマンの孤独とかなど、20歳の悲恋の泣かせどころの「お約束」が世界共通なのと違って、60歳となると、国民性や時代や文化、風土をたっぷり背負っているなあと思わせる。(でも、泣いたけど。)

 ラブコメの2本は、フランス映画の方がダニー・ブーンとソフィ・マルソーの人気カップルで、倦怠期の夫婦が役割をすっかり入れ替えるという、クラシックだが真実味のない設定で、たいして笑えもしなかった。もう少し何とかなってもいいのに。アメリカ映画の方は、これもカリカチュラルな男女逆転(女性が上司で昇進を条件に部下に偽装結婚を迫る)シチュエーションで、しかし実は男の実家がアラスカの大実業家で大家族で、女の方は孤独で愛を忘れているという、御伽噺のヴァリエーションだ。でも、さすがアメリカ映画の方がこういうのは上手いなあ、と思った。それにしても、けっこう裕福な人たちにおける家族、仕事、ジェンダー、恋をめぐるごたごたと女性のフラストレーションというのは、どこの国でも変わらなくて、何か根本的におかしい。『60歳の・・・』に出てくるような弱小自営業の共働きのカップルというのが、大変だけど一番人間的で幸せそうである。
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by mariastella | 2009-09-24 00:39 | 映画

Demain dès l'aube...

Demain dès l'aube...

ユゴーの詩の話ではなく、今年のカンヌの出品作だった Denis Dercourt 監督作品のタイトルだ。
 『譜めくりの女』は女性二人の心理スリラーだったが、今度は男性二人、兄弟が主役だ。
 Vincent PerezとJérémie Renier。ヴァンサン・ペレスがこんなに名優だったとは今まで気づかなかった。

 二人ともはまり役だ。

 いろんな意味で私のツボにはまる映画である。

 ドゥ二・デルクールは私と同じヴィオラ奏者で、音楽院教授でもある。だから、音楽の現場が必ず、かなりのリアリティで描かれる。
 ヴェルサイユあたりで自分のエージェントも兼ねている妻と息子とブルジョワ風に暮らす国際的ピアニストがヴァンサン・ペレス。個人教授もしている。
 もう少し遠くの郊外の一軒家で暮らす母と弟。弟は工場に勤めている。この弟が、ナポレオンの軍隊のローリング・プレイのグループにはまっているのである。母は、癌の再発で入院、次男のことが心配で、長男に自分が入院している間、弟と一緒に住んでくれと頼む。弟の方は、兄が妻と別居したのだと勘違いしている。
 で、この弟が、勤めが終わると、森で、ナポレオン軍の野営や訓練のコスプレをしているのである。そこに集まる人は皆、昼間の顔とは別の、こちらの世界の顔、役割、ヒエラルキーがある。

 その辺が怖い。
 
 私はリアルにこういう人たちを多少知っているからである。

 フランスには中世愛好家のコスプレグループ、第一次大戦愛好家、第二次大戦愛好家がいて、雑誌も出ている。かなりマニアックなグループだとは分る。秘密結社みたいだ。

 中世はまだしも、こういう「戦争愛好家」のプレイが私は苦手だ。
 ノルマンディ上陸作戦の記念日にも必ず、アメリカ人の愛好家たちが当時の軍服を着て毎年模擬上陸をやっている。一見観光のパフォーマンスのようだが、かなり本気である。

 日本でも模擬戦争とか、模擬サヴァイヴァル体験というのも時々聞く。
 でも、関が原の戦いとか、戦国時代とか、そういう「時代物」の戦争や日清日露戦争の愛好家のグループのかなり危険なコスプレとかあるんだろうか。時代物映画がTVの撮影か、テーマパークしか思いつかないのだが、日本でも、やってる人いるんだろうか。それともヴァーチャルにとどまっているだけなのだろうか。

 私の知り合いは過去のピアノの生徒の親で、同じ通りに住んでいる。ナポレオン画家で、当時の服や小物も全部手作りしている。地下室にアトリエがある。

 小柄で華奢で、戦争マニアのイメージとはギャップがある。

 くらくらする。

 彼の実兄は、等身大自動人形オートマタの製作者である。

 これも怖い。

 変な話だがヒトラーにかぶれてナチスのコスプレなんかしているとドイツなどでは刑法に触れる。
 
 ナポレオンには歯止めがない。

 けっこう怖い。

 ナポレオンは、聖母被昇天祭の8月15日生まれである。
 だから、聖母被昇天祭を聖ナポレオンの祝日にした。
 聖ナポレオンをでっち上げたのだ。

 映画では、弟を止めようとする兄がだんだんと異様な世界に引き込まれていく。

 その世界で、命をかけた決闘が組織される。
 死者がでれば、古式の狩をしているうちの事故であると皆が口裏を合わせることになっている。

 私はいつかナポレオンについて書こうと思っている。
 ナポレオンはジャンヌ・ダルクとルイ14世に並んで、最も多くの本が書かれたフランス人である。

 でも最も多くの人を今でもパラレルワールドに引き込んでいるのは、ナポレオンだけではないだろうか。

 
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by mariastella | 2009-08-21 06:30 | 映画

Le Hérisson と Bambou

 軽くて楽しいフランス映画を見ようと思って、動物が出てくることもあって、2本選んだ。

 軽くて楽しい、というのは、意外に難しいということが分った。
 芸達者な俳優ばかり出ている割にはいかしきれていないし、いろいろ不自然だし、今ひとつ見ている間夢中になれなかった。パリが舞台、前者には小津さんという日本人も出てくるし、3つの家庭でみな猫を飼ってるし、後者は犬だが、ヒロインはピアニストだし、何となくなじみの世界でとっつきやすいかなあと思ったのだが。

 Le Hérisson( Mona Achache)はベストセラー『ハリネズミのエレガンス』の映画化だ。シックなパリのアパルトマンの住み込みの管理人のおばさんが実は、本好きのインテリだったという設定で、彼女の真の姿を知るのは、大臣の娘で、早熟で自殺願望のある11歳のパロマと、何をしてるのか分らない初老の金持ちそうなおとこやもめの日本人小津さんだけ、この3人に信頼関係や愛情が生まれる。

  ヒロインはJosiane Balaskoで、初老でぱっとしないもっさりした掃除のおばさんが実は・・・というのは『セラフィーヌ』のことも思い出す。けれど、セラフィーヌが実はシャーマニックでアーチストで絵を描くのに没頭してるのはすごいと思ったけど、このヒロインのルネは、ただつまみ食いしながら本を読んでいるだけで、正直言って、どこがすごいのかよくわからない。ドアを開けたら何だか天文学の研究をしてるとか、哲学の論文かいてるとか、古文書を解読してるとかならすごいなあと分るけど、ただ、本がいっぱいあるだけだ。
 しかも、小津さんとは、トルストイの文章なんかを応答しあうことで、「趣味の高尚さ」が通じ合うような設定なのだが、この小津さんって、フランス語が別に特に上手くもないのに、暗誦するほどの愛読書がトルストイの仏訳ですか・・・
 それならまだロンサールの詩なんかを引用しあって「おっ、趣味があいますね・・」とかいう方が自然じゃないか。モンテーニュの引用とかでもいいし。
 「本がある」のが偉いのなら、大臣の家にだって、たくさん本はあるみたいだった。でも彼らはどうしようもない俗物として描かれている。それに対して管理人のルネは、「ハリネズミ」で、人はなかなかそばに寄せつけないけれど、実は中味は繊細でエレガントであるというのである。ところが、私はルネが実は読書家だと知っても、別にエレガントだとは思えないのである。ミスティフィカシオン即エレガンスにはならないし、「小津さん」だって、変なやつだと思う。

 まあ、これを成立させているのは、パリの立派なアパルトマンの住み込みの管理人というものが、口やかましかったり、ポルトガル移民の夫婦だったり、住民の赤裸々なすべての側面を見ているのだが、住民からは実は人格を無視されているという、独特の差別構造なのである。つまり、そこにいるがいないのと同じだと思っていた「2級人間」が、実は、部屋に書架を並べるような「人間」だった、という驚きで、彼女をそういうレッテルで見ない子供とか外人だけが、真の姿を見つけるのだという、安易な寓話的枠組にこの原作や映画はのっとっているわけである。原作を読んでないから何ともいえないが、読み始めたら11歳の子の小難しい言い回しに飽きて途中でやめた、という人を知っている。この設定なら私だったらもっとましなものを書けると思う。映画のパロマちゃんは可愛いし、白黒の絵のセンスもなかなかすてきなので細かいところは楽しいのだけれど。
 愛猫としては、大臣のブルジョワ家庭にはペルシャ猫、ミステリアスな小津さんちにはシャム猫っぽいの(ロシアンブルーみたいだが、しなやかに痩せている)、管理人のうちには、テーブルの上に平気で座り込むしつけの悪い雑種猫がいて、そこんとこだけがうちと同じで、うちの猫の飼い方は、階級的にいうと最下層なんだなあと妙に納得した。
 後、通いの家政婦が、大臣のところは時給8ユーロで安いが、12ユーロのところを見つけたのでやめてやる、と言っていたが、うちの家政婦さんの時給は10ユーロなんで、まあ妥当かなあとほっとした。13ユーロ払ってる人も知っている。

 もう一つは、Bambou(Didier Bourdon)で、完全なコメディなのでもっと笑えるかと思ったが、冗長だった。
 子供が欲しいカップルのところに突然犬がやってきて、カップルの邪魔をする上に、女性の方が急に国際的なピアニストとしてのキャリアが可能になってうちを留守にし始める。
  Didier Bourdon, Anne Consigny, Pierre Arditi, Eddy Mitchell, Annie Dupereyと、個性的な人が多いし、設定ももっと楽しめるかと思ったのだが、こうなると、やはり演出が下手なのか。
 ここにはアジア人の家政婦が出てくる。支払いの場面も出てくる。ブルジョワ的なアパルトマンに住んでた主人公がいきなり屋根裏部屋に引越ししたりして、ここでも、階級とかパリの外国人の人間模様とかいろいろカリカチュアライズされている。中途半端にリアルだと笑えないなあということがよく分かった。これくらいならハリーポッターの新作を見に行った方がましだったかもしれない。

 ちょっとがっかりという点では、今読み始めたEmmanuel Carrèreの『D'autres vies que la mienne 』もやや期待はずれだった。お手軽な感動や笑いを求めている場合じゃないのかも。今ぼーっと読んでいるものでなんとか面白いと思えるのは三角関数論と、サラ・パレツキーくらいかなあ。後はB16が最近出した回勅。貧困についての考え方には根本的な新しさ(実はイエスの頃から一貫してるのだが・・)が見られて、危機感やら絶望よりも何だか希望を感じさせてくれる。悪くない。
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by mariastella | 2009-07-12 07:41 | 映画

ジョニー・トゥ の『Vengeance 』

ヴァイオレントな映画のインプットはやめようと決めてるはずなのに、Johnnie To 監督の 『 Vengeance 』を観にいってしまった。 先のカンヌで、監督のJohnnie Toと主演のJohnny Hallydayの組み合わせが二人のジョニーということで話題になったこともあるし、年代的なことや、他のシチュエーションでも個人的に親近感を持つ事情があったので。

 すると、もう、バリバリのヴァイオレンス・シーン満載で、子供が殺されるというシーンまである。
 こういう「暗黒街の殺し屋どうしの対決」みたいな映画で、アジアが舞台でアジア人が出てくると、70年代にたっぷり見た東映系やくざ映画を反射的に思い出す。あそこではしょっちゅう県警とのいざこざがあったが、マカオや香港には警察いないんですか、というくらいの拳銃撃ち放題。
 新宿を舞台にしたようなマフィアの抗争ものなどは見たことがないので分らないが、こういうシチュエーションなのだろうか。(そういうのは『シティハンター』のコミックでしか見たことがない。)

 で、66歳の初老の疲れ気味のフランス男が、しなやかな肉体の中国人の殺し屋たちと組んで、夫と子供たちを惨殺された娘の願う復讐に乗り出すのだが、シナリオにいろいろひねりがあって、それこそコミック的な部分があり、つっこみどころも多く、ドラマとしては、迫力がない。街の傘のシーンやゴミ集積場の戦闘シーンなど空間の演出はさすがでシュールな感じもして綺麗なのだけれど。

 驚いたのは、英語でしゃべっていた主人公が、香港の海岸で、突然、跪いて両手を組み、フランス語で、「主の祈り」の最初の所を唱えて「私を救ってください」と神に祈るシーンだ。

 そのうちに主人公の脳内幻想のように家族の姿が海から現れて、彼を「復讐」に向わせる。

 その少し前に、彼はすべての記憶を喪失して、

 「復讐? 復讐って何?」

 と、彼のために最初の復讐を代行した殺し屋たちに言うのである。

 この手の映画で発せられるこのひと言の新鮮さが、いかにもオリジナルで、面白い。

 考えてみれば、この男は、復讐の念に燃えたとか駆り立てられたという感じではなく、最初から、それを演じているというか、頭の中で常に再構成しながら組み立てているので、その乖離ぶりが不条理である。

 そして最後は「神」まで動員して、エモーショナルではない復讐、情動のない復讐、だから当然カタルシスもない復讐を完遂するのだ。

 フランス人主演ということで、40年前のメルヴィル―アランドロンの『サムライ』のオマージュとも言われるのだが、全体に、ハードボイルドのパロディのようでもある。
 
 「憎しみと乖離した復讐劇」というオリジナルぶりで味のある作品だった。
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by mariastella | 2009-06-24 17:43 | 映画

帰りの飛行機で見た映画

 帰仏。昼のフライトで、、久しぶりの日系航空会社なので、日本映画を集中的に見ることにする。

 まず、『20世紀少年』の第1部と第2部。

 2作続けて見ると長い。

 しかも完結してないのでフラストレーション。

 浦沢直樹の原作をビッグコミック系雑誌ではじめの頃少し読んだことがある。彼のコミックはいつも謎が壮大で、『モンスター』なんかは最後が気になって、ついに日本でコミック最終巻を購入したこともある。

 しかし、「科学冒険映画」と銘打つにしては、実写にすると荒唐無稽さばかり目立ち、ラストの、人間が死んでよみがえったら神になるとか、先例はイエス・キリストただ一人、とか大仰に言われると、キリスト教徒でなくとも、マスクを取って顔を確認しなくてもいいんかい、とつっこみをいれたくなるのではないか。

 万博のパロディがあったり、1969年の日本が、高校生だった私と、映画の主人公である小学生の男の子たちとではここまでイメージが違うんだなあ、と感慨深いものがある。彼らの日本の光景(原っぱの秘密基地とか)は、まるで、私の小学校の頃の日本の光景で、時代よりも年代の問題なんだろうか。

 概して面白い小説が映画化されると、切り捨てられる部分が多く想像力も乏しくなるので、つまらなくなる感が多いが、コミックの映画化もアニメならいざしらず、薄手になると思った。俳優の魅力とか映像のディティールの面白さはあるのだけれど。逆に、面白い小説がコミック化されて成功する例はわりとある。コミックのレベルの高さ、潜在力は、実写をしのいで、小説に拮抗するのだろうか。

 日本では豚インフルエンザ騒ぎがすごかったので、(フランスに戻ると全然トーンが違う)、毒食わば皿までと開き直って
 
 『感染列島』(瀬々敬久監督)も見る。

 まあ予定調和風のカタストロフィ映画だが、それでも、正直言って、『20世紀少年』よりじっくり感があって楽しめた。主人公のカップルは結ばれないが、10代の若いカップルが助かるところで希望が繋がれている。
 『20世紀少年』もこの映画も、何かというと、外国ニュースが流れる。
 前者では、「世界征服』が目的だから、ロンドン。パリ、NYも絶滅したりするが、こっちは、日本が罰せられている、という自虐的な感じが強い。実際、結構な被害が出て、後味はすかっとしない。

 南の島に感染源を探しに行くというシーンもあって、変化に富んでいるので飽きないけど。

 次に口直しに

 『旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ』(マキノ雅彦監督)を見た。

 それこそ予定調和のほのぼの物語かと思ったら、なかなか手に汗握る展開だ。
 正直これが一番おもしろかった。

 すべての動物物語と同様、動物たちのインパクトがすごいこともあるが、園長役の、西田敏行をはじめ動物にくわれないだけの芸達者がそろっていて、楽しい。

 ただ、この映画の若い飼育係のエピソードといい、20世紀少年の子供時代といい、なんだか、日本の小学校では「いじめ」がトラウマであり原体験(いじめていたり目撃していた者も含めて)であるらしい陰惨な感じがあって、それが「よくあること」らしいのは、胸が悪くなる。

 自殺対策といじめ対策は、景気対策やインフルエンザ対策よりも根源的で急を要するんじゃないか。

 その後、1本くらいフランス映画を見ておこうと思って、

 『L'Heure d'été』 (Olivier Assayas 監督)

 を見た。母親が死んだ後の遺産相続に3人の子供が直面する話で、これも今の私と近い状況なので身につまされたが、他の4本の日本映画とは、全く違う空気が流れている。
 兄弟の葛藤とか、老いた母の心理とか、もちろん普遍的な人間感情は共通しているのだが、日本とフランスって、何かが決定的に違う。
 この映画での母親の誕生日パーティや、いろいろな会話、人と人との距離、反応など、こちらの方が、私の日常にずっと近い感じがするのは当然といえば当然だが、何かもう、私は日本的世界では生きられないなあと思ってしまった。

 それこそいじめにあうか、鬱病になりそうだ。

 

 
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by mariastella | 2009-05-04 16:35 | 映画

映画『セラフィーヌの庭』他数本

 今年度のセザール賞を総なめにした感のある映画『セラフィーヌの庭』(マーティン・プロボスト監督)を見た。

 実在のプリミティヴ派の画家セラフィーヌ・ド・サンリス(1864--1942)の伝記映画だ。。

 セラフィーヌが、悲しい時は森に行って木に話しかけるといい、とか、動物にも植物にも魂がある、などと語り、サンリスやシャンティの牧歌的な風景がたっぷり展開するので、最初はなんだかエコロジー・テイストの映画だなあと思った。今のブームに媚びてるんじゃないかとも。

 しかし、掃除婦をしながら幻視的な画を描きつづけたセラフィーヌも、彼女を発見し世に出したドイツ人の画商Wilhelm Uhdeも、この時期のフランスに生きた人たちの例にもれず、2度の戦争に遭遇するという運命に翻弄されたのだから、いつの世も自然の美しさよりも人間の愚かさの方が勝っているのを思い知らされて深刻だ。自然や人生を破壊するのはいつの世も、文明ではなく人間の暴力だ。

セラフィーヌという人は、17歳からの20年間を女子修道院の掃除婦として過ごしたようで、その鈍重な体つきに似合わぬ澄んだ声で祈ったり聖歌を歌ったりできるし、修道女たちとも生涯いい関係があったようだ。その絵も聖堂の薔薇窓などにインスピレーションを受けたのだろうと言われている。ビンゲンのヒルデガルトの幻視画と同じで、オリバー・サックスなどが見たらきっと偏頭痛による眼球内映像だと言いそうだ。

 この手の眼球内幻視を再現する画家にもう何年も前に会ったことがあるが、その人にとっての「啓示」への忠誠意識と、第三者への伝達性の配慮との兼ね合いはいつも微妙である。アーティストが自分を単なる仲介者として位置づけるか、啓示する創造者と自己を重ねるかによって、目つきまで変わるので、「鑑賞させていただいている」ほうからのアクションを拒むことにもなるからだ。

セラフィーヌの時代はこのような幻視画アートが認められていなかったから、セラフィーヌには傲慢な所はない。書いているときのシャーマン状態と、普段の自己卑下ぶりは乖離している。彼女にとっては、彼女の才能を始めて見出してくれたウィルヘルムとの関係だけが自己評価を劇的に変えるのだ。

そしてウィルヘルムは彼女を単に画家としてという以前に、初めて人間として、存在していることを認めて対等に扱ってくれた人でもある。


セラフィーヌとウィルヘルムが出あった時、彼女が50歳前、彼が40歳前という感じで、第一次大戦後に再会した時には彼女が63歳、彼が53歳である。

彼女が最初に彼に才能を認められたときに画面に音楽が流れるのがすごく印象的だ。
人は人に価値を認められたときに音楽を聴くのだ。

フランスを去るウィルヘルムからずっと描き続けるようにといわれた言葉を信じて、13年後の再会の頃には、セラフィーヌの絵は、「上達した」とウィルヘルムに言われるものになっている。

その後の数年間は、彼の援助を受け、大作を次々とものにする。

 「人を愛したことはあるか」と聞かれて、好きな人がいたが失恋した、でも絵を描いていると、

「別な風に愛する」

ようになるんだ、とセラフィーヌは答える。
ウィルヘルムはホモであるが、むしろそれ故に彼はセラフィーヌの真の友になろうとしたし、セラフィーヌにとっても彼は神のような存在になった。

ウィルヘルム・ウーデはピカソやブラックを早く評価した人で、プリミティヴでは関税人ルソーも見出した。ドイツ人といっても、ユダヤ系のポーランド人で、パリに出てきた時は、クロソフスキーやバルチュスの父親である同世代のピエール・クロソフスキーを頼ったという。

アーティストの世界の国際的な連帯はこの頃も強く、ウィルヘルムも、第一次大戦の時は身一つでフランスを追われるように去ることを余儀なくされたが、第二次大戦の時は、ユダヤ系であるにもかかわらず仲間のアート評論家たちの庇護を受けてフランスに留まり、戦後の1947年にパリで死んだ。

 プリミティヴの画家の評価について、絵は魂で描くものか、知性で表現するものかなどと言う論議がいつもなされるわけだが、いわゆる「真・善・美」というくくりは、アートにはできない。その逆は「偽・悪・醜」であるが、善悪は美醜に関係ない。では「知」と「愚」はどうか、「無垢」と「穢れ」はどうか「秩序か無秩序か」というと、アートは力動の中に生まれて存在の根に触れる効果の一種なのだからこれも二元論的に分けられるものではない。

このウィルヘルムという人は、若い頃は、ギリシャ-ドイツのメランコリーがゴチック的縦方向のアートを生み、ローマ文化は満足感をベースにした水平方向のアートだと論じていたそうだ。晩年には、ゴチック・メンタリティというのはフランク族のゲルマン精神とガロ・ロマン精神の交錯から生まれたものだという見解になり、ピカソはゴチック、ブラックはロマンだと言っている。

ゲルマン民族のドイツと、ラテンのローマはもともとかなりメンタリティが違うのに、ドイツが「神聖ローマ帝国」を継承したという歴史のせいで、キリスト教文化から展開したさまざまなアートの分野では、一枚岩みたいな部分もある。たとえばイタリア・ドイツ系バロック音楽が同系なのにフランス・バロックが別物であるように、はやくからケルト・ゲルマン・ラテンの混ざったフランスとは一味違うことが多い。だから、ドイツ系の人の方がかえって、民族間メンタリティの違和感の洞察が深くなるのかもしれない。イギリス系のアングロサクソンの人は、「島国」メンタリティが別に醸成されるせいか、こういう悩み方はしないのかもしれないが、どうなんだろう。

セラフィーヌを演じるヨランド・モローはもともと芸達者で有名だが、たとえばセラフィーヌが教会の聖母マリアのチャペルで、供えてある蝋燭のロウを画材としてそっと拝借するシーンなどでは、一瞬の目の動きで、彼女の信仰と心やましさとが入り混じった心理を鮮やかに描き出したりして見事である。

セラフィーヌがウィルヘルムに「恋をしてる」と思わせるのは、彼にしきりに神様を信じるかとか聖母マリアはいくらなんでも信じるでしょう、とかしつこく知りたがるシーンでも分かる。修道院に長くいて、教会の絵も歌もみんな好きなセラフィーヌには、ユダヤ人無神論者(それは彼の同性愛とも関係しているはずだ)の存在など想像もつかないというところだ。

何かがアートとして成立するには創作者と鑑賞者の双方の意図と歩み寄りが必要だし、相手の世界に気楽に踏み込めるタイプ、自分の世界のドアを閉じるタイプ、招待はしたがるが決して相手のうちには行かない人、その逆の人、といろいろ考えられる。そのあたりの流れを引き出して調整する存在として画商だとか美術評論家だとの役割は大きい。

今日本に着いたところ。

到着便の中で『スラムドッグ$ミリオネア』『ベンジャミン・ バトン 数奇な人生』他数本の映画を見た。

後者は長くて敬遠してたので、飛行機向きだ。最後に赤ちゃんにまでかえるっていうのがなあ。最初のシーンと、図柄としては対照的だが論理的には非対称である。胎児までは戻らないみたいだし。体は大きいまま能力が赤ん坊にかえるのかと思った。おとぎ話なんだが、医者の説明とか、SF 的つじつまあわせもあると楽しいのに。フランスではこの映画をめぐって実在する「奇妙な病気」のいろいろっていう特集が結構あったので楽しめたが。それにしても老人顔の赤ちゃんが差別されずに老人ホームで生きていけるのは皮肉な話だ。
恋人のバレリーナ をやるケイト・ブランシェットは表情が時々カルラ・ブルーニに似てるなあと思う。

インドものは、インドもの特有のエネルギーとテンションの高さ、貧富の差の極端さ、構成のうまさ、非常にうまくできた映画だとは思うが、「絶対に私の人生を変えない映画」のカテゴリー入りである。

とりあえずこのへんで。
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by mariastella | 2009-04-15 18:10 | 映画

Gran Torino

 クリント・イーストウッドが名演だという『Gran Torino』を観にいった。

 もうできることなら、暴力、戦争、残酷、ホラーなどという映像は見たくないので避けているのだが、しっかりヴァイオレントな映画だった。

 私はなんだか勘違いしていたのだ。老いた人種差別男がアジア人の少年と交流するうちにいつの間にか人間味が生まれて、というしみじみ感動のヒューマン・ストーリーかと思っていて、夕べは何となくそういうものを見たい気分だったのだ。

 イーストウッドの名演がなんたらいうよりも、最初の感想は、あのアジア人たち、アメリカでなくてフランスに移住すればよかったのに、ということである。
 フランスのユニヴァーサリスム、「腐っても鯛」というか、移民の子弟には、ずっとチャンスがある。いわゆる「アメリカンドリーム」という一攫千金の上昇は難しいが、普通の教育を受けて普通の市民になるチャンスは多い。

 銃社会についてのマイケル・ムーアの告発も思い出す。

 少なくとも、フランスでは、田舎の男やもめがいつも銃器で武装していなくてはならないような状況はない。

 日本でももちろんそうだが、日本でアメリカ映画を見ると、あまりにもかけ離れているので、比べる気が起こらないのだが、フランスで若い移民に囲まれて暮らしていると、しみじみ思う。

 「何々系」による棲み分けとグループ間の対立なども、今のアメリカでもこうなんだなあ、と驚く。
 たとえばこの映画では主人公はポーランド系で、アジアの少年に職を世話してやるのだが、その友人はケネディなんたらというアイルランド人である。ここで、カトリック・プア・ホワイト系の白人コミュニティの感じがよく分かる。

 ウエストサイド・ストーリーの頃の、不良グループと変わらない。

 去年、日本の京都劇場で『ウエストサイド物語』のミュージカルを観た後で次のような記事を雑誌に書いた。
 
 少し長いがコピーしよう。


 「 ミュージカルを観る

  五月に日本に帰った時、京都劇場で、劇団「四季」によるミュージカル『ウエストサイド物語』を観た。
 なつかしい。私にとって、ウエストサイド物語といえば、一九六〇年代の初めの日本を席巻したミュージカル映画であり、赤シャツのジョージ・チャキリスが脚を高く上げて踊る姿、激しい『アメリカ』の賛歌や、ロマンティックな『トゥナイト』のメロディと共に、回りの中学生たちがみな指を鳴らしてニューヨークの不良グループを真似ていたのも思い浮かぶ。

 私の記憶の中では、この話は、ニューヨークで敵対する二つの不良グループの、一方のリーダーであるベルナルドの妹マリアともう一方のリーダーのもとの仲間で親友のトニーとの間に恋が芽生えるという、現代版ロメオとジュリエットの悲劇だった。イタリアが舞台のシェイクスピアのクラシックな純愛劇のイメージと、一九六〇年代の日本の日常から想像出来ないようなニューヨークの大都会の無法地帯のイメージのずれが新鮮で、青春エネルギーの水位が信じられないくらいに高くて圧倒された。

 今回、四〇年以上も後に、同じミュージカルの日本語版を生で観たわけだが、昔とは全然違うものが見えてきて驚いた。もちろん世代的なものもある。昔見た時はこちらはまだ少女であり、不良グループも悲恋も何も、すべて絵空事だったし、今は、完全に大人の秩序の中にあぐらをかいでいる状態だからだ。

 では、何が見えて来たかというと、アメリカという移民社会で共同体主義の社会における「宗教と社会」の関の問題の根の深さである。まず、不良グループの構成だ。映画でジョージ・チャキリスが演じていたベルナルドの率いるシャーク団がプエルトリコ系だということは知っていたけれど、その意味は昔はよく分かっていなかった。

 後に、アメリカにおける人種差別に関する本の中で、プエルトリコ人が黒人よりもさらに差別を受ける最底辺であることを知った。プエルトリコはアメリカの自治領ということになっていて、今はアメリカのパスポートを持てるようだが、ウエストサイド物語の時代には、明らかに外国人の移民として「アメリカ人」ではないと差別されている。人種的には明らかにラテンアメリカと近く、スペイン語が基本のようだ。

 物語の中で、「スペインの混血野郎」と罵倒されているところから見ても、インディオなど先住民と征服者スペイン人との混血というイメージなのだろう。

   「マリア」はなぜ美しいのか

日本のミュージカルでは、出演者全員が日本人なので、むしろ分かりやすい。プエルトリコのシャーク団は肌の色も濃くメイクされていて髪も黒い。一方の「アメリカ人」とされるジェット団の方は、大体金髪で色白という設定で明快だ。ヒロインのマリアも色黒である。 しかし、60年代のハリウッド映画の方は、マリアは当時すでにスターであったナタリー・ウッドだった。黒髪ではあったけれど、ロシア系移民の娘である。ベルナルド役のジョージ・チャキリスはギリシャ系。地中海系で当時のハリウッド・スターにしては小柄で浅黒い感じはあったが、日本人から見ると、単に「アメリカ人のスター」に見えた。ベルナルドの恋人アニタ役を好演したリタ・モレノだけが、実際のプエルトリコ人だったのだ。

 トニーが一目ぼれしたマリアに名を聞いて、分かれた後で彼女を思って歌う有名なラブソングがある。その中で、マリアという名がはじめて耳にした美しい響きだと歌うのだが、これも、今思うと、単に恋した者の思い込みではないようだ。マリアなんてむしろ平凡な名をどうしてそんなに美しいとか初めて耳にするとか言うのだろうと思ったが、それは彼女がプエルトリコ人なのでスペイン語の名前を持っているかららしい。

 それまで「アメリカ人」としかつきあっていないトニーにとっては、聖母由来の名は「メアリー」であるから、「マリア」はほんとうにエキゾティックだったのだろう。 しかし、プエルトリコ人をさげすむ「アメリカ人」であるはずのジェット団の若者達も、実は、大都会の不良グループだけあって、社会の底辺にいるプア・ホワイトの子弟である。シャーク団の若者が浴びせる罵倒が「ポーランドの豚」とか「アイルランドの屑」の類いのものであることから察するに、親たちがポーランド移民やアイルランド移民であり、アメリカで生まれた二世であるらしい。アメリカの先発植民者で「建国」者としてのエスタブリッシュメントであるアングロサクソンではない。

 しかし、だからこそ、移民して苦労した親の世代は、母国語を捨てて、名をアメリカ風に変えたり、子供にもアングロサクソン風の名をつけたと思われる。だから子供たちは、プア・ホワイトの子弟として軽蔑されながらも、「生まれながらのアメリカ人」としての意識を植え込まれているから「スペインの混血」のプエルトリコ人を差別するのだ。

   カトリックのインサイド・ストーリー

 では、このジェット団とシャーク団の共通点は何かというと、両者とも、カトリック共同体であることだ。アメリカの東海岸エスタブリッシュメントはWASPと呼ばれるアングロサクソンのプロテスタントであるのに対して、ポーランド、アイルランド、イタリアなどカトリック系の移民は、長い間プア・ホワイトを形成してきた。だからこそイタリア系マフィアなど共同体内の結束は堅かったわけだ。一九六〇年代にアイルランド系カトリックとして初めて大統領になったケネディが、選挙運動中、まさにカトリックであることを種に執拗な追求を受けたことは周知の事実だ。スペイン系プエルトリコは、もちろんカトリックであろう。

 『ウエストサイド物語』が書かれた一九五〇年のアメリカ社会は異種の共同体がまじりあわない社会だった。カトリックのプア・ホワイトの子弟の不良がプロテスタントの中流家庭の子弟と睨み合うことはない。シャーク団とジェット団が宿敵同士だったのは、まさに、底辺同士で、カトリック同士だったからなのだ。

このミュージカルの産みの親であるレナード・バーンステインとジェローム・ロビンスは、共にユダヤ系アメリカ人である。彼らの最初のアイディアは、この悲恋の物語を、ユダヤ人コミュニティとキリスト教コミュニティの間の話にしようと考えていたそうだ。

 どうしてそうならなかったのだろう。ニューヨークに生きるユダヤ人だった彼らには、異宗教間の恋にリアリティがないことが分かっていたからかもしれない。

 マリアは言う。「あなたのことをパパに話すわ。パパは聞くわ。ちゃんと教会に行っている男かねって。」そして二人は、二人だけで、教会での結婚式の誓いを述べ合うのだ。

 つまり、運命のいたずらである「一目ぼれ」とはいえ、若い二人は、自分たちが「結婚可能」な同じ宗教共同体にいることを知っていた。いや、そうでなければ、そもそも、出会うことだってなかったのだろう。

 考えたら、ロメオとジュリエットの悲恋だって、敵同士の家族とはいえカトリック同士の話ではある。日本にいたら見逃してしまう宗教問題の機微を、あらためて考えさせられた『ウエストサイド物語』との再会だった。」


 以上だ。

 そして、今のこの映画でも、主人公はポーランド野郎、みたいに呼ばれるし、アジア人コミュニティへの侮蔑感(主人公が朝鮮戦争に従事したというトラウマは別にしても)もあらわである。
 アジア人の不良グループは、メキシコ人不良グループとやりあうし、黒人の不良たちも出てくる。人種別につるんでいるし、アジア人の娘が白人のボーイフレンドと歩いていると黒人グループにからまれるのだ。

 今のフランスの移民の子弟の「暴動」に女の子が加わらないのもアメリカ化してるイメージだ。
 この映画で、アジア人の娘が、「女の子は大学へ、男の子は監獄へ行くのよ」というシーンがある。
 女の子が暴動に「加われない」状況は、女の子にとってはチャンスであり、男の子にとってはますます悪い状況である。

 この映画では、ポーランド人コミュニティにとってのカトリック教会の意味もよく分かる。
 この主人公のように、冠婚葬祭にしか教会に行かない人も多いのだろう。アメリカにおいては、そういう人は、宗教を信じていないというより、多分人間を信じていないんだろう。
 
 それでも、ごく若い神父になりたての青年が、主人公にまつわりつく。最後には、主人公は孫ほどの年の男を「ファーザー」と呼んで告解し、最初は「自分のことはミスタ・コワルスキと呼べ」と神父に言っていたのに「ウォルトと呼んでくれ」となる。

 この東南アジア人コミュニティが、アメリカ軍の去った後のベトナム人に追われてやってきた、というくだりも、なんだかかなしい。最後の悲劇が、結局、違う民族同士の不良青年の戦いではなくて、警察に訴えでないであろう同族の「まともな家庭」に向けられた暴力であることもやりきれない。

 この青年たちは、日本人の好きな言葉を使うなら、「農耕系」の穏やかアジア人である。1960年代のプア・ホワイトの子弟同士の争いとは違って、21世紀のアメリカ中西部にこういう実態があるのだとしたら、それはエコロジーやなにかより、はるかに深刻な問題だ。
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by mariastella | 2009-03-26 19:40 | 映画

イザベル・アジャーニとLa journee de la jupe 

 3月21日、Arte で、劇場公開前に新作映画の『La journee de la jupe(スカートの日)』が放映された。

 なかなか衝撃的だ。

 話は、移民3世の子供たちが大半を占める郊外のリセのフランス語クラスで展開する。
フランス語教師のソニアは毎日、生徒たちの無法ぶりの中で疲れ果てていて、屈辱感をかかえている。ある日、黒人生徒がピストルを持っているのを偶然発見して取り上げる。
 それが偶然別の生徒を怪我させ、いつの間にか、ソニアは教師生活ではじめてピストルによって、生徒たちを支配することになる。
 結局生徒たちを人質にとってリセに立てこもる形となり大騒ぎになり、彼女はジャーナリストと話すこと、全国のリセ(フランスでは基本的に公立、というか国立である)に「スカートの日」を制定し、女子生徒がスカートで登校できるようにと条件を出す。
 移民の多い郊外のリセでは、女子生徒はスカートをはけない。スカートをはけば即、娼婦であり男を誘っているとみなされるからだ。
 事件本部に駆り出された女性大臣はパンタロンをはいている。そして、女性がズボンをはく権利を獲得するのに長い戦いがあったのだから、今さらそれに逆行するようなことはできない、と言う。
 
 事件はカタストロフィに向かう。

 女性のズボン着用についての文化の認識の違いをちょっと説明しよう。

 もともとのフランス文化においては、キリスト教の文脈の中で男女異装が禁じられていた。
 創造の秩序を乱すというのは罪であるからだ。
 マリー・アントワネットが子供の頃に、「裸になったら、男か女か分んないじゃない ?」
と言ったという逸話のように、男女の服装コードが極度に発達した時代もあった。
 これは根強い。

 今でも、こういうジョークがある。

 新生児が二人産院で並んで寝かされている。
 一人がもう一人に聞く。

 「ねえ、君は男の子、それとも女の子?」

 「わかんない」

 「見てあげるよ、ちょっとシーツを下げて、
  もっと下まで、
  
ああ、君は女の子だよ、ピンクのソックスをはいてるから」

 このように、特に、男側の異装はまだタブーである。
 つまり、女の子は普通にズボンをはけるが、男の子や男のスカートには市民権がない。

 これについて普通なされる解釈は、男が上で女が下という秩序が壊れていないからで、女が男装するのは上昇志向として寛恕または奨励されるが、男が女のふりをするのは男全体の価値を危うくするからタブーだということである。一般に「男まさり」の女の子がいい意味で使われることもあるのに対して、男への侮蔑辞として「女の腐ったようなやつ」と言われるのと似たようなものだ。

 フランスは、男装したジャンヌ・ダルクが火刑にされた国である。
 男装が堕落しているとされたことの一つに、ズボンは脚の付け根が分るから、というのがあって、まあ、それは何となく分る気がしないでもない。
 だからスカートでも、超ミニというのはあり得ないんで、脚の付け根の存在を隠すロングスカートが基本で、それによって女性は馬に乗るなどの自由な動きを妨げられるハンディを背負い、ますます男に支配されるようになる、という構図だった。

 これに対して、今のフランスで問題になっている一部の若者のイスラム原理主義における女性の服装のタブーは、スカートである。
 ハーレム・ズボンなどのイメージからはアラブの女性の伝統的衣装がズボンだったとも考えられるが、それについてはよく分からない。まあ、どこの国でも、労働する女性は、動きやすいズボン形の服装、労働しない女性は装飾的な服装、という感じだったのだろう。
 とにかく、少なくとも今の原理主義的なイスラム国では、女性は長袖長ズボンが基本である。つまり肌を見せる部分が少なければ少ないほどいいわけだ。ヴェールやブルカ着用のように、髪や顔の肌だって基本的には、家族以外の異性には見せてはいけない。

 で、今、フランスのリセで起きていることがこれだ。

 フランスには旧植民地マグレブ諸国を中心とした国からの移民が大量にいる。

 移民1世は、子供たちにできるだけ可能性を与えてやろうと決意してフランスに渡った。
 彼らは移民労働者として搾取されたが、2世である子供たちは、フランス独特の同化政策の恩恵を受けて、無償の公教育を受け、さまざまなスキルを獲得した。
 才能のあるものは、世にでて、成功した。アルジェリア人の父を持つイザベル・アジャーニもその一人である。コメディー・フランセーズにだって出られる。
 しかし、彼ら2世の中にも、普通のフランス人と同様、際立った才能のない者の方が当然多い。すると、アメリカ風の逆差別の政策がない限り、同程度の平凡な能力の求職者が二人いれば、当然、別の部分が判断基準になる。移民2世より生粋のフランス人が、女性より男性が、障害のある者より健常者が、選ばれる。生粋のフランス人の方がコネがあるし、女性は妊娠出産で戦線離脱の可能性があるし、障害者をサポートするにはコストがかかるからだ。

 フランスはこういう差別是正にはまあ、努力してきた。
 男女差は目に見えるし、障害の有無も見えるので、機会均等を支援するのは比較的楽だ。

 しかし、フランスのユニヴァーサリズムとそれに基づく同化政策は、「移民の子弟」と「生粋のフランス人」の区別そのものを建前上否定する。
 ユニヴァーサリズムの国フランスでは、出自や文化の差はハンディキャップと見なされないので、差別救済処置が遅れるのである。
 
 そのせいで、移民2世の多くは、建前とは別の「ガラスの天井」のような壁にぶつかってルサンチマンを抱く。彼らはユニヴァーサリズムを叩き込まれていてる「フランス人」なので、その不当さがよく分かるのである。
 
 で、そのような、ルサンチマンをかかえた移民2世の子供である移民3世がどうなるかというと、「アイデンティティ」をイデオロギーにし始めた。そのアイデンティティというのを吹き込むのが一部イスラム原理主義者である。
 実際、彼らの世代になると、フランスにも「棲み分け」が進み、郊外の公立校は、移民の子弟ばかり、という状況になりつつある。移民の子弟が住む低所得者用大型団地は非行少年の巣屈のようになる。
 「同化政策」だったはずの公立学校は、ムスリムの子弟のために給食から豚肉を外したり、公立のプールを男女別の時間に分ける都市も出てくる。公立病院で男性医師を拒否したり食事に文句が出ることも普通である。
 
 なぜか?

 答えは簡単。移民の2世、3世は、選挙権のあるフランス人なので、彼らが多く住む地域の政治家たちは選挙のために彼らのロビー活動に屈するからである。多様性を尊重するという名目で共和国精神を売り渡すのだ。(現在社会党のトップであるオーブリー女史がリールでやっていることも同じである。)
 
 この映画の監督 Jean-Paul Lilienfeld は、これを思いついたのは、2005年の郊外の「暴動」報道の時だったという。車に火をつけたりして騒ぐ若者たちはみな、「男」だった。
 監督は、自分も若い時に町へ繰り出してさんざん悪いことをしたものだが、女の子たちといっしょだった、という。フランスの若者の示威活動の原風景である68年の学生運動も男女共同だった。

 ところが、イスラム原理主義による挑発の道具として操られている移民3世の若者たちの「暴動」には女性はいない。 女の子は外へ出られない。「ふしだら」だと見なされた若い娘は兄弟から制裁を受ける。人前で顔を見せた娘を殺す父親や、男とつきあう未亡人を殺す息子などが罪に問われない国は存在するが、フランス国内で、ゲットー化した一部の「ムスリム・コミュニティー」でもそのような治外法権がまかり通りはじめているのだ。

 この現実と、この映画で、生粋のフランスエリートである女性大臣が、「女性がズボンをはく権利を獲得したのを逆行できない」という言葉には、大きな隔たりがある。

 アジャーニの演ずる教師は、スカートをはいている。
 
 彼女はアジャーニと同様、移民2世という設定である。

 モリエールを教えている。
 彼女は、その教育によって根っからのフランス人なのだ。

 最近のフランスの移民原理主義は、移民の子弟たちのアイデンティティに合致した文化を学校で教えないのが悪い、と主張する。

 すぐれた文学はユニヴァーサルである。
 モリエールのどこが悪い ?
 私は日本人だがモリエールを読んだからアイデンティティが揺らぐなんてことはない。
 人間性に対する洞察が深まる。

 アジャーニの演ずる教師は、だから、女生徒たちがスカートをはけば男生徒に制裁されることを知っている。兄弟からも。彼女が「スカートの日」を!と叫ぶのは、ヨーロッパの女性がズボンをはく権利を勝ち取ったのとは全く別のコンテキストにあるのだ。

 私はアジャーニを『令嬢ジュリー』の舞台で見たことがある。
 シャーマニックだった。

 熱演のため途中で倒れた。
 ファニー・アルダンが続行した。

 ファニー・アルダン版の舞台はTV で観た。
 重厚だった。
 
 私はアジャーニがアルジェリア移民の娘だと知っていたが、この映画に関するインタビューではじめて、毎回、彼女の出自が話題にされるのを読んだ。

 私はパリのリセで教えたことがあるが、カトリック系の私立学校だった。
 フランス人の若い友人の多くは、厳しい試験を経て教員免状を得た後、郊外の移民の多い公立校へと赴任する。年功によって獲得する点数によって、後からは自分の希望に沿うもっと「いい地域」の学校にもいけるのだが、若い教師には選択の余地がない。
 ずっと音楽をやっていた恵まれた環境にあった後で音楽教師になった若者たちなどは、公立中学に赴任して、あまりの無法状態に絶望して鬱病でばたばた倒れる。

 課目にもよるのは事実だ。

 音楽はもちろん、フランス語でも、教室の無法状態を治めるのは難しい。
 数学のアグレガシオンを持っている友人などは、堂々と胸開きワンピースなどで公立リセの教壇に立ったりしている。

 これまで、移民の子弟の多い公立校での教育にがんばる熱血教師の物語はあった。
 2008年のカンヌ映画祭でPalme d’Orを取った『Entre les murs』などが代表だ。
 「切れてしまう」教師の話はなかった。
 
 両方が必要だ、と思う。
 
 現実を見据えて、何がどう変化したのかを冷静にとらえなければならない。

 しかし、今、すぐに、ここで、ユニヴァーサリズムが効を奏しない、という理由だけで理想に向かう努力を捨ててはならない。
 ユニヴァーサリズムというのは単なる「政策」や「戦略」ではないからだ。

 この映画の最後で、ソニアの埋葬に参加したリセの生徒たちの姿が映され、女の子たちが膝丈のスカートをはいているのが見える。

 これがメッセージで、希望なんだろう。

 私にとって、自分がスカートであれズボンであれ、自分の服装を自分で判断して決める自由というのは、「善いこと」に属する。
 そして「善いこと」はすべての人と共有すべきであるというのはユニヴァーサリスムの理念である。
 それが「善いこと」だと思えるのは、私が受け入れている西洋発ユニヴァーサリスムの基本である「自由・平等・友愛」に合致するからである。
 私が西洋型ユニヴァーサリスムを受け入れているのは、それなしでは支配されたり搾取されたりする立場であるグループ(女性とか、心身の強者でないとか、今の世界で西洋キリスト教文化圏出身でないとか)に自分が属しているという自覚があるからである。

 だから、たとえどんなに「伝統的な」「文化的な」理由付けがあったとしても、この世界に、女性を一定の服装に縛り付けて、それを守らないと制裁の対象になるような状況がある限り、それを告発してユニヴァーサルな理想に向かって戦う人々を支援したいと思う。
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by mariastella | 2009-03-22 02:27 | 映画

Les trois singes

去年のカンヌ映画祭で演出賞をとったNuri Bilge Ceylan のトルコ映画『3匹の猿』。

 見ざる聞かざる言わざるの家族の秘密の悲劇。色合いとか間合いがとてもアントニオーニ的で玄人好みでいかにも演出賞にふさわしい感じ。

 内容は、たとえば、今の私の環境や生活や性格とかと何の接点もないのだが、それでいて、普遍的な情緒に訴えてくるという意味では、ほとんどギリシャ悲劇の世界だ。ギリシャ悲劇の完成度って、すごいなあとあらためて思う。

 主演のHatice Aslanなんて、メディアのマリア・カラスみたいだ。
 
 情熱というか煩悩というか、もっとつらいのは、全編にあふれる「卑怯さ」である。

 選挙前に交通事故を起こした政治家が、罪を運転手に被ってもらって服役してもらう。給料は息子に払い続け、出所したらまとまった金を払うという約束だ。こんなことに家族ぐるみでOKしてしまうところがもう間違いで不幸の元なんだが、トルコ的にはあり得るのか。
 息子は大学受験に失敗して引きこもり気味。政治家に頼んで金を前借して車を買ってくれたらそれでバイトするとか言っている。

 母が政治家に会いに行く。しかし政治家は選挙に敗れてしまった。この辺で、私なんかは、そのせいで、もう約束の金をもらえなくなるんじゃないかという方を心配して、政治家と母親の間に情事が起こるなんてまったく想像しなかった。
 (母親役のHatice Aslanは40代半ばのグラマラスな人で、そういう目で見ればなるほどセクシーでもあるが、日本のこぎれいな奥さんが見ればどこのおばさん?という感じでもある。悲惨な貧乏話に似合いそうで、惚れたはれたの話だと思わなかった)

 しかも、金をちらつかせたセクハラですらなくて、政治家はそれなりにわりと親切で、女の方がすっかり夢中になってしまうという設定だ。

 じゃあ、合意の上ならまあいいじゃないか、と、ギリシャ悲劇的な人間の業の感覚からかけ離れた小市民的な私は、全然テンションを共有できなかったのだが・・・

 母親の情事に気付いた息子の目に入る台所の包丁がぎらっと光るのにぞくっとした。

 もう一つ、この家族にはタブーとなっている不幸がある。それは、次男が子供の頃に死んだことだ。何も語られないが、アクシデントか何かで、家族のみんなが罪悪感やら相互非難やらを抱いているらしいことが分かる。このトラウマを解決していないことが核になって、卑怯さを糊にして後ろめたさがたまっていく。

 この子が息子の前に出てきたり、出所した父の後ろから腕を回したりするシーンがとても怖い。でもなぜか、母のところには出てこない。
 なぜなら母は恋をしているからだ。

 しかし、一応親切だった政治家も、まさか付きまとわれるとは思わず、後は手のひらを返したように冷たく乱暴になる。

 結局息子が彼を殺すのだが、私は父親が今度は息子の罪をかぶって自首するつもりかと思った。

 でも結局、家族愛の発露みたいなものだの、赦しみたいなものだのは、何もない。

 抑制というより、諦念であり、「卑怯と愚かさは愛より強し」というのを突きつけられる。

 母と息子の息苦しさ、父と息子のぎこちなさ、夫と妻の欺瞞、怒りと失望と不信、こういうのが人間の存在の仕方の基本である、と見せられているようで、えらく説得力がある。文学的説得力なんだけど。
 
 線路、列車、海、空、流行歌らしいものをがなり立てる携帯電話の着信音、すべての小道具がそれを裏付けるからだ。

 一つ外したら嫌悪感をもよおしてしまいそうだけれど成功しているので、やはり名人芸なんだろう。
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by mariastella | 2009-02-13 00:40 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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