L'art de croire             竹下節子ブログ

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ダスティン・ホフマンの『Quartetカルテット』

ダスティン・ホフマンの監督作『Quartetカルテット』

リタイアした音楽家たちが集まる老人ホームに往年のオペラのディーヴァがやってくるが、そこには彼女の浮気が原因で別れた最初の夫もいた。昔の仲間たちがはたしてもう一度伝説の四重唱を復活させられるのか、という話。

このホームが大小の音楽室もある豪華なもので、庭のあずまやでもアンサンブルを弾けるし、誰でも自由に楽器を弾いたり歌を歌えたりできる。

そのホームの存続をかけたガラ・コンサートにディーヴァは協力してくれるか。『シスター・アクト』みたいな展開である。実際、『シスター・アクト』で修道院長をやったマギー・スミスがディーヴァ役をやっているのだ。

設定も舞台も話も私のツボにはまっているので、ストーリーの展開のテンポなどいろいろ「いまいち」なところがあっても全然気にならない。

背景がすごくイギリス的で、俳優もイギリスの舞台俳優やらイギリスの本物の歌手や演奏家を起用している。

今年のヴェルディの生誕200年イベントがとりいれられていて、もとの戯曲も、ヴェルディが晩年にミラノに設立したという音楽家のリタイア・ホーム「ラ・カーサ・ヴェルディ」のドキュメンタリー番組にインスパイアされて書かれたそうだ。音楽とヴェルディが好きな平均年齢80歳の音楽家が今でも60人くらい住んでいるという。

75歳だというダスティン・ホフマンの監督第一作のヨーロッパ・テイストに驚かされた。昔はジャズ・ピアニストになりたいと思っていたそうなのだが、ともかくもっとアメリカンな人かという印象があった。

でも、こういう舞台背景と個性的な登場人物を見ていると、なんだか過去の復讐劇を伴ったミステリー映画だったらもっとおもしろかったのに、と思ってしまった。この雰囲気で犯罪が何も起こらないのは映画としてもったいないくらいだ。
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by mariastella | 2013-06-04 05:46 | 映画

ファルハーディの『ある過去の行方』(Le Passé)とキャビア

カンヌ映画祭の上演と同時に公開されたアスガル・ファルハーディの『Le Passé(過去)』を観る。

前作の『別離』の後でマリオン・コティヤールを主演にしてフランスで撮るといっていたのが、辞退されて(彼女はジェイムス・グレイのアメリカ映画『The Immigrant』を選んだからだ)、ベレニス・べジョ(『アーティスト』のヒロイン)が起用された。キャスティングの際には、台詞を言う必要がなく口に綿をつめたり眉を動かしたりなどのテストがあったそうだ。しかし、こうして見るとべジョ―とコティヤールには確かに似た雰囲気がある。

『アーティスト』とはまったく逆のシチュエーションのヒロイン役をこなす演技力はなかなかのものだ。

男優の2人は『別離』のペイマン・モアディと『預言者』のタハル・ラヒムですでに名優の域に達しているし、子役がまたうまい。

パリの郊外に住んで、パリの薬局で働くマリー(ベレニス・べジョ)は、長女の父であるベルギーに住む男の後で少なくとも2人パートナーを変えた。
前夫はイラン人だが2カ国に同時に根を下ろすことができなくて4年前にテヘランに去った。

マリーは、薬局の近くでクリーニング店を経営するアルジェリア系の男と恋仲になり、妊娠したので、前夫アマードにイランから来てもらって正式な離婚手続きを終える。

といっても、相手の男は離婚できない。

うつ病だった妻が自殺未遂で植物人間状態だからだ。

男は6歳の息子と共にマリーのうちに住んでいるが、ホテルに泊まるはずだったアマードもかつての「自分のうち」にやってくる。

マリーは6歳の子とも、16 歳の長女ともうまく行っていない。妊娠していることを長女に隠していたし、長女も含めてみなが少しずつ秘密を抱えている。

真相が少しずつ分かっていく時のサスペンスはこの監督の持ち味だ。

純粋な「悪意」の持ち主をほとんど登場させないでこのような錯綜した悪と不幸の連鎖を創る手際は相変わらずすばらしい。

移民とか違法労働とかフランスならではのリアリティもある。

(ベレニス・べジョ―はアルゼンチンの移民でラテンぽいし、男優2人はアラブ人とイラン人、子供はみなそれぞれハーフという設定だからみんな「人種」が微妙に違うわけで、イラン人のなまりと、重要な役を果たすクリーニングやの店員の「なまり」も違うのだが、普通の日本人にはなんだかみな同じように漠然と「西洋人」風に見えてニュアンスが全部は伝わらないかもしれない)

ハンナ・アーレントが「悪の陳腐さ」と形容したように、「巨悪」と呼ばれるものですら、根が深いものではなく、実は浅い。まさにその浅さによって軽々と伝染していき、規模が拡大して「巨悪」になる。

この世の悪とか個人の悪意とかも、実は根は「浅い」のに、ひょいと足元をすくって全人格を変貌させたり全人生を崩壊させたりするのだ。

イランから来た前夫だけが「他者の目」によってひとり落ち着きを見せているが「当事者たち」は全員が叫んだり怒鳴ったり暴れたりする。
だからなおさらその合間に挟まれる「沈黙」のシーンが濃密で緊張をはらむ。

男2人が向かい合って待つシーンや同じベッドで寄り添う母娘のシーンやメトロの中の父と息子のシーン、そして、ラストの、もの言わぬ妻の病室を去った後で出口に向かって歩きながらあることを思いつくまでの夫一人の後ろ姿とその後で妻の手をとるシーンなどだ。

シナリオが饒舌過ぎ、うま過ぎ、やり過ぎという批評も必ず出るのだが、古典悲劇やバロック悲劇の構築性が好きな人には何の問題もない。

『別離』が気にいった人はこの映画にも絶対に後悔しないだろう。

ちょうど先日、イラン人とフランス人(スペイン系でありラテンぽい)のカップルと15歳になる彼らの一人娘と共に食事した。娘は父親にそっくりで、この映画に出てくる16歳の娘とも似ている。イランとフランスを行き来するためのパスポートの話題が出たので、私はマスード・バクシの映画について語ったのだけれども、さすがに、この『ある過去の行方』についてコメントするのは、はばかられた。

同席していたもう一人のイラン人は、先週2週間の予定でパリに来ている元水産業の人で、1980年に札幌に1ヶ月滞在してカスピ海産の高級キャビアを水産展か何かに出品したそうで、別れ際にキャビア(50g)の小缶をそっと渡してくれて「さよなら」と日本語で言った。すでにホメイニ革命の後だったのだが、日本とは交流が続いていたのだ。

その人の持参したキャビアをいっしょに食べながら、私が以前はパリのペトロシアンに行っていたと言ったら、ペトロシアンのものもイランのキャビアなのだ、カスピ海の南側で採ったものの方が水温が高いのでいいキャビアなのだ、昔も今も国が全面的に管理している、と力説された。

札幌にはイランからいろいろな水産品を持っていったのだが、日本にはすべてがあって珍しがられず、、キャビアだけがすごい人気だったのを今も覚えているという。

今、キャビアの値は高騰している。

パリにいるその人の弟は、カスピ海の岸にある絶景のアパルトマン(150平米)を近く購入する予定だそうだが、日本円にして650万円くらいだ。
高級キャビア10kg強という感じで買えてしまうわけである。

カスピ海を思い浮かべながら暗灰色のキャビアを、さて、何とつけ合わせて食べようかと思案中。
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by mariastella | 2013-05-21 06:30 | 映画

11.6

フィリップ・ゴド―監督、フランソワ・クリュゼ主演の、犯罪実話をフィクション化した映画だ。

2009年にリヨンで現金輸送車の運転手が1160万ユーロ(約15億円くらい)の現金を横領した話である。

誰も傷つけていず自首したので、単純窃盗罪で3年の実刑、それに保険金詐欺が加わって5年になったから、来年釈放されるはずだ。

判決時の、GPS搭載の足輪をつけての釈放という選択は本人が拒絶したらしい。

見つかっていない金がまだ250万ユーロくらいあるので、他の受刑者に対する身の安全のために独房に入れられているそうだ。

金が見つかるまで輸送会社が支払いのために借り入れの利子など、もろもろの損害賠償や裁判経費など273 986、84ユーロが請求されている。

この俳優が前にやはり犯罪実話をベースにしたおもしろい映画『A l'origine』を演じていたのがとてもおもしろかったので、どこかで同じような痛快さを期待していたのだけれど、今回のはずっと地味で暗い話だった。

そもそも、この主人公がスウェーデンの輸送会社に働くユーゴスラヴィア人だったという事実に考えさせられてしまう。

現在のようにヴァーチャルな投機マネーが世界をめぐっていて、個人の収入も支出もヴァーチャルな数字だけで現れるような世界で、即物的な札束というのがやはりあるんだなあ、という当たりまえのことと、防弾チョッキをきて武器を携帯しながらそれらを輸送しているのが、外国系の会社で働く外国人で給料が残業を入れても1700ユーロほどでしかない小市民であることの取り合わせの意外さとが印象的だ。

主人公の友人で白ネズミのペットを連れて働いている男と、レストランを経営している恋人のキャラクターがまたユニークだ。この三人のうまさというのは、リアリティなどとは関係がなく、最小の演技で人間性の裏表を喚起してしまうところにある。そういう意味では、『愛、アムール』などよりもずっと映画らしい映画だ。

友人が大晦日のパーティの夜に一人で雪の中を帰っていくシーンの美しさと表現力にもはっとさせられた。

被害額が11.6ミリオンというわけなのだが、本来は、保険の関係で輸送車には一回600万ユーロ以上を運べないことになっているらしい。それを効率のために2倍近く積みこんでいたわけで、この会社の管理職たちはこの事件が明るみに出てからみな責任をとらされて退職した。

それが主人公の会社に対する復讐でもあり、行き過ぎた自由競争の経済システムへの批判にもなっている。

しかし彼自身、酒もたばこもやらずただひたすらに働いて貯めた金でフェラーリを落札するなど、現金横領の以前から普通の意味では常軌を逸したところがある。赤いフェラーリとスポーツジムでの禁欲的な訓練の対照が印象的だ。

フランソワ・クリュゼは近頃どんな役をやっても魅力的で、その彼のうまさが主人公の不思議なキャラをさらに補強して、人間ドラマとしてはおもしろい。でも、事件ドラマとしては、いまひとつインパクトに欠けてカタルシスが得られなかった。
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by mariastella | 2013-04-13 07:46 | 映画

『汚れなき祈り』クリスチャン・ムンギウ

『汚れなき祈り』クリスチャン・ムンギウ監督・脚本は、去年のカンヌで脚本賞とダブルの主演女優賞を獲得した2012年のルーマニア映画だ。

こちらではDVDが発売になったばかり。

2005年にルーマニアの正教会修道院で起こったエクソシスムに続く死亡事件をテーマにしたものだ。プロテスタントのエクソシスムのことを読んだばかりだったので、正教会のエクソシスムについても知りたくなったので見てみた。

大聖バジルが何度も喚起されるところが正教的だ。

聖バジルは四世紀のカッパドキアの司教で、カトリック教会でも聖人で教会博士の称号を持っている。正教の修道会の規則も作り、カトリックのベネディクト会規則にも影響を与えた。

で、まだ若いと思われる修道会付きの司祭が、エクソシスムにはリスクがあり、家族の要請が必要だと言って躊躇しているところを見ると、もともとかなりの荒行だと意識されていたようだ。

こう言ってはなんだが、カトリック世界もハンガリーやポーランドなど東欧圏のものは、フランスなら18世紀の田舎でももっとシニックな人々がいたろうと思えるくらい、保守的というか中世的である。

ルーマニア正教の女子修道院がアナクロニックな感じがするのも不思議ではない。

国自体の貧しさもある。

電気も水道もないという過酷な生活も、エコロジー原理主義や伝統にこだわる保守主義などではなくて本当に貧しいからだ。

この話では、孤児院にいた二人の女性の一人が修道女になったわけだが、成人すると孤児院を出なくてはいけないので、結婚相手でも見つからない限り、里親と称して労働力を搾取する家庭に引き取られるか修道院に入るくらいしか若い女性の進路は限られている。

この悲劇も、修道院という閉鎖的空間がカルト化して修道女を洗脳しているとか、ドイツの都会に移民労働者として出稼ぎしているレズビアンの女性が精神に異常をきたしたとかいう問題以前に、親が子供たちを育てられないで孤児がたくさんいる冷戦以降のルーマニア社会の荒廃自体が諸悪の根源だ。

フランスにはルーマニアの孤児院から養子をもらうカップルが少なくない。ベトナムやハイチにまで目を向ける前に、できれば「ヨーロッパの白人の子」を望む場合が多いのだ。

それもだんだんと難しくなってきている。

でも、最近の「ゲイの結婚」法がゲイのカップルの養子縁組許可を前提としていて、さらには人工授精や代理母による子供の獲得を合法化することが視野に入っていることを思うと、「ルーマニアの子供たち」を優先しろよ、と言いたくなる。

で、女子修道院で再会するアリーナとヴォイキツァだが、空手をやっていたという勇ましそうなアリーナ(性同一性障害的にも見える)と少女っぽいヴォイキツァを比べると、実は修道女になったヴォイキツァの方が、きっと昔からアリーナを心理的に支配していたのだろうなと思わせられる。

こういうケースでは男の子っぽい側が純愛で脆弱で、愛されている絶対の自信を持てる「守ってもらえる側の女の子」というのは、結構残酷なのだ。

そんな二人が司祭に告解する時に、二人の関係をどこまで告白したかは気になる。アリーナに罪の免償の必要性を説き、無理やり告解させたヴォイキツァが、「ディティールは言わなくてもいいからすべての罪を告白するのよ」という意味のことをややあせったように言っているので、おそらくヴォイキツァ自身は同性愛のことは話していないのだろう。

ヴォイキツァが修道院の生活を選択したのは孤児だった自分が疑似家族を得て、パパだのママだの姉妹だのと呼べる存在(しかも絶対に自分を捨てないし家から出ていくこともない)と暮らせる安定を選んだからだと思われる。

それに必要な「神さま一番」のレトリックを受け入れることは実社会の過酷さと比べたらどうということはない。

そんなところに、本音を語るどころかヴォイキツァを取り戻すために挑発的な言動を繰り返すアリーナが現れる。

修道女たちや司祭は信仰の型に凝り固まっているとはいえアリーナに対して別に懲罰的ではなく、むしろ同情的だ。

それがいつのまにか最後のエクソシスムのカタストロフィへとつながっていくのだが、この映画は最後のカタストロフィを盛り上げるために構成された娯楽映画ではない。

むしろそこにたどり着くまで、延々と、伏線とも言えないリアルな日常のあれこれを積み上げていく。
飛行機の音など環境音も丹念に配する。

散漫なdigressions自体がコンテンツになっているのだ。

2時間半が必要という意図は分かる。
事実を刈り込んで濃縮し、クライマックスへ突き進むフィクションとして完成させるというのが目的ではない。

チャウシェスク以来の、国の荒廃という空気そのものが底に流れるテーマなのだ。

修道院内の倒錯という点ではロベール・ブレッソンの『罪の天使たち』(1943)を連想した。

ジロドーが書いたシナリオを「罪と恩寵」として舞台化したものを昨年観たのも記憶に新しい。

それにしても、こういう題材を扱いながら、センセーショナルな眼ではなく、登場人物の人間性の機微を淡々と描きあげていく監督の手腕を見ると、次の作品も大いに期待したいところである。
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by mariastella | 2013-04-11 17:12 | 映画

ミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』(Amour)

ミヒャエル・ハネケ監督・脚本の『愛、アムール』(Amour)/ジャン=ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァ、イザベル・ユペール

この手の老老介護の映画は、観ると絶対に落ち込みそうになるから観に行きたくなかったのでずっとスルーしていて、最近発売されたDVDも観ていなかったのだけれど、たまたま近所のがらあきの公立豪華ホール(しかもチケットが5ユーロ以下)で上映があり、仕事が一段落した時に観に行ってみた。

大体私はハネケの映画が苦手だ。

でも今回ハネケのようなオーストリア人監督がパリのアパルトマンだけを舞台に完全にフランス人俳優だけで撮るのはどんな感じかなということには興味があった。

「ピアニスト」では原作のウィーンの話をフランス人俳優ばかりでフランス語で撮り、カンヌ映画祭のお気に入り監督になり、それからはすっかり「ヨーロッパの監督」になった。

ドイツ(オーストリア)とフランスというのは言葉もゲルマン系とラテン系で全く違うし、メンタリティもかなり違う。

それなのに、「ヨーロッパ」単位で、簡単に国やら言葉やらが混ざって共存できてしまえるというのはいつも軽い驚きを覚える。

超国籍状態は、オペラやオーケストラやバレエやサーカスの世界なんかでは普通だけれど、「会話」の意味が大きい映画ではどうなんだろう、と思ってしまう。

ハネケはプロテスタントの父とカトリックの母の間に生まれ、少年時代にはプロテスタントの牧師になろうと思ったこともあるそうだ。

で、実際に観て、主役の二人の演技はさすがにうまい。

でも、どううまいのかというと、彼らの演技を見ていると、まるで、本当に、そういう老夫婦の暮らしを目にしているようにつらくなる、という具合にうまいのだ。

舞台がパリのアパルトマンというのもリアルすぎる。

生活感があり過ぎる。

多分、ハネケの目に映っているよりも、パリの観客の目には現実感が強烈だと思う。

最初に妻が一時自失状態になってあせった夫が水道の蛇口を閉め忘れ、医者を呼ぼうと着替えているうちに、水音がピタッと止まる演出などは心憎いくらいよくできている。

ピアノのシーンを除いて音楽もほとんどない抑制がきいた場面ばかりなのだが、「パリのアパルトマンでの老老介護のリアルなシーン」という要素だけで、その抑制もふっとぶ気がする。

たとえば日本人が見たら場所も老夫婦の外見も暮らしのディティールも日本とは似ていないので雑念が入らないかもしれないだろうけれど。

あるいはフランス人でもごく若い人が観れば別かもしれない。

でも、私には身近なフランス人の「あの人」「この人」の晩年のシーンがいろいろ思い浮かんでしまう。

この老夫婦は80代まで優雅に元気に二人で暮らし、ピアノを弾いたりコンサートに行ったり、立派なアパルトマンで何の不自由もなく暮らしている。もしどちらかがインフルエンザからくる肺炎で突然入院して3日で亡くなるとか心臓発作で亡くなるとかいう展開であれば、「みんなに羨まれるような晩年を過ごした幸せな夫婦」ということになっていたはずだ。体が不自由になっての「老老介護」になるから、どんどん共依存的で絶望的な状況に陥った。

それまでの生活史が閉鎖的な老老介護を選択させたのだろう。

それは彼らのブルジョワ性と無縁ではない。

この手の映画は苦手だという予断を裏切らない映画だった。
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by mariastella | 2013-04-09 02:49 | 映画

『リンカーン』スティーヴン・スピルバーグ

スティーヴン・スピルバーグの『リンカーン』、主演のダニエル・デイ=ルイスは好きな方だからおくればせながら観に行ってきた。

スピルバーグの映画らしくうまくできていて、みている間は充実感があるのだけれど、白人の白人による白人の映画という感じがしないでもない。

ジョン・フォードが昔『The Prisoner of Shark Island(1936)』という映画を撮っていて、そこではリンカーンの暗殺者の負傷を手当てしたために共犯として終身刑になった(後に恩赦された)南軍派の医師Samuel A. Muddに焦点が当たっている。その複雑さに、リンカーンの崇拝者や反対派の確執の根強さや復讐のポピュリズムについても考えさせられてずっと陰影に富む作品だった。

この映画の方は、時代を二ヶ月ほどに絞ったせいか、リンカーンがインディアンを抹殺した話や、アメリカが南北戦争終結から100年経ってもまだ黒人をしっかり差別していた事実や、奴隷制廃止だってイギリスやフランス(革命で廃止したものをナポレオンが途中で再導入したりはしたが)の方が早かったじゃないかとか、いろいろなことがかえって頭に浮かんで、すなおに感動できない。

ひいては第二次大戦中の日系移民の隔離とか原爆のことまでちらりと頭をよぎる。

いや、実態はどうあれ、時々、勇気ある人が理想論を熱く語って万人の自由と平等の理念を掲げることで、本音によってたとえ引き戻されても、少しずつは世界はよくなってきたのだから、こういうお話しに時々感動することは必要なのかもしれない。

まあ、リンカーンの特徴あるなじみのシルエットを見ても、マルファン症候群のことをつい思い出してみたり、アフリカ人の父と白人の母を持つオバマ大統領を何かというと「黒人」とレッテルづけることへの違和感(前にも書いたが彼のようなハーフがケニアで大統領になったら絶対に「白人初の大統領」などとは形容されないだろう)まで想起されたりと、なかなか尊敬の念がわいてこない。

妻とのやりとりや長男かわいさの煩悩が出てしまうなど「人間的なシーン」がうまく挿入されるのだが、その苦悩ぶりも恣意的で紋切り型の演出という気がしないでもない。

でも、リンカーンの名前が「エイブラハム」でつまり、一神教の父アブラハムで、被創造物の平等をきっちり神の前の平等として納得させているところなどは、アメリカと民主主義と神の関係をあらためて考えさせられて興味深かった。
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by mariastella | 2013-03-12 09:35 | 映画

« Une famille respectable »Massoud Bakhshi マスード・バクシの『立派な家族』

« Une famille respectable »Massoud Bakhshi

ドキュメンタリー映画作家だったマスード・バクシのフィクション映画第一作で2012年のカンヌで公開された映画『立派な(尊敬に値する)家族』。

イラン映画はどうしていつもこんなにレベルが高いのかと思っていたら、1972年生まれのバクシがおもしろいことを言っていた。

1979年のイスラム革命の後でアメリカ映画の公開がテレビを含めて全面的に禁止されたので、彼らは黒澤やタルコフスキーなどばかり観て育ったと言うのだ。

この映画について、フラッシュバックの手法などが複雑すぎてシナリオについていけないという観客の評価がちらほらとネットの映画評にあったので心配していたのだが、全然問題なかった。

ある意味で、アメリカ映画ばかり観て育った世代のフランス人にはこのようなひねりは難しいということなのだろうか。

話は、15歳でイランを出てヨーロッパで教育を受けて大学教授になったらしいアラシュという主人公が、故郷の大学の招聘を受けて22年ぶりに半年の予定で国に戻るが、兵役免除の書類がないことからパスポートを取り上げられたり、学生にイラン・イラク戦争の記録映画を見せたりして大学当局から警告を受けたり、汚職によって富を築いた父親の死や、異母兄やその妻や息子との関わりの中で陰謀に巻き込まれたりとさまざまな体験をするというものだ。

学生のデモもあり、若者の多い国での自由への渇望は脈打っている。

バクシ自身もイタリアやフランスで学んだ経験があって、その視線は鋭く妥協がない。

ただし、この映画がイランで公開されるかどうかは、当局の許可がいるので確かではない。

しかし、激しい検閲を受けたり20年間の映画制作禁止処置を受けたりする監督などもいる中で、バクシも非難されたが、2013年度のカンヌ映画祭にも出品が決まっているようなので、希望がある。

確かに、直接当局やらイスラム原理主義などを批判するようなシーンはない。ひたすら家族の軋轢や、拝金主義によるモラルの崩壊などが描かれているのだ。

バクシはこの映画をイランの女性たちに捧げると言っている。

実際この映画の中では、主人公の母のおば、母、初恋の相手で異母兄の妻になった義姉、その娘と、女たちは、体制がどう変わろうと、どんな脅迫を受けようと、命を守り常に全人的であろうとする。

それは監督の希望でもあるのだろうが、楽観的すぎる感もある。

監督自身の抱く、男たちへの不信の反動なのだろう。

「不浄」を毛嫌いして、家中を潔癖に掃除しまくる(キッチンの床が水を流せるタイルになっていて、床に直接水を流して丸洗いできるのには驚いた)主婦の姿は、汚職や陰謀など「悪」に対する嫌悪を象徴しているらしい。

でも私にはそれもストレスからくる強迫神経症の痛々しい姿にしか見えない。

ただ、ヨーロッパのキリスト教国でキリスト教は女子供の生活指針としてのツールとして温存しておくという男たちの目線が長いあいだあったのに対して、中東のイスラム教国では、女たちは教義などからずっと自由で強靱な生命力を発しているような気がする。

男たちの方が利権にとらわれて宗教と共依存の関係に陥っているようにも見える。

それにしても、バクシ自身が言っているように、この映画はフィクションとはいっても、ドキュメンタリーを別の手法で表現しただけで、細部はどれもリアルであるらしい。

挿入されるイラン・イラク戦争の報道映画も、町中の祈りの声も、横暴でヴァイオレントでマッチョな父親の家庭内暴力も、女たちの苦しみも、みな、リアルであっても、私の生活実感からあまりにもかけ離れている。

その事実に改めて愕然としながら、それでも彼らとの同時代性をどう共有して自分の生き方にどう反映していくべきかと考えさせられる。そんなふうに思わせてくれる映画は貴重だ。
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by mariastella | 2012-12-29 07:30 | 映画

『La Vierge, les coptes et moi(聖母とコプトと僕)』

Namir Abdel Messeehの『La Vierge, les coptes et moi(聖母とコプトと僕)』

をうちの近所のレトロ映画館に観に行った。監督との質疑応答があって、その後で館内レストランでも話し合えた。

最高におもしろかったけれど、あらゆる意味で私の関心事とかぶさるテーマだったからだろうか。

私は1968年のカイロでの聖母のご出現や、2000年のAssioutでのご出現のことをくわしくウォッチングしてきたし、去年のエジプトの「革命」の前と後を観察したり、コプトが迫害されている状況をいろんな観点からチェックしていたり、監督で主人公であるメセ-の育ったフランスの状況を同時代的に知っていたりする。

そうではなくてまったくの部外者(たとえば日本に住んでいる平均的日本人)としてこの映画を観たのだとしたらどういう感想を持っただろうかは、想像しにくい。

エジプトのコプト(東方系キリスト教徒)の共同体の日常が文字通り内部から描かれているのを見るのは興味深いものだった。書物で知るのと人々の姿を見るのとでは全く印象が違う。

エジプト人のコプトはムスリムを嫌い、ムスリムはコプトを嫌い、そのどちらもユダヤを憎んでいる、なんていうことがさらりと口にされる。

「でもマリアはユダヤ人では ?」

「いや、ユダヤ人がマリアを聖母と認めないからマリアは我々の母なんだ」

1967年の中東戦争でイスラエルに負けた後で国の連帯を強くするためにナセルがカイロでの「聖母出現」を演出した、または利用したと口にする人もいる。

エジプトはイシス女神の子、エジプトは人類の母、ナイルは血。イスラムには「母神」キャラがないのでイエスの母マリア(ミリアム)をムスリムも愛した。しかし、コプトたちはアラブ人の侵略された時にイスラムに改宗しなかったコプトこそ真のエジプト人であると自負している。

コプトたちの担ぐ聖母子像の「みこし」がやけにカトリックぽいデザインだし、そこかしこにどう見てもルルドの聖母風の聖母像が掲げられているのはなぜかと思ったが、コプトの伝統というより、19世紀にやってきたカトリック系ミッションスクールが流布させた画像らしい。やはり1830年のパリ、1858年のルルドのご出現がなければ、聖家族の亡命先になったエジプトといえども突然イエス抜きの聖母が出現することはなかったのかもしれない。

それに「聖母」というより「聖処女」と呼ばれているので「穢れなき処女神」のイメージがまずある。

で、我らのマリアは最強だ、不可能なことなし、という感じの掛け声というかお囃子のようなものがマリア行列で叫ばれる。

エジプト人でムスリムかコプトかを見分けるのは簡単。コプトは腕に十字架を刺青している。マリアの名や図像を刺青しているものも多い。そこにはあきらかにグアダルーペの聖母の図案もある。

腕にするコプト十字の入れ墨は子供の時に入れるので、泣き叫ぶ子供をおさえて十字架を入れているシーンにはぞっとした。(このシーンについて映画の後で監督とも話し合った。彼にはフランス生まれの妹が一人いてエジプトにも全く足を踏み入れたことがなく、宗教も含めてすべてを嫌悪しているそうだ)

一方のムスリムは、日に五回這いつくばって祈るので、額にこぶというかあざができているので一目で分かるという。

でも、まあ、こうやって「村の生活」の実態を眺めると、はっきりいって、隣り合う村同士のムスリムとコプトの違いよりも、都会と田舎の違いだの、国や世代の違いだのの方が大きいのではと感じた。宗教的熱狂やら祭の様子も、キリスト教がどうとかいうより、民衆信仰のスタンダードな形である気がする。聖母の出現もその文脈にあるわけで、教会の丸屋根に光が現れたら、人々はエクスタシーに陥ってさまざまな病気に「奇跡の治癒」が起こるのだ。

この映画を撮るきっかけになったのは、ナミールが母のうちでクリスマスに、2000年のご出現ビデオ(Assioutで何日間も続き、何十万人もの目撃者がいて撮影もされたものだ)をみんなで観ていて、自分には何も見えなかったのに、普段は教会へも行かない母親が突然自分には見えた、と言ったのに驚いたからだ。

(このご出現のビデオはネット上でもいくらでもあります
またapparition vierge marie assiout egypte でyoutube 検索するとたくさん出てくるし、1968年版の写真も出てきます。私が最初に聖母ご出現について本を書いた時はまだそういう時代ではなかったのでもっと好奇心をそそられました。今ならウェブ上でいろいろな好奇心をそれなりに満たされるのでアウトプットしていなかったかもしれません)

実際は、プロデューサーを見つけたナミールが現場に行ってもこれという証言は得られず、映画製作の資金提供を打ち切られてしまう。ナミールの窮地を知った母がフランスからやってきて金策を担当してくれることになった。(母は、フランスのカタール大使館の会計を担当していて、その関係を使えたのか、この映画はフランス・エジプト・カタール合作ということになっている)

結局、母の出身地のコプトの村でご出現シーンを映画に撮ろうということになり、村人たちに「出演」してもらう。文化祭のようなそのさまはコミックで、みなが非日常を楽しんでいるような、ただ金を欲しがっているような、一種の祭のような独特な高揚感がある。

で、かなりチープな、その「ご出現」とそれを見て叫んだり歓びの声を上げたりする群衆の姿、という「短編映画」が完成して、みんなに見てもらうことになった。

人々はスクリーンの上の自分の姿に笑い、知り合いの姿に笑い、ドタバタの思い出にも笑う。

ところが、教会の屋根に光が輝いて、聖処女役の少女がふわりと降り立ったように見えるシーンになると・・・

笑いがやんで、会場がシーンとなる。

外の犬の鳴き声が聞こえてくる。

子供たちの目も大きく開かれる。

監督のナミ―ル・メセ-は、エジプトとフランスの二重国籍だが、エジプトの身分証明書には宗教を入れる必要があり、20代の頃、自分は信じていないからと言ってキリスト教であるというのを削除したことで故郷から非難されて、この映画のロケまで15年も帰っていなかったのだ。

政治犯だった父と母は、おさないナミールをおいて1973年にフランスに亡命して、ナミールは叔母に育てられていたが、やがてフランスに渡って教育を受け、映画学校を卒業した。

この映画はベルリン映画祭では観客賞ドキュメンタリー部門の第3位になった。同じ頃カイロでも上映されて賞をとり、エジプトの映画評論家が絶賛したので父ははじめて息子の仕事を認めて、その評論に「あなたは分かっている」という賞賛の手紙を出したそうだ。

エジプトでは実は、コプトやムスリムという以上に、社会的な階層の差別意識が強くて、ナミールが故郷で貧しく蒙昧な人をだまして撮影した、という批判がすぐに起きたが、試写会に出ていた彼のいとこ(村の男で映画の中にももちろん登場する)が立って、「そんなことは一切ない、みんな合意で楽しんだ」と反論してくれたのが嬉しかったとナミールは言っていた。

実際のところ、完成作では、まるで突然エジプトに行ったナミールが限られた時間で速攻ででっち上げたドキュメンタリーかのように構成されているが、ほんとうは、試行錯誤を重ねて3年かけて撮影したものだそうだ。

だから現地の人々も、ナミールの意図を理解し作品を共に創り上げていく時間があった。

上映の後で、おさない子供2人を連れて家族でやってきたナミール・メセ―と話すことができて楽しかった。

私の質問したのは両親の反応と、モンタージュ中に起こったムバラク政権の倒壊とそれに続くイスラム過激派によるコプトの迫害やテロについてどう思うか、それはこの映画の仕上げにどういう影響を与えたかということだった。

結局、故郷の村自体では、革命後も、貧しさも変わらないものの、これという「迫害」もない。

迫害だのテロなどは、それなりのメディア効果のある場所で起こるのだ。

宗教の問題ではなくて権力や政治の問題なのだろう。

それでも、その犠牲になって死んだ人や亡命した人は膨大な数に上る。

でも、それは権力や政治の問題、経済的、地政学的な問題から来ているのだから、宗教的な地平で解決できるものではない。

こういうところで宗教的な語彙を繰り出してことをおさめようとすると、ますます対立に拍車がかかることになりかねない。

だから、やはり、ヒューマニズムや自由、平等の普遍主義を盾にして、暴力の衝突なしにさまざまな人が共存するする道を辛抱強く切り開いていくしかないと思う。

「本物」ではないとみなが分かっている「聖母ご出現」のシーンを見ただけで、村人たちは、現実のいろいろなことを一瞬忘れて、「聖なる」次元で結びつく体験をした。

それが意味するのは、、「どっちが正しい」とか「真実はどちらにある」とかの問題ではなく、それを超越して人々が一体化し得る地平が確かに存在し得るということなのだろう。

映画による表現はそれを実現するマジックの一つであり、この映画はその手ごたえを確かに感じさせてくれる。
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by mariastella | 2012-10-15 04:25 | 映画

レオス・カラックスの『ホリー・モーターズ』Holy Motors

今年のカンヌ映画祭でコンペに参加して話題になったのに何の賞ももらえなかったレオス・カラックスの『ホリー・モーターズ』を観た。

少なくとも、ドゥニ・ラヴァンは主演男優賞に値する演技だ。

カラックスは鬼才という言葉がぴったりで、彼の分身のようなドゥニ・ラヴァンがまた鬼才、異才というかあくが強いので、好き嫌いは大いに分かれるだろう。

大衆に対して映画を創るのではなくプライヴェートな映画を創るのだ、と本人が言っている通り、芸術性は高いがナルシシズムと過剰さとキッチュさで息苦しくなる。もう50歳になるドゥニ・ラヴァンの異形の肉体の生々しさにもひいてしまう。

動作の美しさを追求しているとか、マイムで鍛えたしなやかだが野性的な身体表現、などと言うが、ただ圧倒されるだけで、無意識にバリアをはっていたので楽しむところまでいかない。

音と映像が凝っていて工芸的と言えるぐらいだ。

カラックスの本名のアレックスとかオスカーとかが、主人公の名に使われていて、この映画が、カラックス自身の内的世界や想念、映画創りへの執念や期待や失望などをさまざまな形で表現しているのだということは分かる。

オムニバス映画のように次々とキャラクターやシチュエーションが変わり、ビジネスマンと物乞い、娘や姪や前妻との突然のヒューマンなやりとり、墓地、教会、廃墟のデパートを舞台にしたエステティックの過激さが次々と打ちこまれる。

一作でいろんな究極のシーンが見られるのを贅沢と見るか、全体の「意味」が分からないことにフラストレーションを感じるか難しいところだ。

映画創り、特に俳優の演技というもののメタファーだという一応の解釈はあって、今の映画の観客は、ストーリーを追う、起承転結のカタルシスを求めるようにフォーマットされているのでそれに挑戦する、という意味もあるらしい。

物語の整合性のある意味がなくても、それぞれの「瞬間」を驚き、味わうことを奨励しているとも言われる。逆に、人生や日常の「断片」はどれも偶然の集積にも見えるし不条理にも感じられるが、全体をみると、それは謎の絶え間ない脱構築と再構成の連続で、それこそが「生」と「美」の秘密なのだという解釈もある。

私がなんとなく連想してしまったのは、『ユダヤ人とバイブル』という本のことだ。

その中で、旧約聖書というのは、一読すると曖昧、矛盾、支離滅裂の連続だが、一見して欠陥のように見えるこれらの面こそが時代を継いで読まれてきた理由の一つだとある。各世代に、読み直しのための本質的自由が与えられるからだという。

ラビたちにとっては、バイブルとは『オデッセイ(オデュッセイア)』の対極にあるものだ。

バイブルの表面的な不完全さこそが、その真実性を担保している。

なぜなら、神は詩人ではないからだ。

詩人は嘘をつくが、神は真実を語る。

つまり、ホメロスなら完璧な叙事詩を創作できて、人々はそれを完成品として鑑賞できるが、神の言葉を人間がキャッチして書きとめたバイブルには文学作品のような整合性がないのは当たり前だというわけだ。

カラックスの映画は、ここにきて、作品というよりも、ご託宣、神的ビジョンのご開帳になったのかもしれない。
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by mariastella | 2012-07-29 21:02 | 映画

天使の取り分ANGEL'S SHARE

今年のカンヌで審査員賞を受賞したケン・ローチ『天使の取り分ANGEL'S SHARE』を観た。

ケン・ローチは私の好きな監督だ。

犯罪歴があって職のない若い男の恋人に赤ん坊が生まれる。ダルデンヌ兄弟の「L’Enfant」だったら、ここで若い父が赤ん坊を売りとばしたりするのだけれど、ケン・ローチでは父性に目覚めた主人公が、何とか自立しようとする。

そこにウィスキーのテイスティングの蘊蓄や、幻のウィスキーを盗み出す話や、教育指導員とのあたたかい交流などが組み合わさって、ユーモラスでありサスペンスフルでもあり、この監督ならではの人情味にあふれ、後味もいい。

スコットランドをうまく描いている。

社会から完全に落ちこぼれたような若者のグループが、妙な連帯の中で、イニシエーションの旅をする。おとぎ話でもあり、一種のビルドゥングス・ロマンでもある。

でも、去年のロンドンでの暴動騒ぎといい、フランスでも職のない若者は多いし、うちに引きこもるよりも路上に出て暴力沙汰を起こしたりする方が多いので、他人事とは思えない。

この映画を観た同じ日に夜のメトロのホーム(サン・ミシェル駅)で、3人のポリスが一人のアラブ系の若者を囲んで持ち物をすべて出すように命令して、皆が声を荒げていた。尊厳とか尊重というのはかけらもなく、まるでいじめのシーンのようだった。何があったのか分からないが、ああいう風に扱われる若者が前向きに生きていけるとは思えない。

こうしてあちこちでポリスから高圧的に尋問されている若者たちの中には、この映画の主人公のように隠れた才能のある者や知的能力の高い者も一定の割合でいるはずだ。

フランスではゲットー化している移民二世や三世の多い地域の優秀な生徒に奨学金を出してグラン・ゼコールの予備クラス(国立)に引き抜くという試みが広がっていて、そんなもの、きれいごとで、本当の解決にはならないだろうと思っていたが、やはり、手っとりばやいのは、教育によってチャンスを与えるという王道だなあと思う。よい指導者との出会いもそうだが、シンプルに「本を読むこと」が若者の可能性をいかに広げるかというのも痛感する。

ただし、優秀な者だけを一本釣りで引き抜いて援助して成功させたり更生させたりするというのは、政策の正当化にはなるだろうけれど、ケン・ローチの映画が本当に痛快なのは、底辺にいた主人公が責任感やら自分の才能に目覚めて悲惨な境遇から抜け出るというところではない。

主人公の周りにいる、本当にどうにもならない盗癖の女の子や頭の弱そうな男やら、主人公の足を引っ張っているように見える「クズ」のような若者たちも、「一緒に行動する」ことで、居場所があって、チャンスがあって、自分の立ち位置や能力などと、怒りや憎悪や侮蔑などを通してでなくはじめて向かいあえたということだ。

社会的な弱者にとって真のハンディは、能力のなさではなくて、暴力的な憎悪の環境にいることなのだ。暴力や憎悪や侮蔑の視線のある世界で「自助努力」など誰もできない。

もちろん、では彼らを安全なところに囲い込んで個別に隔離すればいいのではない。

みなが「より弱い者」を抱えていく、という環境に投げ込めばいいのだ。それは別にすごく強い人が弱者を守るというような家父長的「憐れみ」の環境ではない。家父長的憐れみの行使には「見下し」が伴いがちで、それは憐れみに感謝しない者を罰するという誘惑と紙一重だからだ。

この映画のように、たとえ全員が社会的弱者でも、みんな、「弱さの個性」は違うのだから、弱い者同士が助けあうという可能性は絶対に存在する。

この映画のくれる希望のメッセージの根本はそこにある。
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by mariastella | 2012-07-13 16:46 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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