L'art de croire             竹下節子ブログ

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アンドレ・テシネ『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』

先週はこの映画を見損ねて、趣味ではない『Un beau soleil intérieur 内なる美しい太陽』を見てしまったけれど、気を取り直して頑張ってアンドレ・テシネーの『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』に挑戦。期待にたがわず途方もない映画だった。

途方もないというのは人間性の途方のなさだ。

しかも、実話がベースだ。



第一次大戦は、形こそフランスはドイツに勝利しているが、フランスにとって勝利体験よりも悲惨体験としてトラウマを残した戦争だった。

この映画の一番の効果は、主人公夫婦の倒錯的な関係よりも、まさに、フランスにとっての第一次大戦大戦の傷を別の形でまた再現しているところだろう。

反戦映画というより、厭戦映画だ。

兵士として戦争に駆り出されるのは誰にとってもトラウマになるだろうけれど、フランスに住み、フランス人の気質を知れば知るほど、彼らほど戦争に向いてない国民はないと思う。(革命には向いているみたいだが…)

愛する妻と幸せに暮らすポール・グラップという、ごく普通の男が招集されて前線に駆り出されるが、戦死する気はさらさらない。

それでも二年間を前線で戦わされたポールは耐えられなくて自分の右手親指を切り落として病院に運ばれた後で、さらに逃亡する。

欠席裁判で死刑判決が下される。

戻ってきた彼を隠すために、妻のルイーズがポールに女装させてシュザンヌと名を変えさせる。電気脱毛もさせ、ゆっくりと男を女に仕立て上げる細やかさ。

憲兵たちがやってくる。そこにはポールはもういない。ルイーズの愛人シュザンヌが編み物をしていた。(映画ではそのシーンはない。地下に隠れたポールを見つけられないという場面だけだ)

きっかけは、ポールが地下での逼塞に耐えられずうつ状態になったことだ。

ルイーズは彼が外に出られるように女装させようとしたのだ。

はじめは、ポールは大いに抵抗した。

しかし、外に出たい。

最初の外出が深夜のブーローニュの森だった。

というか、昼間に普通の場所には行けないから、娼婦がたむろするブーローニュの森に行くしかなかったのだ。

そこは何でもありで、女装だろうが、男装だろうが、同性愛者であろうが、無礼講の世界だ。

戦場の反動であるかのように、自由で極端な享楽しかそこにはない。

第一次大戦の時代は、その前線の悲惨さとは別に、「銃後」には不思議な「解放」の空気が生まれていた。女性の力が増し、男装の女性、同性愛者たちがパリのダンスホールで踊っていた。一方、ジャンヌ・ダルクよろしく、兵士の服を着て前線に赴く女性たちさえいた。

その享楽的なパリとは別の、労働者の住む貧しい界隈のアパルトマンで、一人の男が「レズビアン」に変身したのだ。夜のブーローニュでは階級差は消滅する。


ポールはもともとバイセクシュアルだったのか ?

あるいは単に「女装が好き」な男になったのか ?


(あるいは、ひょっとして、人は、性別にかかわらず、「見た目」の部分を偏執的に手入れしてきれいにすること、飾ることに「はまる」動物なのかもしれない。戦場の兵士には絶対に許されない贅沢だが、「女装」という形で「開き直る」なら、その道を究められて、ポールはそれに「はまった」だけなのかもしれない)

ともかく、その後、二人とも、この不思議な関係自体に「はまって」しまう。

夫婦はレズビアンの関係になるのだ。ポール(シュザンヌ)はキャバレーの舞台にも立ち、ルイーズも彼を手伝う。

第一次大戦が終わって二人はスペインに逃げる。スペインから戻ると住所を変え、「すてきなシュズィ」という名で女性パラシュート家としてデビュー。ブーローニュの森で客をひく娼婦としても、「ギャルソンヌの女王」と呼ばれるほどの人気者となる。夫婦のそれぞれの愛人が入れ替わることもあった。

1925年、ようやく脱走兵の恩赦が認められてシュザンヌはポールに戻れるのだけれど、それはなかなか難しい。ポールにはもう自分のアイデンティティが分からない。

酒におぼれ、妻を殴る。口紅を塗り、セーヌの河辺で見知らぬ相手に声をかける。

2人にはポポルという子供が生まれる。新生児を殺すと脅迫してこぶしを振り上げたポールを、ルイーズは引き出しから取り上げた拳銃で撃ち殺した。


ルイーズは赤ん坊を守ったということで免罪される。当時の裁判記録の中には「猥褻写真」というファイルがあるが抜き取られている。

赤ん坊はほどなく髄膜炎で死に、ルイーズは、1981年まで生きた。


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実際のシュザンヌとポールの写真。1925年のもの。

以上が「実話」なのだけれど、映画で描かれているので興味深いのは、ルイーズが「お針子」として働いている女性ばかりのアトリエの責任者が女性で、レズビアンで、シュザンヌという女と暮らし始めたけれど誰にも紹介しないルイーズに関心を示すシーンだ。

映画のポールは別に女性的な体でなく、がっしりして背も高い。ルイーズも大柄で、胸が薄く、彼女が男装してもさまになると思える。

映画は夫婦の「現在」と「過去」が交互に配される。その「現在」というのは、ポールが、戦争中の「シュザンヌ」としての自分を演じることで収入を得ていて、ルイーズは戦争以来需要が増えた「鉛の兵隊」に着色する内職仕事をしている。

2人は相変わらず男と女として愛し合っていて、ルイーズは妊娠するのだが、妊娠することで「母」となり子供の「父」を必要とするので葛藤してそれを隠している。妊娠を知ったポールは女装や過去を引きずるようなキャバレーの仕事をやめるのだが、仕事が見つからない。子供が生まれ、子供第一の「母」になったルイーズ、彼らを養えないことで「父」としての自己肯定のできないポール、彼のこれまでの「栄光」は」すべて女装の女王「シュザンヌ」としてのものだった。

すべての依存症、アディクションと同じで、そうなると、女装によってのみ脳内麻薬が分泌される。

これは、「性倒錯」の物語ではなく、アディクションの物語でもあるのだろう。

その意味では、有名人である「シュザンヌ」のパートナーという暮らしぶりはルイーズにもアディクションをもたらしていた。

でも、ルイーズのきっかけは、何としてでも愛する男を戦争によって殺させない、という決意だった。

この映画で流されるアカペラの『Auprès de ma blonde』という歌がある。

私でも何十年もなじみの子供の歌で、童謡、民謡のイメージだった。「ぼくのブロンドちゃんのそばで寝るっていいなあ」という感じで、ブロンドの女性が現れると気軽に口ずさまれたりする。でも、父親のうちの庭には花が咲いて鳥がいて、という牧歌的な歌詞の部分ばかり耳にしてきたので、この映画でその先の部分を聴いて驚いた。


検索すると、17世紀の軍隊行進曲だなどとあった。

1966年になんとエルビス・プレスリーが英語版を歌ったほどポピュラーだとも知らなかった。

17世紀の終わりにルイ14世の戦争に駆り出されてオランダで捕虜となった王立海軍士官が獄中で妻のことを思って作った歌だそうだ。18世紀初めにルイ14世に身代金を支払われて自由の身になったので、感謝の念をこめて1704年に発表されたという。

確かに、

ブロンドちゃん、君の旦那はどうしたの?

オランダにつかまってるの。彼を取り戻すためなら

ヴェルサイユもパリもサンドニ(歴代国王の墓所のあるカテドラル)も、

ノートルダムの鐘だって、地元の教区の鐘だって、なんでもあげるわ。

という歌詞がある。

ノートルダムの部分は、「父と母の王国の全部をあげるわ」というヴァリエーションもあるという。

つまり、愛する男を戦争から取り戻すためなら、国も国王も何もかもいらないわ、

という愛情表現であり、ルイーズがポールに捧げた思いと確かにリンクしている。

そして、絶対王政の太陽王ルイ14世は、一士官を解放するために身代金を払った。

思えば、フランスの民謡には、もっと古い「脱走兵の歌」もある。

日本の軍歌はポピュラーなものが多いけれど、厭戦的な歌が童謡にまで昇華したものがある記憶はない。出征した兵士を思う女性の心で連想するのは、シベリア抑留の子を待つ「岸壁の母」とか「君死に給うことなかれ」など、母や姉の視線であり、演歌にはなっても童謡に変身する感じではない。

映画としてなんといっても絵になるのはミシェル・フォーの演じるキャバレーの興業主だ。彼について前にこの記事でも書いた。

映画『偉大なるマルグリット』では、マルグリットの声楽教師として雇われるオペラ歌手役を演じていた。ほとんど「色物」しかできないんじゃないかというほど個性的な外見だが、本格的俳優で名役者だ。海千山千のしたたかさで狡猾な中にどこか人間味もある興業主役にぴったりだった。

名演にかかわらず外見としては正統派の美男美女によって演じられるポールとルイーズの物語、それににコクを与えるミシェル・フォーなしにはこの映画は成り立たなかっただろう。

第一次大戦がフランスのカトリックの立場に大きな変化をもたらしたことは以前にも少し解説した。(この記事を読んでみてください

同時に、女性の地位も大きく変わった。女性の活躍が半端ではなかったからだ。

死者や傷病兵が山のように出る戦争では、彼らの精神的肉体的ケアをする宗教者や女性たちの役割が増大する。

この映画でも、移動中の兵士が墓地の十字架を見かけて思わず隊列を離れて駆け寄ってその前にひざまずいてロザリオの祈りを唱えるシーンがあるし、傷病兵に聖体パンを授けに回る司祭の姿も映し出される。ある兵士は意識がないし口も開かない。そこで司祭がナイフを差し入れて口を開かせて聖体パンを差し入れるのだ。兵士のやむにやまれぬ神頼みと、とにかく義務を果たす司祭のプラグマティズムが対照的だ。

さらに、この映画を見て「そうか」と納得できたのが、カトリックと女性の関係だ。

フランスはフランス革命の国なのに、女性の参政権が認められたのは1944年でしかない。イギリスでは、やはり第一次大戦の影響で、1928年に女性の参政権が認められた。

フランスで遅れたのは不思議だと思っていたが、この映画で女性たちが、第一次大戦での「銃後の守り」のために外に出て働いた活躍で地位向上した女性たちに参政権を与えないことについて、それはカトリックに票が行くのを阻止するためだと話しているのを見て理解できた。

フランスで男性の普通投票(21歳以上で同じ場所に6ヶ月以上住んでいるのが条件)が成立したのは1848年だが、兵士、外国滞在者、そして聖職者には選挙権がなかった。

フランス革命以来のカトリック教会との対立の根は深い。

それでもナポレオンがカトリック教会と和解したのは、社会の秩序のため、要するに、「婦女子」のために宗教が必要だという認識からだった。「女子供」は教会に通い、男の子は「大人」になれば「共和国」的無神論者あるいは不可知論者としての通過儀礼を経て「市民=男」になるという図式が用意されたのだ。

だからこそ、女性は21歳を過ぎても、「カトリックの良い信者」であるから、女性に選挙権を与えたら、第一次大戦で復権したカトリック教会の眼鏡にかなう保守政治家に投票する可能性が大きい、司祭の言うことに従うからだ、それは避けたい、という事情だったらしい。(聖職者については、1905年の政教分離法によって一般市民との権利の差が解消されている)。

国王が同時に国教会の首長であるイギリスなどとは事情が違う。

なるほど。

この映画はテーマ的にも私の好みのツボにはまるものだが、いろいろなことを気づかせてくれた。


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by mariastella | 2017-10-05 03:13 | 映画

ジュリエット・ビノシュの『Un beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)

今日はすべての調子がなんとなく狂った日だった。


ほんとうは、『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』という映画に行くはずだった。

監督がアンドレ・テシネーで、テーマが前のローラ・パテールと同じく性倒錯に近いものとあっては、絶対見逃せないので忙しいのに無理に観に行ったのだ。

そうしたら、今日はスクリーンを変える(?)都合で、その映画の昼の上映がないという。その代わりに、同じ時間帯にある クレール・ドゥニ監督のUn beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)はいかがですか、いい映画ですよ、と切符売り場で勧められた。そこは私のよく行く映画館で、午後の初めはすいている。シニア料金があるのでシニアの姿ばかりで落ち着く。ロビーには、本棚があって、みんなが自由に本を持ってきたり持ち帰っていいシステムになっている。

だから、ま、いいか、と思って観ることにした。


主演のジュリエット・ビノシュがTVのニュース番組でインタビューされていたのも見ていたし。カンヌの出品作でもある。ジョジアンヌ・バラスコ、ジェラール・ドゥパルデュー、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキなどと言うすごい顔ぶれがちょい役で出ているというのもすごいし。


ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。




ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。

一人の女性の裏も表も丹念に表現する名演なので、彼女をめぐる男たちとの会話でいろいろな人間模様が描ける。でもほとんどは会話の妙味だ。

しかも、フランスの、パリの、アートや画廊経営者らの世界で、みながスノッブであることは、ビノシュが、それら「お友達の輪」を外れた男と付き合っていると分かるや否や、「その男はRSAで暮らしているのか」(つまり失業者の支援金で暮らす)とか「学歴はなんだ」「BACG」(これはつまり、今の技術系バカロレア、つまり普通高校からではなく技術系高校からのバカロレアで一段下だと差別しているわけだ)とか、嫉妬や当てこすりや偽善的な言葉が渦巻くことでよく分かる。

孤独や寂しさ、愛の渇き、欲望などが普遍的なテーマなのだとしても、あまりにも、「お仲間うち」の話で、微妙な感情がいくら巧妙に描かれていても、ひいてしまう。

芸術的な悩みとかないのか、君たちは。


私は暴力やホラーシーンのある映画はもうできるだけ見ないようにしようと思っていたけれど、こういう熟年男女の色事のかけひきの映画もこれからは時間がもったいないからもう見ないようにしようと思った。


しかも、最初にビノシュと愛人の意味なくリアルなベッドシーンが延々と続き、どういうわけか途中で館内の照明がついた。がらがらの館内で客の大半を占める70代くらいの連れだった女性同士の姿が目に入り、これをどう見ているのかなあなどと気まずい感じがしていると、誰かがクレームをつけに行ったので、照明が消されて、五十がらみの熟年男女のベッドシーンがやっと終わったところだったのに、映画があらためて冒頭から始まったので、また見るはめになった。男はでっぷりとした銀行家で、ビノシュも疲れ、たるんだ体だ。

手や指も何度か大写しになったのだが、その指や爪の美しくないことにも驚いた。ローラ・パテールのファニー・アルダンはさすがにすみずみまで人工的に美しかったのに。金を払ってまで映画館で「等身大」の疲れた同時代人を見たくない。


最後に出てくるドゥパルデューの異様な存在感も、みな、末梢神経をくすぐるような「濃さ」で、あっけにとられた。


映画館を出てオペラ座の方に歩いていくと、マクロンの経済政策に抗議するリタイア組のデモ行進が長々と続いていた。(年金から自動的に引かれる福祉税が増税される)


昼間からベッドシーンを見ている70歳もいれば、粛々とデモ行進をする70歳もいる。


その後でバロック・バレーのクラスに行くと、今年71歳のクリスティーヌが、相変わらずドイツ・バロックにはまって夢中でドイツ・ステップのクーラントを教える。

なかなか不思議な日となった。

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by mariastella | 2017-09-29 07:52 | 映画

ロバン・カンピヨのカンヌグランプリ映画『120 battements par minute』


昨日観たBonne Pomme に失望したので、確実に評判の高いものをと思って、今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞したロバン・カンピヨの『一分間120拍動』(120BPM)を観に行った。

BPM120というテンポは、この映画で使うハウスミュージックのテンポであり、心臓がドキドキする鼓動の数でもあるという。


1990年代初めに、アメリカのACT UPに続いてパリで立ち上がったエイズ患者たちによる社会活動団体のドキュメンタリー映画のような作りだ。

監督のロバン・カンピヨの実体験をもとにしている。


雄弁なリーダーのチボーは実在のディディエ・レストラードがモデルで、レストラードは今も健在だから、HIV陽性でも、抗エイズ薬が間に合ったのだろう。

カンピヨは多分陰性で活動に参加していたと思われるので、この映画のナタンの立ち位置ではないかと思う。死者への追悼だけではなく、生き抜いた仲間たちへの生の賛歌のメッセージでもあると語っていた。

90年代初め。隔世の感がある。


ネットや携帯のない時代で、紙を輪にして無限ファックス抗議を送ろうという提案があったり、薬品会社に抗議行動に侵入するシーンも、今なら、ガードマンがいたり監視カメラがあったり、すぐに携帯で上の階にも連絡がいくだろうな、などと思った。そもそもこの手の草の根活動は、今なら、多くのSNSでわっと広がったりつながったりするだろう。

それがない時代に、彼らは、ただ単にデモをする以上の行動に踏み切った。

デモをすること自体はフランスでは日常茶飯事なのでメディアに取り上げられない。挑発しなくてはならない。アメリカのACT UPが死者の遺灰をホワイトハウスに巻いたことを参考にして主人公の1人ショーンの遺灰を製薬会社のパーティのテーブルにばらまく。エイズと血による感染の恐怖を利用して、偽の血を関係者や製薬会社に浴びせかける、などもした。

週一回のミーティングの実況がすごくリアルだ。


ACT UPの特徴は、患者の互助団体などではなく、リセの授業に飛び込んで生徒たちに感染予防を教えたり、娼婦や薬物中毒者や囚人など、自分たち(同性愛者や血友病の薬害エイズ患者)よりもさらにマイノリティの人々のリスク管理や権利擁護についても積極的に戦ったりすることだ。

ゲイプライドの行進を、暗いものでなく明るく、同時に政治的メッセージを持たせるためにいろいろな演出やスローガンを考える。

本来ヒエラルキーのない直接民主主義のミーティングで自然な権威を発揮する複数のリーダー格の若者たちが、秩序とバランスを絶妙に維持していく。

議論の仕方がいかにもフランス人とフランス語の世界だ。

68年の五月革命の時もこんな感じだったのだろうなと想像する。

彼らの戦いにはいろいろな位相がある。

同性愛者、HIVキャリアに対する差別を是正しようとする社会的なもの、

治療薬の認可を遅らせたり、実験結果を公表しなかったり、予防のための広報動をしない製薬会社や政府の不正や偽善を告発する政治的なもの、

20代で訪れる死を前にした実存的、哲学的なもの、

病をかかえ、痛みに耐えるフィジカルなもの、

などだ。


それらをすり合わせ、統合し、立場を異にする者の怒りの表現と行動と、被害者や潜在的被害者を守ろうとする使命感とを両立させていく明晰さとそれを支える言論文化の成熟ぶりはすばらしい。言論がクリエイトに結びつくことの高まりも感動的だ。

日本では薬害エイズが大きな問題になったが、もともと町で声を上げるとか挑発することに消極的な日本ではACT UP的なものはなかったようだ。

同性愛はサブカルチャーの中でのみ受容され、後はひたすら「世間様に迷惑をかけない」範囲でのみ受容される。家父長制社会の中では同性愛は本質的に逸脱であり「悪」なのだ。

それは「欧米」でも同じで、その「悪」を襲うウィルスは「神罰」という分かりやすいシェーマにとり込まれるので、ますます放置された結果、80年代にすでに十万人以上が犠牲になった。アフリカを含めると、今やすでに百万人規模の犠牲者を数える人類最大の伝染病だと言われている。

81年のミッテラン政権で同性愛が刑法から姿を消したのに、82年に最初のエイズの報告がアメリカで現れて、同性愛者は再び、というか、前よりもひどく差別され恐れられるようになった。

監督がモデルではないかと思われるナタンは、十代で数学教師と関係を持ったりした後、アメリカのエイズ患者の写真を見たショックで5年間、同性愛のあらゆる付き合いを断ってしまったと言う。「同性愛者は死ぬ」という定式がとつぜん登場したのだ。

ナタンと愛し合う活動家のショーンは母一人子一人の移民二世という設定で、「バロックな俳優」を探していた監督に白羽の矢を立てられたのが、バスク系アルゼンチン人のナウエル・ペレズ・ビスカヤールだ。踊るのが好きで、過激なこのキャラクターにぴったりだ。

ナタンとショーンが最初に寝るシーンは延々と続くので正直辟易した(というか、この映画、社会派フランス映画としては異例の長さの2h20で疲れる。削れるシーンはもう少し削ってほしい)。けれども、ラストにナタンがいとも自然に、ショーンが嫌っていたチボーに、「戻って僕と夜を過ごしてくれ」と申し出て、二人のからむシーンでナタンが嗚咽する部分に呼応すると思えば理解できる。

徹底的にドキュメンタリー風のミーティングや挑発行動のシーン、セーヌ河が暗紅色に染まったり、1848年革命のナレーションが入ったりする幻想的なシーン、そしてHIV陽性と陰性という溝を乗り越えるが死によって隔てられる若い恋人たちの親密な空間、と、いろいろなスタイルが畳みかけられていくので、冗長さや重さは軽減されてはいる。

不思議なのは、この映画がカンヌ映画祭の2ホールで上映された後、2000人の観客が涙を流したとかいう話だ。他の感想にも、涙なしには見られない、というのが少なからずあった。

それって「死によって引き裂かれる若いカップル」誘う涙?

監督は、死と隣り合わせのロマンスを確かに描いたけれど、感傷的にならないように気を付けたと述べているし、実際それに成功していると思う。

「お涙頂戴」の感涙ヒストリーに分かりやすく涙腺が緩む私だが、実はまったく泣けなかった。

情報量が多すぎ、考えさせられることが多すぎて、このカップルの魅力的な組み合わせや、最後に母親まで登場することも、「涙」につながらない。


若者が「死ぬまでは生きる」ことのしたたかさ、みたいなものには感心したけれど。

ともかく、彼らの運動は無駄ではなく、多くの若者が新薬に救われることになったし、予防概念も広まったし、感染者への偏見も減った。今はHIV陽性となってもしかるべき処置を続けていれば普通に寿命を全うできるところまでいっている。

私はミッテラン政権以前のパリのゲイ・コミュニティと接触があった。彼らの多くはエイズでこの世を去ったと思う。

ACT UPの少し後の世代とも仲良しだ。HIV検査の結果に恐れおののく友人たちの恐怖も共有した。

不思議なことに、ACT UPの中心の世代のゲイ・コミュニティ(私より10歳ほど下)にはほとんど知り合いがいない。この世代の知り合いはレズビアンであるせいか当時も今もエイズの恐怖について耳にしたことがない。


ただ、90年代半ばに、パリの市バスに注射器を持った男が侵入してきて、エイズの血液を注入してやる、と騒いだ時に、親しい人がちょうどい合わせた。これも今ならスマートフォンで通報されたり写真を撮られたりしているだろう。今の感覚で言えば、テロリストに遭遇したようなもので恐ろしかった。

エイズの情報が耳に入った80年代初めには確かに、陽性風の人に対して疑心暗になった記憶もある。狂牛病の実態が公開された時もショックだった。

今の時代も、フランスならテロ、日本なら地震警報にミサイル警報、と、恐怖心があおられて生きることを楽しめないような事項がたくさんある。


環境破壊、公害、異常気象、そしてそれらを全部ないことにしても個人的に確実におそってくる老いやら病気やら、減っていく持ち時間。

あれやこれやのリスク情報や警報を前にして心は揺らぐ。

それを防ぐのは容易ではない。


90年代の若者たちが生きて、生きて、生き抜いたACT UPの世界に2時間入り込むことは、恐怖や悲観との適切な距離の取り方、希望の持続方法を学ぶ貴重な体験である。


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by mariastella | 2017-09-06 02:08 | 映画

ドヌーヴとドゥパルデューの Bonne pomme


カトリーヌ・ドヌーヴとジェラール・ドゥパルデューの10度目だかの共演ということで、これは面白いかなあと思ってつい観に行った映画。

ウェスタン・ダンスに入れあげている妻とその母親から馬鹿にされるのに嫌気がさして出ていった整備工が、田舎の自動車整備工場を買って独立しようとして、工場の向かいにあるレストラン・ホテルの女主人バルバラ(ドヌーヴ)と出会う。


タイトルのpommeというのはリンゴのことだが、同時に馬鹿、間抜け、お人よしという時にも使われる。大金を持って出てきたドゥパルデューは、ドヌーヴから金を巻き上げられるのだが、なぜかいつも親切にピンチを救ってやる。

妻の母親が仕切っている工場ではただのpommeのように扱われるのだけれど、ドヌーヴや彼女に振り回され迷惑をかけられている町の人や旅人に気前よく手助けしてしまう人の好さはまさにbonne pommeで善良な馬鹿、お人好し、というわけだ。

完全に肥満体になっているドゥパルデューのどっかり丸い体が動き回る。

非現実的なシチュエーションなのに説得力があるのはさすがの演技力だ。

「日本人のカップル」というのもホテルの客として出てくるが、へらへら笑って自撮り棒を振り回しているカリカチュアで笑えない。

笑えないと言えば、ギャグのすべてがほとんど笑えない。

『人生は長く静かな河』や『ダニエルばあちゃん』のシナリオ作家のフロランス・カンタンがシナリオと監督だから話もうまくできているに違いないと思ったのだけれど…。

市長役のギヨーム・ド・トンケデックがせっかくいい味を出しているのに、それもうまく生かされていない。

ドヌーヴとドゥパルデューを使うのがもったいないような平凡な映画だ。

ドヌーヴも随分どっしりとしているが、脚はきれいだ。

年配になっても、コミックな味や自虐的な味を出したりして、なかなかしたたかな活躍ぶりだがそれでもどこかにエレガンスを残していた。

この映画ではそのエレガンスがなくほとんど下品だ。プロとしてすごいと思うが、この映画の出来栄えの悪さに釣り合っていない。

このフランスの小さな町、いかにもありそうな町の人間模様だ。


でも、ドヌーヴとドゥパルデューが、例えば30年前の「終電車」の自分たちの姿と役柄と、子の映画での姿と役柄の差をどんな風に受けとめられるのか知りたい気がする。

テレビのニュース番組で二人がインタビューされていたのを見たが、リラックスして、和気藹々と楽しそうだった。

見ているこちらの方が、来し方を振り返って感傷的になる。


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by mariastella | 2017-09-05 06:11 | 映画

イザベル・ユペールとカトリーヌ・フロの共演『仲違いする姉妹』

暇がないのに先日テレビでつい映画を見てしまった。


2004年の映画で、イザベル・ユペールとカトリーヌ・フロという、絶対にうまい2人の女優の共演だからだ。

『仲の悪い姉妹』というニュアンスのタイトルで、いつもの通り、もし日本で公開されているなら邦題を書こうとして検索したら、驚いたことに日本語のwikipediaではユペールの作品リストにもフロの作品リストにもこの映画が載っていなかった。

一つ検索に引っかかったのがこれで『仲たがいする姉妹』というのが「仮題」とされていた。


アレクサンドラ・ルクレール監督の第一作で、当時監督は2歳上の実の姉と絶交してから5年経っていたそうだ。つまり実体験にインスパイアされた映画だそうだ。


今から13年前の映画だが、こういうパリの日常のテーマでは、たった10数年で、決定的なアイテムが変わったなあとまた思う。すなわち、携帯電話やスマホだ。


姉が妹をモンパルナス駅に迎えに行くときに遅れてしまって待たせるなど、今なら携帯メールやLINEを使うだろうし、妹が初めて行く出版社の場所を探して大きな地図を広げるシーンも、今ならスマホのGPSとかマップで確認しているだろう。この映画では地図を広げるシーンが「おのぼりさん」の演出になっているが、今は誰でもどこへでもすいすい行ける。

ストーリーに出てくる各種の「浮気」や素行についても、携帯などがあればやり方もばれ方も違っているだろうな、と思う。

原稿だってメールに添付して送っているだろうし。

で、そばかすだらけのイザベル・ユペールがうがいをしている顔のクローズアップの冒頭シーンから、夫の息遣いの粗さにいら立つシーンが続き、もうなんだか、恐ろしい予感がする。

6歳の一人息子がいるブルジョワ夫人マルティーヌを演じるのがイザベル・ユペールであり、その後に、ル・マンからパリに向かう超特急の中で無防備に眠りこけているエステティシャンである妹ルイーズを演じるカトリーヌ・フロの姿が映される。

ルイーズは、男に一目ぼれして7歳の息子を2年前に捨て、その男と暮らしている。その体験を小説に書いて小説家への転身を図っているのだ。

カトリーヌ・フロが大柄であることがあらためて分かる。ひょっとしてユペールが小柄なのかもしれないが、彼女の存在感はいつもすごいので、なぜか大きく感じていた。

で、姉妹は、子供の頃に『ロシュフォールの恋人たち』の歌としぐさを真似ていたほど仲が良かったのに、今は施設に入っているアル中の母親からなじられるというつらい過去を持っていることが分かる。

パリのエリートたちと付き合っているけれど、実は学歴もなくコンプレックスを抱えていて、母のようになりたくなくて酒を飲まないマルティーヌと、自然体でおしゃべりで、エステティシャンなのにがさつといえばがさつで田舎者のルイーズの組み合わせが次第にあらわにしていく人々の嫉妬や不幸や絶望が辛らつに描かれている。

それまでカトリーヌ・フロを起用した監督はイザベル・ユペールを使ったことがなく、逆も同様だそうで、それほど、タイプだけでなくなんだか女優としての「質」がまったく異なる二人なのだけれど、新人女性監督のこの映画によく共演したなあと思う。

カトリーヌ・フロはコメディが得意だけれど、『偉大なるマルグリット』のように、裕福なのに不幸な悲愴な女性も演じられる名女優だ。実際のところ、この2人の実力なら、ルイーズとマルティーヌの役を取り換えていたとしても、立派に通用していたと思う。そういうケースを想像するだけでも倒錯的に楽しい。

 貧しい境遇で育った姉妹の片方がパリのブルジョワの専業主婦になり、もう片方は故郷に残ってたくましく生きていた、前者は偽善的でスノッブでその裏にコンプレックスがあり、後者は素朴で生命力に満ちているという、まあステレオタイプの話なのだが、姉夫婦の底に流れるのは、浮気をする夫も冷たい妻も、どちらも本当は「愛してほしい」と思っている渇望だ。

「愛してほしい」と悶々とする夫に対して、愛し方の分からない妻がいる。

実はそっちの方が深刻だ。愛し方の分からない人というのは、「愛されたことがない人」であるケースが多いからだ。愛することも学びなのだ。


姉妹は母親に愛されなかった。でも妹は、ある日恋をして、愛することを育んで、ついに相手に手紙を書いた。そして「生きる」ことを知ったのだけれど、その代償は夫と息子を失うことだった。


両親などから分かりやすい愛を享受できなかった人にとっては、「愛されること」も学びとらなければならないのかもしれない。愛にもいろんなレベルがあって、大きなレベルでいのちを受けたことそのものが「愛」の体験なのだと「気づく」というプロセスを経てようやく他者への愛に向かう人もいる。


この映画の中で、アーティストになるために一番必要なことは何かと問われたギャラリーの経営者が、「générosité」と答えるシーンがある。「寛容」と訳されるが、「気前の良さ」というのに近い。もっと近いのは実は無償性というか、要するに計算高いことの反対だ。コスパや権益を考えていたらアートなどはできない。その意味ではアートも限りなく、愛に、似ている。


イザベル・ユペールもカトリーヌ・フロも、女性としてはどちらも苦手なタイプだ。なじみのデパートだとか街並みも出てくるのに、距離感がずっと消えなかった。私には、姉妹が、いない。



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by mariastella | 2017-09-03 05:40 | 映画

ファニー・アルダンが M to F を演ずるすごい映画『Lola Pater』


30代の青年が、母親の急死のショックの中で、幼い時に別れた父親をはるばる訪ねて行ったら、父親はオリエンタル・ダンサーの熟年レズビアンだった!


ファニー・アルダンは好みのタイプから程遠いけれど文句なしの名女優だ。

一時は拒食症とかいう噂でがりがりに痩せていたが、68歳の今、ある程度肉がついて、肩、手足の骨太さが「性同一性障害の元男」という役をやっても、なんとなく納得できる。

監督は1965年生まれのフランスとアルジェリア二重国籍のいわゆる移民の子弟であるNadir Moknècheナディール・モクネシュ。パリで生まれたが3歳で父を亡くし母とアルジェに戻り、キリスト教系の学校の寮で暮らす。16歳でパリに戻ってバカロレアのと2年の法学部を経て演劇に転向した。

アメリカにも留学し、現代のモロッコやアルジェリアのシーンを描く映画を監督するが、この映画も、カリカチュアではなく、宗教の問題にも触れていない。

とはいっても、厳格なイスラム法では禁じられている酒、タバコ、音楽、踊りなど、何でもやっているローラを揶揄するコメントがあったり、主人公ズィノの子供の頃の割礼記念のビデオが出てきたり、葬儀やパリの墓地のムスリム区画での埋葬、フランスに来たんだから犬を飼っても平気(犬はムハンマドを噛んだということでイスラムでは不浄とされ嫌われている)というズィノの叔母のことばなど、今のフランスで暮らす「普通のムスリム」のリアルな生活感が見える。

ズィノはオーステルリッツ駅近くのマンションの高層階に母親と猫と住んでいたが、母は動脈瘤破裂で突然死する。飲みかけのコーヒーだかティーだかのカップがテーブルに置かれたままで、テーブルにのぼった猫がカップを倒すシーンでその死による人々のパニックが伝わる。

ネコはその後もあやうい、シンボリックな役割を果たしている。

ピアノ調律師で作曲もする30代のズィノは、遺産相続の手続きで、公証人から、父のファリッドが離婚していないばかりか南フランスのカマルグに住んでいると知らされる。それまでは、父のファリッドはある日「蒸発」し、は妻子を捨ててアルジェリアに戻ったと聞いていたのだ。

オートバイをとばして南仏に向かうズィノ。

町で最初にすれ違うのはフランシスカンの修道服を来た修道者らしい人。


で、訪ねた住所はなんとレッスン中のオリエンタルダンスの教室だった。

女性たちがたっぷりした腹を見せてベリーダンスをしている。(ああ、グラナドス!

教師をしているのは妖艶な熟女ローラ。

ファリッドの息子が来たと伝えられたローラは動揺する。

同姓同名の人違いだと言ったが、ズィノは彼女が父の妻なのだと思った。

自分や父と同じ姓だからだ。では、父は重婚していたのだろうか。


公証人から書留を受け取ってパリへ出ていくローラ。


ローラは、女性と暮らしている。相手の女性はどちらかというと「いかにもレズビアン風の」中性っぽい人だ。このカップルはもう若くないわけだが、この人の愛(パリでローラが自殺未遂で入院した時に駆けつけてくるシーンにはほんとうに泣かされる)がすばらしい。

彼女にも励まされてローラはパリで息子に自分が父だと告白する。

衝撃と拒絶。

ズィノの怒り、ローラの絶望、どちらも説得力がある。

ローラはもと、クラシック・バレエの男性ダンサーだった。息子も音楽の世界に生きるアーティスト。政治的にはトランスジェンダーを差別などしていない。

しかし、理論や建前と、それが「親子」の間に起こる場合の感情の齟齬というのは別だ。

事情を知っていた母親にも騙されていたことになる。

何を赦していいのか受容していいのかも分からない。

叔母からは、実は母親のマリカはファリッド(ローラ)が性同一性障害だということを知っていて結婚したと聞かされる。叔母も女性の姿となった義兄に再会して驚くが、昔は彼のことをゲイだと思っていた、という。

ローラは、「自分はいつも女性を愛している。レズビアンになった異性愛者なのだ」という。

性同一性障害と言っても、ジェンダーのアイデンティティと肉体的な性のアイデンティティは別のものだ。

ファリッドとマリカは愛し合っていた。けれどもファリッドは男の姿で男としてふるまうことにもう耐えられなくなったのだ。女になってレズビアンのカップルとして息子を育てられたならよかったのだろう。けれどもマリカは、女になるファリッドが耐えられないのではなく、そうなったら世間の目に耐えられないのだ。

性別と見た目に関しては、生きていくうえであまりにもジェンダーの縛りと圧力が大きいので、第一の苦しみはそこから来るのかもしれない。

マジョリティの人たちから見ればみなひとからげに性倒錯だと思われるかもしれないが、どの性を性的対象と見るのか、と、自分の生物学的な性別を認めるのかはまったく関係がない。


私など自分でも、「性別」としての女性は違和感がないが、アイデンティティの底にあるのは「兄のいる妹」という枠内での性別だ。脳内では女性も猫も子供も、柔らかくてかわいいものは大好きで触りたいし見ていたいが性的対象ではない。細かく見ていくと、性的には「女友達が大好きなゲイの男」と一番親和性がある気がする。妹タイプなので男っぽい感じのレズビアンから声をかけられることもよくあったが、私の好きなのは女っぽい猫っぽい柔らかい女性で、しかも性的興味は全くないのでスルーしていた。


兄のいる妹として生まれて家庭内で妹ジェンダーというアイデンティを課された女性でも、まったくそれが自分に「あっていない」と苦しむ人もいくらでもあるだろう。それは最初は反抗や反発になり、やがては家族から離れるという形で解消できるかもしれない。「嫁」だの「母」などという後発のアイデンティティなどはもっと不安定なものとなる。

人間とは、肉体の性別アンディティティと社会から押し付けられるジェンダーと誰に何に性的欲望を覚えるかという性的アイデンティティが複合的にあるだけではなく、実は生まれた時の周囲(大抵は家族)との関係性から来るアイデンティティとの齟齬もあり得るわけで、「カテゴリー分け」だのロビー活動などには絶対に納まりきれない複雑なものなのだ。

それでもこの映画でファニー・アルダンという大女優を起用したことの倒錯にはくらくらする。


映画界にはAlexis Arquetteのような真正のトランスジェンダーの女優たちもいるのだから、彼女らを起用すべきではなかったのかという意見もあった。

ファニー・アルダンは男でもなく、アルジェリア人でも、アラブ系でも、トランスジェンダーでもない。


実は、トランスセクシュアルの友人たちがいる監督がこの映画の構想を自分の母親に話した時に、母親がその役はファニー・アルダンに頼むべきだ、と言ったのがきっかけだったという。

低いしわがれ声と、エレガントな長身、の迫力に加えて奇抜な衣装。

バロックとマニエリズムの境界。

アルモドバルの映画の世界ですか、といいたくなるが、実は、とても抑制が効いていて登場人物全員が非現実的な「上品」さをたたえている。


ズィノは、結局、性別は関係なく「父親」を求めている。

ファリッドも息子を愛していた。罪悪感にとらわれた。

でも彼にとっては、自分の意識に合致する体を手に入れること、女性のオリエンタル・ダンサーになれるかどうかは、生きるか死ぬかの問題だったのだ。

ズィノ役のTEWFIK JALLAB35歳で、パリの近郊でモロッコ人の母とアルジェリア-チュニジア人の父の間に生まれたこれも典型的な「移民の子弟」だ。

「父と息子」の関係を突き詰めることで、何世紀にもわたる「父系制」社会に挑戦している映画だともいえる。

性別や見た目や世間の目などと関係なく、「それでも愛している」という心を封じていた二人は、揺らぎながら互いに相手をかばおうともする。けれども、愛を口にして、もし向こうから同じ言葉が返ってこなかったらどうしようという恐怖が愛にまさる。

これは普遍的な映画なのか、ニッチな映画なのか、評価もかなり分かれている。

私の好みにははまり過ぎなのだけれど。

ライオンキングでも猿の惑星でも、当然のように与えられるテンプレートに「父が息子」へ「力」を継承させるという者がある。この映画がそれを大きく揺るがすものであるということにセンシティヴであるかどうかが評価の分け目になるのだろう。

日本ではいわゆる「オネエ」キャラが一見市民権を得ているように見えるが、普通の人には性的マイノリティの中での性的アイデンティティと性的欲望との組み合わせの区別などつかないことだろう。

日本のM to F で私の知っているのは(直接知っているわけではない)、性転換手術の前後から細かくレポートしてくれたブログを愛読していた能町みね子さんくらいだ。(今もネットの週刊誌で連載を読んでいるが、オリンピックを盛り上げるために都知事がラジオ体操奨励したことへの記事など、同感で笑えた。)

深刻なのはやはり、「子供」がいる場合で、「子供との関係」における性別の刷り込みや世間の目こそ、「父系性社会」の基盤だから、「基準を離れる」のは大きな試練となる。


日本でも、2014年から、性同一性障害のため女性から男性に性別変更した夫とその妻が第三者との人工授精でもうけた子について、戸籍に嫡出子として記載できるようになったという。

同じケースでも、男性から女性に性別変更した人への偏見の方が実際は厳しいのではないだろうか。「女が男になる」のは上昇であり、理解できるが、「男が女」になるのは下降であり理解できない、としないと男性優位のシステムを揺るがすからだろう。女が男の服を着て活発に動くのは、子供が大人の真似をするように「ほほえましい」。でも男が女装をしてしなをつくるのは男優位社会の侵犯とみなされる。あるいは完全に「枠外」の異種動物のように容認される。

この映画の登場人物の苦しみに共感できて、それでも人間性と愛の光の中で物語を観ることができてラッキーだったと感謝する。


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by mariastella | 2017-08-13 05:17 | 映画

『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』とエコロジー

『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』を見た。


『ダンケルク』に続いて戦争映画を観るなんてどうかしている。

このシリーズの前二作は観ていない。20世紀にあった最初のシリーズも見ていない。

これまで食指を動かされなかったのだ。猿に感情移入もできないと思った。

今回は予告編で「猿」の表情が人間より人間らしく見え、テーマも地球の未来と異種共存について考える私の心の琴線に触れるものがあったのだ。

(日本ではまだ未公開のようなのでネタバレが心配な人は読まないでください)

原作のSFがアメリカものではなくフランス人のピエール・ブールのものだということは知っていたので、前にも調べたことはあった。(ジュール・ヴェルヌといいフランスってけっこうSF先進国なのだ)


ブールが『戦場にかける橋』の原作者でもあり、アジアでの生活が長いということも知っていた。

アジアでの異文化体験と「猿」との戦いというイメージが重なるなら、なんだ気分が悪いという感じがあった。日本軍の捕虜になったという話もあるし。


でも彼はイギリス軍ではないし、フランスは1940年にはドイツと協定を結んでいたのだからベトナムなどではフランス軍と日本軍が仲良く映画を観ていた、という話を当時子供だったベトナム人から聞いたこともある。

今度の映画を観て、つくづく思ったのは、もろキリスト教文化圏のお話だなあということだ。

でもこの最終話ではそれがカタリ派的善悪二元論の残念な方向に行きそうになっている。

悪いのはもちろん人間で、でも、悪いというより「愚か」というしかないのだけれど。

ピエール・ブールはアヴィニヨン生まれで高校までアヴィニヨンで育っている。

フランスのアヴィニヨンというと旧教皇領で、法王庁もあったばりばりのカトリック文化圏で、ブールの母(弁護士だった父が演劇評を書いていた新聞のディレクターの娘)は、毎週教会に通う熱心なカトリックだったという。子供は当然母親の影響を受けるから、ブールも少なくとも子供時代はカトリック教育を吸収したに違いない。

その後パリ近郊の理系のグランゼコールに入学した。日本の訳を見たら「エンジニアの学校」などとあったけれど、これまで何度も書いたが、日本語や英語のエンジニアはフランス語ではテクニシャン(技術者)であり、フランス語のエンジニアとはエリート管理職候補者用の公式の資格である。

ブールの行ったグランゼコールは私も縁があって何度も通ったことのある全寮制のエリート校だ。

アヴィニヨンでは読書や狩りを楽しむ生活だったのが、父親の突然の死で、母親を助けるために中央に出てエリート・コースに進んだのだという。

彼の小説の中で興味深いのは、1963年の『猿の惑星』の19年後に発表された『鏡の輝き』という近未来小説だ。フランスはすでに原子力発電依存率が世界的に高い国だったが、ある研究者が、南フランスのラングドック、プロヴァンス、コルシカ島の1%の土地を鏡で覆うと、フランスに必要なエネルギーの10 %を得られると言った。ということは、10%を覆えば全フランスのエネルギーをまかなえることになる、と、緑の党の大統領ジャン・ブロンド―と大臣たちは考えた。

大統領夫人ベアトリスは太陽信仰を持っていたので、神秘熱に駆られてこの太陽光発電を宗教的使命感で成し遂げるよう夫を説得し、太陽神殿ヘリオス発電所が生まれる。その鏡の反射光は公害のないきらめくエネルギーの到来を示すかのようだった。

ところが、意図がすばらしくても、結果は思いがけないもので、巨大な反射光は次から次へと、周囲の環境をパニックに陥れることになる。

良かれと思う意図も、突き進むと不条理にまで達することがある。

「地獄」とは「よき意図」という敷石が敷き詰められてできているのではないだろうか?


…という話。

で、ピエール・ブール亡き後に作られた新『猿の惑星』ものテーマも、普遍的であるとともにすごく今日的でもある。冷戦後なので核戦争からエコロジーにシフトしている。


猿たちのリーダーであるシーザーは、「エイプ(猿)はエイプを殺さない」という掟をつくって平和な共同体を作っていた。有能で道徳的な哲学王がいれば、民主主義なんか必要ない。

異種とかかわらなければそれですむ。


ところが「造反者」はいつも現れる。

憎悪に負ける者もいる。

仲間に銃を向けるような造反者はもはや「エイプではない」としてシーザーは粛清した。

あれあれ。

さらに、異種である人間たちの窮地を救うために迎え入れれば裏切られたり、エイプの「種の存続」のためにはと最終戦争を決意したり、捕虜に温情を見せて裏切られて人間に家族を殺されて復讐を誓ったり、ある意味で「楽園」状態だったエイプたちが最初の罪なき状態から「戦い」のロジックへと転落していった。賢王だったシーザーも自分は憎しみのとりこになったと認めるのだ。(それも結局は贖われる構成になっているが)

人間のところで育てられ、後で仲間を救い出して人間の住処から隔離された「約束の地」に共同体をつくって「殺すなかれ」の掟を申し渡すシーザーの姿は、エジプト王に育てられたユダヤ人のモーセがやがて奴隷だったユダヤ人を引き連れてパレスティナへ向かう旧約聖書と完全に重なる。

しかも名前がシーザーだから、イスラエルとローマの統合というカトリック的ビジョンもある。

第三部で猿たちが強制労働を強いられたり、反抗したらX型十字架につけられたり、鞭打たれたりするのも、ホロコーストの強制収容所やキリストの受難や殉教者伝などのイメージとしっかり重ねている。十字架上で悪魔の姿を見るイメージも、復活するイメージもそうだ。

大きな使命や共同体を救うための犠牲の精神なども、キリスト教世界の騎士道などに通じる。

それでも結局は大自然の力によって壊滅したり奇跡的に助かったりするのだけれど、それも大洪水とノアの箱舟や「神の摂理」を連想させるし、「言葉」の持つシンボリックな意味も「啓示の宗教」の伝統を思わせる。(まあ、最終的には人間と猿の動物としてのスキルの差が運命を分けるのだが…)

王と王の息子の絆や地位の継承という単純なところは、キリスト教というよりライオン・キングっぽい分かりやすさだが。父系制社会のモデルは揺らがない。

前世紀のシリーズや1963年の原作で人類を破滅させるのは核戦争だったが、このシリーズでは、武器ではなく、人を救うための医療技術の追求の思い上がりによるものだというのは、むしろ、前述したブールの『鏡の輝き』の方にシフトした感じがある。

たとえ、病気を治すためでも、エコロジー技術の追求でも、人間が勝手に思い上がって暴走すると地獄に堕ちるということだ。

しかし、たとえ娯楽映画という手段を駆使してその「人間の愚かさ」をこれほどよく表現しても、世間では映画のテクニックの向上が称えられたり、興行収入の増大が第一の優先事だったりするのは自明だ。

経済「成長」を善として成り立つ社会像の内部ではなく何かもっと根本的に表現のベースを変えていかなくては、人類自滅のリスクは高まっていくばかりかもしれない。

憎しみによってはもちろん、どんな大義名分があろうと、「正当防衛」だとか「共同体の利益」のためでさえ、たったひとりの他者でも排除したり自由や命を奪ったりすることを拒否する、という方向にしか真の平和はない。

なんと難しいことだろう。


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by mariastella | 2017-08-10 00:50 | 映画

クリストファー・ノーラン『ダンケルク』

ここのところ、フランス映画2本、ドイツ映画1本を観たのだけれど、うーん、なかなか末梢神経をくすぐられるところはあったけれど、真剣に映画評を書く気になれなかった。

結局、一番印象的だったのが、国籍も米仏英蘭とマルチなブロックバスター映画で、クリストファー・ノーランの『ダンケルク』だった。

そのスケールはまさにハリウッド映画だが、そのエスプリは完全にイギリス映画。

戦争映画など大嫌いな私が行こうと思ったくらいだから、まず、音や迫力はすごいけれど、いわゆる手足が吹っ飛ぶ的な残虐映像はない。

もちろん多くの戦死者が出ているのだが、殺されて死ぬときは、多分攻撃する方も、「無名」、「匿名」性が高くて、モノのようにコトが過ぎる。

けれども、救う時、救われる時は、ヒトであり、命であり、「関り」が生まれる。

この映画の死の中でただひとつ人や思いや関係性のもとに描かれるのは、軍服でなくセーターを着た17歳の少年の死だ。

敵によってはでなく父親の船の中での小競り合いで打ちどころが悪くて死んだ。

最後にこの少年の「死」が「英雄」として地元紙に掲載されるのも皮肉だ。

全部が、戦争の不条理につながっていて、よくできた戦争映画というのはすべて反戦映画になっているなあと思う。

といっても、フランス人からは、イギリスのナショナリズムに不快を感じたり、このダンケルク救出作戦「ダイナモ」で、フランス軍が果たした役割を無視しているという不満も出た。

7/17のル・モンド紙で4万人のフランス人に失礼だというコメントがあったのがイギリスでも掲載されて、イギリスの歴史学者マックス・ヘイスティングスという人が、ノーランは自分の解釈で自分の描き方をする権利がある、スピルバーグの映画がアメリカ的であるようにこの映画はイギリス的であるだけだ、と言ったそうだ。

といっても、スピルバーグ映画の方が、アメリカ的というより、インタナショナルなマーケットを意識して政治的公正が加味されているようにも思えるのに対して、このノーランの映画は、フランス市場なんて気にしていないのがよく分かるのだけれど。

「敵」であるドイツ軍は「飛行機」の姿以外ほとんど現れない。最後に英軍パイロットが多分捕虜になる時に現れるだけだ。この戦いで実際に捕虜になった英軍兵士はポーランドの強制収容所に連れていかれて働かされたという。

でも「敵」がドイツ、という単純な二元論でなく、ひとりひとりが果たしてサバイバルできるかどうかという運命と向かい合っているように描かれているところがエレガントと言えばいえる。

映画の「国籍」に入っているオランダ人もフランス人も一人ずつ登場する。でもオランダ人はドイツ人と間違われて、必死に自分はオランダ人だといい仲間に入れてもらい、フランス人の方もドイツ人のなりすましだと疑われて、イギリス人から「ギブソン(だったか?)と発音して見ろ、ドイツ人ならなまりがある」と迫られて窮し、結局はフロッグ・イーターのフランス人だと白状させられる。

でも、生きるか死ぬかの仕分けではスコットランド人でも微妙に差別されているので、同盟国同士でも差別があったのは当然なのかもしれない。

ここに出てくるイギリス人兵士はまったくアングロサクソンの若者たちという感じだ。イギリス軍は共同体社会だから、インド系はインド系の部隊というようにはっきり分かれていたようだ。

でも、実際は、フランス人かドイツ人かオランダ人かは外見では確実に判別できないわけで、話させて訛りでテストされるなど、なんだか日本でもあったような話で気分が悪くなる。こういう局面においては、「母語」がナショナリズムの判定になるのだなあ。

私は実はダンケルクにちょっとした縁があるのでそれもこの映画を観に行った理由の一つだけれど、それにしても、1940年の5/26-6/4に展開されたというこのダイナモ作戦が、イギリス側で「ダンケルクの奇跡」と呼ばれ、「英雄」物語になっているのは、政治的判断とはいえ確かに不自然な部分はある。


ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍にはもう戦うことも勝つことも不可能だった。前が海で退却も不可能だった。けれどもチャーチルには「降伏」という文字はなかったので、「救出」しかなかったのだ。

でも軍を回す余裕はなかった。

で、民間の船に呼びかけて、市井の人々が自分たちの船で英仏海峡を渡ったのだ。奇跡的だったのはむしろ好天に恵まれたことの方だったらしい。

40万人近くが追いつめられていたのを、イギリス軍が救えるのはせいぜい3,4万人の見通しだったのだけれど、結果として、民間の何百艘という船が応えたこともあって、338226人が救出された。

イギリスについて列車に乗ると、兵士たちはブラボーと歓呼の声で迎えられ、英雄扱いされる。「おれは生きのびただけだ」と、彼らは思うのだが、この「帰還」を作戦が成功した「凱旋」のように報道するのはもちろん政府の判断だった。


確かに、すごい犠牲を払って救出することが「勝利」なのだったら、最初から戦地へ送らなければ ? などと思われるとまずいから、「英雄譚」を創ることが必要だったのだろう。

戦争映画が苦手な私でもストーリーを追えるのは、陸・海・空からの話の展開を細切れにしてつなげているサスペンスがよくできているからだ。しかも、同じ割合で挿入される陸・海・空の時間の流れが、浜で救出を待つ疲弊した兵士の大群の一週間、海を渡ってダンケルクに向かう初老の男(長男は参戦して三週間で戦死した)と二人の若者の一日、そして戦闘機で勇敢に戦うパイロットの一時間、と三通りの密度で組み合わせるというテクニックがほどこされている。

空からの映像がすばらしく、息をのむほど美しい。実際にコックピットにIMAXカメラを取りつけたそうだ。船底で溺れそうになったりする映像とのコントラストが強烈だ。

浜で列を作る軍服の大群の後で、ネクタイさえしめて自分の船を操縦する男の姿が新鮮だし、たった一人で戦うパイロットの孤独も胸を打つ。(6月末のパーティで、制服姿の空軍のパイロットと話をしたばかりだったので、あらためて、今ここにある戦争のことも考えさせられた。)

この映画を観た97歳のイギリス人元兵士は、当時20歳で、まったくこの通りだった、と語った。そしてその夜、泣いたと言った。77年経っても、地球に平和が来ていない、人が人を殺し合う愚かさから脱していないことが悲しい、という。

確かに、この映画では、爆弾や銃弾の命中率がそんなに高くない。

今の高性能ミサイルだの無人爆撃機だのの時代の戦争ならもっと容赦ない非人間的なものになっているのだろう。

そして、攻撃すること、殺すことの効率や技術は高まっても、「救う」ことの技術は今も昔も、「人間的」でしかないのだろうなあと思う。

このダイナモ作戦の「成功」は、19406月4日

映画の終わりに司令官は、自分はダンケルクに残る、まだフランス人を助けなくてはならないから、とかっこいいことをいう。

でも、6月22日に独仏休戦協定が結ばれて、ダンケルクもパリも、ドイツ占領下に置かれることになった。

連合軍のノルマンディ上陸作戦は、それから4年後のことだった。

ダンケルクはノルマンディではない。

日本人の目から見ると、やはりイギリスって島国だから、もちろんドイツ軍の絨毯爆撃を受けたにせよ、ある意味で「大陸」の戦争からは「要塞」のような位置にあるなあと思った。そして、日本が南洋などで取り残された日本軍を救出に行かなかったのか行けなかったかに比べたら、やはり、「救出」するというのは「殺す」という戦争のベクトルと逆であって推奨すべきことであり、生き延びたことは「ブラボー」に値するのだなあとすなおに思う。

そして、何よりも、この二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパが、EUとなって互いの間の戦争を放棄したことの貴重な意味を考える。Brexitとか言っても、もう独仏英が殺し合うことは考えられない。

この「殺し合うことがもう考えられない」ということが、つい80年前には考えられなかったのだ。


この映画を観たら、やはり日本は今のままの「憲法九条」を掲げるのが最良の道だと思えてくる。互いに顔も見えない相手と殺し合うなんて、いったいどうしてそんな事態に陥ってしまうのか、そしていったん歴史がそちらの方に傾いたら、大きな車輪が回り始めてすべてを押しつぶしていく。

兵士たちはみな、若い。

若者を戦場に送ってはいけない、

それがたとえ「聖戦」と呼ばれていても。


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by mariastella | 2017-07-27 02:58 | 映画

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

少し前の話になるが、映画『ロダン』に不全感が残ったので「口直し」にコメディを観に行こうと思って見た映画についての覚書。

ヴァレリー・ルメルシエは役者としても好きだし、双子の姉妹役をやるというのもおもしろいし、母親役がエレーヌ・ヴァンサンというのも楽しみだった。

舞台がパリ16区のなじみの通りなので親近感もある。

でも、それ以外は何だか非現実的でカリカチュラルな設定だ。建物の住み込みの管理人室に住むポルトガル人の両親のうちに転がりこんだ55歳の料理人と、ブルジョワの両親のところに転がり込んだ50歳の生物学研究職の女性の間に繰り広げられるロマンティック・コメディだから。

大柄なマリー=フランシーヌ(177cm)に対していかにもパリのアパルトマンの管理人をしているポルトガルの移民の子というステレオタイプのずんぐりむっくりのミゲルは、最初から彼女を好きになって、彼女の食生活の貧しさを気にして昼においしい食事を用意してやる。ハート型を添えたりと初々しいし、いつもにこにこしているのも印象的だ。2人はどちらも一応自分のシチュエーションについて嘘を付き合っているのだけれど、全体としてはなんの幻想もなくただひかえめな優しさがある。

それに対してマリー=フランシーヌの両親はそのブルジョワ的偽善性においてもなかなか過激だ。母親はただのプルジョワ夫人ではなく力強くエゴイズムを謳歌している。ルメルシエの他の作品と同様、風刺、フェミニズム、社会批判などがちりばめられてはいるが、中心になる ラブストーリー自体はえらく穏やかに貫徹しているので、他のスパイスのすべてが薄まったという感じだ。

マリー=フランシーヌの夫が若い女と浮気して捨てられてまた妻とよりを戻そうとすることや2人の娘との関係など、ある意味すごくパリの家庭事情のリアリティはある。
ヒロインが50歳というのを強調するのも、「50歳のクライシス」と言って、50歳前後の女性がカップルを解消して再出発するというケースがとても多いことに対応している。

軽くて楽しめる映画は当たり外れが多い。
次はあきらめてシリアスな映画を観ることにしよう。


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by mariastella | 2017-07-11 00:29 | 映画

『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)2017

先日のカンヌ映画祭でも上演された映画『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)。


ロダン死後100周年でグラン・パレでもexpoをやっている。

ロダンの作品はいわゆる「好み」ではないのだけれど、アートとは何かを考えさせられる圧倒的なオーラがある。昔はよく、ブールデル美術館(ブールデルは好み)に行った後でそのままロダン美術館に行くことでロダンの秘密を探ろうとした。

ロダンの天才は音楽で言えばラモー型だと思っていた。

それ以外では私が最も影響を受けたのはリルケによるロダン論だった。


で、この映画の切り口にも期待していたのだけれど、なんだか『アマデウス』の映画でモーツアルトがはしゃぐ姿を見た時に似た「こんな男がこんな作品を…」と肩をすくめる気分になった。


40代ではじめて国から「地獄の門」の注文を受け、カミーユ・クローデルとも出会い、スキャンダラスなバルザック像を完成するまでの10年間のエピソードの積み重ね。いわゆる伝記映画ではない。


ロダンとカミーユ・クローデルと言えば、1988年のブリュノ・ニュイッテンの『カミーユ・クローデル』がイザベル・アジャーニとジェラール・ドパルデューという濃い人たちの主演で鬼気迫っていた映画を思い出す。


アジャーニはすごいけれど、「演じている」というより憑依しているという感じの人だから、他と比べようがない。劇場で芝居を観た時にはもっとそれを見せつけられた。


今回はポスト・ヌーヴェルバーグのジャック・ドワイヨンの作品でロダン役がヴァンサン・ランドンだからずっと地味で「創作の秘密」を掘り下げるようなものかと期待していたら、カミーユはもちろんヌードモデルとのからみなどが多くてなんだか引いてしまった。


でも、「土」をヒエラルキーの上に置こうとして粘土をこねまわし執拗にディティールを付け加えるやり方は意外だったし、モデルを見据える目の演技も印象的で、愛人のカミーユも妻のローズも、ナチュラルでナチュラルゆえの絶望の深さ、傷の深さがかえって際立つ。カミーユとの「契約書」やローズとの追いかけあいのシーンも独特の雰囲気だ。


仕事一筋、天才、アーティストの孤独という面よりも、それらを成り立たせている肥大したエゴイズムの強靭さというものを感じてしまう。


なんというか、エゴイスティックで卑しいささいなことの積み重ねによる疲労と喪失とフラストレーションの末に、それでも生まれる天上的な作品、愛がなくても美は生まれる、地獄の門を通っても天国には行ける、という話だ。


映像や音楽(チェロが美しい)はすばらしいけれど。


アトリエの助手の中にブールデルがいるはずだけれど、と思ってみていた。


バルザック像のモデルが妊婦だったり、ガウンは、本当のガウンを石膏に浸して張り付けたものであるというエピソードも印象的だ。


ラストに近い場面で、変な着物を来た日本人女性のモデルが裸になれと言われたのに「すみません、おっしゃっていることが分かりません」と日本語で答え、ローズが入ってきて「中国人が…」なんとか言って「全部脱ぐのよ!」と叫ぶシーンがある。


で、ラストシーンだが、ロダンの死後のパリでようやくバルザック像が設置された後、突然2017年、日本、箱根彫刻の森美術館というキャプションが出て、ブロンズのバルザック像に小学生の子供たちが駆けよって「だるまさんがころんだ」と言って遊んでいるシーンに切り替わる。

この着地は、夢から覚めたように鮮やかではあるのだけれど、日本人にとっては、その前の不自然な着物の日本人モデルのシーンでの日本語も聞えているので、妙につながってしまって、効果が薄れた気がする。


ロダンの創作という興味あるテーマでこれだけいろいろ工夫しながらこの程度の結果しか出せなかったのは残念だ。



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by mariastella | 2017-06-01 17:31 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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