L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 150 )

『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)2017

先日のカンヌ映画祭でも上演された映画『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)。


ロダン死後100周年でグラン・パレでもexpoをやっている。

ロダンの作品はいわゆる「好み」ではないのだけれど、アートとは何かを考えさせられる圧倒的なオーラがある。昔はよく、ブールデル美術館(ブールデルは好み)に行った後でそのままロダン美術館に行くことでロダンの秘密を探ろうとした。

ロダンの天才は音楽で言えばラモー型だと思っていた。

それ以外では私が最も影響を受けたのはリルケによるロダン論だった。


で、この映画の切り口にも期待していたのだけれど、なんだか『アマデウス』の映画でモーツアルトがはしゃぐ姿を見た時に似た「こんな男がこんな作品を…」と肩をすくめる気分になった。


40代ではじめて国から「地獄の門」の注文を受け、カミーユ・クローデルとも出会い、スキャンダラスなバルザック像を完成するまでの10年間のエピソードの積み重ね。いわゆる伝記映画ではない。


ロダンとカミーユ・クローデルと言えば、1988年のブリュノ・ニュイッテンの『カミーユ・クローデル』がイザベル・アジャーニとジェラール・ドパルデューという濃い人たちの主演で鬼気迫っていた映画を思い出す。


アジャーニはすごいけれど、「演じている」というより憑依しているという感じの人だから、他と比べようがない。劇場で芝居を観た時にはもっとそれを見せつけられた。


今回はポスト・ヌーヴェルバーグのジャック・ドワイヨンの作品でロダン役がヴァンサン・ランドンだからずっと地味で「創作の秘密」を掘り下げるようなものかと期待していたら、カミーユはもちろんヌードモデルとのからみなどが多くてなんだか引いてしまった。


でも、「土」をヒエラルキーの上に置こうとして粘土をこねまわし執拗にディティールを付け加えるやり方は意外だったし、モデルを見据える目の演技も印象的で、愛人のカミーユも妻のローズも、ナチュラルでナチュラルゆえの絶望の深さ、傷の深さがかえって際立つ。カミーユとの「契約書」やローズとの追いかけあいのシーンも独特の雰囲気だ。


仕事一筋、天才、アーティストの孤独という面よりも、それらを成り立たせている肥大したエゴイズムの強靭さというものを感じてしまう。


なんというか、エゴイスティックで卑しいささいなことの積み重ねによる疲労と喪失とフラストレーションの末に、それでも生まれる天上的な作品、愛がなくても美は生まれる、地獄の門を通っても天国には行ける、という話だ。


映像や音楽(チェロが美しい)はすばらしいけれど。


アトリエの助手の中にブールデルがいるはずだけれど、と思ってみていた。


バルザック像のモデルが妊婦だったり、ガウンは、本当のガウンを石膏に浸して張り付けたものであるというエピソードも印象的だ。


ラストに近い場面で、変な着物を来た日本人女性のモデルが裸になれと言われたのに「すみません、おっしゃっていることが分かりません」と日本語で答え、ローズが入ってきて「中国人が…」なんとか言って「全部脱ぐのよ!」と叫ぶシーンがある。


で、ラストシーンだが、ロダンの死後のパリでようやくバルザック像が設置された後、突然2017年、日本、箱根彫刻の森美術館というキャプションが出て、ブロンズのバルザック像に小学生の子供たちが駆けよって「だるまさんがころんだ」と言って遊んでいるシーンに切り替わる。

この着地は、夢から覚めたように鮮やかではあるのだけれど、日本人にとっては、その前の不自然な着物の日本人モデルのシーンでの日本語も聞えているので、妙につながってしまって、効果が薄れた気がする。


ロダンの創作という興味あるテーマでこれだけいろいろ工夫しながらこの程度の結果しか出せなかったのは残念だ。



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by mariastella | 2017-06-01 17:31 | 映画

『禁じられた歌声(ティンブクトゥ)』アブデラマン・シサコ監督

2014年から15年にかけていろいろな映画賞を獲得したフランスとモリタニアの合作映画。
シサコ監督はモリタニア生まれマリ育ち、モスクワで映画を学びフランス在住という国際派。
見た目もトゥアレグと黒人の混血っぽいコスモポリタン風。

アフリカのマリ共和国北部のティンブクトゥという世界文化遺産にも登録されている町が2012年からアルカイダ系イスラム過激派に占領された様子をドキュメンタリー風に描いたものだ。
2013年の初めにオランド大統領が単独で介入して過激派から町や住民を「解放」した。フランス軍は救世主のように歓迎された(その後フランス軍の兵士による現地の少年への性的虐待などのスキャンダルが発覚したが)。
周りが広大な砂漠なので過激派を追いやったと言っても、どこかに「追い詰める」わけではないので、今もフランス軍は駐留中で真理の「政府軍」を訓練したり援助したり、新大統領のマクロンの最初の訪問地(ベルリンの次)もこのマリの駐屯地だった。そのくらいフランスにとって政治的な意味の大きい場所なので、この映画も政治的な思惑から逃れられない。

2012年に羽田からパリに戻った時、驚いたことを思い出す。普通なら、空いている時間帯だ。JAL便から降り立つ日本人に対する警戒はとても低く、入国審査でもほとんど機械的に通してくれる。けれどもその時は、圧倒的に黒人が多かった。日本人が隠れてしまうほどで、審査窓口には長い長い列で全く進まない。窓口でもめた後どこかへ連れていかれる人も多い。周りの人を見ると、マリのパスポートだと分かった。後から、彼らは過激派支配から逃れてきたのだと納得した。出口のホールも、到着した親類や知人を迎え入れる人たちでいっぱいだった。どこの国へ来たのかと思った。ああいう状況だったからフランスが慌てて侵攻したのかなあと後で納得がいった
とはいえ、フランスがマリのガオやティンブクトゥーを「解放」しても、ジハディストたちは移動するだけだ。
最近のマンチェスターのテロの実行犯の父親や弟はリビアにいてISとつながっていると言われる。イラクやシリアを追われたISがリビアに拠点を移すという予測はもう実現しているのかもしれない。

映画に戻ると、アルカイダの専制への抵抗としてボールなしでサッカーをする少年たちの詩的な映像などが予告編でいたるところに出回り、本編を見る必要がないほどだ、などと言われもした。
シャリア法では女性は髪も手も足も隠すべきだとか、音楽も禁止、酒もタバコも集団をつくるのも禁止、サッカーも禁止、石打ちの死刑や、手の切断刑や、斬首や鞭打ちなどの実態が、すぐ後に続いたISのプロパガンダよりも先に、この映画によって「イスラム過激派のひどさ」として広く知られるようになった。
けれども、「白いIS」と言われるサウジアラビアのワッハーブ派がもう何十年も公然とやっていることもほぼ同じだ。
ただ、サウジではタバコとサッカーはお目こぼしだった。既得権益と関係があるからだ。
街中で10人以上集まるのが禁止だしサッカー以外は音楽会も他の娯楽も、人が集まること自体が禁止。公開処刑は「普通」だった。

9・11のテロリストを輩出しながらも、冷戦時代からのアメリカとの同盟関係や「共通の敵」イランへの牽制などでなぜか「自由陣営」っぽい姿を容認されているサウジは今も「国連女性の地位委員会」のメンバーになったり人権理事会議長国になったりしている。
自由とは金で買えるものだ」という金の支配の方が「神の支配」より実効性があるということなのかもしれない。

で、この映画。特に女性たちが抵抗の姿勢を見せたり、「過激派」たちがイマムとじっくり話したり、プロパガンダ映画にならないように「人間」を描こうとしているわけだけれど、そのことが中途半端にヌルい、という評価も受けている。
画面が美しく、暴力的なシーンが少ないことは個人的にはほっとするけれど、確かに、どこか強度が足りない。

シサコはマリで非婚のカップルが石打ちで殺されたことにショックを受けてこの映画を作ると決めたそうだけれど、石打ち刑自体はすごく古くからある。
新約聖書で「汝のうち罪なき者が石もて打て」とイエスが言ったことで有名なように、シャリアでなくてもユダヤの律法でも普通だったし、最初の殉教者ステファノも石打ちで殺された。イエスは個々の人間の事情を無視した原理主義的「律法遵守主義」を徹底して批判し否定した。
イエスに足場を置いたキリスト教文化圏が最終的に死刑廃止に向かったのは論理的に整合性があるし、私もあらゆる形の死刑に反対の立場だけれど、2012年のマリの「石打ち」刑だけが突出してシサコに大ショックを与えたというのは興味深い。彼はアフリカのチャイナタウンやカラオケ、中国も舞台にして中国人男性と黒人女性のラブストーリーも撮影している。もともと感覚が国際派なので、この映画も本来、政治的なイデオロギーを伝えるようなものではないのだろう。

でも、ともかくドキュメンタリータッチなので、リアルだ。過激派が乗り回す軽トラックみたいなものが全編に出てくるのだけれど、その後ろの大きなTOYOTAの文字にどきっとする。
最も印象的なシーンは、「鶏の女」だ。
女たちは徹底的に服装を統制されるのになぜか一人の初老の女性だけが、派手な格好で鶏を肩にのせたりして長い裾を引きずって闊歩している。これも、マリでの実際のモデルに基づいているそうだ。1960年代にパリのキャバレー「クレイジーホース」のダンサーだった女性で、フランス語を話し、ティンブクトゥーでなくやはりアルカイダに占領されたガオの町で、この女性だけが、髪も覆わず、歌って踊って煙草を吸って、ジハディストたちを平気で罵倒していたのだという。

一見、王宮の道化というか、トリックスターというか、そこだけカーニバルのガス抜きというか、「狂気」と「聖性」のアンタッチャブルが交わるところというか、社会学的なことを連想してしまう。
宗教者が自由に生きるために突飛な生き方をする「佯狂」(狂を装う)というのは日本の『発心集』などにも出てくるある意味古典的なサバイバル戦略だ。
為政者が自らの権威を知らしめるには、「普通の人」「一般人」を取り締まってこそ意味があるので、最初から社会の「枠外」に突出している者を取り締まっても意味がない。そういう人たちは「社会」がすでに制裁、排除している形で存在を許されているからだ。

で、この「鶏の女」がリラックスして横たわっている前で、一人のジハディストが「踊る」。
腕を広げ恍惚として踊る。
自由のあるところにはインスピレーションが降りてくるかのように

イスラム原理主義の「音楽の禁止」についても改めていろいろ考える。フランスのブレストのモスクでサラフィストのイマムが子供たちに「音楽を聴くだけでサルになる、豚になる」と教えているビデオを見て、さらに、コンサートホールでのテロの後、戸外を含む集団の音楽イヴェントに参加を決めたことも思い出す。
もう20年以上前になるけれど、私の主催するパリのアソシエーションで亡命チベット人の音楽コンサートをしたことも思い出した。中国植民政府の方針でチベットの楽器も内も禁止され、夜にうちの中でひっそりと弾いていたのだという話だった。

シサコの映画の邦題が『禁じられた歌声』とされたことを的外れだというコメントも目にしたけれど、歌や踊りや音楽が自由のシンボルであることを思うと、含蓄がある。


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by mariastella | 2017-05-27 00:45 | 映画

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

今開催中のカンヌ映画祭で審査員長を務めるスペインのペドロ・アルモドバル監督の1988年の作品だ。

赤が印象的。真っ赤なトマトをザクザク切ってつくるガスパーチョが睡眠薬になる。

映像と音楽をたどるだけでも楽しい。ポップアートの美術館にいるようだ。

ヒロインのアパルトマンが凄い。テラスに植物が茂っていて、ウサギやアヒルがいる。

「明日は家政婦さんが来る日だから」と言っている。

マドリードのブルジョワの暮らし、けれども上流階級というのではなくてテレビコマーシャルにも出て人に顔を知られている芸能人の暮らしなのだ。

シリア人のシーア派のテロリストと関わってしまった、と助けを求めに来るヒロインの友人の話など、30年前とは思えない今こそリアルな話だ。

マンションの管理人の女性が「私はエホバの証人だから嘘をつけない、」と何度も言って、エホバの賛歌を口ずさんでいるのも注目。


出産してからずっと精神病院にいた女性がピンクのスーツに派手な付けまつげという新婚旅行のような格好でピストルを両手に男への復讐に向かうのもグロテスクで怖い。

コクトーの戯曲『人の声』にインスパイアされたというだけあって、電話でのやりとりがシンボリックな意味を持っているのだけれど、それはいつも留守電のメッセージとなる。声優のアフレコ収録シーンも出てくる。「対話が成り立たない」ということ自体が鍵になっている。


大きな電話機が何度も出てきて、電話の修理屋も出てくる。

こんな風な男女の別れやすれ違いも、今の携帯の世の中なら全く様変わりしただろう。

といっても、今でも、「会話」を拒否しようとしたら、SMSやLINEでのみ別れを告げることもできるし、それらに返事しなかったり未読にしたりスルーしたり削除したりなどもできるので、「留守電に入れる」「留守電を待つ」というオプションだけの時代よりも当事者はもっと「神経衰弱」になるかもしれない。


「通信手段」に焦点を当てると、1930年のコクトーの戯曲は半世紀以上経ったアルモドバルの映画に応用され得たのに、その後20年も経っていない今は、様相が決定的に変化したということだ。

人間関係は深いところで確実に変わっている。




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by mariastella | 2017-05-26 00:10 | 映画

『海よりもまだ深く』(是枝祐和)

海よりもまだ深く』(是枝祐和)


去年のカンヌ映画祭に出品されたもの。

フランスは是枝作品やドラン作品が好きだ。

家族の間の微妙な関係、特に母と息子の愛憎の葛藤とか、とても特殊で個人的なものをクローズアップしてそこに普遍性というか家族のアーキタイプを見る満足が好きなのかもしれない。

主人公が、別れた妻の新しい男に向ける視線は、ドランの『マミー』の中で、主人公が母親の新しい男へ向けるそれとかぶる。

これは東京郊外の話なので、『マミー』のモントリオール郊外よりも身近かなはずだけれど、そして、多くの人(日本人)が「実家」映画と言っているように、日本の家庭で「あるある」的な原風景が丁寧に描写されているのだけれど、私にはそういう風には感情移入できなかった。

是枝監督が実際育った団地だそうで、マンモス団地ってこういうものなのかと知った。

子供の時に「団地」らしきところに足を踏み入れたことはあるけれど、木造一軒家にばかり住んでいたので「鉄筋のおうちってこういう感じなんだ」と思ったくらいで、この映画で初めて、ハイパーリアルに団地体験ができた。団地でも分譲区域があって格差があるというのも知った。

それを言うなら競輪場もはじめて見た。

ダメ男である主人公の阿部寛と彼を捨てた元妻の二人が美男と美女なのがある意味かえってリアルだ。

いかにもダメそうな男と必死でサバイバルしている元妻という感じのキャラを無理にあてはめているわけではない。美男と美女でもうまくいくとは限らない、という実感がこもる。

デジタル時代の今時あまり問題にもされない「字の上手さ」というのが伏線になっているのがおもしろい。

夫の急死で未亡人となって「解放された」気分の母は、長男にバイオリンをずっと習わせていた母であり、長女の娘のフィギュアスケートのレッスン代を払ってやろうとする母であり、団地内のカルチャースクールみたいなところでクラシック音楽の鑑賞教室に通っているシニア女性でもある。その混ざり具合が絶妙だ。

姉弟間の微妙な嫉妬、息子の見栄、父との確執、それらは「普遍的」とは言えなくても国を越えて多くの人に共通するテーマであるというのは分かる。

探偵事務所の後輩である若者とのコンビがとてもいい。

自分も両親の離婚によりトラウマを蒙ったというこの若者が、なぜかよく分からなかったけれど主人公に借りがある、と感じていること、彼のすべての逸脱に付き合うこと、それらをなぜか自然にやってしまうことが、映画全体のアクセントになっている。

「小説家」とか「探偵」とかいう息子の特殊な職業と、年金で団地に一人暮らす未亡人という普通さのコントラストに台風という外的なインパクトを絡ませているのもうまいし、飽きさせない。

「なりたいものになれなかった」大人が

それでもあがくのか、

自分を偽るのか、

あるいは諦念の境地で今ここのささやかな幸せを見つめることにするのか、

プラグマティックに最善の道を探るのか、

ろいろなケースが描かれていているのはいい。

でも、それらに囲まれた11歳の少年が、ホームランよりフォアボールを、野球選手より公務員になる将来を望む、芽生えた唯一の希望らしきものは宝くじに当たって両親といっしょにまた暮らせるようになるというのは、やりきれない。子供に夢を持たせる社会的な契機がここには何もない。

樹木希林の口から出る賢者の人生訓みたいなものも、正直言ってなんだかなあと思う。死んだ夫とは違って息子にも元嫁にも孫息子にも一目置かれていたり尊敬されているのだから、私が彼女の立場だったらもっとポジティヴなことを言ってやれるのに…(って、自分を重ね合わせるのがおばあちゃん役ということが少し悲しいが)。


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by mariastella | 2017-05-25 00:16 | 映画

『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン)

Mommy/マミー』は、当時まだ25歳だったグザヴィエ・ドランカナダ映画(2014)カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。基本的に批評家好みの映画。

最初にこれを観た時は、フランス語が聞き取れないので驚いた。カナダ映画ははじめて観るわけではないのに、フランスに来て最初の頃、映画のフランス語がとても聞き取りにくかったことを思い出して懐かしくなったくらいだ。

これは要するに、ケベック訛りというより、完全にケベック方言だからだ。

映画の最初に施設の人が母親役のアンヌ・ドルヴァルに話しかける言葉はよく分かる。つまり、「標準語」なのだ。

これまでケベックから来た人とも何度もフランス語で話したけれど、別に不自由は感じなかったのは、ちゃんと「標準語」を使っていてくれたからなのだ。

植民地でほど宗主国の言葉は古いままで維持されるというのはよく言われることだ。フランス語の「単純過去」は、もう普段の会話で使われないけれど、アルジェリアなどでは今も普通に使われていると聞いたことがある(それももう古い話だけど)。

今のフランス語では音便になってoiが「ゥワ」、aiが「エ」と発音されるのを、この映画ではオイとかアイとか二重母音が残っている。時々「by the way」など英語も混ざる。いわゆるクレオールというのとは少し違う。

私はフランス・バロックをやっているから、フランス語を17、8世紀風にはどう読むかはよく知っているが、それは「朗誦」の世界のことであって、ケベック方言しかも俗語、口語の世界だから歯が立たない。

私の周りには、かなり親しい人も含めてモントリオールとフランスを行き来しているカナダとフランス二重国籍の人が少なくない。だから、語彙の違いなどはよく知っている。例えばフランスの「昼食」というのはカナダの「朝食」、ディナーのディネが昼食で、夜食のスぺが夕食だ。英語の影響で最初がずれたのだろう。だから、この映画で夕方に「スぺの用意ができたよ」とかいうのはよく分かる

で、もちろん他のフランス人にも聞き取れないわけだから、ほとんどの場面にフランス語の字幕が入っている。といっても、訛りをとって書き起こすのではなくて、「訳している」ところも多い。でも、そのうちに癖が分かってきて聞き取れる分も多くなった。

で、これについて、監督のドランは、ケベック語を讃えるものだとはっきり言っている。

彼は何度も、ケベックは英語の大海に囲まれて非常なストレスにさらされてきたというのだ。

特に、男たちは400年間、「英語につぶされてきた(英語話者がボスであり資本家でありフランス語話者は使用人、労働者という格差)」、その中でフランス語を守ってきたのは女性で、1964年からの女性解放の運動はとてもラディカルなものだった、女性たちがカナダを引っ張っている、女性たちを通して、アメリカでもなくフランスでもないケベック、ケベック語を堂々と世界に配信したい、などと言う。

ベルギーにおけるフラマン語とフランス語の関係にも似ている。

いやー、上に書いたように、モントリオールの知り合いがたくさんいて、私がいつ行っても泊まるところもあるというのに、今までなんとなく、「モントリオールの人っていいなあ、みんなバイリンガルだし」、などと思っていたので、彼らのアイデンティティとしてのフランス語の重さがここまでだとは思っていなかった。

そんなことを聞くと、ナポレオンによってアメリカに売却された後のルイジアナの人々のことも想起される。

ケベックもルイジアナのようにフランス語を失っても不思議ではなかったのだなあ、と、ケベックの歴史をあらためて振り返る。

若いだけでなく童顔のグザヴィエ・ドランは10代くらいに見える。(父親がエジプト人のアーティストというのもおもしろい。ドランはフランス系の母の名前だそうだ。)

実際10代の頃に、シナリオを持ってアンヌ・ドルヴァルを訪ねて行ったらしい。

しかも、彼の映画に出る熟年の女優たちはまるでみな彼の魅力にとり憑かれたようなことを言っている。

『マミー』の後でカンヌでパルムドールをとった映画に出たナタリー・バイも同じ感じだ。

ベテランのスタッフやベテランの俳優たちに囲まれて天性のカリスマを発揮しながら皆の心をつかんで自分の権威を認めさせてしまうところは、なんだかマクロン新大統領のことを想起してしまう。

映像も音楽もすばらしいけれど、本人も言うように女性、特に「母親」に人生のすべての陰影を見て「家族」を強迫的に描いていくのは重い。その母に対峙するのが自分自身のような性的マイノリティや、多動障害の少年や余命を宣告された青年などなので、ますます重い。

『マミー』では子供を亡くしたショックで言語障害になって休職中の女性も出てくる。

一方で、ケベック語、ケベック方言などという以前に、すごい量で繰り出される卑俗な言葉や乱暴な言葉に圧倒されるので、無意識にバリアを張って観てしまい、どこにも自分の気持ちを投影できない

後に残るのは、新自由主義経済の爪痕の深刻さばかりだ。

映画なんて観ている場合じゃない、などと思ってしまう。



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by mariastella | 2017-05-24 00:04 | 映画

『ゲット・アウト』(ジョーダン・ピール)

『ゲット・アウト』

前の映画の反省(?)に基づいて、久しぶりに、「ホラーでもいいや、カタルシスを得られるなら」と思って今話題のアメリカ映画の『ゲット・アウト』に行ってみた。

ジョーダン・ピール監督脚本、主演はダニエル・カルーヤとアリソン・ ウィリアムズ。

ピールは人種差別をネタにして笑いをとりながら抗議するというスタイルの黒人のコメディアンのコンビの一人だそうでこれが監督第一作。

人種差別というと、トランプ大統領の支持層となったような南部のプアホワイト、のようなイメージがあるが、実は、「オバマは最高の大統領だ」と言っているような民主党支持の一見リベラルなブルジョワ白人の偽善者による差別の方がずっと始末が悪い。

白人の彼女ローズの実家にはじめて行く写真家の黒人青年クリスが、ローズの実家の屋敷で、脳神経外科の父や精神医の母、医学生とかいう弟、黒人の庭師やメイドたちに紹介されるが、みな不自然で、奇妙なことばかりが起こる。

クリスのパラノイアかとも思われるのだが、次の日のガーデンパーティではまた不思議な光景が繰り広げられる。

ここに集まる白人たちはいわば秘密結社のメンバーのようなものなのだけれど、その中で私の目を引いたのは、そこに「タナカ・ヒロキ」という日本人が混ざっていて、クリスに「今のアメリカでアフロアメリカンであることの意味」を訪ねることだ。
そのしゃべり方からいっても日系アメリカ人というより日本人だ。

この白人たちとビジネス上の関係でもあるのだろう。

つまり、ここでは日本人は昔のアパルトヘイト国でのように「名誉白人」のような立ち位置にあるわけだ。
それは、偽善的な白人ブルジョワのエゴイストたちと同じ価値観を共有していることを意味している。タナカはやけに色白の男でもある。

フランスのブルジョワのレイシストの中にも堂々と「日本人は優秀な民族だ」という人がいる。これも一種の逆レイシズムだということが分からないのだ。

最初にクリスの煙草を車の窓から捨てるローズや、喫煙習慣を催眠術で治すというローズの両親のこだわりも、この映画を通して見ると、「禁煙ファシズム」という言葉をはじめて実感として思い出した。
こんなところに引き合いに出されてオバマ大統領も迷惑だろうな、と思ったが、実際、こういうタイプの「リベラル白人」の存在がリアルに感じられて、やはりアメリカの「黒人差別」の根は深いと感じる。

フランスとはだいぶ違う。歴史も違うが、「コミュニタリアニズムを排しユニヴァ―サリズムを掲げる」というのはフランスでは絶対の「政治的公正」でアイデンティティに組み込まれている。
マクロンだろうとル・ペンだろうと、本音は知らないが、その点では一致するし、「習い、性と成る」という部分は確かにあるなあと思う。

ローズの母親役のキャサリン・キーナーという人がマリーヌ・ル・ペンに似ているのでどきっとした。顔立ちというより、雰囲気で、タイプは違うのに、何かこわい。それをいうなら、ローズの顔のアップがマクロンに似ている、と言う人もいた。ここのところフランスでは嫌と言うほどこの2人の顔のアップばかり見せられていたからかもしれない。(これを観に行ったのは大統領選の直後だった)

後は、主人公クリスの大きな目ばかりが印象に残る。

シナリオもホラーというよりサスペンスで、よくできていて、飽きはしなかった。
ヴァイオレンスがあるのは分かっていたので目を閉じることにしたのに、音や音楽の効果からは逃れることができない。
生活感もかけ離れているし、直接私の悪夢に出てきそうなタイプの怖さのものではないからまあいいかと思って好奇心に駆られて観た映画だ。
ぬるいコメディよりはましかと思ったし、社会派映画を観る元気もないので一種の「逃避」だったのだけれど、実はこの映画を観る前に、個人的にショックなことがあって頭がいっぱいだったので強制的に気分転換を図ったのだ。

こんなことなら読みかけのエピクテトスを読み進めていた方がよかったかもと思ったが、「アメリカ」を通して「フランス」を考える時に、映画はとても便利なツールだと改めて感じた。


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by mariastella | 2017-05-23 00:26 | 映画

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

(映画コメント続き)

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

評判が悪くなかったので観に行った。
近頃はシニア人口のマーケットが大きいからか、シニア俳優が主人公の映画が少なくないので、何がターゲットにされているのか観察するのに興味がある。

主人校の79歳のやもめは、ベテラン・コメディアンのピエール・リシャール(もう82歳だそうだ)で、いつも愉快なので楽しめるかと思った。最後にマーシャ・メリルというなつかしい人も顔を見せる。
妻を亡くして2年、引きこもり状態の父を心配した娘が、自分の娘ジュリエットの恋人アレックスを父の住むベルヴィルのアパルトマンに送り込んでインターネットの使い方を教えさせる。アレックスは駆け出しのシナリオライターで、このアルバイトを引き受ける。
すると、このピエールが偶然出てきた出会いサイトを開いて、ベルギーに住むフローラという31歳の女性とメールをかわすようになる。でも最初にプロフィールとして載せた写真はアレックスのものだった。

というところから、実際に出会うことになってアレックスに代役を頼んだり、自分がアレックスの祖父役を演じたりするかなり無理な設定でのブリュクセルやパリの観光シーンが美しい。アレックス役のヤニス・レペールという青年は、その辺にいそうな普通感と、暖かさと弱さの混じり具合に好感が持てる。フローラ役のファニー・ヴァレットの美しさも印象的だ。

で、おもしろかったかというと、
つまらなかった。
いくら重い映画よりもコメディで気分転換したかったにしても、これほどつまらないとは思わなかった。

でも評判がわりとよかったのは、ピエール・リシャールへのリスペクトと、シラノ・ド・ベルジュラックの国ならではの「現代のシラノ」の悲哀が受けたからだ。
恋人を棄ててパリよりも上海でのビジネスを選んだ若者とか、
ベルヴィルの中華街の様子とか、
今時の親子三世代の関係とか、
もちろんインターネットを通した出会いなど、今のパリや郊外の普通の生活を切り取った親近感もよかったのかもしれない。

私の身近にいるバツ2のシニア男性でネットでの出会いを繰り返している人も知っているし、別の知人は、やはり出会い系ネットを通して知り合ったブリュクセルに住むジャーナリストと時々パリやベルギーで会っている。そういうことが普通にある世界なのだなあとあらためて思う。

「嘘」がばれた時のフローラの反応は意外だし、最後の「オチ」は楽しい。

シナリオは悪くないのだけれど、せめて心から笑えるとか、感動して泣けるとかの「気晴らし」を与えてほしかった。

暇もないのにこんな映画を観るくらいなら、多少ヴァイオレントでも怖いシーンがあっても、心に刺さる映画を観るべきだなあと反省した。

で、次に観に行ったのは….



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by mariastella | 2017-05-22 00:49 | 映画

『ベリエ一家』(エリック・ラルティゴー)

(たまっている映画評の続き)

『ベリエ一家』

エリック・ラルティゴーのこの映画は『最強の二人』や『コーラス』路線。

ハンディのある人とない人のヒューマンな関わりを軸にした感動物語だ。

この映画で設定される「ハンディ」は、酪農で製造販売を営む両親と弟が全員聾啞者だということだ。手話が共通語のその家族で唯一の外界とのパイプになっている16歳の少女ポーラは、皮肉なことに、歌の才能があって歌手になることを目指してパリのラジオ・フランスのオーディション参加を準備する。

彼女は実際に、TVの詩のコンクール番組で登場し、準決勝まで残って16歳でデビューした新人で、この映画でセザールの新人女優賞を受賞した。

あまりリアリティのない設定の中で繰り広げられる若い女性の愛と自立と成功の物語自体は予定調和風でもある。
コメディとしておもしろいのは両親が聾唖であることで生まれる誤解などで、フランソワ・ダミアンとカリン・ヴィアールという芸達者な2人がカリカチュアに陥らないギリギリのところで名演を披露しいる、と言われたが…名演なのは間違いないが、カリカチュアは免れていない。

ハンディのある夫婦の方が「ノーマル」な俗人よりも「働き者」で、愛し合っていて、シンプルで、まっとうな政治感覚も持っている、という描かれ方。
でも、娘が自立のアイデンティティとする「歌」を彼らは聴くことができない、というせつなさが陰影を与えている。

私はこの映画の舞台に想定されている地方に近い村にあった田舎のうちに15年くらい通っていた時期がある。
その村の外れの農場に友人夫婦がいて、毎日搾りたての牛乳をもらいに行っていた。
日本の大都市でしか暮らしたことのない私にとっては、生まれて初めて身近で見る農場、牛の群れ、搾乳だった。そこには男の子と女の子がいて、女の子はなんとなく、「ベリエ一家」のポーラに似ていた。
バカンス好きなフランスで、バカンスもとらずに早朝から家畜や畑の世話をする人々の生活をはじめて近くで見た。

今は息子も娘も結婚していて、農場は息子が継いだが、兼業しているため、リタイアして近くに引っ越しした父親が今でも毎日「手伝い」に行っている。

そんな彼らと今もつきあいがあるので、ベリエ一家二も親近感を抱いた。

シチュエーションの特殊さを除いては、ストーリーの展開はまことに平凡なのだけれど、主演のルアーヌ・エムラが自然で説得力があるので、最後まで引き付けられるし、娘の歌声を聞くために喉に手を当てた父親が、彼女を応援することを決心するシーンや、最後の詩のチョイスと、その歌詞を歌いながら娘が手話で伝えるシーンはやはり感動的だ。

出演者のうち唯一の本物の聾唖者である弟役の少年と、ヒロインの友達が二人きりになるシーンは不自然であまり説得力がない。
一番陰影のある複雑な人間像はヒロインの才能を見出す音楽教師かもしれない。
エリック・エルモスニノは舞台畑の演技派で、ゲンスブール役でセザール賞を受賞したのが記憶に新しい。





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by mariastella | 2017-05-21 06:34 | 映画

ジャック・オディアールの『預言者』

先日、Arteで、2009年のジャック・オディアールの『預言者』を放映していたので観ることにした。
オディアールのその後の作であるヴァイオレントな『ディーパンの戦い』を観てしまって、まあ後悔はしなかったからだ。

何度も書くが、もうこれからの余生、悪夢に材料を提供するような暴力、流血、戦争、ホラーなどの映画はできるだけインプットしないことに決めている。だからこそ、2009年にカンヌのグランプリやその他を獲得して評論家から絶賛だったこの映画、オディアールは気に入っている監督(『真夜中のピアニスト』がよかった。今検索するとブログにコメントが見つからなかった)だけれど敢えて無視したのだ。

で、観た結果は…。

ううん、これが2009年の作品で、刑務所のハーヴァードと言われるセントラル刑務所で、最初はコルシカのマフィアが仕切っているのに、どんどんとイマム風のイスラム原理主義者みたいなのが入ってきて、世代交代する様子がリアルで、2012年以降にフランスで再開されたイスラム過激派のテロの背景を想起せざるを得ない。

タハール・ラヒムの演じる19歳の刑事犯は、入所した時に刑務官から宗教は何か、豚肉は食べるか、などと聞かれても、「?」という感じの、イスラム、それってなあに、という若者だった。ムスリムである親の権威が移民先のフランスで地に落ちて家庭からも社会からもドロップアウトして犯罪に手をそめた若者だったのだ。

一種のビルドゥングスロマン、イニシエーションもの(最後に象徴的な「父殺し」のシーンもある)になっていて、彼がサバイバル術にも長け、頭も悪くないことは、コルシカの男たちのコルシカ風イタリア語のやり取りを聞いているうちに理解して聞いたり話したりできるようになったことからも分かる。だからこそ、他のコルシカ仲間が出所して一人になったボスのセザールの右腕となり得た。(主人公が移民二世の出自によりアラビア語も自由に話せることも、後にコルシカ組からムスリム組に乗り換える通行手形となったのはもちろんだ。)

このボス(マクロンのように真っ青な目が印象的なニルス・アレストリュプ)が、コルシカ風カトリック洗礼名風ではなくてローマ皇帝のカエサル(セザール)と呼ばれていることも、後にイスラムのアイデンティティを獲得した主人公との関係においてシンボリックである。
「ローマ皇帝」から、イスラムの預言者ムハンマドに鞍替えするような含意が透けて見える。

それはそれでおもしろい。

オディアールは、もともと、タイトルをボブ・ディランの「You Gotta Serve Somebody 」にしようと思っていたという。それは、「人は誰でもだれかに仕えなくてはならない」という意味で、本来なら、これは、キリスト教文化圏の伝統においては、仕えるべきだれかというのは「小さな者」、弱いものであり、その中に十字架に架けられたキリストを見よ、ということにつながる。けれども現実の社会では「長いものの巻かれろ」だったり、「強いものに服従しろ」だったりしなくては生きのびることができない。

一方で、狭量な利己主義から脱して、すすんで他者に仕えることができてこそ真の大人、というメッセージがあり、
もう一方で、自己中心な子供の態度から脱して、既成のヒエラルキーの中におさまって忠誠を誓え、のようなメッセージがある。

自分の世界にしか生きていなかった子供や若者が、「世間」を発見するという方向にも実は正反対のものがあるということだ。オディアールも、このタイトルの持つ「道徳的」次元と「運命論的」次元の二面性に惹かれるという。けれども、それにぴったりのフランス語が見つからないので『預言者』(しかしフランス語では「ある預言者」「一人の預言者」であって、イスラムの最高最終預言者であるムハンマドではない)としたという。

結果的に、テロ以来次々と明らかにされた「刑務所におけるイスラム過激派による洗脳」の実態を2009年に明らかにして見せたという「予言」的作品になったわけだし、内容とはミスマッチのこのタイトルの思わせぶりも、この映画の玄人受けの理由の一つになったと思う。

で、フランスの刑務所で何が起こっているかというと、

刑務所の外のフランス社会ではお題目として逃がられないユニヴァーサリズム(普遍主義)とは対極にあるタブーであるコミュノタリアリズム(共同体主義)や部族主義が支配しているということだ。

共同体主義の社会では普通のロビー活動や根回しなどと同様、刑務所でも、囚人の形成するグループと刑務官との癒着も存在する。

そして、刑務所のような自由を奪われた閉鎖空間では生きのびるために誰でもどこかのグループ、できれば一番強いグループに忠誠を誓って、使命を果たさなくてはならない。
映画の主人公は、若く、いわば白紙の状態で投げ込まれたわけで、ある意味、適応の優等生としてイニシエーションを潜り抜け、自分の地位を確立していく。

出所した時には、「大人」になっている。

結局、「弱い者」に仕えるとか、自己犠牲とかいう方のベクトルは完全に切り捨てられている。
そういうことをしていたら、十字架につけられて一巻の終わり、の世界で、「復活」もない。

「贖罪」の暗示はゼロだ。

過酷な試練や変身にかかわらず、主人公の青年らしい優し気な顔と視線が最後まで変わらず、子供を抱き上げる最後のシーンだけが多少暗黒に沈む感じをやわらげているけれど、カタルシスも救いもない。

暴力、流血シーンも一種淡々とドキュメンタリー風に語り進める手法は興味深いと言えなくもないが、私にはやっぱり忌避したい種類のものであり、さらに、全体の基調となる、力の支配、テストステロンの支配、を見せつける空気は絶対に反対なので、こんな映画を若者たちに見てほしくない、と心から思う。

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by mariastella | 2017-05-13 07:24 | 映画

フィリップ・ド・シャヴロンの『A bras ouverts』(両腕を広げて=歓待)

最近見た映画の覚書ががたまっているので順次アップします。

まず、フィリップ・ド・シャヴロンの『A bras ouverts』(両腕を広げて=歓待)

前にこの人の『神様に何をした』について記事を書いた。http://spinou.exblog.jp/22246255/

ブルジョワの夫婦の四人の娘が次々と外国人の結婚相手を連れてくることから生まれる本音と建前のコメディで大ヒットしたものだ。

それが今回は、ただのブルジョワというわけではなくブルジョワのインテリ左翼夫婦の本音と建て前をからかう。

広大な邸宅の庭にロム(ジプシー)の一家を泊めるはめになる話だが、

ローマ教皇がすべての教区が中東難民の一家族を受け入れるように、と呼びかけた時に慌てたブルジョワ・カトリックのエピソードなどが背景にある。

フランスの博愛の理想と伝統と、世界の悲惨のすべてを受け入れるわけにはいかないというプラグマティックなリアリストとの齟齬、そしてそのベースにある外国人排斥や、EUへの反発(例えばこのロムの場合、ルーマニアからフランスへの移動は自由なので規制できない)という極めて今日的な政治的な問題もかかわってくる。

前作は単に宗教や人種の違いであり、絶対的な「貧困」は入っていなかった。
「カルチャーショック」というのは共通しているが、前作ではブルジョワの娘たちが異文化の男を連れてくるのだが、この作品ではブルジョワの息子がロムの娘を好きになるという設定だからやや微妙である。そこのところをごまかすために、明らかに娘の方が息子を誘惑するようなシーンが挿入されている。
フェミニストの抗議封じのためか、二作とも、女性たちは自由で解放されているというイメージだ。

主人公の68年世代のインテリ左翼と対立する若いハンサムな作家の方は、明らかに移民や移動生活者を差別するような本を書いているのだが、彼は、ゲイのカップルで優雅に生活しているいうという設定だ。これも、「右翼の差別主義者=アンチ・ゲイ」というステレオタイプで抗議されないように「配慮」したのだろう。

主人公のモデルは明らかにBHLで、クリスチャン・クラヴィエが、体系は似ていないが特徴的な髪形を似せて、「永遠にアンガージュマンを続けるインテリのユマニスト」をリアルに書いている。
BHLと同じく彼もアートの理解者だ。

BHLとアリエル・ドンバルのカップルよりも単純化されているけれど、ブルジョワのインテリ左翼のアート愛好者というフランスでのエリートのひとつの典型を揶揄しているわけだ。
それだけに、いくら工夫しても、コメディに落とし込んでも、「不都合」な綻びは免れないので、この作品の評価はかなり低い。

主人公の妻が、ロムから「あんたもゴミを回収しているのか」と言われて憤然とするようなガラクタを組み合わせた前衛作品を創っている。自己満足に陥っている時に、艾 未未(がい みみ)アイ・ウェイウェイの名が出てくるのも示唆的だ。

前にコンテンポラリーアートについての本のことを書いた。http://spinou.exblog.jp/26517938/

現代アートには、糞尿を使ったスカトロものやまさにガラクタ、クズ、ゴミを使ったもの、屍、血、空虚、不条理、陳腐などを前面に出した奇妙なものがたくさんある。そして、ある時代のアートの「好み」や「傾向」というものは、生存における物質的条件を反映したものだという話だ。例えば糞尿やゴミがアートのマチエールとなったのはごく最近のことで、新自由主義の環境破壊以前には、ゴミに価値を付与するなどという発想は生まれようがなかった。

それらは環境の破壊だけでなく、文明の崩壊を反映しているもので、そこに退行、倒錯の現象が現れる。本能の抑圧という成熟の過程からの退行によって、子供のような原始的なサディズムや挑発や刹那的な欲望の解放が現れる。

この映画の、メディアの寵児でもあるインテリ左翼の妻は、自称アーティストであって、自由で解放された進歩的な人間だと思っているのだけれど、贅沢で豊かな暮らしの中でガラクタを組み合わせて愛でている時点で、彼らの生き方のベースの腐敗を提示しているのだ。

この映画が玄人から酷評されるのは理解できる。
大衆受けを狙ったのかもしれないが実は非常に危ない橋を渡っているのだ。

「快適な暮らしをしているインテリ左翼のアーティスト」というカテゴリー(とてもフランス的なカテゴリーだ)にいる人にとっては「笑えない」映画であるが、実は、そのすべての要素(ブルジョワであること、インテリであること、左翼であること、アーティストまたはアート愛好家であること)のひとつひとつについて自問を迫る映画である。


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by mariastella | 2017-05-11 00:04 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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