L'art de croire             竹下節子ブログ

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『ゲット・アウト』(ジョーダン・ピール)

『ゲット・アウト』

前の映画の反省(?)に基づいて、久しぶりに、「ホラーでもいいや、カタルシスを得られるなら」と思って今話題のアメリカ映画の『ゲット・アウト』に行ってみた。

ジョーダン・ピール監督脚本、主演はダニエル・カルーヤとアリソン・ ウィリアムズ。

ピールは人種差別をネタにして笑いをとりながら抗議するというスタイルの黒人のコメディアンのコンビの一人だそうでこれが監督第一作。

人種差別というと、トランプ大統領の支持層となったような南部のプアホワイト、のようなイメージがあるが、実は、「オバマは最高の大統領だ」と言っているような民主党支持の一見リベラルなブルジョワ白人の偽善者による差別の方がずっと始末が悪い。

白人の彼女ローズの実家にはじめて行く写真家の黒人青年クリスが、ローズの実家の屋敷で、脳神経外科の父や精神医の母、医学生とかいう弟、黒人の庭師やメイドたちに紹介されるが、みな不自然で、奇妙なことばかりが起こる。

クリスのパラノイアかとも思われるのだが、次の日のガーデンパーティではまた不思議な光景が繰り広げられる。

ここに集まる白人たちはいわば秘密結社のメンバーのようなものなのだけれど、その中で私の目を引いたのは、そこに「タナカ・ヒロキ」という日本人が混ざっていて、クリスに「今のアメリカでアフロアメリカンであることの意味」を訪ねることだ。
そのしゃべり方からいっても日系アメリカ人というより日本人だ。

この白人たちとビジネス上の関係でもあるのだろう。

つまり、ここでは日本人は昔のアパルトヘイト国でのように「名誉白人」のような立ち位置にあるわけだ。
それは、偽善的な白人ブルジョワのエゴイストたちと同じ価値観を共有していることを意味している。タナカはやけに色白の男でもある。

フランスのブルジョワのレイシストの中にも堂々と「日本人は優秀な民族だ」という人がいる。これも一種の逆レイシズムだということが分からないのだ。

最初にクリスの煙草を車の窓から捨てるローズや、喫煙習慣を催眠術で治すというローズの両親のこだわりも、この映画を通して見ると、「禁煙ファシズム」という言葉をはじめて実感として思い出した。
こんなところに引き合いに出されてオバマ大統領も迷惑だろうな、と思ったが、実際、こういうタイプの「リベラル白人」の存在がリアルに感じられて、やはりアメリカの「黒人差別」の根は深いと感じる。

フランスとはだいぶ違う。歴史も違うが、「コミュニタリアニズムを排しユニヴァ―サリズムを掲げる」というのはフランスでは絶対の「政治的公正」でアイデンティティに組み込まれている。
マクロンだろうとル・ペンだろうと、本音は知らないが、その点では一致するし、「習い、性と成る」という部分は確かにあるなあと思う。

ローズの母親役のキャサリン・キーナーという人がマリーヌ・ル・ペンに似ているのでどきっとした。顔立ちというより、雰囲気で、タイプは違うのに、何かこわい。それをいうなら、ローズの顔のアップがマクロンに似ている、と言う人もいた。ここのところフランスでは嫌と言うほどこの2人の顔のアップばかり見せられていたからかもしれない。(これを観に行ったのは大統領選の直後だった)

後は、主人公クリスの大きな目ばかりが印象に残る。

シナリオもホラーというよりサスペンスで、よくできていて、飽きはしなかった。
ヴァイオレンスがあるのは分かっていたので目を閉じることにしたのに、音や音楽の効果からは逃れることができない。
生活感もかけ離れているし、直接私の悪夢に出てきそうなタイプの怖さのものではないからまあいいかと思って好奇心に駆られて観た映画だ。
ぬるいコメディよりはましかと思ったし、社会派映画を観る元気もないので一種の「逃避」だったのだけれど、実はこの映画を観る前に、個人的にショックなことがあって頭がいっぱいだったので強制的に気分転換を図ったのだ。

こんなことなら読みかけのエピクテトスを読み進めていた方がよかったかもと思ったが、「アメリカ」を通して「フランス」を考える時に、映画はとても便利なツールだと改めて感じた。


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by mariastella | 2017-05-23 00:26 | 映画

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

(映画コメント続き)

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

評判が悪くなかったので観に行った。
近頃はシニア人口のマーケットが大きいからか、シニア俳優が主人公の映画が少なくないので、何がターゲットにされているのか観察するのに興味がある。

主人校の79歳のやもめは、ベテラン・コメディアンのピエール・リシャール(もう82歳だそうだ)で、いつも愉快なので楽しめるかと思った。最後にマーシャ・メリルというなつかしい人も顔を見せる。
妻を亡くして2年、引きこもり状態の父を心配した娘が、自分の娘ジュリエットの恋人アレックスを父の住むベルヴィルのアパルトマンに送り込んでインターネットの使い方を教えさせる。アレックスは駆け出しのシナリオライターで、このアルバイトを引き受ける。
すると、このピエールが偶然出てきた出会いサイトを開いて、ベルギーに住むフローラという31歳の女性とメールをかわすようになる。でも最初にプロフィールとして載せた写真はアレックスのものだった。

というところから、実際に出会うことになってアレックスに代役を頼んだり、自分がアレックスの祖父役を演じたりするかなり無理な設定でのブリュクセルやパリの観光シーンが美しい。アレックス役のヤニス・レペールという青年は、その辺にいそうな普通感と、暖かさと弱さの混じり具合に好感が持てる。フローラ役のファニー・ヴァレットの美しさも印象的だ。

で、おもしろかったかというと、
つまらなかった。
いくら重い映画よりもコメディで気分転換したかったにしても、これほどつまらないとは思わなかった。

でも評判がわりとよかったのは、ピエール・リシャールへのリスペクトと、シラノ・ド・ベルジュラックの国ならではの「現代のシラノ」の悲哀が受けたからだ。
恋人を棄ててパリよりも上海でのビジネスを選んだ若者とか、
ベルヴィルの中華街の様子とか、
今時の親子三世代の関係とか、
もちろんインターネットを通した出会いなど、今のパリや郊外の普通の生活を切り取った親近感もよかったのかもしれない。

私の身近にいるバツ2のシニア男性でネットでの出会いを繰り返している人も知っているし、別の知人は、やはり出会い系ネットを通して知り合ったブリュクセルに住むジャーナリストと時々パリやベルギーで会っている。そういうことが普通にある世界なのだなあとあらためて思う。

「嘘」がばれた時のフローラの反応は意外だし、最後の「オチ」は楽しい。

シナリオは悪くないのだけれど、せめて心から笑えるとか、感動して泣けるとかの「気晴らし」を与えてほしかった。

暇もないのにこんな映画を観るくらいなら、多少ヴァイオレントでも怖いシーンがあっても、心に刺さる映画を観るべきだなあと反省した。

で、次に観に行ったのは….



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by mariastella | 2017-05-22 00:49 | 映画

『ベリエ一家』(エリック・ラルティゴー)

(たまっている映画評の続き)

『ベリエ一家』

エリック・ラルティゴーのこの映画は『最強の二人』や『コーラス』路線。

ハンディのある人とない人のヒューマンな関わりを軸にした感動物語だ。

この映画で設定される「ハンディ」は、酪農で製造販売を営む両親と弟が全員聾啞者だということだ。手話が共通語のその家族で唯一の外界とのパイプになっている16歳の少女ポーラは、皮肉なことに、歌の才能があって歌手になることを目指してパリのラジオ・フランスのオーディション参加を準備する。

彼女は実際に、TVの詩のコンクール番組で登場し、準決勝まで残って16歳でデビューした新人で、この映画でセザールの新人女優賞を受賞した。

あまりリアリティのない設定の中で繰り広げられる若い女性の愛と自立と成功の物語自体は予定調和風でもある。
コメディとしておもしろいのは両親が聾唖であることで生まれる誤解などで、フランソワ・ダミアンとカリン・ヴィアールという芸達者な2人がカリカチュアに陥らないギリギリのところで名演を披露しいる、と言われたが…名演なのは間違いないが、カリカチュアは免れていない。

ハンディのある夫婦の方が「ノーマル」な俗人よりも「働き者」で、愛し合っていて、シンプルで、まっとうな政治感覚も持っている、という描かれ方。
でも、娘が自立のアイデンティティとする「歌」を彼らは聴くことができない、というせつなさが陰影を与えている。

私はこの映画の舞台に想定されている地方に近い村にあった田舎のうちに15年くらい通っていた時期がある。
その村の外れの農場に友人夫婦がいて、毎日搾りたての牛乳をもらいに行っていた。
日本の大都市でしか暮らしたことのない私にとっては、生まれて初めて身近で見る農場、牛の群れ、搾乳だった。そこには男の子と女の子がいて、女の子はなんとなく、「ベリエ一家」のポーラに似ていた。
バカンス好きなフランスで、バカンスもとらずに早朝から家畜や畑の世話をする人々の生活をはじめて近くで見た。

今は息子も娘も結婚していて、農場は息子が継いだが、兼業しているため、リタイアして近くに引っ越しした父親が今でも毎日「手伝い」に行っている。

そんな彼らと今もつきあいがあるので、ベリエ一家二も親近感を抱いた。

シチュエーションの特殊さを除いては、ストーリーの展開はまことに平凡なのだけれど、主演のルアーヌ・エムラが自然で説得力があるので、最後まで引き付けられるし、娘の歌声を聞くために喉に手を当てた父親が、彼女を応援することを決心するシーンや、最後の詩のチョイスと、その歌詞を歌いながら娘が手話で伝えるシーンはやはり感動的だ。

出演者のうち唯一の本物の聾唖者である弟役の少年と、ヒロインの友達が二人きりになるシーンは不自然であまり説得力がない。
一番陰影のある複雑な人間像はヒロインの才能を見出す音楽教師かもしれない。
エリック・エルモスニノは舞台畑の演技派で、ゲンスブール役でセザール賞を受賞したのが記憶に新しい。





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by mariastella | 2017-05-21 06:34 | 映画

ジャック・オディアールの『預言者』

先日、Arteで、2009年のジャック・オディアールの『預言者』を放映していたので観ることにした。
オディアールのその後の作であるヴァイオレントな『ディーパンの戦い』を観てしまって、まあ後悔はしなかったからだ。

何度も書くが、もうこれからの余生、悪夢に材料を提供するような暴力、流血、戦争、ホラーなどの映画はできるだけインプットしないことに決めている。だからこそ、2009年にカンヌのグランプリやその他を獲得して評論家から絶賛だったこの映画、オディアールは気に入っている監督(『真夜中のピアニスト』がよかった。今検索するとブログにコメントが見つからなかった)だけれど敢えて無視したのだ。

で、観た結果は…。

ううん、これが2009年の作品で、刑務所のハーヴァードと言われるセントラル刑務所で、最初はコルシカのマフィアが仕切っているのに、どんどんとイマム風のイスラム原理主義者みたいなのが入ってきて、世代交代する様子がリアルで、2012年以降にフランスで再開されたイスラム過激派のテロの背景を想起せざるを得ない。

タハール・ラヒムの演じる19歳の刑事犯は、入所した時に刑務官から宗教は何か、豚肉は食べるか、などと聞かれても、「?」という感じの、イスラム、それってなあに、という若者だった。ムスリムである親の権威が移民先のフランスで地に落ちて家庭からも社会からもドロップアウトして犯罪に手をそめた若者だったのだ。

一種のビルドゥングスロマン、イニシエーションもの(最後に象徴的な「父殺し」のシーンもある)になっていて、彼がサバイバル術にも長け、頭も悪くないことは、コルシカの男たちのコルシカ風イタリア語のやり取りを聞いているうちに理解して聞いたり話したりできるようになったことからも分かる。だからこそ、他のコルシカ仲間が出所して一人になったボスのセザールの右腕となり得た。(主人公が移民二世の出自によりアラビア語も自由に話せることも、後にコルシカ組からムスリム組に乗り換える通行手形となったのはもちろんだ。)

このボス(マクロンのように真っ青な目が印象的なニルス・アレストリュプ)が、コルシカ風カトリック洗礼名風ではなくてローマ皇帝のカエサル(セザール)と呼ばれていることも、後にイスラムのアイデンティティを獲得した主人公との関係においてシンボリックである。
「ローマ皇帝」から、イスラムの預言者ムハンマドに鞍替えするような含意が透けて見える。

それはそれでおもしろい。

オディアールは、もともと、タイトルをボブ・ディランの「You Gotta Serve Somebody 」にしようと思っていたという。それは、「人は誰でもだれかに仕えなくてはならない」という意味で、本来なら、これは、キリスト教文化圏の伝統においては、仕えるべきだれかというのは「小さな者」、弱いものであり、その中に十字架に架けられたキリストを見よ、ということにつながる。けれども現実の社会では「長いものの巻かれろ」だったり、「強いものに服従しろ」だったりしなくては生きのびることができない。

一方で、狭量な利己主義から脱して、すすんで他者に仕えることができてこそ真の大人、というメッセージがあり、
もう一方で、自己中心な子供の態度から脱して、既成のヒエラルキーの中におさまって忠誠を誓え、のようなメッセージがある。

自分の世界にしか生きていなかった子供や若者が、「世間」を発見するという方向にも実は正反対のものがあるということだ。オディアールも、このタイトルの持つ「道徳的」次元と「運命論的」次元の二面性に惹かれるという。けれども、それにぴったりのフランス語が見つからないので『預言者』(しかしフランス語では「ある預言者」「一人の預言者」であって、イスラムの最高最終預言者であるムハンマドではない)としたという。

結果的に、テロ以来次々と明らかにされた「刑務所におけるイスラム過激派による洗脳」の実態を2009年に明らかにして見せたという「予言」的作品になったわけだし、内容とはミスマッチのこのタイトルの思わせぶりも、この映画の玄人受けの理由の一つになったと思う。

で、フランスの刑務所で何が起こっているかというと、

刑務所の外のフランス社会ではお題目として逃がられないユニヴァーサリズム(普遍主義)とは対極にあるタブーであるコミュノタリアリズム(共同体主義)や部族主義が支配しているということだ。

共同体主義の社会では普通のロビー活動や根回しなどと同様、刑務所でも、囚人の形成するグループと刑務官との癒着も存在する。

そして、刑務所のような自由を奪われた閉鎖空間では生きのびるために誰でもどこかのグループ、できれば一番強いグループに忠誠を誓って、使命を果たさなくてはならない。
映画の主人公は、若く、いわば白紙の状態で投げ込まれたわけで、ある意味、適応の優等生としてイニシエーションを潜り抜け、自分の地位を確立していく。

出所した時には、「大人」になっている。

結局、「弱い者」に仕えるとか、自己犠牲とかいう方のベクトルは完全に切り捨てられている。
そういうことをしていたら、十字架につけられて一巻の終わり、の世界で、「復活」もない。

「贖罪」の暗示はゼロだ。

過酷な試練や変身にかかわらず、主人公の青年らしい優し気な顔と視線が最後まで変わらず、子供を抱き上げる最後のシーンだけが多少暗黒に沈む感じをやわらげているけれど、カタルシスも救いもない。

暴力、流血シーンも一種淡々とドキュメンタリー風に語り進める手法は興味深いと言えなくもないが、私にはやっぱり忌避したい種類のものであり、さらに、全体の基調となる、力の支配、テストステロンの支配、を見せつける空気は絶対に反対なので、こんな映画を若者たちに見てほしくない、と心から思う。

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by mariastella | 2017-05-13 07:24 | 映画

フィリップ・ド・シャヴロンの『A bras ouverts』(両腕を広げて=歓待)

最近見た映画の覚書ががたまっているので順次アップします。

まず、フィリップ・ド・シャヴロンの『A bras ouverts』(両腕を広げて=歓待)

前にこの人の『神様に何をした』について記事を書いた。http://spinou.exblog.jp/22246255/

ブルジョワの夫婦の四人の娘が次々と外国人の結婚相手を連れてくることから生まれる本音と建前のコメディで大ヒットしたものだ。

それが今回は、ただのブルジョワというわけではなくブルジョワのインテリ左翼夫婦の本音と建て前をからかう。

広大な邸宅の庭にロム(ジプシー)の一家を泊めるはめになる話だが、

ローマ教皇がすべての教区が中東難民の一家族を受け入れるように、と呼びかけた時に慌てたブルジョワ・カトリックのエピソードなどが背景にある。

フランスの博愛の理想と伝統と、世界の悲惨のすべてを受け入れるわけにはいかないというプラグマティックなリアリストとの齟齬、そしてそのベースにある外国人排斥や、EUへの反発(例えばこのロムの場合、ルーマニアからフランスへの移動は自由なので規制できない)という極めて今日的な政治的な問題もかかわってくる。

前作は単に宗教や人種の違いであり、絶対的な「貧困」は入っていなかった。
「カルチャーショック」というのは共通しているが、前作ではブルジョワの娘たちが異文化の男を連れてくるのだが、この作品ではブルジョワの息子がロムの娘を好きになるという設定だからやや微妙である。そこのところをごまかすために、明らかに娘の方が息子を誘惑するようなシーンが挿入されている。
フェミニストの抗議封じのためか、二作とも、女性たちは自由で解放されているというイメージだ。

主人公の68年世代のインテリ左翼と対立する若いハンサムな作家の方は、明らかに移民や移動生活者を差別するような本を書いているのだが、彼は、ゲイのカップルで優雅に生活しているいうという設定だ。これも、「右翼の差別主義者=アンチ・ゲイ」というステレオタイプで抗議されないように「配慮」したのだろう。

主人公のモデルは明らかにBHLで、クリスチャン・クラヴィエが、体系は似ていないが特徴的な髪形を似せて、「永遠にアンガージュマンを続けるインテリのユマニスト」をリアルに書いている。
BHLと同じく彼もアートの理解者だ。

BHLとアリエル・ドンバルのカップルよりも単純化されているけれど、ブルジョワのインテリ左翼のアート愛好者というフランスでのエリートのひとつの典型を揶揄しているわけだ。
それだけに、いくら工夫しても、コメディに落とし込んでも、「不都合」な綻びは免れないので、この作品の評価はかなり低い。

主人公の妻が、ロムから「あんたもゴミを回収しているのか」と言われて憤然とするようなガラクタを組み合わせた前衛作品を創っている。自己満足に陥っている時に、艾 未未(がい みみ)アイ・ウェイウェイの名が出てくるのも示唆的だ。

前にコンテンポラリーアートについての本のことを書いた。http://spinou.exblog.jp/26517938/

現代アートには、糞尿を使ったスカトロものやまさにガラクタ、クズ、ゴミを使ったもの、屍、血、空虚、不条理、陳腐などを前面に出した奇妙なものがたくさんある。そして、ある時代のアートの「好み」や「傾向」というものは、生存における物質的条件を反映したものだという話だ。例えば糞尿やゴミがアートのマチエールとなったのはごく最近のことで、新自由主義の環境破壊以前には、ゴミに価値を付与するなどという発想は生まれようがなかった。

それらは環境の破壊だけでなく、文明の崩壊を反映しているもので、そこに退行、倒錯の現象が現れる。本能の抑圧という成熟の過程からの退行によって、子供のような原始的なサディズムや挑発や刹那的な欲望の解放が現れる。

この映画の、メディアの寵児でもあるインテリ左翼の妻は、自称アーティストであって、自由で解放された進歩的な人間だと思っているのだけれど、贅沢で豊かな暮らしの中でガラクタを組み合わせて愛でている時点で、彼らの生き方のベースの腐敗を提示しているのだ。

この映画が玄人から酷評されるのは理解できる。
大衆受けを狙ったのかもしれないが実は非常に危ない橋を渡っているのだ。

「快適な暮らしをしているインテリ左翼のアーティスト」というカテゴリー(とてもフランス的なカテゴリーだ)にいる人にとっては「笑えない」映画であるが、実は、そのすべての要素(ブルジョワであること、インテリであること、左翼であること、アーティストまたはアート愛好家であること)のひとつひとつについて自問を迫る映画である。


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by mariastella | 2017-05-11 00:04 | 映画

機内で観た映画 その3『海賊とよばれた男』と『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

今回も帰りは昼間の便なので、日本映画も2本観ることができた。

『海賊とよばれた男』は、百田尚樹の原作で「永遠の0」と同じチーム、主演だというのでひるんだのだけれど、モデルになっている人の関係者を個人的に知っている事情もあって好奇心があった。

知らなかったことをいろいろ知ることができたという点ではおもしろかったけれど、ここまで「男」の論理、力と突撃の賞賛というのは私のポリシーと逆なので、評価のしようがない。

モデルになった人物がかなり大柄だったようなのに比べて主演の俳優が小柄だけれどカリスマ性があって大きく見える、というのは興味深い。大作であるのは確かだ。

それでもやはり、戦争の「男らしさ」をこれでもかこれでもかと見せつけられるのには少し食傷して、それとは別世界の小品ファンタジーを口直しに観ることにした。詰まらなかったら途中でやめようと思ったのに最後まで観てしまった。

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』というかわいい作品だ。

ライト文芸の名作と言われているものが原作だそうで、20歳の学生同士という主人公の男女がさわやかで初々しくて楽しい。アニメを見ているみたいだ。

普通のラブストーリーかと思っていたらSF化していき、なるほどこうなのかと驚かされるところも、なんとなく「君の名は」を思わせた。

ついこの前、出町柳の駅を通ったので京都が舞台だということに親近感があったけれど、登場人物の誰一人として京都風や関西風の言葉を話さないのは、原作がそうだとしても違和感がある。

というより、このストーリーには、地方色のないフラットな感じの方が似合っているので、「京都」という背景の方が違和感があるくらいだ。

もちろんあり得ない設定なのだけれど、無理をして受け入れると、すべてのシーンが二重の意味を帯びてくるというのがよくできているし、なんだかループ状になったビルドゥングス・ロマンみたいだ。

それにしても、『海賊とよばれた男』の世界と『ぼくは明日…』の世界の若者の心性は違いすぎる。平和で戦わない、という感じの後者が今の若者のスタンダードなのだとしたら、ほっとする部分と、そんなに内向きで大丈夫か、と心配になる部分とがせめぎあう。
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by mariastella | 2017-04-20 05:29 | 映画

機内で観た映画 その2『ムーンライト』など

日本からの帰りの機内で観た映画。

まず『ムーンライト』。

オスカー受賞作品の発表の折の間違いなどで『ラ・ラ・ランド』と話題を分け合った『ムーンライト』だが、「ラ・ラ・ランド」はパッとしない平凡な映画だと思ったけれど、「ムーンライト」はもっとつまらなかった。

去年のオスカーで黒人映画と黒人の不在について批判の声が上がったこと、

そして排他主義、差別主義者と言われるトランプ大統領誕生への映画人による抗議、

この二つを背景にした、いかにも政治的な判断による選択だなあと思う。

何だか黒人の黒人による黒人のための映画みたいな雰囲気で、しかし、黒人のコミュニティだけで起こることという必然性はない。
シングルマザーの母親はドラッグ中毒、同性愛傾向ゆえに「弱い者いじめ」の対象になる少年時代、大人になってからのこと、すべてが黒人コミュニティの中で起こる出来事だけれど、黒人でなくとも成立するテーマだ。
人種差別そのものはテーマになっていない。

貧困や麻薬の取引などは確かに社会の弱者のところに起こってくるが、それが黒人の場合にだけ、より大きな意味を持つわけではない。

他のカテゴリーにおいても貧困のきっかけとなるものはたくさんある。

インデペンデント系黒人映画がこのように持ち上げられること自体に、アメリカの人種差別の根の深さを感じて愕然となる。

唯一興味深かったのは、月光の下で浜辺を駆ける黒人の肌が青く見えてブルーというニックネームがついたことや、黒人少年に自信を与えるために、メンターが、黒人はマイノリティではなく世界中にいること、人類のすべてはアフリカから来たので黒人が人類の祖先だからだ、という感じの話をしている場面だ。人類学の成果は社会的にも役にたっているわけだ。

『素晴らしきかな、人生』デビッド・フランケル

『ムーンライト』に比べると、多人種多民族が共生している大都会での広告会社の「成功者」の実存的鬱を扱ったこの映画の主人公が黒人のウィル・スミスだということの方がずっと意味がある。

この主人公がウィル・スミスだという必然性があるからだ。黒人だということも含めて、彼の全人間性がこの役にぴったりだということで、政治的公正などとは関係がない。

日本語タイトルは過去の名作映画から借りているものだけれど、キイワードとなるオリジナルのタイトルの「Collateral Beauty」は映画の字幕では「幸せのオマケ」と訳されている。

フランス語では「Beauté cachée」、つまり「隠れた(隠された)美」となる。

英語では、愛する者を失うという試練にもそれに付随するビューティ(美しさ)がある、という感じだが、フランス語では同じ単語が存在するにもかかわらず、「隠された」という訳をしている。

つまり、付随はしているのだけれど、表には現れていない、表裏をなした関係だという感じがする。

死は誕生と同じで、存在と非存在、実在と非実在との境界領域が一瞬可視化される現象だから、そこに人為の届かないある種の美が表出するのを感知することがある、という含意だろうか。

「美」とは人間の生死を超越した世界を反映する何かであるという感じもある。

ところが、日本語の訳は「幸せのオマケ」。

「美しさ」では通じない。

「幸せ」。

しかも「オマケ」。

これってベースにある文化の違いが翻訳不能を起こしているのだろうか。

ストーリーは、類型的なサブストーリーが並行しているもので、その中でも、意外なオチや、余韻がいろいろあって、まあ楽しめて後味がいいということではアメリカ映画らしい着地点だ。

『LION/ライオン』-25年目のただいま-  (ガース・デイヴィス)

はフランスでも話題になっていた実話がベースのオーストラリア映画で、主人公の少年も青年も名演だし、インドとオーストラリア本土とタスマニアのスラムや都市や自然が対照的で、今回の機内映画で一番面白かった。
ニコル・キッドマンらの演じるブルジョワ夫婦が地球の未来を考える「意識高い」系のディープな人で、それだけでは善人過ぎて押しつけがましいのだが、養子の二番目が自傷癖の自閉症らしい生涯を抱えているなどの困難にぶつかるというリアリティがある。

そしてインド、オーストラリア、とほんとうに「イギリス連邦」the Commonwealthってあるのだなあ、そしてそのアイデンティティがクリケットというのも本当なんだなあ、と再確認させられた。

Brexitの時に、ポーランドなど東欧の移民は受け入れられないが、クリケットをやるイギリス連邦の国からの移民は全く差別なくOKなのだから、いわゆる人種差別ではない、とケン・ローチが言っていたのを思い出した。
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by mariastella | 2017-04-18 00:29 | 映画

機内で観た映画 その1 『ラ・ラ・ランド』など

まず、往きの機内。

「この世界の片隅に」については以前に書いた

他には、フランスでは観に行く気がしなかった『ラ・ラ・ランド』。

フランスでは、監督があまりにも、ジャック・ドミの映画に影響を受けた、「ロシュフォールの恋人たち」の衣装の色彩、「シェルブールの雨傘」の語り方、などと繰り返していたので なんだか新鮮味がなかったからだ。
実際、ファッションはロシュフォール風、失恋と再会はシェルブール風、だった。
若者の恋と別れというクラシックなテーマは前に機内で観た「イフ・アイ・ステイ」を彷彿とさせた。でもあそこにあった自己犠牲テーマはここにない。
エマ・ストーンはかわいいけれど、男がちょっと若さに欠ける。

おもしろかった映画は「手紙は憶えている」だ。

90歳で、前日の記憶をなくす認知症気味の老人のロード・ムービー風構成そのものの意外さに加えて、途中でのショッキングな展開とラストのどんでん返し、と、よく出来過ぎ。ワグナーをピアノで弾けてしまうのも怖い。
何よりも、クリストファー・プラマーが主演というのが感無量だ。

「サウンド・オブ・ミュージック」のエーデルワイス、あれからもう半世紀以上経ったのだ。思えばあの頃のプラマーはまだ40歳前だったのだ。

彼の抑制の効いた謹厳な顔と、その奥にあるやさしさや温かさのギャップは、実に印象的だった。
それがこの映画では、大老人。
ナチハンターとして彼が追う人々も皆、当然90代の老人ばかり。でも、それゆえにこそ、彼らの表情のすべて、動作の全てが、実存的に迫力がある。シェイクスピア劇みたいだ。

亡命者、バイリンガル、秘密、カナダとの国境、どこを取ってもハラハラだし、なるほどと納得もいく。
プラマーが実はカナダ人で、この映画もカナダとドイツの共同制作という意味もなかなか興味深い。
日本人には、ユダヤ人もドイツ人もポーランド人も区別がつかない。

この映画のような逃亡の仕方は知られていてどのくらい発覚したのだろうか。
エドガー・ヒルゼンラートというホロコーストの生き残り作家がドイツ語で書いた『ナチと理髪師』という有名な小説があって、ドイツではなかなか出版されなかったちいうぐらい微妙な話なのだけれど、私の知っている限りでは、これが唯一、この映画のやり方につながっている。
フランスでは評価が分かれた。ホロコーストの記憶をスリラーの材料に使うこと自体を批判する人がいるからだ。私には十分楽しめた。
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by mariastella | 2017-04-17 07:12 | 映画

ニコラ・ブクリエフとロマン・デュリスの『告解』

3月にパリで観た映画、ニコラ・ブクリエフの『告解』は、原作がゴンクール賞受賞作の『レオン・モラン、司祭』で、第二次大戦中ドイツに占領された村でなんとか司牧を続ける若い司祭と、子連れの未亡人で共産主義者すなわち無神論者のレジスタンスの女性が告解室で出会い心を通わせる話だ。男たちが戦争に行って女たちが多い場所で人気を博す新司祭を苦々しく思ったバルニーは、告解室で司祭を観察して試そうとする。インテリ女性と揺らぎない信仰を持つ聖職者と、ナチスの支配する村の緊張。

この映画はジャン=ピエール・メルヴィル監督によって1961年にジャン=ポール・ベルモンドとエマニュエル・リヴァの主演で映画化されている。今回はそのリメイクで、未亡人でなく夫が逮捕されているバルニーに焦点を当てて描かれている。

主演はロマン・デュリスとマリーヌ・ヴァッチで、すごい心理戦が繰り広げられる。

バルニーが未亡人ではないのは、司祭の方にも彼女の方にも、恋愛にタブーを課すためだという。
監督は無神論者からカトリックに転向した人で、この映画は別にカトリック神父の独身制を批判したものではなく、愛が超越につながることを描きたかったのだという。

映画が終わった後、友達連れで見に来ていた3人の60代くらいの女性連れが、

「(結婚できるプロテスタントの)牧師の方がやっぱりいいよねー」などと言っている。

最近のカリスマ神父の結婚の話題があった後だから「やはりそこかい」と思ってしまう。別の女性が、

「牧師の方が小児性愛スキャンダルとかないしね」とも言う。

それはどうかなー。まあ奥さんが見張っているということはあるかもしれないけれど、特殊な少年愛の人が子供たちのリーダーとなるシチュエーション(クラブの先生、学校の先生、キャンプのリーダー)に置かれる場合、というのがリスクなんで、神父が独身だから即、っていうのは短絡でかわいそう。圧倒的に小児虐待の舞台になるのは「家庭」だという統計もあるんだし…と思っていたら、

そのすぐ後に続いた感想は、「戦争っていやねー、私たち戦争って知らないものねー」だった。

最後に移される針金のイエス人形みたいなもの(司祭が娘に作ってあげてこれが守ってくれるから一人で寝ても怖くないよと言った)が映る。これってスコセッシの『沈黙』のラストシーンのショットみたいだ。

結局は、中心となる恋愛そのものは、中学生同士の初恋物語みたいなのだけれど、愛と人間と神の関係もよくわかる。

自分たちの半径1メートルみたいな排他的世界で展開する愛って、絶対続かない。

高さも幅も深さも、2人の世界を超えた何かの愛に肯定されていると思わなくては、愛は「相愛」で成就した瞬間から枯れ始めて、衰退に向かうのかもしれない。
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by mariastella | 2017-04-12 00:08 | 映画

『この世界の片隅に』

アニメ『この世界の片隅に』を観た。

主人公はちょうど私の母と同世代で、母から聞いた戦争中のいろいろな話とかぶる。
でも母は都会に住み、結婚したのも戦後2年経ってからで、どこかにお嫁に行くというより、戸籍的には天涯孤独な父と、一軒家で夫婦2人の生活を始めた専業主婦で、昼間は近くの実家によく行って、夕ご飯を持たせてもらって帰るという優雅な生活だったから、このアニメのお嫁入り事情とは全然違う。

戦時中や戦後すぐの話など親の口から直接聞いたのは私の世代でそのうちおわりになるかもしれない。

このアニメに出てくる当時の日常は貴重な記録だと思うし、「普通の人」が「普通の生活」を続けられない戦争の怖さというのはよく分かるけれど、このアニメの登場人物たちから奪われた「普通」が、私にとってすでにあまりにも普通でないのがショックでもある。

私は中学生くらいの時にはじめてボーボワールの自伝の『女ざかり』を読んだ時の衝撃が忘れられない。自分の力で自由に生き信念も持っていた知識人のグループが、第二次大戦の中で、自分たちの力ではどうしようもない歴史の歯車の中で押しつぶされて行く。日常を捨ててレジスタンスとサヴァイヴァルとにすべての時間が費やされる。天災ではなくて人災なのに、防ぐことができなかった。

その恐ろしさが実感として迫ってきた。中学生の私は親からも学校からも、社会からも何のプレッシャーも受けていなかった。私の未来は完全に私に自由に託された選択だと思っていた。そんな「私の普通」がある日歴史の運命に邪魔されることがあるとは想像もできなかったのだ。

でも、パリの知識人たちにはそれが起こった。すごく怖かった。

その実感に比べたら、このアニメの「すず」さんの「普通」は、実家の海苔栽培の手伝いから、見初められての10代での「お嫁入り」まで、少なくとも私にはあまりにも「普通」ではないし、実際、戦争がない今の日本でももうあまり「普通」とは言えないだろう。

でも、主婦ブログなどを読むと、今でも、婚家との確執、姑、小姑との確執が深刻な人もいる。それに比べたらすずの夫も舅姑も親切で戦争を 生き延びたので、ベースには人としての幸せ感はある。戦争がなくても家族とうまくいかなくて鬱に陥る人は少なくない。

こうの史代さんのコミックは『こっこさん』しか知らなかったので、へえ、広島出身の方だったんだと今回分かった。素敵な仕事をされたと思う。誰だかの「交響曲HIROSHIMA 」なんかよりもはるかにすばらしい。

すずさんがとにかく「絵が大好き少女」で、全てがいわば絵日記風には綴られているのが楽しい。

それを観ていると、日本の別の天才画家のことを連想する。(続く)
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by mariastella | 2017-03-22 22:51 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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