L'art de croire             竹下節子ブログ

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「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド

少し前に観た映画。

その前に見た『インフェルノ』に続いてトム・ハンクスが主演だった。

ここの映画でも、ヒーローなのに、悪夢から覚める最初のシーンから、トラウマを背負って情けない感じで、インフェルノの冒頭が幻覚から覚めるのとかぶって、なんだか、トム・ハンクスって哀れをそそるなあと思ってしまった。

しかし、短いスパンの出来事をうまくフラッシュバックさせてよくできている。
乗客の扱いはミニマムで、母子と親切な隣席の人、ぎりぎりで乗り込めた父子など、少ないのに効果的に配されている。
結末を知っているのにどきどきする。

でも水温が2度で、体感温度は零下20度のNYなんて、私ならあの状況で、低体温で死ぬんじゃないかと思う。まあみなストレスでアドレナリン全開だからもったのかもしれないが。

鳥に突っ込まれてエンジン停止、左旋回して見えたハドソン川への不時着水を試みる機長。

「ラガーディアに行くにはマンハッタンを横断しなければいけない。そこは人口密集エリアだ。もし地上に被害を及ぼすことになったら…」。と、リスクを見積もったと報告書にあるそうだ。

いやでも、沖縄のオスプレイの「不時着水」を思い出す。
あちらは翼も折れて明らかに墜落だと言われているけれど、ニコルソン調整官という人が、住民に被害がなかったのだから感謝しろと言ったとか言わないとか批判されていた。

実際の会見では「私たちは副知事と話し、遺憾だと伝えた。この事故は遺憾なものである。しかし、私たちは沖縄の人々を危険から救おうとした若いパイロットの偉大なる行動については、全く遺憾だとは思わない。」と、言ったそうだ。

オスプレイのパイロットは負傷して入院した。
ハドソン川の「サリー」は無傷だった。

「ハドソン川の奇跡」の事件は、アメリカではものすごいインパクトのあるものだった。
日本でも、「アメリカ通」の人事関係者は、それ以来、「望むべき人材のプロフィール」として「ハドソン川」を引き合いにするそうだ。

確かに、9・11で飛行機に突っ込まれるテロを経験したニューヨーカーのトラウマは半端なものではなかったろう、と今更ながらに思う。

その上に2008年の金融危機の直後の2009年1月だったから、事故で「犠牲者ゼロ」という結果は人々の心をどんなに癒したことだろう。

でも、如何せん、ニューヨーカー、アメリカ人という「当事者」でない場合、メディアは、「心温まる話」や「勇気を与えてくれる話」などよりも、これでもかこれでもかと世界の悲惨を語ったり、来るべき不安を煽ったりすることの方がはるかに多い。
「世界の終り」の方が「売れる」のだろうし、人々が無意識に「怖いもの」に惹きつけられるのかもしれない。悪い予想が外れても誰も文句を言わないけれど、いい予想が外れると責任をとれと言われるかもしれない。

だからフランスにいると、「ハドソン川の奇跡」は普通の「ちょっとしたいいニュース」くらいですぐ忘れられるものだったけれど、アメリカにとっては救世主のような事件だったのだろう。
だから沖縄のオスプレイを「不時着水」とした強弁の裏にも本物の思い入れがあり、「沖縄の市民を救ったヒーロー」という発想は、「植民地に対する傲慢な態度」というより実感だったのかもしれない。

事故の場合のチェックリストは3ページもあって、アナログで、実用的ではない。
飛行歴42年の機長は豊富な経験をもとに、ほとんど直感で行動した。

ほんとうにこの機長はアメリカン・ヒーローの要素をそなえている。

「勇気と忠誠心と善良さ」。

こういうシーンだとフランスの「自由・平等・博愛」のスローガンなど唱えても何の役にも立たないだろう。

実際のサリー機長の写真を見ると、トム・ハンクスよりずっとかっこいい人だった。

自分も航空安全委員会の公聴会の調査側に立った経験があったので、エンジンが止まった時、

「これから自分の言う言葉も行動もすべてが今後10年先まで厳しくチェックされるだろう」

と瞬時に意識したそうだ。

けれどもそれが判断を惑わせることにはならなかったという。
人間の脳って、いざとなればコンピューターよりも早く複数のことを同時に高速で考える。

今読んでいる『あなたの人生の科学』ディヴィッド・ブルックス(ハヤカワ文庫NF)に、人間の脳は同時に1100
万個もの情報を扱えるが、意識しているのはせいぜい40個くらいだという説が紹介されていた。全ての情報処理は無意識によって行われていると。
(この頃自分でもそれを実感するようになった。いろいろなものをインプットして寝かせておくと、ざわざわと何か動いて、すっきり言語化されて出てくることがある)

それにしても、2009年初めのNY、テロと金融危機でニューヨーカーが「恐れと不信」の中にいた時期だからこそ、サリーはヒーローになった。
「奇跡」だけでは必ずしもヒーローは生まれない。
乗客を救うというより、自分の生存本能をプロとしての判断力に投入した。
生きるために全員を救った。

フランス国内でドイツ系の航空機の副機長が心中のようにわざと墜落させた事件とつい比べてしまう。
フランスではこちらの方が当然記憶に残って、定期的に飛行機を使う身としてはトラウマになりそうな事件だった。

それと比べたらえらい違いで、プロフェッショナルが危機を前にして平常心を失わず最適の判断を下す、ということのありがたさと難しさをあらためて感じる。
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by mariastella | 2016-12-28 01:30 | 映画

ジェームズ・グレイ『エヴァの告白』The immigrant

年末、忙しくて、もう映画など見ている暇がないのに、12/14の夜、Arteで『エヴァの告白』を見てしまった。

パリ市長がアレップの攻撃に抗議してエッフェル党の灯を消した夜だ。

実際、毎日毎日、アレップの爆撃シーン、脱出を試みる住民らの絶望的な様子をなすすべもなく見せられて、前にアップしたシャルリー・エブド別冊でフランスにいる難民の困窮ぶりを知るにつけ、町のクリスマス気分よりも、『移民』というタイトルのこの映画にひきつけられたのだ。

フランス人のマリオン・コティヤールが主演でカンヌでも評価されたので、2013年に公開された時にフランスでも話題だったけれど、その時は、1921年のアメリカの移民の話にあまり食指が動かなかったので見ていなかった。

ポーランドの戦争で両親を失ってアメリカにいるおば夫婦を頼りに行くポーランドの姉妹。
NYは日本から考えると遠いけれど、ヨーロッパからの移民の入り口だ。
彼らを一時隔離して移民を認めるかどうかを審査するエリス島を経由してアメリカ市民となった人は膨大な人数に上る。そこから強制送還される人にとっては悪夢の場所だ。

後でヒロインのエヴァに恋するようになるマジシャン、イリュージョニストのオーランドは、彼らのための慰問舞台で、信じられないような空中浮揚を見せますよ、と言い、皆さんもこの国に来るのに未来を信じたでしょう、私も、信じます、と言って手を合わせてから「浮揚」する。

「信じる」ことが映画自体の通奏低音になっている科のようにシンボリックだ。

でも、結局、だれでもみんな移民局で、審査され、裁かれて、たどり着いた場所で生きる許可をもらえるかどうか、なんていうスタートアップって、多かれ少なかれトラウマになるような気がする。

メイフラワー号で着いたような最初の植民者たちは、先住民の「審査」も「許可」もなく好きなように「開拓」したから別だったろうけれど。

しかも初期の移民はピューリタン的な「神の国」建設の熱意があったかもしれないけれど、後からやってきたカトリック国のイタリアやポーランドからの移民には風当たりが強かった。

エヴァもそのポーランド移民で、ポーランドにいた頃は、カトリックがデフォルトで意識していなかったろうし、過酷な戦争や家族の死などを前に、「神を頼る」なんていうことは頭から吹っ飛んで、ただただ、何とかして生き延びるという本能にだけ導かれていたに違いない。

けれども結核の疑いのある妹が移民局で隔離された。
最後の肉親である妹とは自己意識がフュージョンしているので、エヴァの「生き延びる」本能は「妹と生き延びる」に上書きされてしまった。

そんな中で、女衒でもある興行師のブルーノに頼って、妹を助け出すために必要なコネと金を求めることになる。

しかし、どんな形であれ一応衣食住が保証されると、1920年のポーランドのカトリックだったら骨にしみこんでいるような「売春の罪」を犯しているわけだから、エヴァは恐ろしくなった。
また、窮地に陥る度に、口をついて出てくるのは、やはり生まれた時から身についている聖母マリアの加護を願う祈りだから、自分が「罪」びとであることと、聖母や神の慈悲を願うことの齟齬が意識される。
それを解消するためにポーランド人ご用達のカトリック教会に出かける。

必死に祈るが、告解する必要を感じる。告解して免償してもらえば安心して聖母に頼ることができるからだ。

ポーランド語で告解し始めると、司祭から

「英語で。私はポーランド系だけどアメリカ人だから」

と言われる。
ポーランド系二世なのだろう。そこですでにエヴァの中で、「故郷の聖母」が遠ざかっていく。(典礼は当時どこでもラテン語なので違和感がなかったのだ。)

エヴァは、移民船の中でも性暴力の犠牲になり、その後、道を外した男と出会って、金が必要なので、盗みもすれば、体も売っていると告解する。
自分は地獄に堕ちるような罪びとだと口にすると、あらためて、カトリック教育の成果が意識に上り、怖く悲しく恐ろしくなる。

「生き延びるために何でもするのは、罪ですか?」

と絶望するエヴァに、

司祭は、

「天国はすべての人に開かれています」

と即座に答える。

思いがけない、一瞬の、希望。

しかし、それにはもちろん、悔い改めが必要で、司祭は言う。

「その男から離れなさい」

エヴァはすぐに、

「では、私は、地獄に堕ちます」

と言ってその場を離れる。

彼女のぎりぎりの生き方は、選択の余地のないものだからだ。

地獄堕ちよりも、何とか妹を救い出して二人で逃げることに優先するものなどない。

告解室の外から、ブルーノがこれを聞いていた。

彼は実はエヴァを愛しているのだ。

酒、ギャンブル、女に溺れるタイプのオーランド(実はブルーノの従兄弟)が一見童顔で情がありそうな外観なのに対して、ブルーノは、いかにも酷薄そうで怖い顔。

ラスト近くでは警察にぼこぼこにされて鼻も顎もつぶれてさらに凄惨な顔になる。

このシーンも、今もアメリカでは警察の暴力スキャンダルが絶えないので、リアルで嫌になる。

ブルーノは屈折した男で、アメリカの底辺でのサバイバル能力は優れている。
実はエヴァに最初から目をつけていて、彼女が移民登録できないように手を回していた悪いやつであり、絶対にエヴァに愛されないことは自分で分かっているので、エヴァを残酷に扱ったりするのが自虐になるような救われない男だ。

ブルーノは、結局、ボロボロになりながら、エヴァを連れて小舟でエリス島に行き、エヴァの妹を逃がす交渉をして、カリフォルニア行の切符を渡して二人を出発させる。

つまり、エヴァは、自分を罪の状態に落とすブルーノから離れるよりもまよわず地獄行きを選んだが、それを盗み聞いていたブルーノは、耐えられず、自分から彼女を解放した。
彼女が地獄に堕ちると苦しんでいたのを救ったともいえるが、このことでブルーノは自分が救われたのだ。

実際、エヴァに自分の罪(彼女が自分の手に堕ちるように工作したこと)を「告白」した時に、エヴァに赦される。
免償されるのだ。

彼にとって天国の門よりも大切なのはエヴァからの赦しだった。
そのことでエヴァも、赦しを求めて苦しむ立場から、自分を支配していた男を赦してやるという立場に立てた。

つまり、「自分の敵と和解し、赦す」という、キリスト教的にいうと「罪」と対極の「愛」を実践できたのだ。
ブルーノを赦すことでエヴァは天国に行ける。

女性が庇護者(この場合は病気の妹)を内包する生存本能に駆られた時は、宗教の脅しなど怖くない。

けれども恋をしてしまった男は、弱くなる。
愛する女のためなら自分がぼろぼろになっても、たとえ命を奪われてもいいという一線を越えてしまう。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 (ヨハネ15-13)」というキリスト教最大の愛に向かっていく。ブルーノのそれは屈折していて、そのカリカチュアのようだ。

「エヴァの告白」というのは「ブルーノの告白」とセットになっていて、

「強い女と、女の罪を赦さない司祭」、
「弱い男と、男の罪を赦す女」

というを逆説的な世界を描いているのだ。 

原題は「移民」でフランス語タイトルもそのままだから、もっと政治的メッセージを伝える映画かと思ったら、男と女の支配被支配の関係が男の一方的な崩壊で覆る話だった。

マリオン・コティヤールは確かに、男たちをすぐに魅了するくらいにオーラのある美しさを発している。
でも、船の中で彼女を襲った男たちのように、ただ欲望にかられた男なら暴力で支配するだけだ。
それに対して、「恋心」を抱いてしまった男たちは、弱く、情けなくなる。

恋に慣れていないブルーノのような男は、だんだんと「悪の平常心」を失っていくのだ。

ホアキン・フェニックスにぴったりの役だ。
全然共感できないし、最後は見るのも気の毒な姿になるが、なぜだか、彼を見ていると、エヴァが彼を赦した気持ちが分かるのは不思議だ。

それでも、「移民」というタイトルが表すものは、「移民というルーツ」、「移民の子孫」のかかえる記憶やアイデンティティの独特の思い入れをよく表している。

日本に暮らすマジョリティの日本人やフランスに暮らすマジョリティのフランス人が千年以上もずっと「そこにいた」みたいな感覚からは、想像しにくい。
移民や難民に対する視線も思いも、アメリカとは全く違っているのだろうな、と改めて思う。

で、アレップ。 
アレップは、15日にアサド軍の手に渡った。
避難する住民や反政府軍を乗せたバスをロシア軍が警護している。

朝のラジオで、フランスのロシア大使館のアドバイザーが、

「ロシアがアサド政権に対して持っている力を過小評価しないでもらいたい」、

などと言っていた。

「ロシアはちゃんと対話している。

アメリカとはイラン問題について話し合い、

イランとはシリア問題について話し合い、

中国とはあらゆる問題について話し合っている。」

とも言った。

この発言は、プーチンが日本に向かっていたのとちょうど同時刻のものだった。

日本と話し合っている、とは、言っていなかった。
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by mariastella | 2016-12-16 07:39 | 映画

『君の名は』

先月日本から戻る機内で観たもう一つの日本映画はアニメの『君の名は』だった。

評判が高いのは聞いていたけれど、高校生のラブストーリーのようだったので、少しだけ見て退屈したら他の映画に変えようと思って一応見てみた。

映像の美しさに度肝を抜かれた。

ほとんど「おもてなし」映画みたいに美しく、テクノロジーと伝統、都会と地方が共存するクール・ジャパン。
フランスではまだ公開されていないけれど絶対フランス人に受けると思う。

こちらで仲間にネットで予告編の映像を見せたら息をのんでいた。

すごい。

美を昇華した芸術的な観光映画みたいだ。

飛騨の小さな村の神事やら、普通の女子高生が「巫女」となるシチュエーションやら見どころがいっぱいだ。

ストーリーの方は、はじめは、よくある「人格入れ替わり」ものかと思った。
それが若い男女の間で起こるというのが、新鮮なのか初々しいのか分からないけれど、まあおもしろい。
2人ともスマホをもって交信するというのは「今の子」ならではだし、男女の差だけではなく、都会と地方、マンションで父と2人暮らしの少年と、引き戸の日本家屋で祖母や妹も一緒に暮らす少女、と、シチュエーションが対照的で、目まぐるしく変わる「背景」の美しさが引き立つ。

そこで起こる失敗や友達の反応やらのエピソードは、まあ、コミックにはよくある展開なので、チープだしつっこみどころはいろいろあるものの、想定内という感じだ。

ところが、話は意外な方向に広がり、この「入れ替わり」が、実はヒロインが受け継ぐ伝統技術の組みひもと同じように、パラレル・ワールドが3年という時間のずれをもったまま絡みあっているものだと分かる。

少女の住む村は1200年ごとに彗星のかけらが落ちてクレーターをつくるのだとか、村の滅亡を救うために代々神職の「宮水」家の女性が、その「入れ替わり」能力を介して「協力してくれる男」を近未来で取り込むのだとかいうSFになってくる。

都会の夜、地方の村の夜、そして、そのどちらをも照らす銀河や彗星。
映像はますます美しくなる。

少年は自分に課せられた「使命」を発見できるのか、夢の中のように記憶が定かでない若い2人は村を救えるのか、というスリル、そしてそんな絶対不条理の状況の中でも生まれる2人の恋心は…、と結局、最後までしっかり試聴した。

けれども、ディティールを含めたすべての「背景」のほれぼれする美しさに比べて、当然とはいえアニメのキャラにしか見えない登場人物たちの、特に日常のシーンの貧弱さとのギャップが、魅力というより違和感として残ったのは不思議だ。

この映画のコメントをなかなか書く気にならなかったのは、その不思議さからくる一種のためらいのせいだった。それはまだ、消失は、していない。
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by mariastella | 2016-12-10 00:45 | 映画

ポランスキー『おとなのけんか(Carnage)』2011

私は時々、フランス人と日本人のメンタリティの方が、アメリカに比べると近いような気がすると書いてきた。時代が変わっても古くからの権威や文化が古層のように残っているのも宗教への関わり方も含めてそう思うことが多い。

でも、このロマン・ポランスキーの映画を見ると、この部分(つまり都会のプチブルジョワの本音と建て前)に関しては、アメリカとフランスがほぼ同じ感じで、日本はまったく違うとつくづく思った。

それを雄弁に語っているのがこの邦題のつけ方だ。

『おとなのけんか』......

あんまりだ。

もとはフランスのヤスミナ・レザの『Le Dieu du carnage(虐殺の神)』という戯曲が原作で、舞台をブルックリンに移してアメリカでもヒットしたらしい。(その戯曲の邦題も『おとなはかく戦えり』だそうだ)
時間、場所、筋の「三一致の法則」に乗っ取ったフランス戯曲らしい構成だ。

映画は、アメリカが舞台だが、ある夫婦の自宅ですべてが展開するので、パリで撮影されたという(ポランスキーはアメリカに入国すると逮捕されるリスクがある)。

11歳の少年がブルックリンの公園で同級生を棒で殴り、前歯の2本を折る怪我を負わせた。「被害者」の親であるロングストリート夫妻は、事の次第を書面にして確認するために「加害者」の親であるカウワン夫妻を自宅に招いた。カウワン夫妻は協力的で下手に出て、お互いに、同じレベルの生活、階層であることに納得しながら上品にことをすませるはずだった。

ロングストリート夫妻の妻はスーダンのダルフールについての著書がある作家ペネロピ(ジョディ・フォスターが相変わらずすばらしい)、夫が金物商を営むマイケル。

カウワン夫妻は、妻が投資コンサルタントのナンシー(ケイト・ウィンスレット)、夫が製薬会社の副作用スキャンダルをもみ消そうとしている弁護士アラン。

最初は「子供の喧嘩」の解決だったものが、弁護士がしょっちゅう携帯電話で話していて、それにみんながストレスを感じ、気分が悪くなったナンシーが吐いて美術書を汚してしまう。
それをきっかけに社交的な仮面が剥がれて険悪になり、言い争いの組み合わせも、夫妻対夫妻、夫同士対妻同士、夫と妻の取り替った状態など、感情のまま、特に日頃のうっ憤などでエスカレートする。

子供のけんかが「大人のけんか」に変わる、という話であるのは事実だけれど、単なるヴォードヴィルではなく社会派ヴォードヴィルなのだ。

弁護士役のクリストフ・ヴァルツ は『ターザンreborn』で、帝国主義時代の差別主義の権化のようなベルギー人役をやった人だ。 この映画でも自分はコンゴに行ったことがあるというのもおもしろい。どこか最近亡くなったロバート・ヴォーンに似た雰囲気があってなつかしい。

両夫婦とも、NY のブルジョワだけど、ロングストリートの方がリベラルで民主党に投票するタイプ、カウワンは共和党に投票するタイプだ。

で、原作がフランスものだから当然とはいえ、この2組の夫婦や、招待されて出向くこういうシチュエーション、アパルトマン、会話の仕方など、フランスでもすごくありそうなことで、とてもリアルだ。こういう感じの夫婦をいくらでも知っている。
でも日本で子供がけんかした時に、夫婦で相手の夫婦とこういう感じでもてなしを受けながら話し合いに出かけるなどというシチュエーションは想像できない。
ブルジョワ家庭でも、子供のこの種の問題で当事者の2組夫婦が行動を共にすることはないだろう。
だからこういう感じの「おとなのけんか」にはなり得ない。

ジョディ・フォスターの演じる妻は、美術が好きで、スーダンの子供たちなど世界の悲惨に関心があって著書もあることをひそかに誇り、社会意識の高い人で、世界のどこで起こっていることでも自分たちに関係がある、と主張する。ジェーン・フォンダの例が出て来る。フランスならジェーン・バーキンか?

元のタイトルの「虐殺の神」というのは弁護士が口にするセリフで、「僕は虐殺の神を信じている」と言ったり、ジョン・ウェインの名をあげたりするのだけれど、要するに、強い方によって弱いものは淘汰されるということだ。動物の世界では最も強い雄だけが雌を獲得して強い子孫を残す。
けれども、人間は、分かち合ったり、助けたり、弱者を排除しないで生きていくように進化してきた。サバイバルのために争わなくていい人々は特に、弱者を助けることに情熱を燃やすことすらある。

言い換えると、、「子供のけんか」は、「動物レベル」だが、「大人」はそのレベルを超えて上品に平和に協調してやっていけますよ、という「文明人」レベルですよ、という合意がある。「けんかしない」はずだ。

ところが、それが過剰になって、弱者を救う姿勢における偽善や、それをしない他者の弾劾や、ポリティカリイ・コレクトの際限ない検閲や自主規制へとエスカレートしていく。

けれども、オーバーワークで疲れ、家族とのつきあいに疲れ、外面をつくろうことに疲れた人たちは、特に酒で自制心のタガが緩むと、本音が噴出する。

ダルフールについての本を書いた人に対して「セネガルのニガーが」と黒人差別の言葉を使ったり、タブーの差別語が連発される。クー・クラックス・クランの名も出る。

つまり、社会的、階層的な仮面が落ちると、「動物的あるいは動物的本能でけんかする子供たち」のような本音が垂れ流される。

とはいえ、自分だけの利益しか考えない状態から、共同体の利益を考え、近くの弱者を助け、さらに、遠くにいて姿の見えない弱者にすら思いをいたすようになるのも、また、人間が獲得してきた人間らしさのひとつであって、けっして虚偽ではない。

エゴイズムと博愛の気持ち、責任感と無関心、礼儀と乱暴、それらは共存していて、それらを分かつものは薄氷でしかない、ということだ。

この映画を見ていると、この登場人物たちは今年ならみなトランプに投票したかもしれない、と思えてくる。

トランプが勝利したのは、貧しい白人たちの不満の受け皿になったからだと言われているが、決してそれだけではない。NYのブルジョワだって、ストレスフルで孤独で、外面をとりつくろうことに疲れていたら、こうなるのだ。5 年前の映画だが、もうそこには、「トランプを選んだアメリカ」がある。
さらに、この映画を見れば、そのアメリカの心性が、人間性に根差した普遍的な問題だということが、分かってくる。

同時にきわめて21世紀的な問題でもある。

「虐殺の神」というのは、要するに弱肉強食のネオリベラリズムの神でもあるからだ。

20世紀の後半に、「自由世界」が第二次大戦後の「復興」を遂げた間、この「虐殺の神」には枷がかけられていた。「自由世界」の内部で、「共産主義」シンパという身中の虫が増殖しないように、「社会民主主義」を飼っていたからだ。

もとより「自由競争」は公平なシステムではない。
スタート地点からいろいろなハンディを負っている人がいて、そもそも全く競争に参加不可能な弱者もたくさんいる。それらの人々や競争の敗者も含めて、すべての人が尊厳をもって共存できるような社会を運営するために財を分配するという思想が生まれた。生産力が低い時代には個々の共同体でそれなりに機能していた互助システムが破綻したからだ。人間のモノ化に対抗して共産主義が生まれた。

けれども実際に現れたのは、必然的に全体主義化する「一党独裁型の社会主義」だ。
それに対して生まれたのが、「民主主義によって運営する社会主義」というスタイルの社会民主主義だ。

ところが冷戦が終わって、敵が自滅したので、「自由世界」の「虐殺の神」にかけられていた枷が外れた。

「虐殺の神」がグローバルする中で、統治者にとって不急不要になった社会民主主義は、冷戦時代の「意識高い系」の世代を中心に、アフリカの貧困や環境保全、差別撤廃、動物愛護などの方向にシフトしながら、ライフスタイルへとイデオロギー化していく場合がある。

それを担う人の多くが、競争社会におけるいわゆる「勝ち組」である。その中には、この映画が描いているような、

夫が「虐殺の神」を信奉して競争にはげみ勝ち組の場所を確保して、
妻がボランティアをして家庭における夫の不在を埋めて自分の生き方に意味を見出す、

という組み合わせが生まれてくる。

(「夫が稼いだ金で妻が消費に励んで経済を回す」方が多いかもしれないけれど。)

そのような矛盾や欺瞞などが膨らむと、見かけの「幸福」のあやういバランスなど、「逆殺の神」の聖霊がささやくたった「一言の本音」によって崩れてしまうということなのだろう。

『おとなのけんか』は、一見幸せそうな他人のカップルの化けの皮が剥がれる過程を見ておもしろがるような映画ではなく、「ポランスキーの映画を見に行ける」ような人たちに、自分の立ち位置と生き方について本格的な自問を促す映画なのだ。
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by mariastella | 2016-12-09 00:09 | 映画

『後妻業の女』

日本からの帰りの機内で見た日本映画のひとつが『後妻業の女』。

日本映画の独特のおもしろさをよく伝えているので、見ていて「日本人としての視点」を離れることができない。

よくできた映画は、どんなに特殊な国の話でも、遠い過去やありえない未来の話でも、その特殊性の中にかえって普遍的な人間性がくっきりと見えてきて、観客の自我の普遍的な部分に訴えて人間性を養ってくれるところがある。

でもこのタイプの日本映画って、どこかでとても日本的な心性に居直って作られているので、見ているとすごくおもしろいのだけれど、「普遍」どころか、いわば末梢神経を刺激されるような満足感に着地する。

大竹しのぶや豊川悦司が巧いのは分かるが、特に印象的なのが、笑福亭鶴瓶だった。

大竹しのぶらは「演技が巧」いので、このブラック・コメディが生き生きと展開する。

でも笑福亭鶴瓶の演じるキャラは、なんだかリアリティがあって怖い。

笑福亭鶴瓶という人は、いかにも飾り気がなく優しく楽しく、誰からも親しまれて好かれるタイプだと思う。
彼がそのキャラのまま出てきて、それが実は、後妻業のカップルを上回る「ワル」だったという設定だ。
こういう「見かけによらない悪い奴」というか、「相手を警戒させない見かけを武器にした悪い奴」というギャップの怖さが、鶴瓶だからこそ強烈だ。
そして、ある意味リアルだ。
こんな奴はいくらでもいる。いや、人は誰でも「他人を警戒させないようにふるまって生きている」のだから、その本音が出るか出ないかは紙一重の差ではないか、と思えて怖くなった。

その点、「後妻業」カップルは、もちろん詐欺のために表の顔をつくろってはいるのだけれど、いわば「分かりやすいワル」であって、相手が下心や欲で目が曇っていない限り、「想定内のワル」だ。

一方、鶴瓶の演じるワルは、にじみ出る「全人格」を裏切る想定外のワルであり、相手の「無防備」を襲う最もたちの悪いものだ。

こういうタイプをこういう形で見せるのは日本映画以外で見たことがない。

いいことにつけ悪いことにつけ、癖になる感じのすごく日本的なツボというのは確かにある。

今回、ハロウィーンの後では、日本でもクリスマス用のデコレーションや小物がたくさん売っていた。
その中には、同じように、日本以外では絶対お目にかかれないような、独特のものがたくさんある。やはりどこか末梢神経を刺激するような、とか言えない。
とても新鮮で、日本にいた時あれこれ買いこみたくなった。

いやいや、私は中東やアフリカに帰るわけではない、フランスに帰るのだから、クリスマス用品やプレゼントはいたるところで売っている。日本のようにクリスマスが終われば正月用品に切り替わるのでなくクリスマスと新年が一体化しているから、市場の規模も大きい。フランスで買えばいいのだ、と自分に言い聞かせてセーブした。

フランスに戻ればやはりクリスマスセールが始まっていてとても華やかだし、奇麗なものがたくさんある。
けれども、ちょっとひねった、ガラパゴス・テイストのものはない。

LEDランプが一般化してからは家庭用イルミネーションの種類はぐんと増えたし、メイド・イン・チャイナのものもたくさんある。でも、全体的に大味、正道、というか、普通というか、がほとんどで、あとはブランド品や伝統工芸品などのすてきなものがあるけれど、日本のようにはっとするひとひねりしたものが巷の隅々にまでほとんどデフォルトになっているのとは違う。

『後妻業の女』のおもしろさを考えていたら、そんなことに気づいてしまった。
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by mariastella | 2016-12-01 03:18 | 映画

アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』

今年のカンヌ映画祭で脚本賞、シャハーブ・ホセイニーが男優賞を受賞したイラン映画。

前作の『ある過去の行方』については前にここで書いている。その前の『別離』についてはここで

『セールスマン』というタイトルは、主人公のカップルが、劇団員でアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を演じているからだが、フランス語タイトルの『顧客』という方が、意味深長だ。

最初にカジノだとかボーリングだとかいうネオンが出てきたので一瞬驚いたけれどアメリカが舞台の芝居の大道具だった。テヘランでアメリカの芝居をやるリスクにも触れられている。女優が帽子の下にちゃんとスカーフで髪を隠しているのもイランならではだ。
主人公が教師を務める学校の文学の教材も検閲されている。

脚本賞を得たのが納得できる、まるでミステリーのようなスリリングな展開で、はらはらするし、驚きの結末だ。
夫婦の関係、そこに仲間の子供が加わるときの関係、隣人関係、高校教師と男生徒たち、怒り、憎悪、復讐、憐憫、赦しなどが、アクションとリアクションとして連なっていく。

どこをとっても巧い。
しかも、決めつけがない。
人はおかれた人間関係や立場によって色々な欲望を持ち、誘惑にさらされ、自分を正当化したり、自制を完全に失ったりする。
強さも弱さも卑怯さも優しさも、みんなほんものだ。
哀しいし、痛切でもあるけれど、主人公の二人が演劇という芸術に情熱を傾けているところ、最後にそれがクラスの生徒たちの心もとらえるところなどに、救いを感じる。

こういう映画を撮ることが、宗教原理主義体制に対する何よりも有効なレジスタンスであり、自由の意味を考えさせてくれる。

いつもは映画についてコメントするときはいわゆる「ネタバレ」を気にしないのだけれど、ここではそれを書く気がしない。

その「ネタ」は思いがけない重いテーマであって、この映画もその解決を語っていないし、主人公たちのリアクションを肯定も否定もしてしない。

これについて書き始めたら映画評ではなく、哲学に足を踏み込んでしまう。

「悪の陳腐さ」はいつも哀しい。この映画で突きつけられる「悪の弱々しさ」は、もっと哀しい。
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by mariastella | 2016-11-28 04:12 | 映画

ロン・ハワード『インフェルノ』

ダン・ブラウン作のロバート・ラングドンの映画化シリーズ第3作『インフェルノ』。

『ルイ14世の死』があまりに息が詰まりそうだったので、気分を変えるためにハリウッド映画に行ってみた。
フィレンツェが舞台というのも大画面で見るのが楽しそうだったし。

なんかもう、007みたいに追跡シーンばかりで展開が速くて飽きないのだけれど、007ならヒーローが絶対強そうでカタルシスもあるけれど、このラングドン教授は最初から最初まで傷だらけで記憶はないの体調は悪いの幻覚は見るの、で、映画を見ているこちらが疲れる。

一方、女優は悪役もふくめてすてきで元気いっぱいだ。イギリス人のフェリシティ・ジョーンズ はかわいいし、デンマーク人のシセ・バベット・ クヌッセンは相変わらずすばらしい。
前にもフランス映画でいい味を出していたが、最近も「ブルターニュの女」というフランス映画でヒロインを演じている。
ひっぱりだこだ。
知的で抑制があって、しかしとても優しく温かく女性らしさがあるというギャップがいい感じで、地味なのだけれど印象に残る人だ。

この映画ではWHOの事務局長役で、最初に出てきたときは、腹に一物ある怖い女ボスというイメージなのだけれど、実はラングドンの元恋人だった。ラングドンはハーヴァードに、彼女はスイスのWHOにと、それぞれ自分の天職の使命を発揮するところに別れていくという設定。

それはなんだか中学生の恋みたいなのだけれど、ファブリス・ルキーニが相手役でもそうであったように、この人が演じると説得力があっていい感じだ。

男の悪役は、フランスのコメディアンのオマール・シーや、目玉が飛び出しそうで怖いインド人イルファン・カーンなど個性的で、パッとしないトム・ハンクスを補っている。
マッド・サイエンチストを演じるベン・フォスターという人だけが普通っぽい。

話は歴史や美術、宗教と直接の関係はなく、007の敵風の陰謀論みたいなものなので、前2作のようなつっこみどころはない。

実は、今年映画館で観たハリウッド映画に『スター・トレックBEYOND』がある。
付き合いで観たのだけれど、そして、飽きずに見て、後からいろいろ情報を収集したのだけれど、
コメントを書くことがどうしてもできなかった。

今年観た中で、同じ種類の映画、つまり、それなりに面白かったのに、コメントの書きようがなかったものに、実はディズニーの『ズートピア』がある。

二作とも、ポリティカリー・コレクトというか、アメリカの描く人類の正しい理想みたいなものがある。

性格や条件や「強さ」などがまったく違うキャラクター間の友情、
平和が実現して戦争のない世界、
しかしそれを軟弱で平和すぎる刺激のない世界とみて、争いの種をまく「悪者」。

『スター・トレック』で、多様な人種が、同じ連邦の理念のもと、平和的に協力し合いながら宇宙探索を進める世界、それを異星間の平和条約にまで拡大しようという使命感。
『ズートピア』で草食動物と肉食動物が共存し、キリンもネズミも同じ列車で旅行できるような多様性を実現している世界。

なんというか、それらのあまりにもの「正しさ」と、理想を鼓舞してくれる「いい感じ」が、現実のアメリカやアメリカが主導している世界の状況とギャップがありすぎて、居心地が悪かった。

その点、この『インフェルノ』には、そのマッド・サイエンティストの「巨悪」みたいなものも、それを善意で信奉してしまう人々の「間違った理想」「間違った正義感」も、ある意味で、リアルな愚かさなので、イデオロギーが入り込む余地もない。なんだかぱっとしないヒーローの等身大のあがきの後を追うだけ、という気楽さがある。

大仰な人類救出劇の中で小さな安堵、小さな迷い、などの表現が一応成功している。

まあ、この『インフェルノ』を見てライフポイントを回復したので、次はシリアスなイラン映画アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』に挑戦だ。これについては次に。
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by mariastella | 2016-11-27 00:51 | 映画

 アルベルト・セラ『ルイ14世の死 La Mort de Louis XIV』

イオネスコに『Le Roi se meurt』(王が死ぬ)という戯曲がある。死を受け入れない王の周りで舞台の小道具や装置が少しずつはぎとられる。

この映画『ルイ14世の死』は、1715年、太陽王ルイ14世が寝たきりで過ごす最後の3週間。
なにもはぎとられない。はぎとられるのは生命だけ。

薄暗がり。
鳥の声、虫の声、羽音、時計の音。
ひそひそ話。
孤独。

足の切断をためらう医師たち。すでに完全な体ではなくなっている。
イギリス人にしか抽出できないというエッセンスを入れたあやしい薬を売り込む男。
豪華な部屋と黄昏の暗さ。まるでレンブラントの絵の世界。
特に解剖のシーンは。



入れ歯を飲み込んだ大理石のライオンのような顔
の周りを大振りの鬘が覆う。

容態が変わるたびに医者たちが議論する。

嚥下できない。
話せない。
ミサ。
告解。
終油の秘跡。

宗教は役に立っているのか?
ナントからかけつける枢機卿。
王がMonseigneur と呼んでいる。
それは司教の呼び方で枢機卿は votre Éminence ではないのかなあ。

監督はカタルーニャのアルベルト・セラ。スペイン・バロックの色も濃い。
撮影はポルトガルだったらしい。

こんな映画、だれが観るのか。

ルイ14世とその時代のファン。
ダンサーでバロック・ギタリストでダンス・アカデミーやヴェルサイユ文化を作ってくれた人への敬意。

ヌーヴェル・ヴァーグへのノスタルジー。
ジャン・コクトーとフランソワ・トリュフォーに見出された少年ジャン=ピエール・レオ-がヌーヴェル・ヴァーグのシンボルのような映画人生を生き、72歳になって、75歳のルイ14世を演じているからだ。

すごい迫力だ。

権力者の死、に興味がある人には必見かもしれない。

ナポレオンの死を思う。
生前退位できずに苦しみながら死んだヨハネ=パウロ二世。
生前譲位できない日本の昭和天皇の死。
パブリックの死。
逆説的にすごく孤独だ。

半熟卵を口にしたりビスケットをかじったりするたびに宮廷の人が拍手する。
目を開けると大仰に歓声を上げる。
見世物のようでもある。緩慢な公開処刑。完全に死ぬまで退位はできない。
職務、機能、権能を担ったまま死ななければならない。

こういうのを見ていると、権威も権力も宮殿もいらないから、清潔で近代的で、鬘と宮廷服をつけていない医師に看取られて安らかに死にたい、と実感する。

今の時代に生きていてよかった、とも思うけれども、中東の野戦病院で血を流して死んでいく子供たちを思い浮かべると、やはり、問題は死に方でなくて、どう生きるかなのだ、と分かる。
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by mariastella | 2016-11-25 00:23 | 映画

クリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』

2003年のこの作品。昨日書いたように、「名作」とは私には思えない。
俳優たちが名演なのは認める。

でも『ポリナ』のような、ビルグンドゥス・ロマンやイニシエーションの物語がない。

人は人生のどの段階でも、少しずつ新しいものを発見したり地平や視界が開けたり、見えないものが見えるようになったり、試練や喪失を経ても成長したと思えたりできるものだ。
だから、映画のテーマというのも、どこかにそんな要素を描いているか、あるいはそのような体験をさせてくれるものがほんとうに心に残るのかもしれない。

少なくとも小さなエゴを突破するようなシーンがほしい。

『ミスティック・リバー』は人間の心理のいろいろなスペクトルを描きだして見事であるのに、そこに閉じこもっているせいでカタルシスを得られないのだ。

人は人生で受けた傷をどのように生きるのかに関しての洞察は与えてくれる。
この映画の中心になる傷は、ある少年が子供の時に友人2人の目の前で拉致されて監禁されたトラウマが大人になった3人に残っているというものだ。

この映画の救われなさから、教えられることもある。

やはり、「恐れるな」ということだ。

「他者からの残忍な行為に対して恐怖を抱く」ことが「他者に対して残忍になる」ことにつながる。

恐怖が悪の連鎖を生むのだ。
憎悪が憎悪を生むというのもそうだが、憎悪にまでいかない恐怖が十分、残忍さを生む。

テロリズムというのもそうで、いつ襲われるかもしれないという恐怖(テロル)を与えることが最大の効果となる。無差別殺人の残忍さへの恐怖が、人の心を残忍さで武装させる。
抑止力などという名がつくこともあるが。

そのことからしても、子供の虐待はもちろん、残忍な行為の犠牲者にトラウマのケアをすることがいかに大切かが分かる。

フランスでカトリックの聖職者による過去の小児性愛スキャンダルを隠してきたことについて、司教団がルルドでの総会で公式に謝罪した(11/7)。
この種の事件は隠れてひっそりと扱われるべきだと考えたことが誤りだったと。
もちろん、保身の意識もなかったとは言えない。
これからはこの悪と立ち向かうために、自分たちの存続を優先しようという誘惑に負けないで立ち向かうと明言した。

ナチスの時と同じだ。一人一人のユダヤ人の運命よりもカトリック教会はカトリック教会の存続を優先するために、ナチス非難の矛先を和らげた。その意味で、今回、そこまで踏み込んで謝罪するのはなかなか潔い。

そのことについてあるカトリック新聞に一コマ漫画が載っていた。

男の子の手を引いた男が暗い顔をしている。
男の子が心配して「悲しいの?」「あの人たち(司教たち)が謝ったのはパパにだったの?」と聞く。
父親は答える。
「ぼくの中にまだいる君と同じくらいの年の男の子にって言った方がいいかな」「だけどどうやってその子の年でも分かるような言葉で説明していいのか分からないんだ」

そうなのだ。
傷ついた子供は傷ついたまま葬られている。
その屍をかかえたまま大きくなったのは別の男だ。
屍を蘇生させ、傷を癒さない限り、謝罪など意味をなさない。

『ミスティック・リバー』の犠牲者にも過去の自分と同じくらいの年の息子がいる。
父親となった自分は、子供のころの自分ではない。傷ついた子供はゾンビとなって大人の男の中に巣くっている。
男は、自分を葬ることでしか、傷ついた子供のゾンビを追い払うことはできなかった。

この映画をこのように終わらせては、トラウマをかかえて生きている多くの人たちに希望のメッセージを届けることはできない。『ポリーナ』の美しさを観た後なのでなおさら、アートというものの使命について考えさせられてしまった。
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by mariastella | 2016-11-21 01:56 | 映画

Polina, danser sa vie『ポリーナ、命を踊る』ヴァレリー・ミュレール, アンジュラン・プレリオチャイ

原作はなんとバスチャン・ヴィヴェスのBD(2011年に各種の賞を受けた)で、ロシア人の少女が大人になる過程で、バレエの練習や振付を通して真に「生きる」ことの意味を獲得していくビルドゥングス・ロマン、イニシエーションの物語だ。

親元を離れる。
恩師を離れる。
国を離れる。
怪我をして練習を離れ、役を失い、恋人を失う。
金を失い、住む場所を失う。
バーでの仕事で世間を観察し、
「即興」と出会い(実は子供時代にも即興の動きをしていたことが映されていて伏線となっている)、
パートナーと出会う。

このBDは日本語に翻訳出版されているようだ。

映画は、まず、バレエが好きな人は必見。

カメラワークが斬新だ。

ほとんど真上からとらえたクラシック・バレエのシーンは、脚が見える範囲が限られているのにチュチュがまん丸でくるくる回るのが新鮮だ。
トウシューズの動きだけのクローズアップもある。

ロシアのバレエ学校のレッスン風景は、用語が全部フランス語なのをきいて、あらためてバレエはフランスから来たんだなあと思う。
半世紀以上前の日本でだって、意味の分からないフランス語ですべてのステップに名がついていたのだから、今はその「意味」が分かるのが不思議だ。

バロック・バレーを始めて20年にもなるのに、やはりクラシック・バレーのレッスンや振付がいまだに恋しいのだから、子供時代に習うということの重大さが分かる。
そういえば、ヴィオラももう始めてから四半世紀近く経つのに、まだ自分が擦弦楽器を弾けることの実感がない。日本から帰って久しぶりにカルテットの練習に行って、モーツアルトを2曲、ベートーヴェンを1曲弾きながら、こういうものを初見で弾けることが非現実的な気がする。くらくらするほど美しく、両者はあまりにも、違う。どちらも天からの贈り物のような感じがするのは同じで、こういう曲を一緒に弾いて味わう仲間がいることの幸せを思う。

で、このポリーナ。

監督のひとりアンジュラン・プレリオチャイは、フランスのコンテンポラリー振付師で、映画にあるエクス・アン・プロヴァンスのカンパニーは彼のものだろう。ジュリエット・ビノッシュが素晴らしい。

ポリーナのロシアの恩師は、「演技の難しさ、苦労を外に出して感心してもらえるのはサッカーのサポーターくらいだ。バレエはエレガンスと優美さのみを外に出さなくてはいけない」と言う。

これは楽器演奏でも同じで、難しいパッセージをいかにも難しい部分であるように弾くのは言語道断だ。
(けれども、フィギュア・スケートを見ていると、いつもこのアートとスポーツの境界が分からなくなる。優雅さ、演技力は芸術点になるけれど、各種4回転などはいかにも難易度が高い上に、オリンピックレベルの選手でさえ失敗して転倒することがあるのだから、エレガンスどころか見ている方までハラハラだ。水泳や陸上では実力を出せなくてもタイムや記録が伸びないだけで、「失敗する姿」を見せられるわけではない。でも、スケート・リンクで転倒したら、素人の転倒と同じでエレガンスはなく、克服できなかった困難さが見える。楽器演奏でも、バレエでも、普通は、ミスタッチの一瞬前、バランスを崩す一瞬前に分かるもので、「ごまかす」「失敗を回避する」というテクニックが身につく。弾いたふりをして一瞬音が消えても、流れさえあれば聴衆が脳で補完してくれる。スケートなら、4 回転を2回転とか1回転にするとかスルーするのと同じだ。でもスケートは先にいつ何を飛ぶかが分かっていてカウントされるからだろうか、それとも難易度が高すぎて、失敗の予測がつかないのだろうか、転倒シーンを必ずと言っていいほど見せつけられる。不可解だ。以上、余談)

次に、エクスの振付師(ジュリエット・ビノッシユ)は、うまく踊れるのは当然で分かっている、もっと自分自身を表現しろ、恐れや拒絶、人生の中で足りなかったこと、などの情念を踊らなければ何の意味もない、と言う。ダンサーでなくポリーナが踊るのだ、と。

別のオーディションでも、手足が動くのは分かった、それを見せる必要はない、自分にしかできないことを見せろ、と言われて、床に寝転がるが、追い返される。

ベルギーの即興のクラスで、「動物になれ、模倣でなくエネルギーを表現しろ」と言われて、はじめて、子供のころにやっていた「何かになりきる」自由さを少し取り戻す。

最後に、自分の振付でフランスのフェスティヴァル参加のオーディションを受ける。

アンジュラン・プレリオチャイ(フランス語ではこう発音されるが日本語ではプレルジョカージュという表記があった)は、難民としてフランスにやってきたアルバニア系ユーゴ人の両親から生まれて、パリ・オペラ座バレエ団に所属したクラシック・バレエ出身だ。共同監督のミュレールは彼の伴侶であり、エリック・ロメールの弟子でもある。

プレリオチャイの振付は、映画の中のビノッシュもそうだが、徹底したクラシックの要素が前提となっている。ラストの舞台でポリーナがアドリアンと踊るところ、アドリアン役の俳優はプロのダンサーでないのにすごい(ポリナ役は600人から選ばれたマリンスキー劇場の本物のバレリーナだ)。

私はコンテンポラリーが好きではないけれど、これを見ると、男と女の体の美しさ、体の使い方の美しさに、圧倒される。
バレエの歴史において、バロック・バレーにあった心身統合の官能の追求が、クラシック・バレーの技巧、難易度の高さ、商品となるヴィルチュオジテへと変わっていった。
コンテンポラリーは、バロック・バレエに戻る代わりに、時計の針をさらに進めて、螺旋的にバロック・バレエの臓腑的な官能をクラシックのテクニックの彼方に再発見したという感じかもしれない。

単に、動物的な即興のエネルギーとか、情念を垂れ流すというのではない。
考えつくされた情念の再構成、即興に限りなく近く見せるよう計算しつくされた緻密に統制された流れ、など、実はとてもバロックだ。

私がこれまで苦手だったのはプリミティヴ系のコンテンポラリーだったらしい。

思えば、「大地を踏みしめて、エネルギーを吸い上げて、声を上げて叫んで、自分の内なるマグマを噴出して」系の即興ダンスのクラスにも何年か通ったことがある。

楽しくはあったし、そこに通ってくる人の性格やリアクションを観察するのもおもしろかった。

でも、自分も含めて、踊っている人たちの体、姿が特に美しいと思ったことはない。

見て楽しめるのはやはりクラシックのバレリーナの体の使い方かなあと思っていた。

バロック・バレエでも、プロで踊っているほとんどすべての人はクラシックから転向した人だ。
(コンテンポラリーやロマンティックから来た人もいたが。)

ポリーナの映画は、若い女性の「自分探し」のような、ある意味で平凡なテーマなのに、その若い女性が苦行者のように肉体を鍛え上げる特殊な人物であり、心と魂の迷いや震えが肉体のパフォーマンスと一つになっていることから強烈なインパクトを受ける。

時代は携帯電話の形から見て古くない設定のようだが、社会主義が崩壊した後のロシアでも、アメリカの曲を積極的に使う振付師が「愛国心が足らない」と批判されるという話は結構リアルだった。

寒そうだし、いろんな意味で、ロシアに生まれなくてよかった。

パリでこの映画を観た同じ日の夜、TVで2003年のクリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』をはじめて観た。名作の評判高い映画なのに、後味も悪いし、あまり気に入らなかった。

『ポリーナ』の方がいい。

なぜだろう。

(ミスティック・リバーについては次に)
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by mariastella | 2016-11-20 01:56 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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