L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 160 )

機内で観た映画 その3『海賊とよばれた男』と『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

今回も帰りは昼間の便なので、日本映画も2本観ることができた。

『海賊とよばれた男』は、百田尚樹の原作で「永遠の0」と同じチーム、主演だというのでひるんだのだけれど、モデルになっている人の関係者を個人的に知っている事情もあって好奇心があった。

知らなかったことをいろいろ知ることができたという点ではおもしろかったけれど、ここまで「男」の論理、力と突撃の賞賛というのは私のポリシーと逆なので、評価のしようがない。

モデルになった人物がかなり大柄だったようなのに比べて主演の俳優が小柄だけれどカリスマ性があって大きく見える、というのは興味深い。大作であるのは確かだ。

それでもやはり、戦争の「男らしさ」をこれでもかこれでもかと見せつけられるのには少し食傷して、それとは別世界の小品ファンタジーを口直しに観ることにした。詰まらなかったら途中でやめようと思ったのに最後まで観てしまった。

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』というかわいい作品だ。

ライト文芸の名作と言われているものが原作だそうで、20歳の学生同士という主人公の男女がさわやかで初々しくて楽しい。アニメを見ているみたいだ。

普通のラブストーリーかと思っていたらSF化していき、なるほどこうなのかと驚かされるところも、なんとなく「君の名は」を思わせた。

ついこの前、出町柳の駅を通ったので京都が舞台だということに親近感があったけれど、登場人物の誰一人として京都風や関西風の言葉を話さないのは、原作がそうだとしても違和感がある。

というより、このストーリーには、地方色のないフラットな感じの方が似合っているので、「京都」という背景の方が違和感があるくらいだ。

もちろんあり得ない設定なのだけれど、無理をして受け入れると、すべてのシーンが二重の意味を帯びてくるというのがよくできているし、なんだかループ状になったビルドゥングス・ロマンみたいだ。

それにしても、『海賊とよばれた男』の世界と『ぼくは明日…』の世界の若者の心性は違いすぎる。平和で戦わない、という感じの後者が今の若者のスタンダードなのだとしたら、ほっとする部分と、そんなに内向きで大丈夫か、と心配になる部分とがせめぎあう。
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by mariastella | 2017-04-20 05:29 | 映画

機内で観た映画 その2『ムーンライト』など

日本からの帰りの機内で観た映画。

まず『ムーンライト』。

オスカー受賞作品の発表の折の間違いなどで『ラ・ラ・ランド』と話題を分け合った『ムーンライト』だが、「ラ・ラ・ランド」はパッとしない平凡な映画だと思ったけれど、「ムーンライト」はもっとつまらなかった。

去年のオスカーで黒人映画と黒人の不在について批判の声が上がったこと、

そして排他主義、差別主義者と言われるトランプ大統領誕生への映画人による抗議、

この二つを背景にした、いかにも政治的な判断による選択だなあと思う。

何だか黒人の黒人による黒人のための映画みたいな雰囲気で、しかし、黒人のコミュニティだけで起こることという必然性はない。
シングルマザーの母親はドラッグ中毒、同性愛傾向ゆえに「弱い者いじめ」の対象になる少年時代、大人になってからのこと、すべてが黒人コミュニティの中で起こる出来事だけれど、黒人でなくとも成立するテーマだ。
人種差別そのものはテーマになっていない。

貧困や麻薬の取引などは確かに社会の弱者のところに起こってくるが、それが黒人の場合にだけ、より大きな意味を持つわけではない。

他のカテゴリーにおいても貧困のきっかけとなるものはたくさんある。

インデペンデント系黒人映画がこのように持ち上げられること自体に、アメリカの人種差別の根の深さを感じて愕然となる。

唯一興味深かったのは、月光の下で浜辺を駆ける黒人の肌が青く見えてブルーというニックネームがついたことや、黒人少年に自信を与えるために、メンターが、黒人はマイノリティではなく世界中にいること、人類のすべてはアフリカから来たので黒人が人類の祖先だからだ、という感じの話をしている場面だ。人類学の成果は社会的にも役にたっているわけだ。

『素晴らしきかな、人生』デビッド・フランケル

『ムーンライト』に比べると、多人種多民族が共生している大都会での広告会社の「成功者」の実存的鬱を扱ったこの映画の主人公が黒人のウィル・スミスだということの方がずっと意味がある。

この主人公がウィル・スミスだという必然性があるからだ。黒人だということも含めて、彼の全人間性がこの役にぴったりだということで、政治的公正などとは関係がない。

日本語タイトルは過去の名作映画から借りているものだけれど、キイワードとなるオリジナルのタイトルの「Collateral Beauty」は映画の字幕では「幸せのオマケ」と訳されている。

フランス語では「Beauté cachée」、つまり「隠れた(隠された)美」となる。

英語では、愛する者を失うという試練にもそれに付随するビューティ(美しさ)がある、という感じだが、フランス語では同じ単語が存在するにもかかわらず、「隠された」という訳をしている。

つまり、付随はしているのだけれど、表には現れていない、表裏をなした関係だという感じがする。

死は誕生と同じで、存在と非存在、実在と非実在との境界領域が一瞬可視化される現象だから、そこに人為の届かないある種の美が表出するのを感知することがある、という含意だろうか。

「美」とは人間の生死を超越した世界を反映する何かであるという感じもある。

ところが、日本語の訳は「幸せのオマケ」。

「美しさ」では通じない。

「幸せ」。

しかも「オマケ」。

これってベースにある文化の違いが翻訳不能を起こしているのだろうか。

ストーリーは、類型的なサブストーリーが並行しているもので、その中でも、意外なオチや、余韻がいろいろあって、まあ楽しめて後味がいいということではアメリカ映画らしい着地点だ。

『LION/ライオン』-25年目のただいま-  (ガース・デイヴィス)

はフランスでも話題になっていた実話がベースのオーストラリア映画で、主人公の少年も青年も名演だし、インドとオーストラリア本土とタスマニアのスラムや都市や自然が対照的で、今回の機内映画で一番面白かった。
ニコル・キッドマンらの演じるブルジョワ夫婦が地球の未来を考える「意識高い」系のディープな人で、それだけでは善人過ぎて押しつけがましいのだが、養子の二番目が自傷癖の自閉症らしい生涯を抱えているなどの困難にぶつかるというリアリティがある。

そしてインド、オーストラリア、とほんとうに「イギリス連邦」the Commonwealthってあるのだなあ、そしてそのアイデンティティがクリケットというのも本当なんだなあ、と再確認させられた。

Brexitの時に、ポーランドなど東欧の移民は受け入れられないが、クリケットをやるイギリス連邦の国からの移民は全く差別なくOKなのだから、いわゆる人種差別ではない、とケン・ローチが言っていたのを思い出した。
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by mariastella | 2017-04-18 00:29 | 映画

機内で観た映画 その1 『ラ・ラ・ランド』など

まず、往きの機内。

「この世界の片隅に」については以前に書いた

他には、フランスでは観に行く気がしなかった『ラ・ラ・ランド』。

フランスでは、監督があまりにも、ジャック・ドミの映画に影響を受けた、「ロシュフォールの恋人たち」の衣装の色彩、「シェルブールの雨傘」の語り方、などと繰り返していたので なんだか新鮮味がなかったからだ。
実際、ファッションはロシュフォール風、失恋と再会はシェルブール風、だった。
若者の恋と別れというクラシックなテーマは前に機内で観た「イフ・アイ・ステイ」を彷彿とさせた。でもあそこにあった自己犠牲テーマはここにない。
エマ・ストーンはかわいいけれど、男がちょっと若さに欠ける。

おもしろかった映画は「手紙は憶えている」だ。

90歳で、前日の記憶をなくす認知症気味の老人のロード・ムービー風構成そのものの意外さに加えて、途中でのショッキングな展開とラストのどんでん返し、と、よく出来過ぎ。ワグナーをピアノで弾けてしまうのも怖い。
何よりも、クリストファー・プラマーが主演というのが感無量だ。

「サウンド・オブ・ミュージック」のエーデルワイス、あれからもう半世紀以上経ったのだ。思えばあの頃のプラマーはまだ40歳前だったのだ。

彼の抑制の効いた謹厳な顔と、その奥にあるやさしさや温かさのギャップは、実に印象的だった。
それがこの映画では、大老人。
ナチハンターとして彼が追う人々も皆、当然90代の老人ばかり。でも、それゆえにこそ、彼らの表情のすべて、動作の全てが、実存的に迫力がある。シェイクスピア劇みたいだ。

亡命者、バイリンガル、秘密、カナダとの国境、どこを取ってもハラハラだし、なるほどと納得もいく。
プラマーが実はカナダ人で、この映画もカナダとドイツの共同制作という意味もなかなか興味深い。
日本人には、ユダヤ人もドイツ人もポーランド人も区別がつかない。

この映画のような逃亡の仕方は知られていてどのくらい発覚したのだろうか。
エドガー・ヒルゼンラートというホロコーストの生き残り作家がドイツ語で書いた『ナチと理髪師』という有名な小説があって、ドイツではなかなか出版されなかったちいうぐらい微妙な話なのだけれど、私の知っている限りでは、これが唯一、この映画のやり方につながっている。
フランスでは評価が分かれた。ホロコーストの記憶をスリラーの材料に使うこと自体を批判する人がいるからだ。私には十分楽しめた。
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by mariastella | 2017-04-17 07:12 | 映画

ニコラ・ブクリエフとロマン・デュリスの『告解』

3月にパリで観た映画、ニコラ・ブクリエフの『告解』は、原作がゴンクール賞受賞作の『レオン・モラン、司祭』で、第二次大戦中ドイツに占領された村でなんとか司牧を続ける若い司祭と、子連れの未亡人で共産主義者すなわち無神論者のレジスタンスの女性が告解室で出会い心を通わせる話だ。男たちが戦争に行って女たちが多い場所で人気を博す新司祭を苦々しく思ったバルニーは、告解室で司祭を観察して試そうとする。インテリ女性と揺らぎない信仰を持つ聖職者と、ナチスの支配する村の緊張。

この映画はジャン=ピエール・メルヴィル監督によって1961年にジャン=ポール・ベルモンドとエマニュエル・リヴァの主演で映画化されている。今回はそのリメイクで、未亡人でなく夫が逮捕されているバルニーに焦点を当てて描かれている。

主演はロマン・デュリスとマリーヌ・ヴァッチで、すごい心理戦が繰り広げられる。

バルニーが未亡人ではないのは、司祭の方にも彼女の方にも、恋愛にタブーを課すためだという。
監督は無神論者からカトリックに転向した人で、この映画は別にカトリック神父の独身制を批判したものではなく、愛が超越につながることを描きたかったのだという。

映画が終わった後、友達連れで見に来ていた3人の60代くらいの女性連れが、

「(結婚できるプロテスタントの)牧師の方がやっぱりいいよねー」などと言っている。

最近のカリスマ神父の結婚の話題があった後だから「やはりそこかい」と思ってしまう。別の女性が、

「牧師の方が小児性愛スキャンダルとかないしね」とも言う。

それはどうかなー。まあ奥さんが見張っているということはあるかもしれないけれど、特殊な少年愛の人が子供たちのリーダーとなるシチュエーション(クラブの先生、学校の先生、キャンプのリーダー)に置かれる場合、というのがリスクなんで、神父が独身だから即、っていうのは短絡でかわいそう。圧倒的に小児虐待の舞台になるのは「家庭」だという統計もあるんだし…と思っていたら、

そのすぐ後に続いた感想は、「戦争っていやねー、私たち戦争って知らないものねー」だった。

最後に移される針金のイエス人形みたいなもの(司祭が娘に作ってあげてこれが守ってくれるから一人で寝ても怖くないよと言った)が映る。これってスコセッシの『沈黙』のラストシーンのショットみたいだ。

結局は、中心となる恋愛そのものは、中学生同士の初恋物語みたいなのだけれど、愛と人間と神の関係もよくわかる。

自分たちの半径1メートルみたいな排他的世界で展開する愛って、絶対続かない。

高さも幅も深さも、2人の世界を超えた何かの愛に肯定されていると思わなくては、愛は「相愛」で成就した瞬間から枯れ始めて、衰退に向かうのかもしれない。
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by mariastella | 2017-04-12 00:08 | 映画

『この世界の片隅に』

アニメ『この世界の片隅に』を観た。

主人公はちょうど私の母と同世代で、母から聞いた戦争中のいろいろな話とかぶる。
でも母は都会に住み、結婚したのも戦後2年経ってからで、どこかにお嫁に行くというより、戸籍的には天涯孤独な父と、一軒家で夫婦2人の生活を始めた専業主婦で、昼間は近くの実家によく行って、夕ご飯を持たせてもらって帰るという優雅な生活だったから、このアニメのお嫁入り事情とは全然違う。

戦時中や戦後すぐの話など親の口から直接聞いたのは私の世代でそのうちおわりになるかもしれない。

このアニメに出てくる当時の日常は貴重な記録だと思うし、「普通の人」が「普通の生活」を続けられない戦争の怖さというのはよく分かるけれど、このアニメの登場人物たちから奪われた「普通」が、私にとってすでにあまりにも普通でないのがショックでもある。

私は中学生くらいの時にはじめてボーボワールの自伝の『女ざかり』を読んだ時の衝撃が忘れられない。自分の力で自由に生き信念も持っていた知識人のグループが、第二次大戦の中で、自分たちの力ではどうしようもない歴史の歯車の中で押しつぶされて行く。日常を捨ててレジスタンスとサヴァイヴァルとにすべての時間が費やされる。天災ではなくて人災なのに、防ぐことができなかった。

その恐ろしさが実感として迫ってきた。中学生の私は親からも学校からも、社会からも何のプレッシャーも受けていなかった。私の未来は完全に私に自由に託された選択だと思っていた。そんな「私の普通」がある日歴史の運命に邪魔されることがあるとは想像もできなかったのだ。

でも、パリの知識人たちにはそれが起こった。すごく怖かった。

その実感に比べたら、このアニメの「すず」さんの「普通」は、実家の海苔栽培の手伝いから、見初められての10代での「お嫁入り」まで、少なくとも私にはあまりにも「普通」ではないし、実際、戦争がない今の日本でももうあまり「普通」とは言えないだろう。

でも、主婦ブログなどを読むと、今でも、婚家との確執、姑、小姑との確執が深刻な人もいる。それに比べたらすずの夫も舅姑も親切で戦争を 生き延びたので、ベースには人としての幸せ感はある。戦争がなくても家族とうまくいかなくて鬱に陥る人は少なくない。

こうの史代さんのコミックは『こっこさん』しか知らなかったので、へえ、広島出身の方だったんだと今回分かった。素敵な仕事をされたと思う。誰だかの「交響曲HIROSHIMA 」なんかよりもはるかにすばらしい。

すずさんがとにかく「絵が大好き少女」で、全てがいわば絵日記風には綴られているのが楽しい。

それを観ていると、日本の別の天才画家のことを連想する。(続く)
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by mariastella | 2017-03-22 22:51 | 映画

ウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』(2007)

おしゃれな映画だという評判だったが、ちょっと違うかもしれない。

3人兄弟の造形がユニークなのは確かだ。包帯だらけの兄、いつもアイマスクはつけるがズボンなしで寝る長身の弟、小柄で濃い感じの末弟。アングロサクソンっぽいオーウェン・ウィルソン、東欧系ユダヤ人っぽいエイドリアン・ブロディ、ラテンっぽいジェイソン・シュワルツマン(名はドイツ風だけど。この人は私の昔のピアノの生徒そっくりだ)、とても父母を同じくする血のつながった兄弟には見えなさすぎる。

兄が、インドの長距離鉄道に乗るスピリチュアルな旅を弟たちに提案し、「a,b,c」と項目を並べながらするべきことを指示するのだが、最後の方で、ヒマラヤの修道院で孤児を世話しているエキセントリックな母親が、同じように「a,b,c...」と数え立てるので、ああ、この長男は、スピリチュアル好き(クジャクの羽を使った儀式など)も、こういう話し方も母親譲りなんだなあと分かる。

死んだ父親は、車だとか、サングラスだとか、ベルトだとか、多くのトランク(ルイ・ヴィトン)などの小道具を通して息子たちに影のようにつきまとっている。撮影の年のこの3人は、40、35、27歳くらいでかなり年が離れている。

ダージリン鉄道の汽車の小宇宙もおもしろいし、広がるインドの風景ももちろん興味深い。

寓話か不条理劇みたいで、大きくは、イニシエーションがテーマなのだろう。

それぞれエゴイスティックに生きていた兄弟たちが、長距離列車の客室に閉じこめられて、いろいろな感情の対立やすれ違いがある中で、共に列車から降ろされたり、川に落ちた少年たちを助けたり、助けられなかった一人の葬儀に参加したり、母親と再会したりするうちに、3人の絆と信頼感は深まる、という話なのだけれど、「いい年をした男たちが…」とつい思ってしまう。
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by mariastella | 2017-02-18 05:53 | 映画

『沈黙』をめぐって  その10

映画『沈黙』の話に戻る。フランス語での「批評」で印象に残ったものを少し。

「日本に何年も住んだことがある」と称するフランス人が、この映画を見てショックだったというコメントを残しているのを見た。

「日本という国は全くこの通りで、信じられないような暗黒面を自然の美しさが隠している」というのだ。(日本で何があったんだ、このフランス人…)

リベラシオンだかの映画評では、

「この映画ではの信仰は、それを否定する相手に対してどれだけ抵抗できるか、ということに集約されていて、棄教するくらいなら他の人たちが殺されるのを受け入れる方がましだという、今なら〈狂信的〉と形容される態度に近い。日本人が、おびえて司祭にすがりつく者たちとサディックな審問官のどちらかに単純化されているのは弁証法的な視点が全くないひどいものだ。スコセッシは17世紀の日本と同じように古臭い」

という趣旨のものがあった。

あるカトリックメディアのレビューではバチカンで教皇も含むイエズス会士のために特別上映した時のエピソードが伝えられる。

上映後に、日本人の残虐さと暴力についての話題になった。

その時に、フィリピンのイエズス会士の一人が立ち上がってこう発言したという。

「ええ、確かにこの時代の日本人は残酷にふるまいました。でも、当時、別の種類の暴力がアジア人に対して犯されていたのです。それは西洋が『真理』をもってきて、アジアの文化はよくないと言ったことです」

日本人はもしキリスト教を食い止めなければ政府も領土も彼らの本質も失うだろうと考え、自衛のために国境を200年閉ざしたのだ、とレビューは締めくくられている。

こういう時に、「カトリック大国」のフィリピン人でもやはりアジア同士の視点を持つのかな。
ということは彼らも「西洋」主導のカトリックの上から目線や、植民地とセットになってきた歴史を消化しきれていないのかもしれない、などと思ってしまう。

そういえば、『沈黙』の時代とちょうど同じころ、確かクロムウェルのアイルランド侵略があって、カトリックが半端でない殺され方をした。
それは一応「キリスト教」文化圏同士の内戦でもあり、民族的にも文化的にも、ヨーロッパと日本のような差がない。要するに、「宗教」はどこでも口実に過ぎなくて、覇権争いであり、政治の問題だということだ。
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by mariastella | 2017-02-16 06:16 | 映画

『沈黙』をめぐって  その9

スコセッシのインタビューの続き。(カトリック雑誌より)

--- 『沈黙』の最期にロドリゴの棺の中に小さな木の十字架がある意味は?

これは原作にはない。私は何年も、エピローグを読んでいなかった。エピローグに東インド会社のオランダ人によって、ロドリゴが何度も棄教の宣言をさせられたとある。つまり、彼は何度もキリスト教に戻ったのだ。遠藤は彼が信仰を持ち続けていたと言いたかったのだろう。遠藤は別のところで、第二次大戦後にイエズス会を去った還俗司祭を1950年代初めにあるレストランで見かけたことを書いている。食事が出された時、その人が十字を切って食膳の祈りをするのを見たという。それもヒントになった。信仰は何かとてもパーソナルなものになったのだ。

(これは今のフランスでは決して珍しくない妻帯司祭の例にもある。彼らの多くは教会法上、司祭職を続けることはできないけれど、信仰はまったく変わらないと言っている。制度としての宗教のさまざまな制約に抵触することで帰属を放棄せざるを得ないことと、キリストの愛に生き、弱い立場の者に寄り添い続けることは別だ。それこそパウロが割礼の有無についての議論の中で「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(ガラテヤ5)」と言っているように、キリスト教は「軛としての律法」から人々を自由にするために出発した。しかし、典礼や規則の体系を伴う宗教という社会的な表現なしには「信仰」は形にならない。
人間は社会的存在だから、生まれた瞬間から、時代や場所、所属社会の文化や伝統を背負っている。「宗教」は長い間そのような逃れられない属性の一つだった(サウジアラビアのような国に生まれれば今でもそうだ)。今の「先進諸国」では信仰の有無も、宗教の有無も強制されない。「棄教」の形も進化し続ける)

---信仰とは、共同体で分かち合うことがなく心の奥で生きる親密なものであり得ると思いますか?

全くそう思う。信仰は日常の行動を通して生きることができる。宣教師の役割は変わった。助け合いの次元はもう布教の中にない。「国境なき医師団」のような様々な団体は天使の働きをしている。信仰のあるなしにかかわらず義となるやり方で働いている。

(特定の共同体への帰属意識がなくて決められた典礼に従わないで生きることは難しくないが、宗教行為を通して表現しない信仰は、やはり他者との関係の中で生きられなければ意味がない。一人で自分の「無病息災」を祈っているようなものは信仰ではなく別の次元の原始的な「神頼み」に過ぎないのだろう。「宗教」としてのカトリック教会でさえ、今の教皇は教会の外へ出ていきなさい、野戦病院であれ、などと言っている)
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by mariastella | 2017-02-13 04:32 | 映画

『沈黙』をめぐって その7

『沈黙』のテーマについての考察を続ける前に寄り道。
笈田ヨシさんが、雑誌『日経回廊』で「映画『沈黙』に出演して僕が考えたこと。」という記事を書かれていたのを見せてくださった。
そこで初めて、笈田さんが、ジョアン・マリオ・グリロ監督『アジアの瞳』(1996)という日本とポルトガルの合作映画で、なんと中浦ジュリアンの役で出演なさっていたことを知った。

中浦ジュリアンというのは有名な4人の「天正の遣欧少年使節」の一人で、日本人で初めてポルトガル、スペイン、イタリアなどを訪れ、司祭に叙階された人たちだ。有馬の神学校に通っていた14、5歳の将来有望な少年たちが選ばれて、初の日本人司祭 を養成するために1582年に出発した。本能寺の変のあった年だ。

8 年後の1590年に帰ってきて、翌年会った豊臣秀吉にも好意的に迎えられた。その後天草やマカオで修練して1608年に司祭叙階される。博多で宣教していたが1613年にキリシタン弾圧が始まり、長崎に移り、翌年の江戸幕府によるキリシタン追放令が出た時に潜伏して20年も信者を支えた。1632年に逮捕され、翌年『沈黙』でフェレイラ神父が「転んだ」穴吊るしの刑にフェレイラや他のイエズス会司祭や修道士らとともに処せられた。

苦しさのあまり棄教したのはフェレイラ1人で、65歳の中浦ジュリアンは4日目に最初に息絶えた。ローマに旅立った日からちょうど半世紀が経っていた。毅然として「ローマに赴いた中浦ジュリアン神父」だと役人に言った。「ローマに行って教皇と会った」のは彼のアイデンティティの核にあったのだ。

けれどもローマに行った4人の少年のうち他の3人伊東マンショ、千々石ミゲル、原マチルノは殉教しなかった。ミゲルは神学の勉強を続けず棄教してイエズス会を去った。彼らはみなキリシタン領主の息子たちであり、政局の変化と共に棄教しても、生活の安定は保証されていた。リーダー格であったマンショは絶望して病死、学にすぐれたマルチノは1614年マカオに戻って出版や翻訳などの活動を続け1629年に死んでマカオの大聖堂に埋葬された。マルチノも大村領の名家の出だから、拷問されずに亡命という選択肢があったのだろう。高山右近が棄教せず追放されてマニラに渡ったのと同時代だ。

晩年のジュリアンは拷問のため失明していて、この映画でも目を隠している。彼に棄教を勧めるかつての仲間ミゲルの家で、座敷の隅に熱を出しているという赤ん坊(ミゲルの孫)をおいてミゲルが席を外した(ふりをした?)時に、そばにある盥からそっと水を汲んで洗礼を授けたシーンがあるそうだ。(親の正式な同意と依頼なしに洗礼を授けてもいいのか?とつっこんではいけない。別に割礼するわけじゃないからね。ここは以心伝心というわけだ。宗教の形は捨てても信仰は捨てていない、というのでなく、司祭を前にしてやはり形を求めずにはおれない、というのは『沈黙』の告解と通じる)

ネットで少し試聴できるが、やはり、笈田さんの存在感はすごい。



笈田さんの目力はすごいが、目を覆っていても同じオーラを発揮している。

それにしても穴吊りの刑に耐えて殉教した聖人である中浦ジュリアンを演じた笈田さんが、20年後に、杭に縛られて海水を浴びせられて死んだキリシタンの村の長老イチゾウを演じるなんて、なんというめぐりあわせだろう。

笈田さんには、迫害する側の役人をやれないのかなあ、とふと考えるけれど、彼が迫害者を演じたらそれはそれですごく迫力のある迫害者になるだろう。

笈田さんは今日本で、今月18日に東京芸術劇場シアターオペラでの『蝶々夫人』の演出をしている。

この紹介を見つけた。すごく刺激的な試みだ。観たかった。東京にいる方はぜひどうぞ。


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by mariastella | 2017-02-11 04:32 | 映画

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その5)

映画『沈黙』、フランス公開初日の最初の回に観に行った。

もうさんざん映画評やら、感想やら、スコセッシの言葉などを読んだり予告編をネットで観たりしていたので、なんだかもう見る前に食傷気味かなあと思っていたのだけれど、「百聞は一見に如かず」、アカデミー賞の撮影賞のノミネートというのはすごく妥当だと思うくらいカメラワーク、アングル、素敵だ。音とそして無音の部分も魅力的。

拷問だとか処刑シーンは見たくないのでいやだなあと思っていたけれど、意外に我慢できた。
リアルの知人笈田ヨシさん(村長のジイサマ)が磔られているのはショックだったけれど。
彼にも書いたのだけれど、普通なら彼のリアルさが作品への没頭を邪魔するかもしれないと思ったけれど逆で、彼がリアルの彼のままなので、作品世界全部が彼にくっついてきてリアルに見えた。

このジイサマとモキチの信仰がすごく説得力がある。
塚本晋也の相貌と表情には誰でもキャッチできる誠実さのシグナルがある。
この2人の組み合わせ、そして、若いイエズス会士二人の描き分け、演じ分けが秀逸なので、物語としてのメリハリがある。

フェレイラの描き方はとても日本的だと思った。
私は『無神論』の「一七世紀の無神論」という項で、フェレイラにも触れている。イエズス会のガラス神父の著作にも触れて、当時のカトリック神学者の状況について書いた。当時のヨーロッパでは「一般信者は何も理解しないでただ信じているだけ、それでOK」というスタンスだったのだが、一六世紀後半からの日本人の信者はほとんど「知的に理解」して賛同する人々だった。高山右近もその一人だ。
一方で、当時の仏教僧は信徒に何かを理解させ説得するという必要はまったくない主流秩序の構成要素だった。だから宣教師とまともにディベートをすればひとたまりもなかった。
不立文字の禅宗が盛んな頃だったが、日本人がすべて「以心伝心」でやっていたなどと思うのは幻想で、多くの人は、「真理の言語化」というものに出会って驚倒し魅惑された。

『沈黙』の時代の迫害は、もう完全に政治的なものだから、理性の次元も宗教の次元も超えている。

もう一つの次元に「愛」というものがあるのだが、これは驚くべきもので、これを「信仰」と呼ぶのなら、それは「愛の対象に出会った人」にしかわからない。

そういうこともこれから少しずつ書いていくつもりだし、今書いている本の流れとも関係している。

だから『沈黙』もそういう全体の文脈でしか私には見られないのだけれど、せっかくだから、スコセッシの話の続きもふくめて、まだ続けていくことにしよう。

今日のところは、私には意外だったある「フランス人の感想」を紹介。

1. キリシタンの一人が突然首を切り落とされるシーン。その男が1人だけ残されるのに、恐怖の様子が見られなかったのは不自然だと思った。(えっ、そんなこと言われても、もう一度見てみないと私には分からない。ほんとにそうだとしたら何か意味があるのだろうか?)

2. 通辞役が日本人には見えない。不自然すぎる。
(不自然、不自然って自然主義的なことばかり言ってどうする? でも私が通辞役の浅野忠信って北欧系アメリカ人のクォーターなんだよ、って言ったら、なるほど、と言われた。そんな微妙なことってあるのかなあ。井上筑後守役のイッセー尾形とのコントラストが絶妙だと思うけど。)

3. で、肝心の、踏み絵を踏んで棄教するということと信仰の問題はどう思う? と質問。そしたら、

「拷問や脅迫によって強要された自白は無効だから」って。

うーん、ある意味すごく明快。

こういういろいろな迫害の歴史を経て、少しは暴力制御装置が働くようになった時代に生きててよかった。

(続く)
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by mariastella | 2017-02-09 03:22 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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