L'art de croire             竹下節子ブログ

カテゴリ:映画( 140 )

 アルベルト・セラ『ルイ14世の死 La Mort de Louis XIV』

イオネスコに『Le Roi se meurt』(王が死ぬ)という戯曲がある。死を受け入れない王の周りで舞台の小道具や装置が少しずつはぎとられる。

この映画『ルイ14世の死』は、1715年、太陽王ルイ14世が寝たきりで過ごす最後の3週間。
なにもはぎとられない。はぎとられるのは生命だけ。

薄暗がり。
鳥の声、虫の声、羽音、時計の音。
ひそひそ話。
孤独。

足の切断をためらう医師たち。すでに完全な体ではなくなっている。
イギリス人にしか抽出できないというエッセンスを入れたあやしい薬を売り込む男。
豪華な部屋と黄昏の暗さ。まるでレンブラントの絵の世界。
特に解剖のシーンは。



入れ歯を飲み込んだ大理石のライオンのような顔
の周りを大振りの鬘が覆う。

容態が変わるたびに医者たちが議論する。

嚥下できない。
話せない。
ミサ。
告解。
終油の秘跡。

宗教は役に立っているのか?
ナントからかけつける枢機卿。
王がMonseigneur と呼んでいる。
それは司教の呼び方で枢機卿は votre Éminence ではないのかなあ。

監督はカタルーニャのアルベルト・セラ。スペイン・バロックの色も濃い。
撮影はポルトガルだったらしい。

こんな映画、だれが観るのか。

ルイ14世とその時代のファン。
ダンサーでバロック・ギタリストでダンス・アカデミーやヴェルサイユ文化を作ってくれた人への敬意。

ヌーヴェル・ヴァーグへのノスタルジー。
ジャン・コクトーとフランソワ・トリュフォーに見出された少年ジャン=ピエール・レオ-がヌーヴェル・ヴァーグのシンボルのような映画人生を生き、72歳になって、75歳のルイ14世を演じているからだ。

すごい迫力だ。

権力者の死、に興味がある人には必見かもしれない。

ナポレオンの死を思う。
生前退位できずに苦しみながら死んだヨハネ=パウロ二世。
生前譲位できない日本の昭和天皇の死。
パブリックの死。
逆説的にすごく孤独だ。

半熟卵を口にしたりビスケットをかじったりするたびに宮廷の人が拍手する。
目を開けると大仰に歓声を上げる。
見世物のようでもある。緩慢な公開処刑。完全に死ぬまで退位はできない。
職務、機能、権能を担ったまま死ななければならない。

こういうのを見ていると、権威も権力も宮殿もいらないから、清潔で近代的で、鬘と宮廷服をつけていない医師に看取られて安らかに死にたい、と実感する。

今の時代に生きていてよかった、とも思うけれども、中東の野戦病院で血を流して死んでいく子供たちを思い浮かべると、やはり、問題は死に方でなくて、どう生きるかなのだ、と分かる。
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by mariastella | 2016-11-25 00:23 | 映画

クリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』

2003年のこの作品。昨日書いたように、「名作」とは私には思えない。
俳優たちが名演なのは認める。

でも『ポリナ』のような、ビルグンドゥス・ロマンやイニシエーションの物語がない。

人は人生のどの段階でも、少しずつ新しいものを発見したり地平や視界が開けたり、見えないものが見えるようになったり、試練や喪失を経ても成長したと思えたりできるものだ。
だから、映画のテーマというのも、どこかにそんな要素を描いているか、あるいはそのような体験をさせてくれるものがほんとうに心に残るのかもしれない。

少なくとも小さなエゴを突破するようなシーンがほしい。

『ミスティック・リバー』は人間の心理のいろいろなスペクトルを描きだして見事であるのに、そこに閉じこもっているせいでカタルシスを得られないのだ。

人は人生で受けた傷をどのように生きるのかに関しての洞察は与えてくれる。
この映画の中心になる傷は、ある少年が子供の時に友人2人の目の前で拉致されて監禁されたトラウマが大人になった3人に残っているというものだ。

この映画の救われなさから、教えられることもある。

やはり、「恐れるな」ということだ。

「他者からの残忍な行為に対して恐怖を抱く」ことが「他者に対して残忍になる」ことにつながる。

恐怖が悪の連鎖を生むのだ。
憎悪が憎悪を生むというのもそうだが、憎悪にまでいかない恐怖が十分、残忍さを生む。

テロリズムというのもそうで、いつ襲われるかもしれないという恐怖(テロル)を与えることが最大の効果となる。無差別殺人の残忍さへの恐怖が、人の心を残忍さで武装させる。
抑止力などという名がつくこともあるが。

そのことからしても、子供の虐待はもちろん、残忍な行為の犠牲者にトラウマのケアをすることがいかに大切かが分かる。

フランスでカトリックの聖職者による過去の小児性愛スキャンダルを隠してきたことについて、司教団がルルドでの総会で公式に謝罪した(11/7)。
この種の事件は隠れてひっそりと扱われるべきだと考えたことが誤りだったと。
もちろん、保身の意識もなかったとは言えない。
これからはこの悪と立ち向かうために、自分たちの存続を優先しようという誘惑に負けないで立ち向かうと明言した。

ナチスの時と同じだ。一人一人のユダヤ人の運命よりもカトリック教会はカトリック教会の存続を優先するために、ナチス非難の矛先を和らげた。その意味で、今回、そこまで踏み込んで謝罪するのはなかなか潔い。

そのことについてあるカトリック新聞に一コマ漫画が載っていた。

男の子の手を引いた男が暗い顔をしている。
男の子が心配して「悲しいの?」「あの人たち(司教たち)が謝ったのはパパにだったの?」と聞く。
父親は答える。
「ぼくの中にまだいる君と同じくらいの年の男の子にって言った方がいいかな」「だけどどうやってその子の年でも分かるような言葉で説明していいのか分からないんだ」

そうなのだ。
傷ついた子供は傷ついたまま葬られている。
その屍をかかえたまま大きくなったのは別の男だ。
屍を蘇生させ、傷を癒さない限り、謝罪など意味をなさない。

『ミスティック・リバー』の犠牲者にも過去の自分と同じくらいの年の息子がいる。
父親となった自分は、子供のころの自分ではない。傷ついた子供はゾンビとなって大人の男の中に巣くっている。
男は、自分を葬ることでしか、傷ついた子供のゾンビを追い払うことはできなかった。

この映画をこのように終わらせては、トラウマをかかえて生きている多くの人たちに希望のメッセージを届けることはできない。『ポリーナ』の美しさを観た後なのでなおさら、アートというものの使命について考えさせられてしまった。
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by mariastella | 2016-11-21 01:56 | 映画

Polina, danser sa vie『ポリーナ、命を踊る』ヴァレリー・ミュレール, アンジュラン・プレリオチャイ

原作はなんとバスチャン・ヴィヴェスのBD(2011年に各種の賞を受けた)で、ロシア人の少女が大人になる過程で、バレエの練習や振付を通して真に「生きる」ことの意味を獲得していくビルドゥングス・ロマン、イニシエーションの物語だ。

親元を離れる。
恩師を離れる。
国を離れる。
怪我をして練習を離れ、役を失い、恋人を失う。
金を失い、住む場所を失う。
バーでの仕事で世間を観察し、
「即興」と出会い(実は子供時代にも即興の動きをしていたことが映されていて伏線となっている)、
パートナーと出会う。

このBDは日本語に翻訳出版されているようだ。

映画は、まず、バレエが好きな人は必見。

カメラワークが斬新だ。

ほとんど真上からとらえたクラシック・バレエのシーンは、脚が見える範囲が限られているのにチュチュがまん丸でくるくる回るのが新鮮だ。
トウシューズの動きだけのクローズアップもある。

ロシアのバレエ学校のレッスン風景は、用語が全部フランス語なのをきいて、あらためてバレエはフランスから来たんだなあと思う。
半世紀以上前の日本でだって、意味の分からないフランス語ですべてのステップに名がついていたのだから、今はその「意味」が分かるのが不思議だ。

バロック・バレーを始めて20年にもなるのに、やはりクラシック・バレーのレッスンや振付がいまだに恋しいのだから、子供時代に習うということの重大さが分かる。
そういえば、ヴィオラももう始めてから四半世紀近く経つのに、まだ自分が擦弦楽器を弾けることの実感がない。日本から帰って久しぶりにカルテットの練習に行って、モーツアルトを2曲、ベートーヴェンを1曲弾きながら、こういうものを初見で弾けることが非現実的な気がする。くらくらするほど美しく、両者はあまりにも、違う。どちらも天からの贈り物のような感じがするのは同じで、こういう曲を一緒に弾いて味わう仲間がいることの幸せを思う。

で、このポリーナ。

監督のひとりアンジュラン・プレリオチャイは、フランスのコンテンポラリー振付師で、映画にあるエクス・アン・プロヴァンスのカンパニーは彼のものだろう。ジュリエット・ビノッシュが素晴らしい。

ポリーナのロシアの恩師は、「演技の難しさ、苦労を外に出して感心してもらえるのはサッカーのサポーターくらいだ。バレエはエレガンスと優美さのみを外に出さなくてはいけない」と言う。

これは楽器演奏でも同じで、難しいパッセージをいかにも難しい部分であるように弾くのは言語道断だ。
(けれども、フィギュア・スケートを見ていると、いつもこのアートとスポーツの境界が分からなくなる。優雅さ、演技力は芸術点になるけれど、各種4回転などはいかにも難易度が高い上に、オリンピックレベルの選手でさえ失敗して転倒することがあるのだから、エレガンスどころか見ている方までハラハラだ。水泳や陸上では実力を出せなくてもタイムや記録が伸びないだけで、「失敗する姿」を見せられるわけではない。でも、スケート・リンクで転倒したら、素人の転倒と同じでエレガンスはなく、克服できなかった困難さが見える。楽器演奏でも、バレエでも、普通は、ミスタッチの一瞬前、バランスを崩す一瞬前に分かるもので、「ごまかす」「失敗を回避する」というテクニックが身につく。弾いたふりをして一瞬音が消えても、流れさえあれば聴衆が脳で補完してくれる。スケートなら、4 回転を2回転とか1回転にするとかスルーするのと同じだ。でもスケートは先にいつ何を飛ぶかが分かっていてカウントされるからだろうか、それとも難易度が高すぎて、失敗の予測がつかないのだろうか、転倒シーンを必ずと言っていいほど見せつけられる。不可解だ。以上、余談)

次に、エクスの振付師(ジュリエット・ビノッシユ)は、うまく踊れるのは当然で分かっている、もっと自分自身を表現しろ、恐れや拒絶、人生の中で足りなかったこと、などの情念を踊らなければ何の意味もない、と言う。ダンサーでなくポリーナが踊るのだ、と。

別のオーディションでも、手足が動くのは分かった、それを見せる必要はない、自分にしかできないことを見せろ、と言われて、床に寝転がるが、追い返される。

ベルギーの即興のクラスで、「動物になれ、模倣でなくエネルギーを表現しろ」と言われて、はじめて、子供のころにやっていた「何かになりきる」自由さを少し取り戻す。

最後に、自分の振付でフランスのフェスティヴァル参加のオーディションを受ける。

アンジュラン・プレリオチャイ(フランス語ではこう発音されるが日本語ではプレルジョカージュという表記があった)は、難民としてフランスにやってきたアルバニア系ユーゴ人の両親から生まれて、パリ・オペラ座バレエ団に所属したクラシック・バレエ出身だ。共同監督のミュレールは彼の伴侶であり、エリック・ロメールの弟子でもある。

プレリオチャイの振付は、映画の中のビノッシュもそうだが、徹底したクラシックの要素が前提となっている。ラストの舞台でポリーナがアドリアンと踊るところ、アドリアン役の俳優はプロのダンサーでないのにすごい(ポリナ役は600人から選ばれたマリンスキー劇場の本物のバレリーナだ)。

私はコンテンポラリーが好きではないけれど、これを見ると、男と女の体の美しさ、体の使い方の美しさに、圧倒される。
バレエの歴史において、バロック・バレーにあった心身統合の官能の追求が、クラシック・バレーの技巧、難易度の高さ、商品となるヴィルチュオジテへと変わっていった。
コンテンポラリーは、バロック・バレエに戻る代わりに、時計の針をさらに進めて、螺旋的にバロック・バレエの臓腑的な官能をクラシックのテクニックの彼方に再発見したという感じかもしれない。

単に、動物的な即興のエネルギーとか、情念を垂れ流すというのではない。
考えつくされた情念の再構成、即興に限りなく近く見せるよう計算しつくされた緻密に統制された流れ、など、実はとてもバロックだ。

私がこれまで苦手だったのはプリミティヴ系のコンテンポラリーだったらしい。

思えば、「大地を踏みしめて、エネルギーを吸い上げて、声を上げて叫んで、自分の内なるマグマを噴出して」系の即興ダンスのクラスにも何年か通ったことがある。

楽しくはあったし、そこに通ってくる人の性格やリアクションを観察するのもおもしろかった。

でも、自分も含めて、踊っている人たちの体、姿が特に美しいと思ったことはない。

見て楽しめるのはやはりクラシックのバレリーナの体の使い方かなあと思っていた。

バロック・バレエでも、プロで踊っているほとんどすべての人はクラシックから転向した人だ。
(コンテンポラリーやロマンティックから来た人もいたが。)

ポリーナの映画は、若い女性の「自分探し」のような、ある意味で平凡なテーマなのに、その若い女性が苦行者のように肉体を鍛え上げる特殊な人物であり、心と魂の迷いや震えが肉体のパフォーマンスと一つになっていることから強烈なインパクトを受ける。

時代は携帯電話の形から見て古くない設定のようだが、社会主義が崩壊した後のロシアでも、アメリカの曲を積極的に使う振付師が「愛国心が足らない」と批判されるという話は結構リアルだった。

寒そうだし、いろんな意味で、ロシアに生まれなくてよかった。

パリでこの映画を観た同じ日の夜、TVで2003年のクリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』をはじめて観た。名作の評判高い映画なのに、後味も悪いし、あまり気に入らなかった。

『ポリーナ』の方がいい。

なぜだろう。

(ミスティック・リバーについては次に)
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by mariastella | 2016-11-20 01:56 | 映画

『奇蹟がくれた数式』マシュー・ブラウン

帰りの機内で見たイギリス映画。

これも『ターザン』と同じで、帝国主義的、白人優位主義に少し気分が悪くなった。

インドの独学の天才数学者が、いわゆる「免状」を持たないゆえに、エスタブリッシュメントに受け入れられない。

数学の天才という普遍的説得力があるのに、植民地、人種差別、学術システム外差別という壁が厚い。

デーヴ・パテールというおなじみの俳優が1887-1920に生きたラマヌジャンという実在の数学者を演じる。
第一次大戦のトラウマが大きな時代背景となっている。

女神ナマギリからインスピレーションを受ける、神から与えられたものでない真実など意味があるのか、というスタンスの彼と、無神論者で非戦論者で孤独な独身者というハーディ教授の友情物語だが、文化背景のあまりの違いで意思疎通がうまくいかない。

ハーディはケンブリッジの教授で尊敬される成功者だけれどコミュニケーションがうまく取れない。
それでもリトルウッド(トビー・ジョーンズ)という最高の同僚に救われている。このキャラクターがユニークですばらしい。
実際は、ハーディはラマヌジャンより10歳しか年長ではない。リトルウッドは年齢不詳に見えるがハーディより2 歳若い。

この映画を可能にしたのは、プリンストン大学のインド系数学教授が共同制作者になったからで、映画の中でも、インド人の留学生がラマルジャンと交流する。

イギリスは女王をリスペクトしてクリケットをやる国からの移民は差別せずに多様社会を成功させているから移民に人気があると言われているが、基本が共同体の棲み分け社会であって、アングロサクソンのエリートの中に同化されるためのハードルはとても高い。
第一次大戦のころのラマヌジャンが兵士から暴行を受けるシーンなどはリアルで見ているのもつらい。
食糧難の時の菜食主義者の不自由さも切実だ。

研究から祈りや食事に至るまでを枠づける宗教の中で生きる男と、社会規範と良心の自由の間で自己を律するカントみたいな孤独な男の交流。
二人が真に友人ではなかったということが分かる「告白」が、ラマルジャンに「妻がいる」ことだというもので、その衝撃の大きさそのものが今の時代の私たちには驚きだ。

原題は『無限を知っていた男』で、数式の美しさと、エレガンス、無限への感性と超越神や聖なるものへの感性、けれどもそれを「証明」することの願望や必要性、信じるということはどういうことなのか、神を信じるのか、神を信じている人間を信じるのか、などのさまざまな問いを喚起する深遠なものだ。

けれどもその数学的な部分の感動は、その片鱗も暗示してくれないので、抽象的なままに終わってしまうのが残念だ。
私の高校時代『大学への数学』という雑誌に「エレガントな回答を求む」というコーナー(今検索したら「数学セミナー」という雑誌だというから私の記憶違いかもしれない)があって、毎回いろいろ考えたことがある。
エレガントなひらめきというのを目の前にして感嘆させてくれたのは、一年先輩の友人だった。
彼の受験時が東大の受験中止の年に当たり、京大へ進学してそのまま兄弟の数学教授になった人だ。

正しいものも美しくなくては意味がない、という感じはその時に実感した。

この映画ではそういうカタルシス(映画では無理だろうし、映画を見る人の能力では無理なのだろう)がないのが欠落感として残る。

美しい妻やインドに一人取り残されたくない母の思惑などもサイド・ストーリーになっているけれど、携帯電話やインターネットのある時代だったらいったいどういう展開になっていただろうな、などと思う。
若い頃に携帯やメールがあったら人生が変わっていたろうというシーンが私自身にもいくつかあったことを思い出す。
21世紀におけるインド人科学者や技術者のグローバルな活躍を考えるにつけても感慨深い。
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by mariastella | 2016-11-13 01:50 | 映画

デヴィッド・イェーツの『ターザンreborn』

帰りの機内で4本の映画を試聴。フランス映画はなかった。

行きの機内で見たアメリカ映画は『ズートピア』だったのだが、コメントを書けなかった。
なんだかとても立派で正しい映画で、そのよくできている具合が、現実のアメリカやこの世界で起こっていることとあまりにもかけ離れているので言葉が出なかったのだ。

ところが帰りの機内で見たアメリカ映画とイギリス映画はあまりにも気分が悪くて、でもこちらの方が現実を反映している。

一つはアメリカ映画の『ターザンreborn』だ。

特殊撮影の迫力あるアクション映画とだけ思えば楽しいだろうが、私にとっては、もろコンラッドの『闇の奥』ですかという息苦しさで、とりあえず「ああ、ベルギーに住んでなくてよかった」、と思うってしまうくらいだ。

それくらいに、オーストリアのクリストフ・ヴァルツの演じるベルギーの公使(はっきり言ってあまりベルギー人っぽく見えない。フラマンでなくワロンということだろうけれど)の演じるレオン・ロムというのが、悪役すぎる。

こういうのを見ていると、ヒトラーのホロコーストよりすごい。
ヒトラーは、自国内のマイノリティを排除したわけだけれど、象牙(これも気分が悪くなるほど大量に獲られている)や宝石を求めて他の文化圏を侵略して、なんの迷いもなくそこに暮らしている人を殺したり奴隷にしたりするのだから。

ベルギーがカトリック国というのもひっかかる。

今のフランスなんかでは、ブラック・アフリカ人でも、セネガルなどイスラム圏から来る人よりも、コンゴから来る人の方がはるかに受け入れられやすい。
カトリック教会の教区民になるからだ。
教区によっては彼らの存在感は大きいし、司祭不足の地域ではコンゴ人の司祭も普通にいる。

でもそれはみな、コンゴがベルギーの植民地だったからだと思うと複雑だ。

タンタンの冒険のコンゴの巻だったって、30年前に読むのと今読むのとではまったく違って、よくこんなものが通用しているなあと思うくらいだ。

その上、この映画のレオン・ロムというのが、最初から最後まで、カトリック的なロザリオの数珠を手にしている。
9歳の時にエルサレムの土産として神父からもらった特殊なロザリオで、これをいつも手に持っていて、最初はその手で花を摘む画像が出て、先住民の部族に囲まれた時もそれをしっかりと握っている。
最後はターザンの首を絞めつける凶器としても使われる。

このベルギー人の奴隷売買をはじめとする蛮行や腐敗ぶりは、ターザンに同行した黒人のジョージ・ワシントン・ウィリアムス博士というアメリカ人によって1890年7月に告発される。

でもこの博士そのものが、黒人だけれど、南北戦争のトラウマを引きずり、多くのインディアンを殺した体験があって罪悪感に苦しんでいる。
そのあたりで、人種差別が単純な黒白の問題ではない錯綜した深刻な問題であるということが表現されているのだろうけれど、アメリカ映画だからアメリカの役割も大切になっているわけだ。

でも全体として気分が悪いし、なんだか、槍を持って集まる先住民の男たちの「非文明的」、「野蛮」な様子の迫力を見ていると、もし私が黒人だったら今さらこんな役を家族や知人には演じてほしくない、などと思ってしまう。

アレクサンダー・スクルスガルドのターザンは逞しい体に少年のようなかわいい表情の頭がついていて、そのギャップがかわいいといえばかわいかった。
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by mariastella | 2016-11-10 03:04 | 映画

奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ (2014)監督マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール

機内で見たフランス映画『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ 』


パリ東南郊外県庁所在地のクレトゥユ公立リセの1年のクラス。

後でコメント検索したら、日本人の感想に、「服装、態度、とても高校生とは思えない」、というのがあった。

いや、あんなものだ。
先生もリアルだ。

すでに落ちこぼれ組という設定からすると、小中学校ですでに1、2度は落第している生徒が多いだろうから、日本の高1よりは年取っているかもしれない。

現実の問題がうつされる。

3年間は我慢したがバカロレアの証明書をとりに来たときはイスラム・スカーフを外さずに女子学生の親子が教師に悪態をつく。

普通のフランス人の少年がイスラムにかぶれてイスラム名を名のり出し、ひげのばしてイスラム服を着て、普通のムスリムの少年を不信心だと責める。

ムスリムの少女の服装が肌を露出しすぎだとムスリムの少年たちが囲んで、肌を隠さないのなら娼婦とみなす、と脅す。

この辺は今のフランスの深刻な問題だ。
リアルだと思う。

親しい友人にもリセの教師はたくさんいる。同じような深刻な問題についてみなで話し合ってきた。。

でもいくら悪ぶっていても子どもは子ども、可能性は無限だ。

フランスの高1のクラス、私は東京(リセ・フランセ)で一度、パリで一度受け持ったことがある。

隔世の感があるのは、今はみながスマホを持っていたり、USBを使ったり、貧しそうな家庭の子供も自分用のPCを持っていることだ。なんでも検索できる。

私の生徒は東京のフランス人の子弟だったし、パリでもカトリック系私立中高一貫校だったから、基本的にはみないい子だったし宗教や文化の問題はなかった。それでも態度は生意気で挑発的だった。

これが高2からがらりと変わって大人になる。

でも態度如何にかかわらずよく見るとみな子どもでフレッシュで可愛い。

授業の後に残って相談を持ちかける生徒もいた。

請われて臨時で日本語を教えていた時、普通は「マダム」と呼ばれるのだけれど、「せんせい」と呼ばせた。

「ボンジュール、マダム」の語順は日本語ではない。「センセイ、コンニチハ」と言うのだと教えた。

学年末、「次の先生もリスペクトしなさい」と言ったら、口々に、「ぼくらのセンセイは一生、センセイだけだ」と言い出した。

かわいい。

若者の成長に寄与できるのは何よりも楽しい。

楽器の生徒も幼稚園から高校卒業までずっと見守った生徒がたくさんいて、成長を見てきた。


語学を教えるときも音楽を教えるときも、よろこびをベースにした人生観の形成に役立つことを第一目標にしてきた。


そのためにも私の喜びを伝えることを大切にしてきた。

この映画の教師の気持ちはよく分かる。


自分で考えること、

それをコミュニケートすること、

それによって集合知を形成すること、


このプロセスを教えることが一番大切だ。


フランスの教育哲学の一番いい部分が、危機の状況の中で発揮される例だろう。

試験の点数だけを気にしているような平和なクラスではこの大切なものが忘れ去られるというのはひとごとではない。
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by mariastella | 2016-10-21 10:17 | 映画

シン・ゴジラ

日本に来る前に見たかったフランス映画が3本、行きたい芝居がひとつあったのに、校正などしているうちにすべて見逃した。

で、夜行便にもかかわらず、日米仏映画を1本ずつ見る。

日本映画はネットでいろいろなコメントを読んでいた『シン・ゴジラ』。

いろいろな軍隊、武器、軍事作戦のリアルなオンパレードで、

「武器があれば使いたい、使っているのを見てみたい、効果を見てみたい」

という欲求に迎合しているようで、私のようなタイプはひいてしまう。

でも、人同士の権力や領土や経済的な闘争による戦争ではなく、怪物」という分かりやすい「敵=悪」を殲滅するということで、エイリアン相手よりもさらに分かりやすい仮想敵設定を正当化。

「想定外」への対応も、いろいろな含意を思わせる微妙なパロディだ。

しかし、日米安保だとか、永遠に戦後が終わらない、日本はアメリカの属国だとか、これも分かりやすい政治メッセージは、ある意味で新鮮だ。

もっと評価できるメッセージは、ゴジラのデータなどを秘密にせずに世界中にばら撒いて共有することで得られる集合知の大切さである。

さらにもっとも痛快だったのが、日本がようやく「欧米」の区別をして、国連安保理で拒否権を持ち、アメリカに楯突くのが伝統のフランスに根回しをしすることで日本への核爆弾投下を延期させたところだ。

フランスがアメリカ独立戦争を助けたことは今でも「絶対消えない外交上の貸し」として残る。フランスからのプレゼント自由の女神が立っている限り残るだろう。

日本への原爆投下にフランスの知識人たちは本気でショックを受け、トラウマになった。

カミカゼ特攻機がアメリカの軍艦に命中して火を噴く実録映像を見ると映画館の中で拍手が起こるお国柄でもある。ジャポニスムの昔から、エリート、アーティストは日本びいきでもある。

サウジアラビアですらアメリカへの牽制手段としてフランスからも武器を買っている。

アメリカ封印対策はフランスを活用。


というわけで、日仏有効映画としてシン・ゴジラはマル。フランスで公開されたら絶対に受けて「親・ゴジラ」となるだろう。
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by mariastella | 2016-10-19 14:42 | 映画

ロマン・ポランスキーの『吸血鬼』

もう一月くらい前に、TV5でロマン・ポランスキーの『吸血鬼』を見た。

フランスでは『ヴァンパイアの舞踏会』として有名でホラー・コメディとしてのミュージカルもあるから、なんだかよく知っている気になっていたけれど、初見だということが分かった。

このTV5の映画放映というのもめったに見ないので、最初に昔の日本のTVの「洋画劇場」の淀川長治みたいな人が出てきて解説を始めたのにも驚いた。話しぶりまでそっくりだ。
1967年のポランスキーの最初のカラー映画であること、この撮影でシャロン・テート二恋をして結婚したこと、アメリカでは監督の気に染まぬ編集をされて不満だったこと、完全版が1968年5月革命を経て新しい時代が蠢動していたフランスで封切られて大成功をおさめたことなどが解説された。
フランスと相性のいい外国アーティストは少なくない。

あらためてシャロン・テートの殺人事件のことをネットで検索してしまった。
ポランスキー自体がなんとなく倒錯的な人だから、もっと関わっていたのかという印象が刷り込まれていたけれど、完全に人違いの被害者だったのでトラウマはすごかっただろう。

で、この映画のポランスキーは、さすがに若い。なかなか魅力的でもある。

古いと言えば古いが、独特の味わいがある。

ポランスキーが演じるのは吸血鬼研究者の助手で、城砦に閉じ込められたとき大砲の上に乗ってロザリオの祈り(アヴェ・マリア)を唱えだすところがおもしろい。
「舞踏会」の曲がチェンバロ曲でバロックなのに踊り方がバロックではないことにも興味を惹かれた。
1967年と言えばまだバロックバレーの振り付け譜の研究が始まったばかりだからこんなウィーン風なのかもしれない。
舞踏会から逃げる時に教授と助手がそれぞれ長い剣をとって十字架の形に組むと吸血鬼たちの結界になる。

舞踏会のあいさつでドラキュラ伯爵がルシファーの名を出しているので、要するにキリスト教的な世界での「神か悪魔」という対立の構図がある。

集まった仲間に「血の兄弟」と呼びかけていたのがおもしろい。

「血がつながったきょうだい、血縁」という表現だが、吸血鬼の口から出るとダイレクトだ。

そう思うと「血縁」という言葉もなんだか不気味な気がしないでもない。
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by mariastella | 2016-10-18 13:40 | 映画

パスカル・ショメイユの『Un petit boulot』 ついでにジョルジュ・ロトネールも。

パスカル・ショメイユの新作。

『ハートブレーカー』のショメイユとロマン・デュリスの組み合わせだし、ロマン・デュリスとミシェル・ブランのコンビがおもしろそうだというだけの理由で見た映画。

少なくとも飽きない。最後までどうなるかとひやひやした。

でも、あの終わり方では、「青少年」の教育に悪いなあと素直に思ってしまう。

工場閉鎖で失業した三人の仲間の話で、みんな家族を守って生きるために必死だが、主人公のジャックは恋人に逃げられて一人になる。
地域のマフィアのボスが、妻を殺すバイトを持ちかける。
実はその前に別の一人も声を掛けられていたが断っていた。

その仲間が「人殺しはいやだ」、という理由を

「僕はカトリック、洗礼も受けてるし、初聖体もやってる」

というのがおもしろい。

「初聖体もやってる」というのは、赤ん坊の時に洗礼を受けただけではなく、初聖体を受けるために「カテキズム=要理のクラス」にも通ったいう意味だ。
この階層でいうと私立のカトリック校に行ったとは思えないので、共働きの親で、おばあちゃんに連れられて教区の教会に通ったのだろうと分かる。

その他、ベルギーでの殺人依頼主の女性との会話で、

「あなた、神を信じてる?」
「いや」
「私も。私は教会へ行く人よ。この後で隣の教会に祈りに行くからそこにきて」

と待ち合わせ場所を指定するのもおもしろい。

croyant というのとpratiquantというのを分けているのだ。

普通はこれと逆で、
「信じているけど定期的に教会には通わない」
というのがマジョリティでほとんどデフォルトだ。

この場合の「信じている」というのは「無神論者ではない」というほどの意味で、カトリックのアイデンティティが残っているという程度だ。

前の例で仲間が人殺しを断った理由に「僕はカトリックだから」と言ったのと同じ程度の意味である。

それが逆になって

「信じていないけれど教会には通う」

と言っているわけだ。

あえて言えば、熱心に教会に通っている人たちがほんとに神を信じているかどうかなんてわからない、とも読める。

実際本当に神を信じているなら教会の中で殺人の手順を相談するなど罰当たりなわけで、ひょっとしてそれをチェックするためにまず「あなた、神を信じてる?」と聞いたのかもしれない、などと思ってしまう。

ロマン・デュリスとラブストーリーで絡む女優アリス・ベライディが私好みでかわいい。

ガソリンスタンド併設の小スーパーを視察に来るスーツ姿の上司があまりにも感じが悪くて、社会派ドラマによくあるカリカチュラルな造形なのだが説得力がありすぎる。

放尿シーンやトイレでの武器などの受け渡しシーンが多すぎ。匂うような映画だ。

しかし、主人公ジャックの言葉を借りると普通の「シンプル」だが幸せなのかどうかはわからないな生活をしていた男が、工場の閉鎖でシンプルさを失い、思ってもみなかった殺人に手を染めるというテーマを考えると、最近TVで久しぶりに見なおしたジョルジュ・ロトネールの『七番目の陪審員』(1962)となんとなく比べてしまった。主人公がのモノローグが絶えず流れるところも似ている。

この映画はスイスの国境に近い町のブルジョワたちの偽善がテーマなのだが、やはり、「幸福ではないがシンプルな生活」が崩れる恐怖が描かれる。

最初に、主人公のブルジョワで妻子持ちの中年男が出来心で、水辺で半裸で寝ている女性に襲いかかり、声をたてられないように首を絞めてしまう「発端」が映されるのだけれど、この前後のシーンにずっとヴィヴァルディの「夏」が流れている。
白黒映画だけれど明るい夏の光の中で、この曲がこんなに苦しくドラマティックだったとは知らなかったと思うくらいに濃密で緊迫した空気を醸成する。

毎日仕事の後に規則正しくポーカーに興じる仲間の薬局主、獣医、警視、判事、医師などに対して、画家という「自由業」でしかも若いという二つの点で「異質」分子である男が、恋人殺しの冤罪に問われる。

真犯人である薬局主(ベルナール・ブリエが名演)は、あれは殺人でなく処刑だったんだ、などと自分に言い聞かせるのだが、無実の男が犯人にされるとなるとさすがに良心が痛み、国境を超えてスイスの教会に飛び込んだ。

司祭に告解し、拘留されている画家の無実を当局に知らせてくれるかと期待するのだが、

「まず、自首しなさい、神の慈しみはその時点からもたらされる、自分の魂を救いなさい」

と言われる。

実際、この司祭は、当局に、今捕まっている男は犯人ではないことを通知するのだけれど、彼らはそれを握りつぶす。司祭に告解に行ったということだけでも、「真犯人」が彼らの仲間であることは想像がついたからだろう。

町のブルジョワたちが一番避けたいのはスキャンダルで、一番守りたいのは「シンプル」な生活のルーティーンなのだ。

皮肉なことに、真犯人の薬局主だけが、良心に従っているうちにそのルーティーンから解放され、ある種の自由を獲得する。「真実があなたを自由にする」というやつだ。
しかし、事態は思いがけない展開となり、「偽善」が勝つ。

半世紀も隔たりがあるというものの、こういうフランスの社会派の犯罪映画を2本続けてみると、ハリウッド映画から得られるような「単純なカタルシス」がいまさらながら恋しくなる。
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by mariastella | 2016-09-09 01:06 | 映画

「父の祈りを」(ジム・シェリダン)その3

(これは前回の続きです)

冤罪のテーマ

1972 年にイングランドの統治に反対する市民らのデモに陸軍が発砲した血の日曜日事件以来、IRAによるテロも激化した。
1975年のテロ特別法で、証拠がなくても容疑者を7日間交流することが可能になり、これが徹底していたので、IRAによるテロは実際下火になった。

法治国家では法が変われば正義も変わる。

9・11の後のアメリカの愛国法など、21世紀でもいくらでも起こるエピソードだ。

ただ、真犯人が名のり出た後もイギリス当局は主人公たちの再審をしないばかりか、実は、最初に主人公が自分たちのアリバイを証言してくれると主張していたホームレスの男を探し出していた事実も握りつぶしていた。

ホームレスの男の証言によって主人公らのグループがパブ爆破については無罪だと分かったうえで、それでも彼らがアイルランド人のヒッピーであることは変わらないのだから、政治的判断で「犯人検挙」を演出していたわけだ。

しかし、実は法廷に出さない極秘文書に、ホームレスの証言記録が残っていた。それを偶然見つけた弁護士によって再審が行われ、全員釈放となる。
それまでにはイギリス人も含めて多くの支援団体ができていた。
父を病気で死なせてしまった息子が父の無念を晴らすためにようやく本格的に抗議行動を起こすようになったからだ。
彼と父だけではなく親戚の子供たち(14歳のいとこなど)に至るまで、共犯を問われて服役し、人生を狂わされていた。

それにしても、そんな不都合な極秘書類、封印するぐらいだったら、どうして「破棄」していなかったのだろう。

証拠を隠すくらいに、恣意的で公正でない検察が、破棄だけはしないでとっておいたというところが、これも「先進的法治国家」ならではの「お花畑」ぶりという気もする。

しかし、これだけの歴史に残る「冤罪」であったにかかわらず、証拠を隠ぺいしていた検察側や暴力や脅迫で自白を強制した警察の側も、結局、だれも責任を問われず、だれも罰せられなかった。

ドレフュス事件を思い出す。
ドレフュスを冤罪に陥れた責任者たちはやがて何もなかったように昇格して出世している。

ドレフュスは「歴史」となり、ドレフュスを擁護した運動も「歴史」となったが、「責任者」も「真犯人」も雲散した。

一つの冤罪が生まれる背景には、たんなるエラー、判断の過ちなどではなく、その冤罪の出現を可能にする大きく重い歴史と政治の装置があるということだろう。

この映画は、今の時代に貴重なメッセージを伝えてくれる。

テロの脅威、非常事態宣言、テロ捜査における様々な特令。

今、過去に学ばなければ、私たちは「疑わしきは罰せよ」の安心感にきっと惹かれてしまう。
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by mariastella | 2016-08-30 00:27 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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